第9話 賢者は小国への侵攻を開始する
翌朝。
王城前の広場には、巨大な魔法陣が展開されていた。
その中に魔王軍が整列している。
此度の侵略戦争に参加する千七百の配下である。
内訳として魔物は二百、アンデッドは千五百となっていた。
基本的に主力は前者だ。
後者は使い捨てにしてもいい。
一国を落とすには心許ない数だが、アンデッドに関してはいくらでも補給が可能だ。
私も同行するため、不測の事態にも対応できる。
よほどのことがない限り、劣勢に追い込まれることはないだろう。
「魔王様、出発準備が完了致しました。いつでも号令で動かせますぞ」
「ご苦労。留守を頼んだ」
グロムを含む他の配下には、王都の防衛を担当してもらう。
私が不在の間に、どこかの勢力が攻め込んでくる恐れがあるためだ。
そのための予備戦力だ。
王都には膨大な数のアンデッドが保管されているため、どのような勢力だろうと後れは取らない。
最悪、城に封じた瘴気を開放すれば、生物を無差別に殺傷する兵器となる。
もっとも、それを実行するとこちらの陣営にも被害が出てしまうため、あくまでも最終手段であった。
「お任せくださいませ。このグロム、あらゆる外敵を退けてみせましょう!」
グロムは拳を胸に当てて言う。
いつも通りの彼らしい行動である。
その時、横から現れたルシアナが、疑うような眼差しをグロムに向けた。
「本当にこの骨で大丈夫? 帰還したら占領されてたとかありそうじゃない?」
「何を言うかこのサキュバスが……! 我を選んだのは魔王様であるぞ。つまり我が守護に最適というわけだ。その証明として、貴様を先に滅ぼしてやろうか」
「いやん、そんなに怖がらせないで。泣きそうになっちゃうわ」
ルシアナは目元を手で覆い隠す。
口元が微笑んでいるので泣き真似は失敗していた。
その姿を目にしたグロムは、眼窩の炎を大きくする。
「おのれ、どこまでも愚弄するか……ッ」
「もう少し静かにしろ。緊張感が無さすぎる」
私の注意を受け、二人はぴたりと言い争いを止めた。
そして佇まいを正す。
今日は妙に聞き分けがいい。
苦い顔をするルシアナは、幾分かの躊躇いを見せながらも、グロムに向けて告げる。
「……まあ、任せてよ。魔王サマはアタシが守るから。アンタは王都をよろしく」
「う、うむ。言われるまでもない」
グロムもぎこちない相槌で応じる。
二人なりに仲良くしようと努力しているらしい。
悪くない傾向である。
幹部のささやかな成長に感心していると、ルシアナに肩を叩かれた。
「ねぇ、魔王サマ」
「何だ」
「最初の号令、お願いしてもいいかしら?」
ルシアナは待機する魔王軍を指し示す。
期待の込められた視線は私に殺到していた。
「分かった」
私は階段状に力場を作って上空へと向かう。
軍勢を見下ろす形を取ってから、静かに宣告する。
「時は満ちた。もう多くは語らない。生き残って栄光を掴み取れ」
私の言葉で軍勢は沸き上がる。
この調子なら大丈夫だろう。
地上に降りた私は、満足そうなルシアナに尋ねる。
「これでいいか」
「十分よ。士気は最大まで上がったようね」
ルシアナは親指を立てて返答した。
私は続けて彼女に問いかける。
「向こうの位置は把握できているか」
「ばっちりよ。ちょうどいい頃合いね。攻めるなら今よ」
「そうか」
彼女の配下のサキュバスには、小国の動きを逐一報告させていた。
おかげで現在地が手に取るように分かる。
彼らは奇襲を仕掛けるつもりなのだろうが、生憎とそれが成功することはない。
「間もなく転移魔術を発動する! 視界が切り替わるが、落ち着いて対処するようにっ」
グロムが大声を張り上げると、軍勢に自然と緊張感が走る。
かと言って、過度なものではない。
誰もが気を引き締める良い塩梅であった。
グロムは私に対して頭を下げる。
「では魔王様。いってらっしゃいませ」
「ああ、いってくる」
私は転移魔術を行使した。
地面に描いた魔法陣が発光し、視界が切り替わる。
目の前に広大な運河が現れた。
配下達はすぐ後ろに控えている。
運河の向こう岸には、前進する小国の軍の姿が見えた。
彼らは二手に分かれている。
一方は運河を横切る石橋を、もう一方は船舶を使って運河を横断しようとしていた。
小国の軍勢はあからさまに驚愕している。
突如として現れた魔王軍を前に狼狽えているようであった。
硬直する彼らを見て、ルシアナは愉快そうに笑う。
「恐ろしいほど精密な転移ね。これだけの人数を一気に運ぶだけでも凄いのに、魔王サマは本当に規格外よ」
「これくらいできなければ世界の悪は務まらない」
私は前に進み出る。
それを目にしたルシアナは、呆れた様子でため息を吐いた。
「やっぱり降伏勧告をするの?」
「無論だ。彼らにも猶予を与える。無血で済むのならそれでもいい」
私は魔術で拡声した自身の声を小国の軍勢に届ける。
「聞け、人間共よ。我々は魔王軍。お前達が刃を交える者だ。しかし、ここで一つ提案が――」
「かかれェ! 全軍突撃だ! 魔術部隊も一斉に攻撃せよ! 敵を一歩たりとも近づけるなァッ!」
私の声を遮るように、司令官の命令が発せられた。
合わせて雄叫びが上がり、小国の人々は決死の覚悟を決めて攻撃を仕掛けてくる。
運河を飛び越えて魔術も飛来してきた。
「無血の戦いはできそう?」
「……不可能だな」
「だから言ったのに。人間ってお馬鹿さんばかりよ? アナタの温情もきっと伝わっていないわ」
「知っている」
ルシアナの指摘は真理を突いている。
現状が何よりの証拠であった。
私が反論できる余地はない。
(仕方ない、か)
私は無数の雷撃を射出し、飛んできた魔術を薙ぎ払った。
その勢いで石橋を渡る人間に叩き込む。
焼け焦げた死体が次々と運河に転げ落ち、橋も半ばほどで崩落した。
「わお。派手な反撃ね」
「ただの牽制だ」
私は片腕を掲げ、背後に控える配下達に見えるようにした。
その姿勢で命令を発する。
「勧告は拒否された。お前達の暴力を披露せよ」
腕を振り下ろすと同時に、魔物の軍勢が突撃を開始した。
アンデッドが先頭となり、その後ろをオークやオーガが続く。
ここから先については、私は積極的に手出しするつもりはない。
魔物達が人間を殺して鬱憤を晴らし、次の戦いへの自信を抱かせるのが狙いだ。
私が魔術を使えば一瞬で片が付くものの、それではいけない。
今の魔王軍に必要なのは、酩酊するほど気持ちのいい勝利である。
勝利は千の激励より顕著な効果をもたらしてくれる。
先頭のアンデッドが運河に沈んだかと思うと、船舶に群がって転覆を誘発した。
そして水中に落ちた兵士を喰い殺す。
何とか転覆を免れた者や、崩壊した石橋を渡ろうとする者は、後続の魔物が強引に惨殺した。
兵士達は必死になって反撃を試みるも、既に手遅れだ。
一人が粘ったところで好転する状況ではない。
魔王軍は、運河に浮かぶアンデッドを足場に前進していく。
個人戦力ではこちらの方が上だ。
突然の接敵という事態で動揺させ、不死者で運河を埋め尽くし、着々と陣形を突き崩せば負けるはずがない。
向こうの遠距離攻撃に関しては、私の魔術が残らず弾いていく。
一方的な蹂躙がそこに完成していた。
「あっはぁ、素敵な光景ねぇ。極上のワインが飲みたくなってくるわ」
蕩けるような表情のルシアナは、酒瓶を片手に呟く。
彼女は中身をグラスに注ぐと、喉を鳴らして美味そうに呑む。
「……持参していたのか」
「せっかくの遠征でしょう? 配下の皆を楽しい気持ちで見守りたいと思わない?」
「真面目にやれ」
「アタシはいつだって真面目よ。ほら」
ルシアナは自身の頬を差す。
そこには妖艶な微笑が湛えられていた。
「ワイン程度じゃサキュバスは酔わない。今のアタシは、この最高の状況に酔っているの」
ルシアナは酒瓶を置いて遠い目をする。
彼女は落ち着いた声音で語る。
「十年間、何度も夢見た光景だわ。昔を思い出しちゃいそう」
「それは先代魔王に仕えていた時代のことか?」
「ええ、そうよ。あの頃は楽しかったわ……ドワイト君も可愛かったし」
ルシアナは少しおどけた調子で言った。
どうやら私をからかっているらしい。
「……その呼び方はやめてくれ」
「あら、人間の名前は捨てたというの? 今はただの魔王サマってこと?」
「そこまで重要なことか?」
私が疑問を呈すると、ルシアナは急に真顔になった。
彼女は少し怒った口調で言う。
「重要よ。アナタは個人。魔王という概念じゃないんだから」
「個人……」
「魔王サマったら、自分のことを目的のための装置か何かと勘違いしてない?」
ルシアナは肩をすくめ、深々とため息を吐く。
よく分からないが、私は非難されているようだった。
「別に構わないだろう。目的達成における最適解だ」
「全然ダメよ」
ルシアナの手が、私の頬を左右から挟み込んで固定した。
しっかりと掴まれて首が動かしにくい。
「放せ」
「じゃあ、自分のことを大切にするって誓える?」
「今はそれどころではない。戦いに集中しなければ――」
「ふーん。この光景を見ても、そんなことを言える?」
ルシアナは私の首を横に動かす。
グールやスケルトンが船舶を転覆させ、そのたびに兵士達が悲鳴を上げて水没する。
新たなグールとなった元兵士は、向こう岸へ這い上がっていた。
攪乱するアンデッドに紛れて、魔物達も猛攻を繰り広げている。
小国の陣形は完全に崩壊し、逃亡する兵士も散見された。
「圧勝も圧勝よ。魔王サマが心配することなんて何もないわ。さあ、質問に答えてくれる?」
「…………」
「自分のことを、大切にできる?」
ルシアナは真剣な様子で問い詰めてくる。
私が頷かなければ、きっと手を放さないつもりだろう。
下手な言葉ではぐらかすこともできない。
彼女は、私という人物を見極めようとしていた。
長い沈黙の末、私は答えを口にする。
「――分かった。努力はしよう」
「うんうん、今はそれでいいわ。言質は取ったし、あの世話焼きな骨にも伝えておくわね」
ルシアナは満足そうに私を解放した。
そして酒瓶を呷って中身を飲み干すと、彼女はぽつりと切り出す。
「……ねぇ」
「何だ」
「もし悩みがあったら、遠慮なく言ってね? 例えば骨には相談しづらいこととか……」
ルシアナは小さな声で言う。
彼女にしては珍しくしおらしい。
頬に赤みが差していた。
ワインを飲んだせいか、或いは別の要因か。
それに言及するのは野暮だと思い、私は無難な返事をすることにした。
「……その時は頼む」
「任せて! それと、人肌が恋しくなったらアタシが温めてあげるからっ」
ルシアナは勢いよく飛び立つと、快進撃を展開する魔王軍に加わった。
上空からの魔術の乱れ撃ちにより、彼女は小国軍に致命的な被害を与えていく。
その姿を目撃した魔王軍は、逆に喝采を上げた。
取り残された私はぼやく。
「一体何なんだ……」
結局、ルシアナは何が目的だったのだろう。
彼女なりに私を鼓舞したかったのか。
おそらく好意を向けられたのは分かるが、どうにも釈然としない。
――ただ一つ確かなことは、私が配下に恵まれているということだった。