第274話 賢者は未来へと進む
戦いを終えた私は彼女の亡骸を抱えた。
形見の剣を鞘に戻して腰に吊るすと、待機させていたアンデッドを各地に転送する。
一人きりになったところで転移を使った。
やってきたのは死者の谷だ。
私の結界で隔離された土地で、誰一人として立ち入れない場所であった。
「…………」
私は辺りを見回す。
付近一帯は真の静寂に包まれていた。
生物の気配は感じられない。
仮に何者かが侵入できたとしても、すぐに息絶えるだろう。
それだけの濃度の瘴気が漂っている。
不死者である私は、この場にいるだけで力が漲ってくる。
ここは力の供給源でもある。
魔王としての原点と言えよう。
お世辞にも良い思い出はなく、数々の因縁が絡んでいた。
私は彼女を抱えて歩き、崖際から谷を見下ろす。
眼下には、濃密な瘴気が霧のように蔓延していた。
そのせいで何も見えない。
「――っ」
電流が走ったように肩が跳ねる。
脳裏をいくつもの光景が瞬いていた。
自ずと処刑された日を彷彿させられる。
私達は、ここで命を落とした。
十年もの間、私は谷底で苦悩し、ついには魔王になることを決意した。
瘴気を喰らい尽くして力を得ると、谷底から這い上がってきたのだ。
そうして兵士を殺して国を乗っ取った。
何もかもが懐かしい。
ここまであっという間だった気がする。
本当に数え切れないほどの命を奪ってきた。
当時、私達は次代の魔王になると決め付けられて処刑された。
彼らの掲げた建前は、真実になったというわけだ。
誰も望んでいない結果であった。
「……さようなら」
数瞬の躊躇いを挟んで、私は彼女から手を放した。
その身を魔術で浮遊させると、谷底へゆっくりと下ろしていく。
これも仕方のない処置だった。
亡骸を第三者に利用されないためである。
彼女を二度と蘇生させてはならない。
もう再会しないと約束したのだ。
その点、死者の谷なら絶対に安全だろう。
どのような手段でも干渉は不可能であった。
もしこの地に踏み込もうとする者がいれば、誰であろうと絶対に抹殺する。
それだけの覚悟があった。
降下する彼女は、次第に瘴気の霧に呑まれていく。
やがて完全に姿が見えなくなった。
(皮肉なものだな)
あの時、私は彼女の遺骨と共に地上へ戻った。
今度は蘇った彼女をこの地に葬った。
いずれも私の選択である。
ただし、後悔はしていない。
過去を否定せず、それらを背負っていくのだ。
次に私は、腰に視線をやる。
吊るしていた形見の剣を外すと、同様に谷底へ落とした。
私にはもう必要ないものだ。
あの人に対する依存の証であったが、彼女との問答と戦いを経て未練は断ち切れた。
これからは自らの力で進むことができる。
持ち主に返すのが筋だろう。
その時、死者の谷に朝日が差した。
私は顔の前に手をかざしながら地平線を望む。
夜明けが訪れようとしていた。
まるで私の清算を待っていたかのように。
眩い光が世界を照らし上げていく。
朝日を背にして、私は踵を返した。
一つの出来事を乗り越えたが、これで終わりではない。
生き残った私には、まだまだやるべきことが残っているのだ。
まずは事の顛末を配下達に伝えねばならない。
皆が私の帰還を待っている。
心配している者も多いだろう。
「……では、失礼します」
一度だけ振り返って、深く礼をする。
私は死者の谷を立ち去った。




