第273話 賢者は意思を継ぐ
彼女は空中で姿勢を崩し、私に攻撃することなく着地する。
少しよろめくと、胸に刺さった矢を見下ろした。
彼女は何かを悟ったような顔になる。
「なるほど、これは……」
「あの時、あなたを死に至らしめた矢です」
私はあえて言葉にして出す。
彼女に放った矢は、十数年前の処刑時に使われたものだった。
この戦いが始まる前に、死者の谷を捜索して見つけてきたのである。
常人からすれば、ただの朽ちた矢に過ぎない。
しかし、これで命を落とした彼女にとっては、因縁のある代物だ。
矢には"勇者を殺害した"という概念が内包されている。
それは魔術的な意味を持ち、一種の呪いとして作用する。
矢と勇者は、因果で結ばれているのだ。
放てば必中の力を宿し、彼女の命を穿つ。
たとえ不滅の魂だろうと関係ない。
死の因縁は強力である。
魂の特性を無視して効果を発揮する。
必殺の矢を今まで使わなかったのは、それでも彼女が防ぐ恐れがあったからだった。
互いに極限状態で、最も余裕がない瞬間を狙いたかった。
故にここまで温存したのである。
「……少し、疲れましたね」
そう言って彼女は剣を下ろした。
戦気はもう感じられない。
彼女は敗北を認めたようだ。
矢に軽く触れると、淡く微笑んでみせた。
「なんとも、的確な対策です。振り返れば、貴方の対策には何度も助けられました。今回は、我が身で味わうことになりましたが……」
彼女は懐かしむように言う。
私との旅の日々を思い出しているのだろう。
当時、私は参謀のような役割を兼ねていた。
魔王軍と戦う過程で、あらゆる計画や作戦を立案し、彼女はそれに則って活躍した。
強大な魔族を相手にする際も、私は徹底的に対策を練ってから交戦に持ち込んだ。
そうして陰ながら勇者の勝利に貢献してきたのである。
彼女は私と相対した。
矢の痛みを感じさせない姿で言葉を紡ぐ。
「強くなりましたね。共に戦った者として、誇らしい限りです」
「あなたのおかげです。私一人では辿り着けなかった領域だ」
賢者を自称できるのも、彼女がいたからこそであった。
私を英雄に引き上げたのは、他ならぬ勇者だ。
魔王になれたのも同様である。
どちらも彼女という存在が前提で成り立っていた。
こうして一つの答えに辿り着けたのも、彼女の本心を聞けたからだ。
此度の戦いは、私自身に大きな影響を及ぼした。
心底に燻っていた葛藤は解消され、追うばかりであった彼女を超えることができた。
私は自らの剣を消滅させると、意を決して発言する。
「……クレア様」
「何でしょうか」
「今まで、ありがとうございました」
私は頭を下げる。
脳裏を駆け巡る思い出を感じながら、彼女に感謝を告げた。
声がうわずらないよう、精一杯に意識した。
震える手を懸命に握り締める。
「いえ、こちらこそ感謝しています。世話をかけましたね」
顔を上げると、彼女は優しげな表情を浮かべていた。
澄み切った双眸は、真摯な色を帯びている。
「世界の行方は、貴方に託します。死にゆく勇者の考えに囚われず、己の意志で歩みなさい」
「はい……分かりました」
私は頷いて応える。
戦いは魔王の勝利で決した。
ならば、掲げた主義を通さねばならない。
それが勝者たる責務であった。
彼女は夜空を仰いで、小さく息を吐いた。
下りてきた視線が私を捉えると、確かな喜色を覗かせる。
「こうした蘇りには否定的でしたが、存外に良いものですね」
「どういうことでしょう?」
私は疑問を呈する。
彼女が蘇生を望んでいないことは察していた。
故に良いものと評したことが意外だった。
釈然としない私に対し、彼女は包み隠さず告白する。
「ドワイト・ハーヴェルト――親愛なる貴方の成長を知れたのです。これ以上の幸福はありません」
言い終えた途端、彼女は目を潤ませた。
すぐに俯いて拭うと、私に背中を向ける。
月と星々に照らされる中、彼女は静かに言う。
「冥府より活躍を見守っています。これ以上の再会は望みませんよ」
「もちろん、分かっております」
「そう、ですか――」
間もなく彼女は、夜の荒野に倒れた。
それきり動かなくなる。
彼女の体内から魂が霧散した。
勇者の最期を見届けた私は、跪いて黙祷を捧げた。




