第271話 賢者は臨界点を超える
私は剣の切っ先を彼女に向ける。
漆黒の刃は、月光を反射して淡く輝いていた。
「我々の主張は、どちらも間違っていない。互いに欠点を抱えながらも、同じだけの正当性を有している」
私は前へ進み出る。
そして、思考の終着点を彼女に伝えた。
「だから私は決めました。この戦いで生き残った者が進み続ければいい、と」
それが私の導き出した結論であった。
問答の優勢で一方が譲るはずもない。
ならば戦いで決するのみだ。
展開自体は端から分かり切っていたことだが、此度は過程が重要であった。
私は、蘇った彼女の本心を知ることができた。
それによって、賢者から魔王になったことへの後ろめたさを払拭した。
己の在り方を根本から認識し直したのである。
結果、こうして堂々と対峙している。
世界の敵として、私は勇者の前に立ちはだかっているのだ。
「最善の勇者と、最適の魔王。どちらも正しいのなら、より強き者が跡を継ぐ。それで如何でしょう」
「単純明快ですね。堅物のあなたらしくもない」
「不死の魔王になってから十数年が経ちました。色々と環境の変化があったのです」
脳裏に配下達の姿が浮かぶ。
個性豊かな者ばかりで、きっと彼らの影響は受けている。
自覚はないが、彼女から見ると大きく変わったようだ。
「……そうですか」
小さく呟いた彼女は笑う。
今まで見た中で、最も晴れやかな顔だった。
偽りの表情ではない。
心底から笑っていた。
やがて落ち着いた彼女は、深く息を吸い込んだ。
そうして自然体で剣を構えてみせる。
彼女は、刃越しに視線を送ってきた。
「さて。悔いはありませんね?」
「無論です」
私は頷いて構えを取る。
多種多様な魔術や異能の使用を想定した、勇者とは異なる構えであった。
それを目にした彼女は微笑する。
確かな優しさと親しみが感じられるものだった。
しかし、それもすぐに鳴りを潜める。
凛々しい眼差しを以て、彼女は悠然と踏み出した。
「では、始めましょう」
◆
夜空の下、私達は剣を交わす。
静かな荒野にて、戦いの音だけが響き渡っている。
驚異的な速さの突きを、私はなんとか目視する。
首を傾けると、刃が頭部を掠めていった。
僅かな衝撃が走るも、思考を妨げるほどではない。
なんとか回避したところで、私は肋骨を触手に変貌させた。
それらを伸ばして彼女を捕えようとする。
彼女は剣の一振りでそれらを迎撃した。
触手は残らず叩き斬られて、黒い塵となって消滅する。
そのまま追撃に移ろうとした彼女はしかし、私を見て目を見開く。
私の手の内で、空間が球体状に歪んでいた。
それは高速回転しながら、微かな摩擦音を鳴らしている。
触手が稼いだ僅かな猶予で、禁呪を行使したのだ。
発動した禁呪は時間の流れに干渉し、私以外の動きを強制的に遅めた。
その中には眼前の勇者も含まれている。
相対的に加速した私は、即座に追撃へと移行した。
超高速の連撃を前に、彼女は防戦に徹する。
奇蹟的な技量と先読みを以て負傷を避けていた。
かなり危うい動きだが、彼女ならいずれ対応だろう。
互いの時間を不平等にする禁呪すら、勇者を倒す決定打にはなり得ない。
(分かっている。もっと策を張らねば……ひたすら仕掛けるのだ)
私は、かつてない集中力で思考を巡らせる。
徐々に動きを速める彼女を見て、戦術を臨機応変に切り替えた。
魔王たる力を、最愛の人に見舞っていく。




