第22話 賢者は夜空に誓う
真っ赤に染まる視界。
夥しい量の返り血が私を濡らした。
全身を伝い落ちるそれを拭わず、私は静かに佇む。
勇者は斬られた箇所に触れていた。
鮮血は断続的に噴き出す。
彼が手を押し付けようとも、勢いは一向に弱まらない。
血は絶えることなく湧き続けていた。
「……っ」
勇者は口を微かに動かしたが、声にならない。
彼はよろめいて吐血した。
耳を澄ますと、獣のように唸っている。
(さすがに限界だな)
勇者の姿を見て私は判断する。
形見の剣は、彼の胴体を割っていた。
傷が浅かったわけでもない。
明らかに致命傷である。
気合いでどうにかなる問題ではなかった。
「…………ぅっ、ぁ」
そのまま倒れるかと思いきや、勇者はぎこちない動きで前へ踏み出した。
一歩ずつ噛み締めるように、血をこぼして近付いてくる。
転びそうになっても決して足を止めない。
執念に燃える双眸は、私だけを見つめていた。
振り上げられたままの聖剣が震える。
私に一太刀を打ち込むためだけに掲げられていた。
消えゆく命の灯を尽くして、彼は懸命に進む。
そしてついには、私を聖剣の間合いに捉えた。
「――――っ」
勇者は半ば倒れるような形で聖剣を振り下ろした。
緩やかな速度の刃が、私の首筋に触れる。
聖なる光が骨の表面を焦がし、さらに食い込もうとする。
しかし、そこまでだった。
聖剣が私の肩から胴にかけてを撫で落ちる。
渾身の斬撃は、身に纏うローブを切り裂くだけに留まっていた。
勇者は聖剣を振り抜いた姿勢で硬直する。
そこから微塵も動かない。
僅かな呼吸音すらも聞こえなかった。
私は勇者の顔を覗き見る。
虚ろな表情は、瞬き一つしていない。
両の瞳は光を失っていた。
どこも見ていない。
勇者は、死んでいた。
最期は倒れることなく、瘴気の力にも耐えて、人間の勇者として使命を全うしたのだ。
限界を超えて戦ったその姿には、敬意を評する他あるまい。
ぴしり、と小さな音が鳴った。
聖剣に亀裂が走っている。
白い光が霧散し、刃が粉々に砕け散った。
柄だけを残して消滅する。
勇者の願いは、巨悪を倒して平和をもたらすことだった。
かつての私と同じである。
その先に待つ展開を知らないとは言え、平和を愛する心は本物と言えよう。
私は踵を返して要塞へと向かう。
要塞は赤々と燃え上がり、夜闇を照らしていた。
悲鳴や断末魔は聞こえない。
既に魔王軍によって占拠されたのだろう。
その証拠に、その周囲を新たなアンデッドが徘徊している。
これは当然の結果だった。
勇者の力がなければ、抵抗の術など存在しない。
直接は確認していなかったが、一方的な戦いが展開されたものと思われる。
「魔王様っ!」
いち早く私を見つけたグロムが、凄まじい勢いで駆け付けてきた。
衝突間際で急停止した彼は、しきりに私の怪我の有無を確かめる。
よほど心配していたのだろう。
私はやんわりとグロムを引き離す。
「特に怪我はしていない。大丈夫だ」
「そ、そうですか……ご無事で何よりでございます……」
グロムは露骨に安堵する。
相手は聖剣の勇者だ。
万が一の可能性も考えていたのだろう。
実際は杞憂に終わったが、彼が心配するのも無理はない。
「やあ、大将。元気そうじゃないか」
気楽な挨拶と共に現れたのはヘンリーだ。
戦闘の直後とは思えない雰囲気である。
ただ、衣服に付着した赤い染みと、血みどろの拳が何があったかを伝えていた。
さぞ大量の兵士を葬ってきたのだろう。
彼にとって命のやり取りは、日常とさほど変わりないらしい。
「俺も勇者と戦ってみたかったな。強かったのかい?」
「とてもな。その名に相応しい実力者だった」
「そいつは羨ましいもんだぜ」
ヘンリーは本当に惜しそうに言う。
彼は生粋の戦闘狂だ。
己の快楽のために殺戮を繰り返している。
人間に対する復讐心等もなく、気分次第でどんなことだってする。
魔王軍に所属しているのも、戦争を楽しめるからであった。
その在り方は決して善人ではない。
しかし、既に魔王軍には不可欠な男である。
そもそも私自身が、善悪で誰かを批難できる立場にない。
今後も彼とは利害関係で手を組んでいくつもりだ。
「魔王サマーっ」
ルシアナが要塞から飛翔してくる。
彼女は両手を広げて私の首に跳び付いてきた。
寸前でグロムが妨害しようとしていたが、ルシアナはひらりと回避してみせた。
「すごいじゃない、勇者に勝つなんて! 魔王としての快挙ね」
「それほど喜ぶことなのか?」
はしゃぐルシアナに思わず疑問を呈すると、彼女は少し眉を寄せた。
「当たり前でしょう? 先代魔王サマは、それを成し遂げられなかったんだから。先代勇者とアナタに負けてね」
「……確かにな」
ルシアナに指摘されて記憶が呼び起こされる。
振り返ると何もかもが懐かしい。
あの時の出来事は、もう十年も前のことなのだ。
死者の谷で過ごした時間は、ひどく停滞していた。
あの人の亡骸を抱いて自問自答を繰り返すばかりであった。
(――思い返すのは後でいい。今は感傷に浸る時ではない)
過ぎた過去より、現実を見るべきだ。
気を緩めている場合ではない。
こちらの内心を察したルシアナは、さりげなく私から離れて報告をする。
「要塞は完全に占拠したわ。生き残った兵士も捕縛して、誰も抵抗できないようになっている。これからどうするの?」
「勇者討伐という目的は果たした。魔王軍は帰還する。速やかに準備を進めてくれ」
私の命令を受けた三人は、それぞれ要塞へと戻った。
あとは彼らに任せればいいだろう。
その場に残る私は、剣を持ったままであることに気付いた。
剣を横一線に薙いで、勇者の血を振り払う。
ローブで刃を丁重に拭い、そっと鞘に収めた。
私はふと空を見上げる。
そこには満天の星々が広がっていた。
恐ろしさを感じるほどに美しい。
地上の惨劇をよそに、幻想的な光景を展開している。
無意識のうちに私は独白する。
「――魔王になった私は、勇者を殺しました。時代の流れに真っ向から背く行為です」
世界という流れは、きっと勇者の勝利を望んでいた。
悪は抗えない力を以て排斥される。
いつの時代もそれが良しとされてきた。
生前の私もそう考えた一人だ。
自らの才を善のために活かそうと志した。
人間を虐殺することが正しいはずがない。
ましてや彼らの屍を操って侵略戦争を行うなど、決して許される行為ではなかった。
私が何よりも憎み、撲滅しようとした悪である。
その権化となってしまった現在の境遇には、運命の皮肉を感じざるを得ない。
「ですが私は、自らの選んだ道を進み続けます。世界平和を実現するためならば、どこまでも堕ちていきましょう」
目的達成に向けて如何なる犠牲も厭わない。
私は世界最悪の魔王だ。
あらゆる汚名と責を受け入れよう。
狂った世界を歪めるのは、狂った存在でなければ。
「あなたが蘇るその時、新たな世界をお見せします」
誰にも届かない空虚な誓約。
それを私は夜空に告げた。