第190話 賢者は答えに得心する
「そうか……」
大精霊の肯定を聞いて、私は沈黙する。
咄嗟に言葉が出てこない。
単純な喜びとはまた異なる。
もちろん嬉しいはずなのだが、独特の心境だった。
「どうしました。安心して気が抜けましたか」
「少しだけな」
私は短い言葉で応じる。
半ば確信していたとは言え、自らの見解が合っているのだと知れて良かった。
心の端に巣食っていた悩みが解消された気分である。
「世界の意思とは、人類の無意識が集合して構築される概念です。人間の業――その終着点と言い換えられますね」
「人間の業が、事象に干渉するのだな」
大精霊は深々と首肯した。
彼女は夜空に手を伸ばす。
指先が、何かを撫でるように動いた。
「人類が幸福を目指す思い――転じて破滅を逃れたいという願いが世界を歪めます。望む者が多く、その思いが強くなるほど効果は高まるでしょう」
願いが統一されれば、その分だけ大きな奇蹟が起きる。
人々の願いが英雄を生み出すということだろう。
望まれているからこそ英雄なのだ。
「世界の意思は究極の概念ですが、決して万能ではありません。常に作用しているわけではなく、また作用した結果の良し悪しも考慮されていません。あなたの指摘した、完璧ではない点ですね」
「そうだな」
無意識の願望が構築する概念。
これが最大の長所であり、欠点でもある。
望まれるのなら、勇者さえ処刑されて、非人道的な兵器も完成してしまう。
ただし、その先の展開は保証されない。
短絡的な処刑の結果、私のような魔王が生まれた。
人類にとっては、まさに仇となった形であろう。
必ずしも良い現象ばかりが起きるわけではないということだ。
「世界の意思は人々を守護しますが、同時に最大の敵と言えるでしょう」
「人類を破滅に導く概念でもある、ということか」
「その通りです」
大精霊は頷く。
なんとも皮肉な構造だった。
人々は、自らの願望で滅亡しかねないのだ。
生きようとする想いが、逆に彼らの首を絞めていく。
それを彼ら自身が止めることもできない。
「世界の意思の標的となった場合、基本的に抗うことはできません。理論上、どのような高位存在だろうと滅ぼせますので。その決まりに縛られない例外が、あなたです」
「私なのか」
少し意外に感じながらも、思い当たる節はいくつもあった。
その上で私は大精霊に尋ねる。
「なぜ私が例外なのか、教えてほしい」
「あなたが特殊な権能を保有しているからです」
「……死者の谷か」
私は体内の瘴気を意識する。
常に供給される力は、私を魔王たらしめている。
外世界の獣を捧げたことで、瘴気の質量はさらに向上していた。
「死者の谷とは、人間の業そのものです。人々が普遍的に願う幸福と平和――それとは正反対の惨劇と滅びを象徴しています」
私は大精霊の話を直感的に理解する。
死者の谷は、人々が忌み嫌い、見えないように排除してきた悪だ。
あらゆる淀みが沈殿している。
人々を救う世界の意思は、滅ぶを招く概念でもあった。
死者の谷とは、同質ながらも相反している。
以前、大精霊が述べていた通りだった。
「これが世界の意思に関する真実です。理解できましたか」
「ああ、とても参考になった」
私が大精霊に感謝する。
ただの推測でしかなかった考えが、はっきりと輪郭を帯びた。
この差は大きいだろう。
「世界の意思が強大な概念だと分かったはずですが、これからあなたはどうしますか」
「何も変わらない。抗い続けるだけだ」
私は迷いなく答える。
真実を知ろうと結局は同じことだ。
私の存在が、望まれていないのは知っている。
しかし、世界に魔王は必要であった。
だから生き残らねばならない。
如何なる英雄が現れようと、私に敗北は許されなかった。
世界平和のために、ただ突き進むだけだ。
「良い答えです。困難な試みですが、あなたなら成し遂げられるかもしれません」
満足そうに言った大精霊は、音もなく浮かび上がる。
空中を歩く彼女は、こちらを振り向いて告げた。
「事態が新たに動き次第、こちらから報せます」
「頼んだ」
私が応じると、大精霊は夜空の彼方へ飛んでいく。
辺りに静寂に包まれた。
一人になった私は、室内へと戻る。