第179話 賢者は再始動する
私は謁見の間へと転移する。
事務作業に没頭していたルシアナと目が合った。
勢いよく立ち上がった彼女は、書類を散らしながら駆け寄ってくる。
「魔王サマっ!」
ルシアナが正面から抱き付いてきた。
かなり力が強く、私の身体が軋んでいる。
彼女は高位の魔族であり、加えて魔王軍の四天王を務めたほどの実力者だ。
あまり目立たないが、相当な膂力の持ち主であった。
しかも動揺によるものか、力加減ができていない。
私の肩や腕に亀裂が走る。
全身が粉砕されるのは時間の問題だった。
「心配したのよ。全然戻ってこないんだから……」
ルシアナは微かに震える声で呟く。
いつもの調子からは想像もつかない姿だった。
「すまない」
私はそれだけ返した。
同時に腕の骨が割れて落ちる。
その音で我に返ったルシアナは、慌てて私から離れた。
目元が赤くなっている。
涙は寸前で堪えたようだ。
私は落ちた腕を拾うと、瘴気で接着する。
顔を上げると、部屋の端に立つディエラを発見した。
腕組みをして仁王立ちする彼女は、不敵な笑みを見せている。
「よくぞ戻ってきた。さすが魔王じゃな」
「私には、まだやることがある。ここで死ぬわけにはいかない」
そう返すと、ディエラは嬉しそうな顔をした。
彼女は満足そうに頷いてみせる。
「うむうむ、その意気じゃ。お主にはたくさん働いてもらわねばならないからのう」
「……どういうことだ」
「お主が不在の間に、世界情勢は変わってしまった。外世界の獣が次々と顕現することでな」
難しい表情のディエラは説明を始める。
私が精神世界に没入する間、現実では十日が経過していた。
外世界の獣達は、本格的に始動しているらしい。
各国に出現した彼らは、手当たり次第に暴れ回っているそうだ。
魔王軍は、領内に出現した獣を迎撃する最中だという。
相当な激戦らしいが、今のところは対応できているとのことだった。
返り討ちに遭っていなのは、見事という他あるまい。
司令塔となっている幹部達の采配が上手いのだろう。
ちなみに外世界の獣という概念は周知されておらず、各国では変異種の魔物が同時多発的に暴れているという認識だそうだ。
既に甚大な被害が出ている地域もあり、魔王どころではない騒ぎらしい。
「他の幹部の者達は各地で戦っておる。お主を出迎えたかったそうじゃが、やむを得ず諦めたようじゃ」
「そうか」
仕方のないことである。
いつ戻るか分からない私を待つよりも、獣の討伐に赴く方が建設的だった。
極めて正しい判断と言えよう。
「現実世界に戻ってきたということは、お主を蝕む獣は退治したのじゃな?」
「今は研究所の地下に幽閉して、所長に監視させている。脱出はまず不可能だろう」
「あの所長が監視か……それは災難じゃの」
ディエラは気の毒そうにぼやく。
あまり話題に挙がらないが、所長に対する印象がよく分かる反応だった。
見ればルシアナも似たような表情をしている。
所長は、元は一般的な研究者の魔術師だ。
この中で最も平凡な出自や経歴のはずだった。
それだというのに、いつの間にか外世界の獣すら恐れる存在になっている。
本人はそういったことを気にしていないが、何気に魔王軍の中でも、飛び抜けて成り上がった人物だろう。
微妙な空気を打開するように、ルシアナが私に質問をする。
「魔王サマ、これからどうするつもり?」
「展開した戦線を維持しつつ、私が各地の援護へ向かう。ルシアナ、お前は情報収集に努めてほしい」
「了解、任せて」
ルシアナは真面目な顔で承諾する。
大陸全土――否、他の大陸までもが獣達の脅威に晒されている。
防御機構も動いているようだが、おそらく手が足りていない。
それに彼らは、あくまでも世界滅亡を防ぐだけだ。
人々を救おうとはしない。
このような状況下だからこそ、地道な情報収集は大切だった。
それらを統合して、効率的な立ち回りをする必要がある。
「ディエラ、王都の防衛を頼んでもいいか」
「本当は前線で活躍したいところじゃが、ここは我慢しよう。吾の見せ場は、もう少し後じゃな」
唸るディエラは渋々と言った様子で頷く。
協力自体に抵抗はないようだ。
実質的に魔王軍の幹部のような状態である。
かつては宿敵だったはずが、現在は頼りになる隣人だ。
何事もどう転ぶか分からないものであった。
(動きが遅れたが、今から挽回するしかない)
少し目を離した間に、随分と世界を荒らされてしまった。
獣達が如何なる目的を持っているのかは知らないが、徹底的に排除する所存である。
この世界に巨悪は一つだけでいい。
復活した魔王の力を見せてやらねば。