第167話 賢者は精神世界に没入する
やり取りを終えたところで、配下達は部屋の外へ出て行った。
私は扉を施錠して、さらに結界で厳重に封鎖する。
禁呪の余波が、室外にまで及ぶと困る。
どのような被害が起こるか分からない。
術の効果は網羅しているつもりだが、今から発動するのは自作の禁呪だ。
しかも正常に機能するか試していない。
不具合や誤作動の可能性は、疑っておかなければならないだろう。
念には念を入れて、対策を張っておくべきだ。
「さて……」
一人になった私は椅子に座り直す。
床の術式との繋がりを確認し、目視で他の箇所も点検していく。
特に問題はなく、術は滞りなく発動しそうだった。
静寂に包まれた室内で、私は首を少し動かす。
(緊張するのは、仕方ないか)
配下達には自信のある姿を見せたが、私にも不安はある。
獣の術を解けるかについてではない。
それについては覚悟を決めている。
己の精神世界を覗き込むことに、躊躇があるのだ。
このまま禁呪を発動すれば、私の意識は精神世界へと沈み込む。
そこには果たして何が広がっているのか。
私の心の内を目にするのと同義だ。
思うところがあるのは当然だろう。
過去の文献には、魔術師が精神世界に入ったという記述はない。
それを試みた魔術師はいたようだが、いずれも失敗して悲惨な最期を迎えている。
似たような能力を持つ種族として、サキュバスが挙げられる。
対象の夢の世界に侵入するというものだ。
しかし、あれは表層的な面に限り、精神の深部までは至らないと聞く。
そこまで侵入すると、自力では現実世界に出られなくなり、対象の無意識にすり潰されるそうだ。
ルシアナ曰く、夢への侵入は危険を伴う行為らしい。
サキュバスの代表的な能力だが、基本的には使いたくない代物とのことだった。
此度の禁呪は、その危険領域に飛び込むための術である。
(……そろそろ向かうか)
脱線した思考は、多少ながらも平常心を保ってくれる。
禁呪の行使において、動揺や焦りは難敵だった。
そういった心の隙が術の失敗を誘発する。
ここまで意識的に心を落ち着かせるのは久々だが、今からすることを考えれば然るべき処置だろう。
私は体内の魔力を意識する。
魔力は円滑に循環しており、欠片の不審点も感じられない。
極度の体調不良は、この五日間で慣れてしまった。
私の集中を乱すほどではない。
穏やかな精神状態で、私は禁呪は発動する。
直後、全身の術式が瞬くようにして発光し始めた。
それが室内に張り巡らされた術式へと伝播した。
床や壁や天井が剥がれ、術式だけが空中を回転する。
流し込んだ魔力は、際限なく膨れ上がっていく。
「……ッ」
私は呻きそうになって歯を食い縛る。
気の狂いそうな痛みが襲いかかってきた。
骨の身体は、端から徐々に崩れていく。
私はその苦痛に耐え、自我を保ちながら魔力の操作に集中した。
綻びそうな術式を探しては、強引に繋げて崩壊を防ぐ。
身体を気にしている余裕などない。
ただひたすらに術の継続だけに意識を割き続ける。
そうして苦悶すること暫し。
やがて自らの内側へと引きずり込まれるような感覚が走る。
抗えないほどに強烈な力だ。
激痛が頂点に達し、ついには全身を爆散させる。
その瞬間、私の視界は黒く染まり、意識はどこまでも落ちていった。