第166話 賢者は先代魔王と約束する
王城の閉め切られた一室。
その中央の椅子に私は座っていた。
床や壁や天井には、無数の術式が刻み込まれている。
かなりの密度で、元の色が分からなくなるほどだ。
休む間もなく作業をしたが、完成までに丸一日を費やすことになった。
そして私の身体にも、同様の術式が施されている。
小さな骨の端まで丹念に埋め尽くされていた。
仄かに発光しているのは、私の魔力と反応しているためだ。
微かな痛みがあるが、気にするほどではない。
そばに控えるグロムが、心配そうに私を見る。
「あの、魔王様。本当に実行されるのですか……?」
「当然だ」
「で、ですが……」
グロムは歯切れの悪い調子で唸る。
片目の炎は、今にも消えそうだった。
彼は先ほどから落ち着きがなく、直前まで室内を歩き回っていた。
「もう少し待ってもらえたら、獣の居場所が見つかるはずよ。わざわざこんなことをしなくてもいいんじゃない?」
「マスターに警告――非常に危険な試みです。中断を推奨します」
ルシアナとユゥラも追従してくる。
二人は私の安否を気遣っているのだ。
私はそれを知りながらも首を振る。
「生憎と時間がない。私の身体は急速に蝕まれている。魔術で食い留めるのも限界だ」
大精霊の通達を受けて早五日。
事態解決のため、私は新たな禁呪を生み出した。
既存の術を組み合わせて改良することで、私の体調不良を治療することにしたのだ。
この部屋と私自身に刻み込んであるのは、その禁呪の術式である。
発動すると、身体を粉砕して自らの精神世界へ没入できる。
そこで元凶を排除するつもりだった。
願わくば、私に術をかけた相手の居場所を特定したい。
大精霊によれば、私の精神は外世界の獣に蝕まれているらしい。
自力では感知できないが、大精霊が言うのだから間違ってはいないだろう。
ユゥラにも意見を求めたところ、同じような結論が返ってきたので、精霊のみが感知可能だと思われる。
反動で全身が粉砕されるという性質上、此度の禁呪は生身だと絶対に使えない。
使役するアンデッドから蘇られる私だからこそ行使可能な術だった。
グロム達が心配する理由も分かる。
この五日間、彼らは私の苦しむ姿を目撃してきた。
術の反動についても伝えているため、穏便な策に変えたいのだ。
一方、静観していたローガンは平常通りであった。
彼はグロム達に意見を述べる。
「ドワイトが決めたのなら反対はしない。それが最良の策であるのも確かだ」
「俺もそっちの意見に賛成だな。まあ、大将なら大丈夫だろ」
酒を飲むヘンリーは気楽な調子で言う。
この二人は、私の力を完全に信頼していた。
此度の問題も、乗り切れるものと判断しているが故に反対しない。
私の身を案じるグロム達とは対照的だった。
無論、どちらの主張も、素直に嬉しいものである。
私はルシアナに言い聞かせる。
「術そのものは単純だ。失敗することはまずない」
「そこは心配してないんだけど……」
「私を信頼してほしい。必ず戻ってくる」
その時、扉が勢いよく開かれた。
厳重に立ち入り制限している中、堂々と入室できる者は一人しかいない。
その人物――先代魔王ディエラは、室内を見回して首を傾げる。
「なんじゃ。揃いも揃って討論しておるのか?」
ディエラは真っ直ぐと私のもとへ向かってきた。
彼女は正面に仁王立ちして話しかけてくる。
「ドワイトよ。己の内に潜り込み、未知の存在を滅すると聞いたが」
「そのための術を今から行使する」
私は頷いて応じる。
するとディエラは、冷徹な笑みを浮かべてみせた。
研ぎ澄まされた雰囲気は、殺気にも似た鋭さを帯びている。
他の者達が、無意識に身構えるほどだった。
彼女は椅子に座った私を見下ろす。
「別に乗っ取られても構わんが、その時は魔王軍を貰うぞ。ついでにお主も殺してやろう。覚悟しておれよ?」
「覚悟の必要はない。私は絶対に帰還する」
「ふうむ、良い心持ちじゃな! 結構、結構!」
途端に雰囲気を崩したディエラは、満足そうに手を打つ。
彼女は配下達に向けて話しかけた。
「お主らも湿っぽい空気を醸し出すな。まるで葬儀のようになっておるぞ」
「ディエラ様は心配じゃないの?」
「当たり前じゃ。この男は吾を二度も倒してみせた。むしろ殺せる方法を知りたいくらいじゃな」
ディエラは即答すると、私の肩に手を置いた。
彼女は真面目な調子で告げる。
「お主が留守の間、吾が面倒を見よう。安心して行くがよい」
「……すまない」
私はそれだけを返す。
ディエラのおかげで、場の空気は一つに固まりつつあった。
彼女の立ち回りには感謝する他ない。
私は椅子から立ち上がった。
室内の面々を見回すと、静かに宣言する。
「私が戻り次第、外世界の獣との戦争を始める。各自、準備を進めてほしい」