第154話 賢者は在り方を再確認する
引きずり込まれる感覚を前に、私は瞬時に飛び退く。
それでも危うかったので、剣を地面に突き立てて耐えた。
凄まじい吸引力だった。
厄介なことに、時間経過と共に強まっている。
私は亜神を見る。
破裂した彼の胴体には、穴が生まれていた。
その穴が、亜空間を吸い込んでいる。
亜神の身体は、よく見ると皮膚が裏返って出血していた。
徐々に穴へとめり込んでいる。
亜神は自らの肉体を触媒に空間の歪みを維持しているのだ。
自壊するのも厭わず、吸引を強行していた。
(瘴気に侵された挙句、私に空間魔術が通用しないと判断したのだろう)
正真正銘、これが亜神の最終手段であった。
残る力を振り絞って、私の殺害を決行しようとしている。
私は亜神に向けて雷撃や火球を連射する。
ところが、すべて穴に吸い込まれた。
穴は何事もなかったかのように吸引を続けている。
亜空間の各所に亀裂が走った。
吸引による負荷を受けて、破綻しかけている。
崩壊に巻き込まれると、私でも無事でいられるか怪しかった。
他にも拘束系の魔術や空間魔術による干渉、さらには禁呪も試してみるが、いずれも無効化される。
あの穴は、今までの空間魔術とは比べ物にならない。
もはや別物と言えよう。
亜神にのみ許された固有能力に近い。
彼が命を賭して発動しただけのことはある。
引きずり込まれると、無事ではいられない予感がした。
とは言え、放置もできない。
このまま亜空間を吸い尽くした場合、穴は本来の世界にも干渉するだろう。
亜神が死ぬまでに、一体どれだけの被害が出るか想像も付かない。
決して無視できる規模ではないのは確かだった。
(ここで食い止めなければいけない)
覚悟を固めた私は、剣を地面から抜く。
身体は宙に浮き、自ずと亜神のもとへと引き寄せられた。
(――どうか、私に力をお貸しください)
祈りなど許されない身と知りながら、私は心に強く想う。
万物を呑み込む空間の穴は、目前まで迫っていた。
間合いを見計らって、形見の剣を一閃させる。
渾身の斬撃が、僅かな滞りもなく穴を切断した。
その途端、吸引力が弱まった。
両断された穴同士が相殺しているのだ。
私は追撃を放つ。
形見の剣が亜神の心臓を貫き、そこから勢いよく跳ね上がった。
刃が亜神の心臓肩口から抜けていく。
「ア、ァ……っ」
亜神が声を洩らす。
濁った瞳は、私を見つめていた。
割れた片目も同様にこちらを見ている。
そこに感情は窺えない。
彼は、ただ一筋の涙を流した。
剣の軌跡に沿って、亜神の上体が縦に裂けていく。
それに従い、穴の吸引が再開した。
穴は亜神の肉体を優先的に喰らい始める。
私が止めを刺したことで、完全に暴走したようだ。
噴き出した亜神の血は、すぐさま穴へと逆流していった。
肉と骨が音を立てて千切れ、裏返った末に穴へと消えていく。
亜神の体積が減り、次第に人間の形を失いつつあった。
私はその一部始終を見守る。
やがて亜神は全身が吸い込まれて、穴だけが残された。
術者の死により、穴の維持力は急速に衰え、持続時間は大幅に減少している。
この亜空間は吸い尽くすだろうが、本来の世界には進出できないはずだ。
壮絶な最期を見届けることになったものの、ひとまず目的は達成した。
(私も抜け出さなくては……)
亜神を倒したというのに、道連れで殺されては洒落にもならない。
幸いにも脱出方法は既に考案済みだった。
私は空間魔術を発動し、それを形見の剣に乗せて振るう。
斬撃が空間を切り裂いて、そこに隙間をこじ開けた。
しかし、すぐに修復して閉じようとする。
私はそこに跳び込んで、亜空間の外へと抜け出す。
間に合わなかった下半身が裂け目に挟まれた。
抗うこともできずに身体を切断され、無様に地面を転がる。
生身なら致命傷だが、私は不死者だ。
瘴気で下半身を生成して事なきを得る。
(間一髪だったな……)
私はゆっくりと立ち上がる。
荒野には夜明けが訪れていた。
必然的に朝日を浴びることになり、身体が痛む。
生傷に塩を塗り込まれるような感覚だ。
もっとも、今の私にとっては些事に過ぎない。
私は辺りを見回す。
亜神の痕跡は、何一つ残されずに消失していた。
吸引する穴も出現していない。
これといった異変は感じられず、ただ空虚な荒野だけがそこにあった。
(彼は間違いなく死んだようだ)
亜神は正義を全うした。
改めて振り返ると、恐るべき人物だった。
徹底した信念には賛同こそできなかったが、彼の正義を貫く気持ちは、紛れもなく本物であった。
そう、亜神は世界平和を望んでいた。
大まかな目的は、私と同じはずなのだ。
(どうしてこうも違う道を歩んでいるのだろう)
自らに問いかけるが、考えるまでもない。
私と亜神では、見てきたものが異なる。
片や私は、あの人と共に巨悪を討ち倒し、その先にある世界を目にした。
対する亜神はまだ何も見ていない。
彼は正義を執行する最中であった。
この差は大きく、埋めがたいものだ。
ただの正義では不十分だと知った私は、不滅の悪になることを決意した。
言うなれば妥協だ。
これが最良の選択ではないと分かっていながら、世界平和という道だけは諦め切れなかった。
だから別の側面から徹底することにした。
その点、亜神は一貫して正義のために奔走している。
彼は人々を信じた。
眼前に立ちはだかる悪さえ滅ぼせば、世界はより良い方向へ進むのだと考えていた。
とても眩しい姿である。
今では絶対に真似できない。
まるで生前の自分を見ているようだった。
亜神は無念だったろうが、私から見れば幸福だと思う。
なぜなら、自らの信念が間違っていると知らないままでいられたのだ。
彼は深い絶望を味わうことなく、悪に立ち向かった者として死ねた。
後世において、亜神は悲劇の英雄として語られるはずだ。
彼も本望だろう。
私は知っている。
亜神は、心の奥底で功績を求めていた。
わざわざ宣戦布告をした上で、日時を指定して決闘を申し込んできたのだ。
私を殺すだけなら、そのようなことをする意味はない。
暗殺の機会はいくらでもあった。
それをしなかったのは、後世に名を残したかったからだろう。
亜神は人々を救う英雄になりたかったのだ。
その想いは、決して悪いものではない。
無名の魔術師が求めた、かけがえのない願いだ。
彼はその身を犠牲にしてまで、世界の敵に挑んできた。
どこまでも高潔な精神と言えよう。
(今の私とは正反対だな)
あちこちが朽ちた骨の身体を見て、自嘲する。
胸中にざわつくものを感じた。
おそらく自己嫌悪ではない。
これは羨望だろう。
正義の英雄として死んだ亜神に、私は少なからず憧れを抱いていた。
(過去の選択の果てに、今がある)
私は幾度も過ちを犯した。
何かが少しでも違えば、このようなことにはならなかったのだろう。
魔王へと至らなかった未来もあったのかもしれない。
しかし、いくら悔いても仕方のないことだ。
現実として、今を生きていかなくてはならない。
私が進むべき道は、ただ一つ。
あらゆる正義に打ち勝つ不滅の悪で在り続ける。
それだけに尽きるだろう。
悩みがちな身としては、分かりやすくていい。
――こうして私は、亜神を殺したのであった。