第153話 賢者は理想を否定する
亜神は地面に蹲っている。
悶絶する彼は、私に斬られた箇所を必死に接合していた。
止血を試みているが、あまり上手くいっていない。
断面からは血が滲み出ている。
(術が不安定だ。さすがに限界か)
私は亜神の魔力量からそう判断する。
これまでの無理な戦いにより、彼は空間の操作に支障を来たしていた。
いくら抜群の適性があるとは言え、無尽蔵に術を使えるわけではない。
人間である以上、必ず限界がある。
亜神はその限界をとっくに超えていた。
いつ気を失ってもおかしくないはずだった。
それでも懸命に治療を続けていられるのは、ひとえに執念によるものだろう。
彼は、まだ勝利を諦めていない。
亜神のそばに着地した私は、剣を携えて近付いていく。
相手は満身創痍だが、決して油断はできない。
追い詰めた英雄ほど未知数の力を発揮する。
それは亜神も例外ではあるまい。
亜神が顔を上げてこちらを睨んだ。
割れた片目は、真っ赤に染まっている。
「私、が……半端だと、いうのか」
「そうだ。覚悟が足りていない」
私は冷徹に言葉を返す。
亜神の在り方は、何もかもが無責任だった。
悪と断じた者を殺して自らも死ぬ。
あとは何もかもを放り出し、残された人々に丸投げする。
彼自身の気は楽だろう。
後先を考えず、信念だけを胸に戦うだけだ。
何の憂いも無く巨悪と対峙できる。
もっとも、それは自己満足に過ぎなかった。
根本的な解決とは程遠い。
「悪を倒せば、平和が訪れる。それだけ単純な構図ならば、どれほど幸福だったか。残念ながら、現実はそこまで甘くない」
「く……ッ」
歯噛みする亜神が目付きを鋭く。
空間の歪みが私の胴体に生まれようとしていた。
それを察知した私は、半身になって歪みを切断する。
空間的な破壊現象は失敗し、魔力が霧散した。
私は剣を下ろして告げる。
「既に術式は覚えた。同じ手は通用しない」
私は賢者だ。
同じ魔術を何度も受ければ、対処の仕方も分かる。
既に効率の良い破壊方法を確立済みだった。
亜神の空間魔術については、目視するまでもなく剣で切断できる。
「先駆者として断言しよう。人々の自浄作用など、期待しない方がいい。お前の死後に行われるのは、醜い利益の奪い合いだ。そこに平和は存在しない」
「黙れッ!」
亜神は片手を振りかぶった。
私は術が発動される前にその手を切断していく。
落下した腕は、数百に分割されて原形を留めていなかった。
接合はまず不可能だろう。
「く、ぐうぅ……」
亜神が呻く。
断面から鮮血が溢れ出していた。
これで彼は、両腕を失った。
攻撃の手は限られて、術も満足に使えないはずだ。
私は亜神の首に刃を添える。
「ここで眠れ。世界に絶望するのは、私だけで十分だ」
「……っ」
亜神がしつこく術を練ろうとする。
しかし空間操作は失敗し、彼は痙攣した後に倒れた。
その口から血がこぼれる。
血はどす黒く変色していた。
亜神は立ち上がろうとするも、足腰に力が入らず倒れ込む。
彼の身体は、徐々に腐敗を始めていた。
皮膚に斑点が浮かび、そこから崩れつつある。
それに気付いた亜神が目を見開く。
「何、を……っ!?」
「瘴気の毒だ。お前の肉体を蝕んでいる」
ただし、瘴気を仕込んだのは私ではない。
最初に戦っていたグロムの仕業だ。
彼は、亜神の腕を切断した際に瘴気を混入させたのである。
微量のために効果の表面化が遅れたが、代わりに察知されずに侵蝕することができた。
自らの力が及ばないと知りながらも、グロムは可能な範囲で成果を出していたのだ。
ここまでの問答は、言わば時間稼ぎのようなものだった。
瘴気の混入に気付いた私は、その効果が表れるのを待っていたのである。
目論見は見事に成功した。
亜神の主義主張に興味があったのも事実だが、あくまでも時間稼ぎのついでだった。
もし途中で瘴気に気付かれていれば、会話を中断して攻撃していただろう。
亜神はグロムを過小評価していた。
私との決戦ばかりを意識するあまり、致命的な見落としをしてしまった。
もし最初からグロムを見くびっていなければ、瘴気を仕込まれることもなかったはずだ。
「なるほ、ど……確かに私は、死ぬ、ようだ……」
亜神が緩やかに息を吐く。
横たわる彼は、黒い血を吐きながら虚空を眺めていた。
全身の力を抜いて、目を薄く閉じている。
そのまま息を引き取るかと思いきや、彼は力の限りに吼えた。
「――しかし、貴様も道連れだ」
次の瞬間、亜神の胴体が破裂した。
そこに穴が生まれ、空間が大きく歪む。
辺り一面が軋んでめくり上がっていく。
穴は、亜空間そのものを吸い込み始めた。