第132話 賢者は世界樹にて遭遇する
その日の深夜、私は一人で世界樹のもとを訪れた。
水晶の花畑と雄大な世界樹を前にする。
涼やかな風を受けながら、私は何をするともなく佇んでいた。
少し前に宴は終了していた。
非常に楽しい時間で、配下達も満足していたと思う。
現在は大半が酔い潰れて眠っている頃だろう。
今は放っておく。
帰還するのは昼頃でいい。
気持ち良く寝ている者達を起こすのも無粋である。
別に急ぐこともない。
何かあれば、私が急行するだけだ。
私は世界樹を見上げる。
世界樹は、果てしない威容を誇っていた。
自らが矮小な存在であると痛感させられる。
(エルフ達がこの地を守護し続ける理由がよく分かる)
世界樹は決して侵してはならない存在なのだ。
欲に駆られた者が触れるのは、冒涜に近い行為である。
世界樹は信奉の対象にもなり得るものだった。
現在は建前上は私のものとなっている。
世界樹の森とそこに暮らすエルフ達は、魔王の手に陥落したためだ。
無論、実際は私物化するつもりはない。
今後も管理はエルフ達に任せるつもりであった。
ただし外敵からの防衛は私の役目である。
この地を狙う国も多い。
以前までは帝国のせいで手出しできなかったが、今は魔王領の隷属地だ。
世界を救うという名目で堂々と侵攻が可能となっている。
魔王領の強化や安定だけでなく、この地の守護も徹底していきたい。
具体的な設備も増強も視野に入れて考えていると、不審な気配を察知した。
私はすぐさま精神を集中する。
そして驚愕した。
「こ、れは……っ」
何者かが、森に張った結界を破壊して侵入しようとしていた。
常時展開している防御魔術も、次々と破られていく。
私は咄嗟に結界と防御魔術を増強する。
しかし、いずれも無効化された。
極度の負荷に耐え切れず、結界が崩壊を始める。
単純な攻撃による破壊ならば、ここまで容易に対策されるのはありえない。
私の防御を瞬時に穿つには、それこそ常識外の力が必要となる。
おそらく相手は特殊な術を使用している。
ここで搦め手とは、厄介極まりなかった。
(守護すると思った矢先にこれか……)
感じ取った魔術から、私は相手の能力を大まかに特定する。
どうやらこれは、空間魔術らしい。
相手は転移で森に侵入するつもりのようだ。
私はすぐさま転移阻害の術を行使する。
相手の侵入を妨げようと出力を引き上げた。
「……くっ」
一瞬の拮抗を経て、私は対抗用の術が失敗したことを悟る。
相手が滑り抜けていったような感覚があったのだ。
この段階にまで至ると、術による妨害もできなかった。
空気が軋む音を経て、背後の茂みに何かが落下する。
草木を揺らして出てきたのは、褐色肌の男だった。
上半身が裸で、その肌には青い術式がびっしりと刻み込まれている。
頭の動きに合わせて白い蓬髪が揺れた。
伸びた前髪の隙間から、濁った双眸がこちらを見ている。
男は身体に付いた葉や枝を払い落とした。
一つ呼吸をすると、彼は落ち着いた声音で呟く。
「――驚いたな。座標が大幅にずれてしまった。さすがは魔王だ」
「お前は誰だ」
私の問いに対し、男は白髪を掻く。
無防備な立ち姿だが、目だけは冷徹に私を観察している。
底知れない眼力だ。
強い感情は窺えないものの、瞳の奥には何かが渦巻いている。
男は淡々と答えを述べる。
「名乗るほどの者ではないが、周りからは"亜神"と呼ばれている。神に至る者の総称だそうだ。この身には余る呼び名と思うがね」
「亜神……」
私は男の言葉を繰り返す。
亜神という単語については、ある程度の知識を持っている。
頻度は少ないものの、神話や英雄譚で登場していた。
神に至る者、或いは神になり損なった者達を指す。
共通点として、亜神は超常的な力を保有している。
どういった物語においても、圧倒的な能力を披露するのだ。
もっとも現実には、本当の意味での亜神は存在しない。
あくまでもその隔絶した強さを称え、畏怖するための表現に過ぎないのである。
識者の間でもそういった解釈で、私も同じ考えだった。
だが、目の前の亜神を名乗る男は、そういった次元ではなかった。
私の阻害を打ち破って侵入を果たした能力は、明らかに人智の領域を超えている。
空間魔術という一点に絞ると、魔王の私すら凌駕していた。
(……単純な出力では私が勝っていた)
それを男は、奇蹟的な技量と適性で乗り越えてきたのだ。
空間魔術は使い手自体が少ない。
これほどまでの術者は、前代未聞だった。
亜神と言われても納得できるほどである。
私は警戒心を緩めずに問い詰める。
「そのような者が、なぜここに来た」
「もちろん魔王を殺すため……と言いたいところだが、ここは駄目だ。被害が大きすぎる。世界樹の森やエルフ達に迷惑をかけたくない」
男は辺りを見ながら言う。
存外に良心的な回答だった。
嘘や冗談の類ではない。
男はそれを本気で言っている様子だ。
相手の正体は不明だが、破壊を好まない性格らしい。
ただし、私を殺すつもりではある。
つまり英雄の一人だ。
戦乙女や鋼騎士の他にも、このような者がいたとは予想外であった。
密偵が情報を得ていないということは、覚醒したばかりか極秘で誕生していたのだろう。
何にしろ、無視できない存在である。
私が思考を巡らせる一方で、男は自然体で話を続ける。
「今日は宣戦布告だけが目的だ。いずれこちらから決闘を申し出る。それを受けてほしい」
「断ったらどうする」
「魔王領に無差別攻撃を開始する。罪のない民衆を虐殺するのは心が痛むが仕方ない。これも大儀のためだ」
男は変わらない口調で宣言した。
ただの脅しではない。
この男は、実際に虐殺を行うだけの覚悟を持っていた。
狂気の為す行動ではない。
尋常でない精神力の賜物だ。
深い感情を抑制し、目的意識だけを先行させている。
今までに見なかった系統の人間だった。
英雄の中でも異質だろう。
大義のために悪逆を為そうとしている。
それは、現在の私を彷彿とさせる主義だった。
胸の疼きを感じつつ、私は男に尋ねる。
「今日はここを立ち去るつもりか」
「如何にも。日と場所を改めたいと考えている」
男は平然と答える。
直後、私は無数の術を行使した。
地面から生えた蔦が、男の四肢に巻き付く。
宙に発生した空気の刃が、数百枚に分裂して男を包囲した。
増幅された重力波が男を襲い、足首まで地面に陥没させる。
その間、男はされるがままだった。
特に慌てる様子もなく、こちらをただ眺めている。
超然とした態度であった。
術を発動したまま、私は男に語りかける。
「――みすみす逃がすと思うか?」
「逆に訊くが、ここで我々が戦うことになってもいいのか。被害は大きいぞ。隷属地が更地になりかねない。こちらの実力は理解しているはずだが」
「…………」
私は無言になる。
男の指摘は正論だった。
この場で戦闘が勃発するのは、私としても望ましくない展開なのだ。
相手は尋常でない力を持っている。
きっと周囲に気を配って戦うほどの余裕はなかった。
空間魔術の使い手は、絶大な破壊力を有する。
効果範囲も基本的に広い。
男ほどの術者にもなると、倒し切る前に世界樹の森が滅びてしまうだろう。
それを分かっているからこそ、男は私が攻撃できないと踏んでいる。
「…………」
相手の考え通り、私は術を解除した。
手足の調子を確かめながら、男はこちらを一瞥する。
「安心しろ。無駄な殺生はしない。魔王軍の解体だけを目的としている」
「解体だと」
「それが正義だと考えている。だから実行する」
男はやはり平坦な調子で述べた。
一瞬、その眼差しに強烈な執念が覗く。
目的を遂行するための固い意志だ。
しかし、それはすぐに隠れてしまった。
男はこちらに背中を見せると、そのまま茂みの中へと分け入っていく。
「再会した暁には、どちらかが死ぬ。それを忘れないでくれ。では失礼する」
一方的に告げた男は、茂みを揺らしながら奥へと進む。
私はそこに追い縋って茂みを漁る。
男の姿は、忽然と消えていた。