第119話 賢者は配下の善意を受ける
「お前は魔王であり続けることに躊躇いを覚えているのか」
ローガンが疑問を呈する。
私は首を振ってそれを否定した。
「違う。それはない」
これは本音であると言い切れる。
私は思考を振り返りつつ、少しずつ言葉を口にする。
「平和を目指すこと自体に迷いはない。世界最後の魔王として、これからも悪逆非道を尽くすつもりだ。ただし、私個人の願望を叶えることについては、判断が揺らいでいる」
半年前から漠然と抱いていたことだった。
いや、本当はもっと前からなのだろう。
私が見ないように蓋をしていただけであった。
それが表面化して疑問となり、私の前に立ちはだかったのだ。
遅かれ早かれ直面する問題だったに違いない。
ローガンは夜を迎えた空を眺める。
彼はやがて口を開いた。
「世界の行方と自分自身。どちらを優先すべきか選べないというわけだな」
「……そうだ」
私は自己嫌悪を抱きながら頷く。
はっきりと言えばその通りだ。
私はどちらか一方だけを選べない。
色々と考えはあるものの、根本的にはそういうことである。
煮え切らない愚者そのものだった。
それを自覚した私は脱力し、だらりと空を仰ぐ。
人間の頃なら、乾いた笑いの一つでも洩れたところだったろう。
「情けないだろう。圧倒的な暴力で国々を滅ぼしておきながら、そのようなことで悩んでいるんだ。笑いたくもなる」
「…………」
ローガンは無言を保っていた。
彼の目は、ひたすら遠くを見つめている。
別に慰めを求めているわけではない。
構わず自嘲を続けた。
「私は、魔王になった時から覚悟を固めたつもりだった。しかし、実際は半端だったのだ。世界平和にすべてを捧げた気になっていた。あの人と再会したい。彼女の意志は私が受け継いだのだと伝えたい。魔王軍の配下達を紹介したい。考えてみれば願望だらけだ」
思い返すと、未熟な面がありありと浮き上がってくる。
不死者になっても切り離せなかった感情だ。
私はまだ未練を抱えている。
我ながら本当に浅ましい。
ともすれば呪いたくなるほどだった。
しかし、心の内に生じた想いは否定できない。
紛れもなく私自身の気持ちである。
「私は、あの人の物語を悲劇で終わらせたくない。あまりにも残酷だと思わないか? 私は未だに認めたくないのだ。力を尽くした勇者の末路が処刑なんて、絶対にどうかしている」
死者の谷で抱き続けた衝動を吐露していく。
誰にも言えなかった本音が、堰を切ったかのように溢れてきた。
それに気付いた私は、少し肩を落とす。
言うべきことではなかったというのに、何もかもを喋ってしまった。
暫しの沈黙を経てローガンに謝る。
「……すまない、感情が入りすぎた。これでは魔王失格だな」
「俺はそう思わん」
今まで黙っていたローガンが即座に発言した。
その言葉からは、断固とした考えが感じられる。
彼は半ば睨み付けるようにして私の顔を見た。
「お前が抱えるのは、軽率に決められない悩みだ。即決できるようなものではない」
「しかし私は――」
「もしお前が魔王の在り方に妄執しているのなら、一切合切の蘇生術を許さないだろう。もしお前が本当に優柔不断なら、迷うことなくクレアの蘇生を望み続けるだろう」
ローガンは私の反論を許さずに言葉を紡いでいく。
鬼気迫る雰囲気だった。
「決断を躊躇い、自らを省みている。それこそがお前の人間性であり、悩みに対する答えだ。半端と表現すれば悪く聞こえるが、俺はそれを望ましいと考える」
「私の人間性……」
ローガンの言葉を反芻する。
胸中に染み込んでいくような感覚があった。
「こうして悩む機会ができたのは、お前にとって良い傾向だろう。状況が安定したことで見えてきた問題だ。確実に前進している。不死者の身でありながら、何を焦る必要がある。悠久の時を過ごす中で、お前なりの決断を下せばいい」
「しかし、判断の先送りは後から問題を――」
「ドワイト・ハーヴェルト。何事も律儀で生真面目すぎる。昔からの悪い癖だ」
ため息を吐いたローガンは、呆れを隠さずに言う。
先ほどまでに比べて口ぶりが少し軟化していた。
旧友に対するそれだった。
「もう少し柔軟に物事を捉えろ。己の中で折り合いを付けるのだ。それを得意とする部下が何人もいるだろう。彼らを見習え。見習うのが難しいのなら、まずは相談しろ。一人で抱え込むな。お前の世話を焼きたい者は何人もいる……無粋にも盗み聞きをするほどにな」
そう言ってローガンが背後を見やる。
私はそれに倣って振り向いた。
屋根の陰から、三つの顔が覗いていた。
右から順にディエラ、ルシアナ、グロムの三名である。
私達の視線を受けて真っ先に声を上げたのは、跳び上がったディエラだった。
「ぬおっ!? 思い切り見つかっておるではないかっ」
「ちょっと骨大臣っ! アンタの鼻息が荒いせいでしょ!」
続けてルシアナが抗議した。
名指しされたグロムは、高速で顎骨を鳴らしながら反論する。
「愚か者め! 我は呼吸などせぬわっ! それを言うなら、貴様が物音をさせたせいだろう!」
三者三様の反応である。
場が途端に騒がしくなってしまった。
「お前達……」
私は言葉を失う。
あまりに気が動転していたのか、彼らの潜伏にまったく気付いていなかった。
ここまで感知できないとは、よほど心が乱れていたらしい。
一体いつから話を聞かれていたのだろう。
尋ねたくなるも、それを訊ける状況ではなかった。
「ま、魔王様! これは違うのですぞ! 我は不埒にも盗み聞きをする先代とサキュバスを咎めに来ただけでして……」
「グロムよ! 嘘を言うではないっ! 吾がここへ着いた時、お主は既に隠れていたではないか! 最も批難されるべきはお主じゃぞ!」
「そうよそうよ! さっきまで玉座を磨きながら挙動不審だったくせに!」
肝心の三人は、見苦しいやり取りを繰り広げていた。
ローガンに至っては、肩をすくめてため息を吐いている。
もはや呆れ返っている様子だった。
真面目な話ができる流れではないと察したのだろう。
やがて場の空気が落ち着いたところで、ディエラがこちらへやってきた。
頬を掻く彼女は、少し照れ臭そうに告げる。
「その、なんじゃ。吾のような女でも魔王ができたのじゃから、お主が気に病むことなどあるまい。もっと自信を持つとよいぞ!」
次にルシアナが歩み寄ってきた。
彼女は胸を張って微笑んでみせる。
「ディエラ様の言う通りよ。魔王サマは考え過ぎよねぇ。もうちょっと緩い心構えでもいいんじゃない? 失敗しちゃった時は、アタシが助けてあげるから」
最後にグロムだ。
温かな雰囲気を帯びる彼は、私の前で静かに跪いた。
「我々は、いつでも魔王様の味方ですぞ。遠慮せず頼って下され」
「――感謝する」
三人の言葉を受けた私が言えたのは、それだけだった。
他に気の利いたことも思い浮かばなかった。
(骨の身で良かったな……これ以上の醜態を晒すところだった)
私は胸中で安堵する。
心の枷が軽くなったような気がした。