第117話 賢者は研究所の地下へ赴く
その日の午後、私は一人で研究所に赴く。
定例の進捗確認だ。
報告書は届いているが、やはり実際に見てみるのがいい。
入口を抜けたところには、白衣を着た所長が待っていた。
彼女は深々と礼をする。
「魔王様、ようこそお越しくださりました! 心からお待ちしておりましたよ!」
「ご苦労。いつも忙しい時期にすまないな」
私がそう言うと、所長は大袈裟に首を手を振る。
「いえいえ、とんでもありません! 魔王様には多大な恩がありますから、これくらいはお手伝いさせてください。それにこんな身体を貰っちゃいましたから、不眠不休でも大丈夫ですしねっ!」
所長は誇らしそうに胸を張った。
そんな彼女の両脚は、膝から下が透けている。
実体が曖昧で、肌も若干ながら青白い。
不健康という段階を超えていた。
外見から分かる通り、所長は人間を捨てた。
変貌した種族はファントムだ。
アンデッドの中でも霊体系統に属しており、種族的な強さは中位から上位だった。
個体によっては、多数の霊体を使役して縄張りを作るような存在である。
単独でもそれなりの強さを持っている。
実を言うと、これは望んだ結果ではなかった。
当初の予定では、彼女は自我を持つ特殊個体のゴーストにするつもりだった。
同じ霊体ではあるが、ゴーストの方が遥かに一般的だ。
力はそれほど強くないものの、 研究職の彼女には関係ない。
手軽かつ確実に変貌させられる点もいい。
肉体を捨てるので疲労や睡眠は無縁となる。
部分的な実体化も可能なので、研究に支障が出ることもない。
まさに理想の種族と言えよう。
そうして私は、所長にゴースト化の術を行使した。
術は滞りなく成功した。
ところが彼女は、なぜかファントムに変貌してしまった。
私の手違いなどではない。
後で何度も確認したが、術の失敗ではなかった。
それにも関わらず、予想とは異なる結果となった。
様々な可能性を考えた結果、私は一つの仮説を打ち立てた。
辿り着いたのは、所長の精神性が原因という線である。
彼女の研究に対する執着が、アンデッドとしての存在を引き上げたのだ。
強い想念は、魔術に強く作用する。
肉の身体を捨てた霊体ともなれば、それがより顕著になる。
他に原因も考えられない。
前々から彼女の研究者気質には驚かされてきたが、まさかこれほどとは思わなかった。
何にしてもファントムに変貌したことは悪いことではない。
種族的には上位に相当する。
ゴーストと比べて劣る点も特になかった。
「人間ではなくなったことで不便はないか?」
「それが全然ないんですよねぇ。食事と睡眠ができなくなりましたが、ずっと面倒にしか思ってませんでしたし。この姿になってから作業効率が跳ね上がって、実験中の事故で怪我もしなくなったので良いこと尽くめですよっ!」
低空浮遊する所長は、早口で喋りながら辺りを徘徊する。
その際、入口付近に差す日光が彼女を掠めた。
悲鳴を上げた所長は、大袈裟に転がりながら研究所の奥へと消えていく。
その光景を、他の所員が迷惑そうな顔で眺めていた。
(霊体系のアンデッドである以上、日光は苦手らしいな)
とは言え、ファントムならば即座に消滅することはない。
命を脅かすほどの影響はないので、心配せずともよいだろう。
所長は人間の頃から日光が苦手そうだった。
日頃から外出を嫌い、ずっと引き篭もっていたいと嘆いていた。
そういう意味では、今の状態と大差ないと思う。
少し呆れつつ、私は研究所の中へと入った。
直射日光から復帰した所長が、すぐに先行する位置に移った。
彼女は私に尋ねる。
「ところで本日は、やはり例のアレを見に来られたのですかね?」
私は彼女の質問を理解する。
特に隠すことでもないので首肯した。
「そうだ。特に問題は起きていないか」
「ええ、大丈夫です! きちんと監視していますからね。何か異常があれば、すぐさま警報が作動するようにしておりますよ」
所長は不敵な笑みを湛える。
気取った調子の彼女は、眼鏡を指で動かした。
眼鏡は既に不要のはずなのだが、所長はなぜか身に着けている。
白衣も同様だ。
所長なりのこだわりなのかもしれない。
私達は研究所の地下五階に移動する。
この半年で新設された場所だ。
着々と拡張されており、地上階や別の棟も増えている。
今や王都随一の施設と化していた。
いずれ魔王城すら抜かすのではないかという勢いである。
所長は何重もの施錠を解放して奥へと進んでいく。
私はそれに追従する。
やがて最後の扉が開かれた。
あまり広くない部屋の中央には、固定されたガラス容器が設置されている。
所長は入口で足を止めた。
「どうぞご確認ください」
私は頷いて室内へ踏み込み、ガラス容器の中を注視する。
幾重もの結界で封じられたそこには、黒い水のような物質が浮かんでいた。
黒い物質は、容器の中を不規則に蠢いている。
これは元四天王バルクの魂だった。
密かに蘇ろうとしていた彼を私が殺したのだ。
破壊した魂は、またもや修復しかけている。
そのため私が寄せ集めて封印したのであった。
なかなかの手間だったが、さすがに放っておくわけにはいくまい。
現在は絶えず魂を破壊することで、修復を防ぐと同時に自我の崩壊を促している。
容器に封じられたバルクは、残留思念のようになっていた。
おそらく何も考えられなくなっている。
それにしてもバルクの執念には驚嘆させられる。
二度の死を自力で乗り越えようとしていた。
もし私が妨害しなければ、数年後に復活を遂げていただろう。
彼は紛れもなく超人だ。
私への復讐と、魔王軍の復活だけを目指して生きている。
その強靭な意志には、恐ろしさを感じざるを得ない。
この部屋は、バルクの魂を常に観測している。
監視する一方で、魂の修復の仕組みを解析しているのだ。
今までにない系統の蘇生技術を生み出すのが目的であった。
魂を破壊された状態からの蘇生など、とんでもない偉業である。
それを再現できれば、様々な場面での活用が望める。
停滞した研究に一石を投じてくれるはずだった。
観察を終えた私は部屋を出る。
扉を施錠した所長が私に尋ねてきた。
「もういいのですか?」
「ああ、確認は済んだ。十分だ」
私達は来た道を戻る。
途中、所長が饒舌に語り始めた。
「魂の修復術ですが、まだ体系化するのは厳しそうですねぇ……適性の問題もありますし、解析がちょっと足りていない状況です。あの魂の固有能力って感じですね」
「難航しているようだが、嬉しいのか」
「はい、それはもう! 研究のし甲斐がありますからねぇ! 俄然張り切ってしまいますよ。人間のままだったら、とっくに過労死してますねっ!」
所長は満面の笑みで親指を立てる。
彼女の場合は冗談になっていない。
一時期は本当に過労死寸前だった。
その状態でも研究に没頭していたのだから、改めてアンデッド化して良かったと思っている。
暫し嬉しそうにしていた所長だが、何かに気付いてばつの悪そうな顔をする。
彼女は慌てて私に頭を下げてきた。
「あ、でも魔王様からすれば解析の難航は駄目ですよね、すみません!」
「いや、構わない。どれだけ困難であるかは分かっている。焦らず気ままに進めてくれ。その辺りの裁量は任せる」
私がそう告げると、所長は硬直する。
彼女は突如として全身を震わせ始めた。
「あ、あああ、ああ……」
所長は途切れ途切れにうわ言を洩らす。
明らかに正常な姿ではない。
突然の奇行を訝しんでいると、所長は私の前でいきなり平伏した。
頭部を床下まですり抜けさせながら、彼女は声を張り上げる。
「ありがとうございますぅっ! もう本当に、嬉しいです! 誠心誠意、死ぬ気で頑張らせていただきますねっ、はい!」
「……そうか」
呆気に取られた私は、気の利いた言葉を返せなかった。