第1話 賢者は復讐を始める
晴れ空の下、私は断崖絶壁に立っていた。
視線を少し落とせば、漂う瘴気の霧が一面に望める。
底は見通せないが、かなりの高さがあることは知っていた。
ここは死者の谷と呼ばれる場所だ。
私はその縁に立たされている。
すぐそばには、私にとって大切な人がいる。
過酷な使命を共に切り抜けた仲間であり、唯一無二の憧れだ。
私の隣に並ぶ彼女は、勇者であった。
かつては太陽のように温かな笑みを浮かべていたが、今は陰りと諦めを滲ませている。
その事実に胸が痛むも、私には何もできない。
無力な自分を再認識するばかりだ。
「邪悪なる化け物めッ! よくも裏切ったな!」
「よくも戻って来れたものだ! この外道共が!」
「お前らは国の恥だ! 早く死んじまえ!」
自己嫌悪に苛まれていると、無数の罵倒が浴びせられた。
私は視線を背後に移す。
そこには民衆が立ち並んでいた。
ざっと数えても百は下るまい。
彼らは口汚い言葉を私達に投げながら、容赦なく石を投げつけてくる。
石は背中や頭に当たり、鈍い痛みを与えてきた。
「……っ」
私は歯を食い縛って耐える。
隣に立つ彼女が我慢しているからだ。
膨れ上がる感情を懸命に抑える。
投石を受ける中、私は手足の枷を意識する。
枷は魔封じの力を秘めていた。
この拘束具のせいで、私は魔術を使うことができない。
賢者とまで呼ばれた過去の栄光や実績など関係なく、今はひたすらに無力な男であった。
その事実に情けなくなる。
「――静粛に!」
非情な現実を噛み締めていると、鋭い声が場を打った。
それに合わせて民衆の罵倒と投石が止まる。
私は小さく息を吐く。
民衆からやや離れた地点に、上等なローブを纏う初老の男がいた。
彼はこの国の宰相である。
胸を張って立つ宰相は、掲げた羊皮紙の内容を読み始めた。
「勇者クレア・バトン。賢者ドワイト・ハーヴェルト。これすなわち、世界を闇に沈めんとする魔王を討伐した者の名である。この二名は稀代の英雄であり、人類の英知を象徴する存在――だった」
そこで言葉を切った宰相。
次の瞬間、彼は目を見開いて叫ぶ。
「しかし! かつての英雄の魂は腐り果てたッ! 両名は次代の魔王となり、世界を混乱の渦に落とそうと画策したのだ! よって我々は、この二人を死者の谷へ追放せねばならんッ」
「それは違う!」
私は思わず反論する。
怒りのあまり、反射的に声を上げてしまったのだ。
民衆の視線が私に集中する。
そこに少なくない憎悪を感じた。
拘束された手足を煩わしく思いながら、私は身体をひねって民衆の方を向く。
「私達が次代の魔王など、そんなわけがない。誰かの陰謀だ。私達は魔王を討伐しただけだ。ただ世界を救いたかっただけで――」
「嘘をつくな! お前達は悪魔だッ」
「信じていたのに! なぜ裏切ったんだ!」
「さっさと死ね! 死体に糞を撒いてやる!」
再び罵倒の嵐が訪れた。
私の必死の訴えは、たちまち掻き消される。
何を言おうと意味がない。
それを悟るには十分すぎる光景であった。
私が深い絶望に浸っていると、再び場に静寂が漂う。
人々の視線は、宰相のそばへと向いている。
そこに立つのは赤いマントを羽織り、王冠を被る男だ。
不遜かつ品位を漂わせる雰囲気は忘れもしない。
灰色の髪と立派な髭を蓄えるのは、この国の王である。
私達に魔王討伐を命じた張本人だった。
「残虐非道なる魔王の手先めが。英雄として称えた儂が間違っておった」
国王は私達を一瞥して、吐き捨てるように述べる。
それを皮切りに、民衆の罵倒と投石が再開した。
国王も宰相もそれを止めない。
私達は、それを為す術もなく受け続けるしかなかった。
訴えが届かないことを理解した私は、民衆に背を向ける。
説得や真実の主張には、欠片の効果もない。
皆が私達を悪と断じており、少しも疑っていなかった。
視線を地面に向けたまま、私は隣の彼女に呟く。
「……勇者様、逃げましょう。私とあなたなら可能なはずです」
「いけません。私は世界の平和を望みます。私という犠牲でそれが成り立つのなら、甘んじて受け入れましょう」
返ってきた言葉は、私が望むものではなかった。
彼女は目を閉じて首を振っている。
その顔を一筋の血が流れ落ちた。
頭に当たった石によるものだ。
私は呆然と彼女を見つめる。
「勇者様……」
「命が惜しいのであれば、貴方だけでも逃げればよかったのです。彼らは魔王殺しの勇者を恐れています。貴方が行方をくらませても、躍起になって捜索することはなかった」
彼女は辛辣な口調で言う。
その横顔に沈痛な色を垣間見た。
とても苦しそうだ。
(違います。私はあなたと共に生きたかった……)
喉元までせり上がった言葉を飲み込む。
今更、何かを告げる資格はない。
すべてが手遅れなのだ。
どうしようもない状況であった。
「ドワイト」
「……何でしょうか」
「巻き込んでしまってごめんなさい。そして、こんな私と並んでくれてありがとう」
「いえ、感謝したいのは私の方です……」
目が熱くなるのを感じながら、私は辛うじて答える。
どうしても声が震えてしまう。
視界が歪み、その場に崩れ落ちそうになった。
それを意志の力で止める。
彼女の言葉を反芻し、心の中でしっかりと受け止める。
「刑を執行せよッ!」
宰相の無慈悲な声が響き渡った。
何かが風を切る音がする。
間を置かず、背中に鋭い痛みが走った。
同時に胸から鏃が飛び出す。
私の血に濡れて真っ赤に染まっていた。
位置から考えるに、心臓を貫かれている。
隣を見ると、彼女も同様に射抜かれていた。
魔王を討伐した勇者は、たった一本の矢を受けてよろめく。
そのまま崖の向こうへ傾いていく。
「――――っ」
私は血を吐きながら、なんとかして首を動かす。
民衆が嘲笑していた。
兵士に矢を放たせた宰相は、愉悦の表情を浮かべている。
国王も黒い笑みを湛えていた。
刹那、私は世界の本質に触れた気がした。
胸中にどす黒い衝動が滾る。
もし枷が無ければ、躊躇なく魔術を行使していただろう。
そこへ無情にも二本目の矢が飛来する。
顔面に激痛が浴びせられた。
視界の半分が黒くなる。
無事な視界には、突き立った矢羽が映っていた。
「…………ぁっ」
私は硬直した。
重力に引かれて後ろへ倒れていく。
もはや抗えない。
抗うだけの力がない。
人々の喝采を耳にしながら、私は谷底へ落ちていった。
◆
死者の谷の底。
辺りに霧が蔓延する中、私は彼女の身体を抱き締めていた。
「ああ、どうしてあなたがこんな目に……」
私は何度目なのかも分からない嘆きを洩らす。
ひどく掠れた声だ。
元がどのような声音かも忘れてしまった。
抱き締めた彼女が動くことはない。
この谷に落ちた時点で、彼女は死んでいた。
亡骸は既に朽ち果てており、血肉を失って骨だけと化している。
力を込めれば、脆くも崩れそうだった。
一方で私の身体も骨だけになっていた。
粗末な布だけを纏う、実にみすぼらしい格好である。
貫かれた片目や心臓も、とうの昔に腐り落ちた。
痛みは無い。
虚しい感情だけが浮かんでは消える。
この姿でも感情があるというのは、数少ない発見かもしれない。
時間感覚も消失していた。
この谷底に落ちてからどれほどの月日が流れたのだろう。
それを確かめる術も私にはない。
周囲には無数の骸骨が転がっていた。
かつて谷へ突き落された者達の末路である。
誰もが等しく死んでいる。
この地において、私だけが異形の不死者と化して存在していた。
理由は何となく分かっている。
私には並々ならぬ執念が宿っているからだ。
このまま物言わぬ屍になっていいのかという葛藤も残っている。
そういった執着が、静かな消滅を拒んでいた。
谷底にいる間、私は自問自答した。
何が間違っていたのか。
どうして私はここにいるのか。
最愛だった人が、なぜ亡骸を晒しているのか。
不死者となった私には、眠りも休息も必要ない。
片時も意識を失わず、ただひたすら考え続けた。
激しい憎悪や自己嫌悪、深い後悔に苛まれながらも考え続ける。
それを延々と繰り返すうち、私は一つの天啓を閃いた。
「――彼女が誤ったのではない。世界こそが狂っているのではないか?」
長きに渡る思考を経て、私は気付いてしまった。
何が原因だったのか。
私はどうするべきなのか。
この地へ落ちる寸前の光景が脳裏に展開される。
一旦堰を切ると、そこからは早かった。
朧げだった意識が明瞭なものとなる。
枯れた不死者の身体に、確かな活力が生じた。
思考に整理を付けるため、私は彼女の亡骸に告げる。
「勇者様……あなたの思想は正しい。しかし、やり方が間違っていた」
平和を望む心に誤りなどあるはずがない。
しかし、彼女は人々に拒絶された。
彼女はそれも役割として受け入れ、世界のために犠牲となることを選んだ。
ならば私は、彼女の意志を引き継ぐ。
私という従者の責務である。
世界に平和をもたらそう。
ただし、彼女とは違う方法を採る。
「そう、あなたは正しくも間違えていた。人々の流れに身を委ねたことが、失敗だったのです」
私はもっと確実な方法で平和を実現させる。
狂った世界を修正しなくては。
このままではいけないのだ。
降り積もった迷いは消え去った。
どうすれば世界平和を生み出すかも思い付いた。
しかし、その前にやることがある。
彼女を死に追いやった者達への復讐だ。
目を背けていたが、私はこの国の人々を恨んでいたらしい。
魔王を倒し、人類を救った彼女を裏切ったことが許せないのである。
私は亡骸を置いて立ち上がる。
前方へよろめくも、なんとか倒れずに済む。
骨だけの身体となっても動けそうだ。
本当なら、今すぐにでも王国に報復したい。
ただ、現在の私はどうしようもなく無力であった。
死者の谷に取り残された亡霊に過ぎない。
地上へ出たところで、何の目的も果たせないだろう。
力が必要だ。
それも世界を敵に回せるだけの力が。
時代が私達を拒むのなら、私は今という時代を全力で否定しよう。
よりよい世界に塗り変えてやる。
彼女の失敗を糧に、彼女の望んだ真の平和を作るのだ。
私は辺りを見回す。
力の源――瘴気の霧が際限なく漂っていた。
生物にとっては有害だが、不死者の身には心地よいものである。
実際、高位の不死者は多量の瘴気を内包している。
(一度、試してみるか)
私は意識を伸ばし、霧状の瘴気をこの身に取り込み始める。
感覚としては深呼吸に近い。
身体が急速に変質していくのを感じる。
さらに、瘴気に溶け込んでいた人々の思念も流れてきた。
この地で死んだ者達の欠片である。
様々な感情の中には、無数の人物の記憶や経験も混ざり込んでいた。
到底、個人が許容できる情報量ではない。
私は魂が引き裂かれるような痛みに襲われ、地面を転げ回った。
指一本すら満足に動かせず、声も上げられずに苦しみ続ける。
生身の肉体では、脳が焼き切れていただろう。
それほどまでの感覚だった。
私は必死になって耐える。
すべては復讐と平和のためだ。
ここで押し流されて消滅するわけにはいかない。
地面を掻き毟りながら、砕けそうになる自我の形を留める。
そうして苦悶すること暫し。
痛みが治まった私は、周りの景色に驚く。
あれだけ濃かった霧が消え、澄み渡った空気が溢れていた。
谷底に日光が差し、頭上の青空がはっきりと望める。
私が死者の谷の瘴気を喰らい尽くしたのだ。
この地に沈殿した途方もない量の魔力も吸収した。
身体の内側から、どうしようもない淀みを知覚する。
おそらく混沌の力だろう。
朽ちかけた骨の身体は黒く染まり、まるで焼け焦げたかのようだった。
瘴気が炎のように体内から漏れ出している。
どうやら私は、禁忌に触れてしまったらしい。
自らがどういった存在に変貌したのかを直感的に理解した。
これは私達が討伐した魔王をも凌駕している。
少なくとも人間を捨てたのは確かだった。
「……まあ、いい」
私は地響きのような声で呟く。
望んだ以上の力が手に入った。
文句があるはずもない。
私は片腕を軽く振る。
そこに力の一片を添えると、周囲の骨が蠢きだした。
骨は人の形を作って立ち上がる。
スケルトンだ。
谷底の遥か先まで同じ現象が続いていた。
これが新たな力だった。
人間を捨てて手にした権能である。
どういったことが可能なのかも感覚で分かった。
私は足元を見下ろす。
他の骨はスケルトンになったというのに、彼女の亡骸だけが動き出さない。
私が意図的に区別したわけではなかった。
「……なぜ、ですか」
答えは返ってこない。
彼女の亡骸は、ただそこに存在するだけだ。
私は布切れを拾い、それで彼女の亡骸を包む。
朽ちた亡骸は形が崩れており、簡単に収めることができた。
私が作業をする間にも、スケルトンの群れが続々と集結する。
彼らは崖に沿って斜めに積み上がり、骨の階段を形成していった。
ほどなくして地上に達するだろう。
スケルトンの総量も十分すぎるほどに足りている。
私は布包みを片手に歩き出した。
その足で階段を上り始める。
目指す先はもちろん地上だった。
「…………」
黙々と進んでいると、ぽつぽつと雨が降り始めた。
雨は次第に勢いを強めていく。
世界は私の進出を歓迎していないようだ。
処刑された時は晴れ晴れとした空だったというのに。
雨に濡れながら、私は骨の階段を踏み締める。
たまに滑りそうになるが、落下することはない。
徐々に崖の終わりが見えてくる。
逸る気持ちを堪えて、私は一定の速度で上っていく。
やがて私は地上に到着した。
すぐそばには石壁で造られた砦があった。
死者の谷を管理するための施設だ。
私の記憶が正しければ、改修工事の最中だったはずなのだが、その痕跡が見当たらない。
谷底で過ごした年月は思ったより長いのかもしれない。
それにしても懐かしい。
ここで私は、人々の糾弾を受けながら処刑された。
何もかもが変わってしまった。
私は片手に提げた布包みの重さを意識する。
「何、アンデッドだと」
横合いから声がした。
見れば鎧を着た兵士が私を睨み付けている。
砦の警備兵だろう。
彼は槍を持って接近してくると、いきなり刺突を放ってきた。
私は穂先の軌道を見切り、首を傾げて回避した。
同時に踏み込み、驚愕する兵士の首を掴んで持ち上げる。
変貌の影響なのか、相手の動きが手に取るように予測できた。
「おい! そいつを放せ!」
他の兵士が一斉に駆け寄ってきてクロスボウを構えた。
私は掴んだままの兵士を盾にする。
兵士達は歯噛みして攻撃を止めた。
「こ、こいつは知能がある……ッ!?」
「色もおかしい。ただのスケルトンではないぞ! 注意しろ!」
彼らが話す間に、私は兵士の首を握り潰した。
出来上がった死体を振りかぶり、勢いよく兵士達に投げ付ける。
「何ィッ!?」
「くそ、撃てェ! 早く殺せッ!」
陣形が崩れた兵士達だが、すぐさま反撃の一斉射撃を行ってきた。
クロスボウの矢が骨の身体を砕き、私はたたらを踏む。
しかし、それだけだ。
私は肋骨に引っかかった矢を外して捨てる。
致命傷とは程遠い。
「ぎゃああああああっ!」
「ど、どうして死体が動き出すんだっ!?」
「死霊魔術なんて使っていなかった!」
兵士の一部が騒ぐ。
先ほど投げた死体が、他の兵士の首に噛み付いていた。
私の瘴気の影響を受けて下位の不死者――グール化したようだ。
噛まれた者は死んで新たなグールとなり、かつての同僚へと掴みかかる。
場が混乱する一方、死者の谷からも続々とスケルトンが這い上がってきた。
白い骨の濁流は、一目散に兵士達へと襲いかかる。
「う、わわっ」
「まずい! 戦線を下げろッ! このままだと――」
「聖魔術の使い手を呼んで来い! 大至急だァッ!」
大量のスケルトンを前に、兵士は苦戦を強いられていた。
個人単位の戦闘能力は兵士の方が高いものの、スケルトンは数が圧倒的に多い。
見える範囲でも、処理し切れずに引き裂かれる者が多発していた。
「うおおおおおおおおぉッ!」
雄叫びと共に、棍棒を掲げる兵士が接近する。
彼はスケルトンを跳び越えて、大上段からの振り下ろしを狙っていた。
術者を倒せばいいと判断したのだろう。
私は高速の打撃を躱し、逆に相手を殴り倒す。
棍棒の軌道は完全に読めていた。
ただし、私自身の経験則によるものではない。
生前の私は近接戦闘を不得手としていた。
おそらくは、瘴気に混ざっていた人間の記憶と経験のおかげだろう。
それを技術という形で習得したのだ。
思わぬ副産物である。
私は棍棒を奪うと、倒れる兵士を見下ろした。
兵士は青痣の付いた顔で睨み上げてくる。
「くたばりやがれ、クズの不死者がァッ!」
「…………」
返答代わりに兵士の頭部を殴打する。
憎悪に染まった眼差しを潰すように、何度も何度も棍棒を叩き込んだ。
頭蓋が割れて原形を失われても執拗に繰り返す。
痙攣する死体を見て、私はようやく手を止めた。
血と脳漿に塗れた棍棒を捨てて顔を上げる。
気が付くと砦は、スケルトンによって本格的に蹂躙されつつあった。
死んだ兵士もグールとなって活動している。
この分なら、放っておいても砦は陥落するだろう。
私は遠方に見える街並みを注視する。
あれが王都だ。
離れているように見えて、実際はそれなりに近い。
徒歩でも辿り着ける距離にある。
報いを与えなければ。
この砦での戦いは、言わば序章である。
因縁を乗り越えるための前準備のようなものだ。
「――私が、滅びの起源だ」
生者のいなくなった砦を発つ。
それだけでスケルトンとグールが追従してくる。
正確に私の意図を汲み取っているようだ。
とても頼りになる。
こうしてアンデッドの軍団を率いる私は、王都を目指して歩き始めた。