彼女と彼女の事情
ため息が聞こえた。
窓の外を見ると、初夏らしい青空だった。まだ暑くないさわやかな日の昼下がりだ。
個人用ロッカーから弁当の包みを取り出し、くるりと教室を見渡すと、ほんの数人の生徒がいるだけだった。残りは購買か学食かを利用しに行っている。そんないつもの昼休み。
また、ため息が聞こえた。
ため息の主は、窓際の一番前の席で頬杖をついて外を見ていた。うーちゃんだ。高校で一緒のクラスになったこの春から友達になった、小さい、天然、頑張り屋という三拍子そろった愛らしい子だ。ここ最近、彼女は気がつけば物憂げにしている。
近くの席から椅子を借りて、うーちゃんと向かい合うように座った。
「あ、矜ちゃん。おべんとなんだね」
私に振り返ったうーちゃんは、にっこりと笑った。ああ、まただ。こういう顔をされたら、なんだかつっこんだ話は聞きづらい。
「いつもの月初ピンチよ」
心配が顔に出ないように気をつけながら、うーちゃんが机から出した弁当を眺め見る。
「うーちゃんはサンドイッチか。私はおむすびにしてみた」
「中身はなあに?」
「梅とおかかとシーチキンマヨと焼いたソーセージ」
などと、楽しく話をしていたら、こちらに近づいてくる男子が視界のすみに止まった。くるりと振り向くと、彼はなぜか苦笑いになった。
「どうしたサタケ」
「いや、番長にじゃなくて、桝山さんにね」
「あたしにですか?」
「うん。お客さんが来てるよ。ほら」
サタケが指さした教室の扉のとこには、背の高い男子が立っていた。見たことのない顔だ。
「あっ、トモにぃ」
うーちゃんが小さくつぶやいて駆けていった。
「あれ誰? サタケ知ってる?」
「三年の新山先輩。クラス委員会で何度か会ってるだろ。ほんと、興味ない人の顔を覚えないね、番長は」
「いやいや、私は忘れるのが得意なんだ」
ああ、そう言われれば月一の会議にいたかも。その集まりはクラス委員長と副委員長が出席しての各組で問題がないかの報告検討会なんだけれど、なんとなく見た目が委員長っぽいという理由で選ばれた私は、あまり熱心に参加していないのだ。サタケは副委員長で、実質的なことは全部彼がやってくれている。どこにでも貧乏くじをひきたがるヤツはいるもんだ。
「ところで、前から気になっていたんだけど」
サタケが少しだけ顔を近づけて、声をひそめてきた。
「どうして桝山さんが、うーちゃんなの?」
なんだ、どんな重要な秘め事を質問してくるのかと心構えしたのに、損をした。まあ、うーちゃん誕生については紆余曲折があったんだけれど、いちいち細かく説明してやることもない。
「それはねサタケ、あんたが副長と呼ばれ、私がいわれもなく番長と呼ばれているのと同じ原因よ」
「なるほどー、名付け親が誰なのかはわかったけど、由来はさっぱりだ」
細かい男だ。
「うーちゃんの誕生日知ってる?」
「四月一日だよね。それと関係が?」
察しの悪い男だ。
「そんなに知りたければ、本人にでも聞けばいいでしょ。なんで私に聞くの」
サタケは、うーんと唸ってから神妙そうな顔になった。
「桝山さんとは、長く話をできる自信がない……」
「なんでまた?」
うーちゃんは男子からも話しやすい子だと思うけれど。
サタケは、さらに深刻そうに見える表情になった。
「あそこまで無防備に可愛いと、好きだと勘違いしてしまいそうで」
いや、それって好きってことなんじゃあ? って、私に対しては平気ってことか。それはそれで傷つくよ。
ちらりとうーちゃんの様子を見やると、なにやら嬉しげにしていた。おーおー、ほっぺなんか赤くしちゃって、ほんと可愛いなぁ。
「あ、そ。じゃあ、ネネは?」
ネネというのは、あだ名の名付け親だ。これもあだ名だけれど。
「鈴木さんとは、うまく会話をできる自信がない」
「それはどうして?」
聞くとサタケは、今度は塩のつもりで砂糖をかけたゆで卵を食べたみたいな顔をした。ちっとも美味しそうじゃない。
「えーと、うんと、彼女はほら、なんというか、とても個性的で」
「よーするに変すぎて会話にならないと?」
「まあ、そういうことかな」
「だ、そうよ?」
私は、サタケの背後にちょっと前から立っていたネネに声をかけた。ネネは、悪巧みを思いついたニヤリ顔をしていた。
一拍遅れて振り返ったサタケは、きっととんでもなく面白い顔をしていることだろう。
「いやあ、鈴木さん」
「え? 嫌、鈴木さん? どんだけ嫌いなの?」
「そんなこと言ってないって」
困ってるなあ、サタケ。その背中は、何も語らないけれど。
「嫌いじゃないの? じゃあ好き?」
「え、なんでそんな展開」
「お話したくないって思うくらい強い想いなら、好きか嫌いかしかないでしょっ」
それはどんな理屈だ、ネネ。
「そ、そうかな」
流されてるし。
「うん。どっち?」
目をうるうるさせてネネは小首をかしげている。これは、サタケ落ちるかな。
「どちらかというと、すっ、好きかな」
落ちた。
「そう。私は、副長のこと大っ嫌いっ」
ネネ、そんないい笑顔で言うセリフじゃないよ、それ。
サタケは、よくわからない奇声を上げて教室を出て行った。憐れだな、サタケ。同情しかしないけれど。
「あー面白かった。副長ってかわいいよねー」
ネネとは中学からの付き合いだけれど、何を考えているのかはサッパリ読めない。男がかわいくてどうするんだ?
「それはよくわからないけれど、あんましサタケをいじめるなよ」
「さすが番長は舎弟に優しいねー」
いや、私、番長違うし。どうせ言っても聞かないだろうから、反論はしないけれど。
「わたしねー、昔から副長みたいなタイプが目に付いちゃって。なんか、からかいたくなるんだよねー」
悪魔かこいつは……ん? 気になる子にいたずらしたい小学男子のほうが近いかな。
「あ、そ。そうだとしても、ほどほどにね。本当に嫌われてもつまらないでしょ」
ネネは右手の人さし指をあごに当て、しばらく黙ってからニコッと笑った。
「んー、それはそれで」
ホンモノか、こいつは。何のか、までは言及しないけれど。
「あー、ネネちゃんおかえり」
うーちゃんが戻ってきた。まだちょっと顔が赤い。
「ただいま。そーゆーうーちゃんもおかえり」
「うん、ただいま」
うーちゃんが席に座り、ネネも購買で買ったのだろうパンをぽてぽてと机に落としてから隣の席の椅子を借りてきて座った。ふぅん、焼きそばパンとたこ焼きパンか。ソースと青のりに恋でもしているのか。そしてポケットからコーラなのか。
「んで、あの三年はうーちゃんの何なの?」
いきなり直球だなぁ。そう言って焼きそばパンの包みを解いているネネは、動物の耳があったらピコピコさせてそうなくらい好奇心と期待を全面に出していた。
対してうーちゃんは、きょとんとして、窓の外を見て、私を見て、それからネネを見て、やっと口を開いた。
「にいやませんぱいは、あたしのいとこだよ」
落ち着け、うーちゃん。インコの失敗した発声練習みたいになってるよ。
「へー。いとこが何しに来てたの?」
「あーうん。あたしのうち、ちょっとゴタゴタしてて、しばらくお世話になるかもしれなくて、だから、色々と……」
ああ、さっきまでいっぱいいっぱいでも元気に見えていたのに、あっという間にしおしおに。
私は右手をギュッと握った。ネネの能天気な脳天に鉄槌をお見舞いしてやろう、そう思った矢先にネネが言った。
「うーちゃん。がんばれっ」
びっくり顔のうーちゃんが、ネネに横から抱きしめられた。立ち上がったネネがうーちゃんの頭を抱え込むようにしていたので、その胸に隠れてうーちゃんの表情は見えない。耳が赤い。照れているのかな。
「なんか大変そうだけど。わたしと番長がついてるよっ」
おお、いいこと言った。
「そうだよ。私たちがついてるよ」
そう言って、うーちゃんの頭を撫でてみた。髪がふわふわで、とても温かかった。そして、小刻みに震えていた。耳が紫だった。あ、
「ネネ、窒息してる! うーちゃん窒息してる!」
「うそんっ」
ネネから解放されたうーちゃんは、ほにゃほにゃになっていた。目を回しているが、なんだか幸せそうだ。
「死ぬかと思ったー」
「私は自分のおっぱいが恐ろしいよっ」
「ぃやかましい!」
ごっすと私のチョップがバカの側頭部に炸裂した。どんな着痩せ系隠れ巨乳だ、このっ。
「いたいよ、ばんちょう」
そんな涙目で訴えてもダメ。むしろ腹立たしい。
「もうちょっと加減ってものを考えなさい」
「なるほど。おっぱいのご利用は計画的にだねっ」
ごっす。
「おまいはそれで、第一級殺人でもする気か!」
「本気で痛いよ。番長こそ、加減てものを知るといいよ」
ああ言えばこう言う……
「矜ちゃん、乱暴はよくないよ」
うーちゃんがじーっと私を見ていた。うう、そんな目で見ないで。
「あ、うん。そうだね。手を出したのは悪かったよ。ごめんね、うーちゃん」
「なんでわたしにじゃなくて、うーちゃんに謝るのさっ」
「いや、だって、うーちゃんをびっくりさせて悪かったとは思うけど、ネネにはちっとも悪いことしたと思わないし。だってこれ、ツッコミだから」
「嘘だっ!」
嘘だよ。
「矜ちゃん?」
「プロのツッコミはいい音の割には痛くないらしいけど、私はまだ修行中の身だからね〜」
にっこり笑ってやると、うーちゃんはそーなのかーという顔になった。可愛いなぁ。
「どこの世界にツッコミの修行してる番長がいるのさっ」
「相方がボケなんだから、仕方ないじゃない。神様のミスキャストだよ」
ひらひらと手を振ると、ネネはぐっと押し黙った。
「……こうなったら、うーちゃんがツッコミをやるしかっ」
それは無理だろ。うーちゃん、天然だし。
「え、あ、あたしがんばるよ!」
天然だし……ま、元気になったみたいでよかったけれど。
「それは頑張らなくていいから」
「ええー?」
ものすごく心外そうなうーちゃんに、私はなるべく優しく見えるように微笑んだ。
「さっき言ったこと、ほんとだからね。私がついてるよ」
「わたしもだよー」
「ああ、私とネネがついてるよ」
ニコッと笑ったネネ、そして私を順に見たうーちゃんの目には涙が浮かんでいた。初めて見た、うーちゃんの泣き顔。胸の辺りがもやもやする。うわっ、もらい泣きしそう。
「あっぃがとぅっ」
うーちゃんの泣き声。
もうダメだ。
私はネネの肩をトンと押した。
「ほらネネ、出番だ」
「おまかせだよっ」
再びネネがうーちゃんに抱きついた。私はぼやけた視界でそれを確認すると、誰にも見られないうちに目許をぬぐった。
「ネネちゃん苦しいよ」
「ダメ、まだこうしてるの」
今度はネネも学習したのか、うーちゃんは言うほど苦しそうには見えなかった。
「うーちゃんはさー、ぽやぽや可愛いけど、甘えたりってしないよねっ。頑張り屋さんなとこは大好きだけど、つらいの隠した笑顔は見たくないよっ」
「ねねぢゃんっ」
わんわん泣き出したうーちゃんを抱いてるネネは、とっても幸せそうだ。
ネネはいいやつだ。友達をちゃんと見ているし、こういうことを臆面も無く言えるところなんて、正直、うらやましいと思う。
私は、弱いな。
なんだか感傷的な気分になったので、なんとなく空を見上げてみた。
空は、青くて、青くて、ぼやぼやっとしていた。うわっ、まただ。
「ばんちょう?」
「きょうちゃん?」
二人の驚いた声に振り返った私は、自分の頬を涙がひとしずく流れたのを感じた。
「どうしたの?」
「あ、いや、うーちゃんの涙見てたら、つい」
「番長の目にも涙だねっ」
ごっす。びっし。
脳天と胸に同時にツッコミを受けたネネが、崩れ落ちるようにして椅子に座った。
「いたいよ、ふたりとも」
涙目で訴えるネネに、うーちゃんはツッコミを入れた手を引っ込めて、小首をかしげて口を開いた。
「なんでやねん」
遅いよ、うーちゃん。
「完全無欠のてんねんだ……」
なにやら絶望的な顔でつぶやいたネネの前からコーラの缶をつまんでプルタブを開け、私はくいっと一口飲んだ。すぐに気づいたネネが、抗議の視線を向けてきた。
「あー、なにするのっ」
「喉が渇いたんだ。おかげでツッコミそびれたよ」
「どんな理由だよ。この人でなしっ」
「ネネ論では、私は鬼と同格だからいいじゃない。うーちゃんも飲む?」
「え、でも、いいの?」
うーちゃんと見詰め合ったネネは、パチパチと瞬きしてから何度も頷いた。
私の手から缶を受け取り、うーちゃんが飲み口に唇をつけた。
「間接キスだねっ」
ごっす。びっし。
「なんでやねんっ!」
うん、絶妙のタイミングだよ、うーちゃん。その調子だ。
ネネは左手で頭をさすりながら、右手を握って親指だけをぐっと上げて見せた。
「ぐっじょぶだよっ、うーちゃん」
私も黙って頷いて同意した。
「そ、そうかな」
うーちゃんは照れながらも嬉しそうだ。
「これからもその意気だよ。だから番長はツッコミ引退宣言だよっ」
「わかった。わかったから、そんな必死な目で見るな」
脳天ど突き続けて、これ以上バカになられても困るしな。
「わかればいいよっ。うーちゃんもコーラ返して。お昼食べよー」
「あ、うん」
すまなそうなうーちゃんからコーラを受け取って、ネネはそっと口をつけた。頬が緩んでいる。なんでこいつは、そこはかとなく幸せそうなんだ?
うーちゃんを見ると、いそいそとサンドイッチを取り出していた。ネネの様子に気づいたそぶりはない。
ネネに視線を戻すと、いつもの様子で焼きそばパンをかじっていた。
ま、いっか。
私もおにぎりを手にとって口に運んだ。
「うぐっ」
すっぱい。梅だった。
翌日、私の肩書きが『情に厚く涙もろい』メガネ番長クラス委員長になっていた。括弧部分が追加分だ。
ごっす。