具のないカレー
2年前に練習で書きました。
もったいないので投稿します。
中身のないお話しで恐縮です。
深夜三時過ぎ。
私はうろ覚えの懐メロを口ずさみながら、キッチンで指揮棒の代わりにお玉をかき回している。
ステンレス製の寸胴鍋から立ち昇る湯気は、芳醇でスパイシーな香りを含んでいて、食欲をそそる。
完成を想像すると、自然と悦に入った笑みが浮かぶ。
ご承知の通り、鍋の中身はカレーである。
私はこうして深夜、発作的にカレー作りに没頭してしまう妙な癖がある。
一度閃いてしまうと抗うことはできない。
気がつけば、具材を仕入れに近所の二十四時間営業のスーパーまで自転車を疾駆している。
只今、調理は煮込みの段階である。
午前一時から作り始めたので、かれこれ二時間ほどカレーと対峙していることになる。
私のカレーは、時間と労力と費用を非常に消費する。
玉ねぎは一房を丸々使用し、刻むにも炒めるのにも悪戦苦闘する。
更に、鶏肉、数種類の茸、ピーマン、ホールトマトを加え、メーカーの違うカレールーを調合する。
創作とは命の削りあい、真剣勝負だ。
汗だくになりながら、大枚をはたきながら、至高の俺流カレーのために尽力を惜しんではならない。
成人男性たるもの、自分だけの俺流カレーひとつ持たずして、真の漢にはなれない。
しかし、カレーには毒も孕んでいる。
大学入学を期に、独り暮らしをはじめた私に先輩はよく忠告したものだ。
「侮るな! カレーとは禅である。己との深遠な対話である。
そして、同時に破産への第一歩でもある。無闇に作りすぎるのは禁忌と知れ!
さもなくば、メランコリー貧乏学生になってしまうぞ! 俺みたいに!」と。
実にありがたい説法であった。
しかし、この言葉の真意を理解するには当時の私はまだ幼すぎた。
簡単だし、日持ちもすると忠告を無視して作り続けた結果、私はカレーの妖しい魅力に取り憑かれてしまった。
自分の舌を満足させるカレーを目指し、散財するのに躊躇がなくなった。
煮込みの工程に入ると、グツグツと過去の悔恨、それに未来への不安や希望や妄想が頭の中に湧き上がるようになった。
果てには、私の思考は煮崩れをする始末。
当然の如く、私もメランコリー貧乏学生に変貌していた。
私は一旦コンロの火を止めた。
それから、おもむろにプレーンヨーグルトを取り出し、スプーンで一掬いして、寸胴鍋に投入する。
これこそ、私の俺流カレーの極意である。
このプレーンヨーグルトはなにか一味足りなかった俺流カレーに、酸味とマイルドさを与え、完璧に導いた。
平凡で、ありふれた存在が活路を見出す鍵になることもあるのだ。
私は再度火を起こし、ヨーグルトが馴染むようお玉でかき回す。
様々な具材がカレーに浸透し、渦を巻く。
これまでのことと、これからのことが私の脳細胞に浸透し、渦を巻く。
私はカレーが焦げつかぬよう手を休めずに動かしつつ、そっと瞼を閉じた。
グルグル…コトコト…グツグツ…。
どうして、彼女は去ってしまったのだろう。
グルグル…コトコト…グツグツ…。
なぜ、私と同類だった先輩は結婚をして、幸せな家庭を築けたのだろう。
グルグル…コトコト…グツグツ…。
いつまで、こんな生活を続けるのだろう。
グルグル…コトコト…グツグツ…。
浮かぶ問いはどれもが難題だ。
過去は私の傷を深く抉るし、未来は茫洋で計り知れない。
私は願う。
が、手ごろに願う対象がないので、このカレーに願ってみる。
みんな、私を無視しないでほしい。
みんな、私を置いていかないでほしい。
思わず、自身を鼻で笑ってしまう。
叶うはずがない。
傍に寄り添うカレーは神様じゃない。カレーに人生は変えられない。
私にも、なにかが一味足りないのだろう。
それはきっとヨーグルトほどありきたりで、ヨーグルトほど意外ななにかだ。
グルグル…コトコト…グツグツグツ…。
私は煮詰まってしまい、思わず目を逸らした。
いつの間にか、窓のカーテンがぼうっと淡く照らされている。
どうやら、朝日が昇りはじめたらしい。
携帯電話の着信音が鳴っている。
表示されているのは、私の知らない番号である。
通話ボタンを押してみると、なんと三年前に別れた彼女からであった。
お互い緊張しつつ、たどたどしい会話を重ねる。
その端々で、彼女は私の俺流カレーが懐かしくて、また食べたいと言う。
私たちは約束を取り交わす。
カレー、侮りがたし。
おそらく、書いているころの私はやや病んでいたのでしょう。
世知辛い世の中やで。
読んで頂きありがとうございました。