笑顔の停留所
小さな山間にある町と市街を結ぶバス。私はここで、もう30年も運転手をしている。
この仕事はずっと続けたい。運転できなくなるその日まで。
そう思うことができるのもの、あの日のあなたがいてくれたからでしょう。
私は20歳で始めてバスのハンドルを握りました。
小さな町から乗る人は、あなた一人でした。市街の手前までは、ほとんど乗客もなく、
あなたと二人、ドライブしているようなものです。
バックミラーには、あなたの横顔。栗色の髪の毛が、光り輝いていて、
私はしばし目を奪われたものです。
雨の日も、雪の日も、風が吹く日も、私は休まずにあなたを送り届けました。
あなたは、必ず「ありがとう」って微笑んで降りていきます。
その笑顔をどんなに楽しみにしていか、あなたに伝えたかった。
その日、珍しく混んでいました。といっても、10人程度の乗客があって、老人会の何かイベントでもあったのでしょうか。バスの中はわいわいと話す老人たちの声に満ちていました。
あなたが降りる場所で、その老人たちも降りるようで、私はつり銭やら、いくらかかるだの、そういったことで忙殺されていました。
気がついたら、もう、あなたはいなかった。
ひどく残念な気持ちで、あなたが座る指定席を眺めていました。
一番後ろの一番左。
私は、また小さな町へと戻らないといけません。
前を向きました。
おどろきました。
あなたが立っていた。しかも、私に手を振っています。
何かあなたはつぶやいていましたね?
残念ですが、私には何をつぶやいているかわかりませんでした。
私は、ホーンをひとつ、軽く鳴らして去っていきました。
バックミラーには、あなたが笑顔で立っているのが見えました。
次の日、あなたは乗ってこなかった。その次の日も、その次の日も・・・
もうあなたが乗ってくることはなかったんです。
私は今でも、あの市街地の停留所では、必ずホーンを鳴らします。
なぜって?
今でもあなたが微笑んでいてくれる気がするのです。
あの停留所は、私の心の停留所になりました。
ほら、今日もホーンが鳴り響いていますよ。
連載ではありませんが、もう一つの作品「望郷」と合わせて読んでいただきたい作品です。