愛は障害を越えて
性欲は何故秘すべき物とされるのだろうか。一次的欲求のその他の2つ、食欲と睡眠欲はおおっぴらに語られ、趣味や生き甲斐とまで言ってもそれを白眼視される事はまあないだろう。何が違うのか。それは恐らくそれが1人でなされるか2人でなければならぬのか、という事なのであろう。1人でなされる性欲もあるが、それは次善の策と捉えて一応置いておく。相手のあるものだから、自分だけでなく相手の気分も高めなければならない。相手を無視しては犯罪だ。当事者個人に止まらない二者関係、だからこそ他人の視点が強烈に入り込む余地が出て来るのだろう。食べるにしろ眠るにしろ、傍から見ていて、あー、いいな、と思いはするが、その人の感情に巻き込まれて自分の身に迫った事としてはあまり感じない。恐らくここが決定的な違いだと思うのだ。
生物に備わった性欲は、種族の繁栄の為の本能である。であるとすれば、なぜホモ・サピエンスは時に生殖の可能性のない同性同士で愛し合うのだろうか。調査も何もしない勝手な推測としては、火という圧倒的な武器を持ち、天敵のいなくなった種族としてただひたすらに愛という快楽を求めて性別の壁を取り払ったのではないだろうかと考える。
なーんて、真面目チックに語ってみた。どうだ、驚いたであろう。たまにはまじめに、なんて第一回の前書きで書いちまったからな、約束は果たしたぞえ。
話を戻して腐女子やらパロディやらについて。
実はこの類の能力を私は持ち合わせていない。他人の創作物の裏話を「腐目線」で妄想するのはいわば侮辱だと思うし、そもそも他人の作ったものに思いを馳せて想像するだけの熱意がない。強調しておこう。「私は」、である。そういった創作をする人が悪いとはまるで思わないし、そこまでの熱意をもって受け止められるのならばそのオリジナル作品が高評価をされているという証であり、勲章でもあると思う。繰り返すがあくまで個人の好みであり、主義である。他人に押し付けられるものではない。
そもそも私は他人の恋愛事情に興味がないのである。自作は別だ。自分の傷を背負って足掻いている分身であるから。
とまあ、そんな事はどうでもいいのである。何故オンナノコがむくつけき男同士の恋愛を好むのか。
仮性やおいと真性やおいという定義もかなり興味深いものである。提唱者は確か我が心の師、故・中島梓氏であったと思う。
んが、またまた字数制限という己で作った枠に囚われの身となって次回へと持ち越されるのであった。
(2011年1月21日)