傍らに立つ人
傍らに立つ人
主要登場人物一覧
オベド ローマ帝国内で手広く商売をやっている家の御曹司
アモス オベドの友人・王族の男
エステル オベドの恋人
オルパ オベドの妹・エステルの友人
ナオミ アモス家の下女
ヨセフ オベド家の家令
百卒長
富める青年
第一章
「だから、お前は贅沢なんだって。そんな悩みをその辺りにいる連中に聞かせてみろよ。『俺たちは、今日はどうやって家族のために食い物を確保するかで精一杯で、そんなことに悩んでいる暇はない。金持ちのぼんぼんは、そんな事に悩むのか。なんて贅沢な』とあきれることだろうよ。」
アモスが言う。ただ、馬鹿にしているような言い方ではない。友人の事を本当に心配しているのだが、それを表に出さず、ちょっと斜めに構えた言い方で言うのが彼の癖だ。それはオベドにも分かっている。そもそも、それでなければこんな話しを他の人にはしたりしない。金持ち一族の本家を嗣ぐ者として、ちょっとでも気の弱い事を言えば、つけ込んでやろうと待ち構えている親戚はたくさんいる。一時たりとも気を抜けないのだ。
こんな事を言えるのは、本当の兄のように慕っているアモスにだけだ。他の人たちから見れば仲の良い友人というところなのだろうが、オベドの感覚では、ちょっとアモスに頭が上がらない部分があって、友人というより兄という方がぴったりくる。もちろん血縁関係は全くないが。
「そんな事は分かっているよ。だからといって、この悩みが消えるわけじゃない。アモスは、そんな悩みを感じた事がないかもしれないが。」
「ばかか、お前は。そんな悩みを感じた事がなければ、そいつは人間じゃない。まあ、そんな人間じゃないやつも多いような気はするが。」
「じゃあ、それを贅沢な悩みというのはちょっと違うような気がするが?」
「お前が、その悩みに浸りきってみろ。家業に支障を生じかねん。お前が財産をすべて失って、物乞いをしているところなぞ見たくはないからな。」
「そうだな。その時にはデナリウス銀貨一枚ぐらいは恵んでくれよ。」
「お前なあ。貧しい人々にとっては一デナリウスは、まあ家族を養うために必要な金の一日分だが、お前が今飲んでいるワインを手に入れるためには、何デナリいると思っているんだ。」
「さあ、一瓶十デナリぐらいか?」
「それが、商売人の息子の言う事か? その上等なワインを一瓶十デナリで売っていれば、売れれば売れるほど損が出るだろうが。」
「そういう細かい事は家令にまかせている。私の仕事は、その商売に支障を来さないように、ローマ総督や王族の方々の機嫌を損ねないようにすることだから。」
「まあな。そのおかげで俺とも知り合ったわけだし。」
「親の代からの縁で幼なじみとして育ったのに、冷たい事を言ってくれる。アモスが失脚するような事があったら、わが家の財産すべてに換えても守ってやるからな。」
「だから、そんな甘い事を言っていて、家業は大丈夫かと言っているんだ。」
「なあ、アモス。この前、お前もそんな悩みがないわけじゃないと言っていたろう。」
「ああ、言ったな。」
「でも、アモスからは、そんな悩みを感じていないような感じしかしない。なぜだ。」
「そりゃあ、政の世界で生きて行くには、そんな悩みは押し殺していかなけりゃ、やっていけない。それはお前にだって分かるだろう。」
前に会って、オベドが抱えている悩みについてアモスと話をしてから一週間がたっている。その話しをオベドがまた蒸し返してきたので、アモスはまじめに彼に向き合う気になった。
「『なぜか充実感がない。何もかも虚しい。自分はいったい何のために生きているのか分からない』というのは、生きて行くのに精一杯の間は考えられない。どうやって飯代を稼ぐかしか頭にないからな。食うに困らなくなって初めてそんな思いが浮かんでくる。贅沢な悩みというのは、そういう意味だ。だからといって、その悩みが軽いものだとは思わない。それが何にもまして重要な悩みだと言う事は否定しない。」
「自分でも分かっている。自分が恵まれた境遇にあって、人からうらやましがられる立場だということぐらいはな。しかし、やはり毎日々々、この悩みで、いてもたってもいられないぐらい苦しい事も事実だ。」
「何をやっても、今、自分がやるべき事はこれじゃないという気がして、自分はいったい何をしたいのだろうかと思うんだろう。」
「むしろ、何をしなければならないのかということかな。」
「本当にお前はまじめだな。いいか、そこで何をしたいのかではなく、何をしなければならないのかと考えていることが、すでに問題なんだ。人として生きる道という呪縛の中に囚われているということだぞ。」
「私たちには、先祖から受け継いできた律法がある。それを守る事は当然だろう。」
「しかし、その律法を守って生活していても、生き甲斐を感じないんだろう。」
「まあな。」
「そういえば、『律法は人のために定められた。人が律法のためにあるのではない』と言った男がいたらしいな。」
「え、そんな大変な事を言った人がいるのか。それは、死罪ものだぞ。」
「そうさ。祭司長たちに聞かれたら、裁判になって死刑を宣告されても不思議はない。お前が祭司長だったらどうする。」
「そんな訊き方をするのは、アモスが、その人の言葉をむしろ正しいものとして肯定しているからだろう。」
「まあ、間違っているとは思わない。ただあの祭司長に聞かせたら、問題になりかねんなとは思う。」
「その言葉を言った人は、どういう人なんだ。」
「わが家の下女にナオミという女がいるだろう。」
「ああ、まじめに働く良い下女だな。」
「あの女が、最近、その男の話を聞きに行っているらしい。他の下女とこの話をしていたのをたまたま聞いたのさ。だから、さっきの話しは又聞きで正確かどうかは分からない。ただ、筋は通っているからな、そんなに間違ってはいないと思う。」
「アモスのところでは、下女が仕事を抜け出して、誰かの話を聞きに行く事を許しているのか? 寛大なご主人様だな。」
「そうだろう。まあ、ナオミはいつもまじめに仕事をしてくれている。それぐらいの息抜きは見て見ぬ振りをしているのさ。」
「その人の話を聞きに行ったのか」
「ああ、お前がちょっと気にかけているようだったから、ナオミに聞いて、その男が話をするのを聞きに行った。オベドの悩みに応えられる男かどうか見にな。」
「それはそれは、ご親切な事で。」
「そりゃあ、大事な友人のためだからな。ところでさ。そこでとんでもないものを見たぞ。」
「え、とんでもないもの?」
「そうさ。何だと思う?」
「いや、見当もつかない。」
「そうだろうな。俺もびっくりしたから。エステルとオルパさ。貧しい女の格好をして聴衆の中にいた。最初は気がつかなかった。日頃の服装と全く違ったからな。」
「向こうは気がついたのか?」
「いや、気がつかなかったと思う。俺も目立たないように庶民の服装をして行ったからな。」
エステルはアモスの恋人、オルパはオベドの妹で、二人は仲が良い。そもそも、エステルとアモスが出会ったのも、オルパがエステルと知り合いで、二人が話をしている所に、アモスがたまたま通りがかって声をかけたことからだ。オルパからエステルを紹介されたときに、アモスが一目惚れをしたらしい。まあ、それも無理はない。それぐらい美人で、本当はオベドは、アモスと妹オルパが結婚してくれれば、彼と義兄弟になれるという思いもあったのだが、アモスからエステルへの恋心を打ち明けられたときには、それはまあ彼が惚れるのも無理はないとあきらめたぐらいだ。
「しかし、エステルとオルパが? 大丈夫か。」
「まあ、大丈夫さ。その男の話は、それなりに面白かった。いくつかパリサイ派の連中や、律法学者たちに聞かれたら問題になるような発言もあったが、まじめな男だと思う。少なくとも俺は好きだな。エステルやオルパが入れ込んで他の事に目が行かなくなったりしたら困るが、それほど心酔している訳でもない。ただ彼女らもまじめだからな。あの男とは心情的に近いものを感じているのだろう。」
「そうか。しかし、二人が私の知らない所でそんな事をしていたとはな。」
「ナオミに聞いてみたら、二人が彼女からその男の噂を聞いて、一度行ってみたいと言われて連れて行ったのが最初だそうだ。それから、数回、行っているらしい。」
「また、例のあの人の話を聞きに行ったのか?」
不審そうに、オベドがアモスに尋ねた。
「ああ、行った。お前に紹介するのに適当かどうか、きっちり判定しなければならないからな。というのは嘘で、本当は、エステルやオルパの監視兼ボディーガードだ。」
「しかし、祭司でも、律法学者でもないんだろう。出自から見ても、ただの大工の息子だと聞いたぞ。」
「ああ、そうらしいな。しかし、彼の言う事を先入観無しで聞いていると、その辺の既成秩序にどっぷりつかった律法学者たちより、よほど理に適った話をするぞ。それに、律法や預言書の事に関してもかなり詳しくて、ときどきはっとさせられるような引用をする。諸書については、わたしが聞いているときには出なかったからよく分からんが、まあ同じぐらい詳しいと考えるのが妥当だな。」
「どこでそんな学問を学んだんだ?」
「それは分からんな。有名な律法学者の弟子なら噂ぐらい聞くはずなのに、聞いた事もないからな。」
「深入りして大丈夫か?」
「深入りと言うほど聞きに行ってはいないさ。」
「実は、わが家に良く尋ねてくる百卒長がいるんだが、彼の話によるとどうもその人の噂がローマ総督の耳にも入っているらしくて、百卒長に命じて、彼の部下を数人貼り付けているそうなんだ。ローマにとっての要注意人物になっている。」
オベドが心配そうに打ち明けた。しかし、こう言う事には非常に聡いはずのアモスがその心配を笑い飛ばした。
「それは、ローマに反逆するとなると、俺にだって無関係ではなくなるし、注意しておかなければなければならないが、あの男に限って、ローマに楯突こうなんて考えてもいないと思うよ。心配ない。」
「しかし、熱心党を始め、ローマからの独立を考えている奴らの中には、彼がローマから独立してユダヤ王国を再建し、王になると期待している連中もいるらしいと百卒長の部下からの情報もある。彼自身がどうであれ、周りの連中が暴発することはあり得るのではないか?」
「まあな。その点については気をつけている。それと、問題はむしろ、ローマへの反逆よりも、ユダヤ人の間での対立だな。あの男のおかげで、彼を慕う群衆と、祭司や律法学者、それにパリサイ派の連中とが対立を始めると内乱になりかねない。支配層である王族の連中や宗教指導者たちが、かなりピリピリしている。」
「どうも、一部の祭司や律法学者の中で、彼を消そうという動きになっているという話しも聞いたぞ。」
「それは俺も聞いている。そりゃあな、いくら何でも、『律法にはこう書いてある。しかしわたしはこう言う』などと公言されては、彼らの立場がないからな。」
「そんな事を言っているのか? それは消されても文句は言えんぞ。」
「まあ、そうだな。しかし、彼の言っている事は正論だし、なかなか反論はしにくい。彼を逮捕する口実を得ようと色々画策している連中もいるみたいだけれど、議論しても、うまく罠をすり抜けている。なかなか一筋縄ではいかんぞ、あの男は。」
「ローマに反抗しているという訴えはできないということか。」
「それだけじゃない。律法をないがしろにしているという訴えも無理だな。あれだけ大胆に宗教的指導者を批判しているのに、彼の言動が律法に違反していると訴えることはできんだろう。下手をすれば、自分たちに堕落しているという批判がかぶさってこないとも限らないからな。少なくとも、彼の律法解釈は、律法学者たちの解釈より実際的だ。律法学者たちの解釈を厳守すれば、実際の場では、その規則は人を不幸にするだけだというような場合もあるからな。」
「『律法が人のためにある』のに、律法のために人が不幸になっているということか。」
「そう。彼の言う事を聞いていると、彼は律法に書いてある事をそのまま守るのはおかしいということが根本にあるみたいだな。律法でこう定められているのは、こういう意図からだということまでさかのぼって考えている。その意図を忠実に読み取れば、場合によって例外的な処置の方が正しい事があるというのが彼の主張だな。」
「それは、なかなか適切な意見だと思うが。」
「そうか? 問題は、それを誰が判断するかだ。律法学者たちは、それは自分たちだと思っているし、しかも彼らは、あの男のように適切に判断する能力もないからな。」
「えらく辛辣だな。」
「まあ、そうだな。彼らには、いつもいらいらさせられているから。彼らに、あの男の言うような民の幸せに対する関心があるかどうか疑問だ。自分の出世と金のことしか考えていない奴が多すぎる。」
「しかし、一部に本当に尊敬すべき人たちもいるじゃないか。」
「もちろん、いるさ。俺だって尊敬している律法学者や祭司は何人もいる。だけど、出世するのは彼らじゃない。なぜ、あの尊敬すべき人達があんな不遇な状況に置かれているんだ。」
「まあ、それは私も思うけれど。」
「律法が人のためにあるということは、正しいと思う。しかし、勝手な連中にその判断を任せるよりは、少々的外れになるときはあっても、文言通りに守る方が安全だとは言える。ただ、文言通りにという事の中に、律法学者たちの作った施行細則が含まれているのが問題だがな。あ、そうだ。彼の言葉は、律法についてではなくて、安息日についてというのが本当らしい。まあ、どちらでも言っている内容は変わらんが。」
「たしかに、安息日に関する律法は問題ないが、施行細則のどこまでが主の思いに沿ったものかという疑問はある。しかし、注意してくれよ。こんな話しがもれたら、私たちだって無事では済まないから」
「まあ、そうだ。こんな話し、もちろんお前にしかしないよ。」
第二章
「ねえ、お兄様」オルパが寝椅子に寝っ転がって、組んだ腕に頭を乗っけて、にやにやしながら訊いてくる。「イエス様に興味があるんだって?」
「イエス様?」
「最近、このあたりの町や村で宣教をしている人。」
「ああ、アモスが噂していた人か。イエスという名前なんだな。」
「そう。お兄様が何かイエス様の事についてアモス様と話しをしていたとナオミが言っていたけれど。」
「ナオミに聞かれていたのか。」
「そうよ。結構、人に聞かれたらまずいような事も言っていたみたいね。ナオミだから良いけど、他の人だったら大変よ。話しに夢中になって、声が大きくなっていたのね。」
「それはまずいな。気をつけなければ。」
「ええ、気をつけてね。まあ、ナオミは、お兄様の事を尊敬しているから大丈夫。その話しを聞いて、お兄様の事、ますます尊敬するようになったみたいだし。」
「お前もそのイエス様とやらの話しを聞きに行ったそうじゃないか。」
「ええ、ナオミの話しを聞いて面白そうだったから。」
えらくあっさりとした話し方をする妹に、オベドはちょっと心配になった。
「なあ、オルパ。えらく気楽に言っているけれど、安易にお忍びでそんな事をして何かあったらどうするつもりだ。ましてアモスの恋人のエステルまで連れ出して。」
「あれ、エステル様を連れ出してなんて。ナオミの話しを聞いて行ってみようと言い出したのはエステル様の方なのよ。」
「え、そうなのか。」
「そうよ。彼女は本当に熱心にイエス様の話を聞いているわ。」
「大丈夫か? あまり入れ込んで、アモスにとばっちりが飛んでくるような事になったりしないか心配しているんだが。」
「大丈夫よ。賢い彼女の事だもの。家族に迷惑がかかるような事はしないわよ。」
「そうだといいんだけれどな。」
「なにしろ大事な友人だしな。お前と結婚してくれれば、彼と身内になれるんだがと昔は思ったりしていたんだけれど。」
「無理、無理。彼はエステル様にぞっこんなんだから。」
「お前はそれで良いのか。昔、アモスにあこがれていたんじゃなかったのか。」
「何を言っているの? 私とエステル様じゃ勝負にならないでしょう。女の私から見ても素敵な人だもの。尊敬するエステル様には、アモス様ぐらいの人でなければ釣り合わないし。二人の仲がうまくいくように祈っているんだから。」
オルバは、ケラケラ笑いながら答えた。
「そうなのか。強がりを言っているんじゃないのか?」
「もともと、女の子は父親の選んだ夫に嫁ぐもの。父親は家族の繁栄を願って相手を選ぶ。女は自分の好き嫌いで、家族どころか親族まで巻き込んで不幸にするようなことはできないでしょう。」
「でも、それで愛してもいない男に嫁いで幸せになれるのか。」
「自分の愛している男に嫁いで幸せに暮らすなんて、よほどの僥倖よ。アモス様とエステル様とはそうなって欲しいけれどね。そんなの普通は無い物ねだりよ。」
「私は、お前が愛し合っている人と結婚して欲しい。」
「別の人と結婚した方が、家族にとって良い場合でも?」
「お前が家族のために犠牲になるなんてことは考えたくもない。」
「本当? ありがたい事を言ってくれるわね。」
「本気だよ。」
「本当かしら。だって、アモス様はこっそりイエス様の話しを聞くために出かけるエステル様をひそかに追いかけて、何かあったら守ろうと護衛を気取っているのに、お兄様はそんな事はしてくれないでしょう。」
「え、アモスが密かに護衛しているのがばれているのか?」
それを聞いて、オルバはゲラゲラ笑い出した。
「もちろんよ。自分ではばれていないつもりなのがおかしくて、エステル様と後で、アモス様もかわいい所があるわねなんて笑っているんだから。」
オルパの笑い声を聞きながら、これなら心配する事もあるまいとちょっとほっとした。 「ところで、いったいどんな話しが聞きたくてそこへ出かけているんだ。何か悩んでいる事があるからか。」
「そんな事、お兄様に言えるわけがないじゃない。エステル様だって、アモス様に問い詰められても、本当のところは白状しないと思うわよ。ただね。さっき無い物ねだりって言ったわよね。そんな事は望んではいけないというようなことで、でも、本当のところはそうしたいと思っているような事があったとき、どうしたらいいかということについて、イエス様がわりに適切なお話をしてくれる事があるのは本当なのよね。実際にできるかどうかはともかく、ずいぶん気分的に楽になる事は確かよ。」
「奇跡?」オルパが問い返す。
「そう。あの人はときどき奇跡をおこすという噂があるじゃないか。病人をいやしたとか、五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させたとか。」
「ああ、そのパンの話しは、わたしはその場にいたから知っているわ。あれはね、イエス様がおなかのすいた会衆の人々に食べ物を配ってやりたいと弟子たちに言われたのよ。会計係の人は困っておられたわ。気の毒に。そこに男の子がいてね。『わたしは二匹の魚と五つのパンを持っています。みなで食べてください』って言ったの。そしたらイエス様がそれを祝福して分けて、必要な人から配りなさいって。
「それで真っ先に手を出すような人は、もともとそんな所に来たりしないし、周りの人達の事を考えられる人ばかりだから、みな手を出さなかったの。それどころか、自分の持ってきたパンや魚や肉、それに果物やワインをだして、これも配ってくれって。それで結局、みなで宴会みたいになっちゃって、楽しかったわよ。
「私とエステル様が持って行ってたパンや肉を周りの人に分けたのね。そしたら、その中の一人のお年寄りがね。泣きながら『こんなに美味しい料理やワインを飲んだり食べたりしたのは初めてです。これでいつ死んでも満足だという気持ちになります』って言うのよ。私もちょっと泣いちゃった。」
「それは良い事をしたね。」オベドがどう答えて良いか分からないという感じでつぶやいた。
「それがね。その次にまた宴会になった時に、たまたまそのおじいさんを見掛けたから食事を渡そうとしたのよ。そしたらそのおじいさん、なんと言ったと思う?」
突然のオルパの質問に、オベドは戸惑った。
「あのね。『それは別の人にあげてください。とくに小さい子供に』って言ったのよ。彼は若い頃色々つらい目に遭って、どうせ人間はこんなものと斜めに構えて人生を送ってきたのね。その前の食事の時に、人間の中にも信じて良い人がいるのかも知れないと思ったらしいわ。そして『そのような思いで人生を渡ってきていたら、もう少しましな人生が送れたかも知れません』と言って、だからこれから人生を歩み出す子供たちにあげて欲しいと言うのね。
「パンの奇跡の話しは、五つのパンと二匹の魚を差し出した子供がいるということと、たくさんの人が満足したという事だけが伝わって、そんな話になったんだと思うけれど、わたしにしてみたら、そのおじいさんがそのような改心をした事の方が、よっぽど奇跡だと思うわ。」
「そうだな。そんな風に人の心を動かすというのは、奇跡かも知れない。」
オベドは、その人に会えば、自分も変われるのかも知れないと思った。
第三章
「へえ、オルパは、わたしがイエス様の話しを聞きに行く理由が、人に言えないような秘密の悩みだと考えているのね。」
「ああ、たとえアモスに訊かれても白状しないだろうと言ったぞ。」
横でアモスが苦笑いをしている。アモス家でオベドがアモスと酒盛りをしているときにワインの追加を持ってきたエステルと二言三言言葉を交わしている内に、オベドがその話題をぽろっと出したら、エステルが意外にあっさりと答えても良いような流れになった。
「オルパは、自分の悩みがそういったたぐいの、人には秘密にしておきたいような事だから、わたしもそうだと思ったのね。でも、わたしが解決したい悩みというのは、別に人に聞かれて困るようなものじゃありません。」
「わたしには言えるけれど、オベドに訊かれても答えられないという悩みじゃないわけだな」
アモスが横から茶々を入れてくる。
「おいおい、オルパが言ったのは、アモスにも言えないような悩みということだぞ。勝手に自分だけ良い子になるな。」
オベドの言葉に、エステルが笑い出して、それでつられてアモスまで笑い出した。
「わたしの悩みというか疑問は、善と悪の問題なの。『人は悪を捨て、善をなすべきである』と言うのは簡単よ。でも、それがそんなに簡単な事かどうか疑問に思うような出来事があったの。」
「へえ、いったいどんな?」
アモスがちょっと気になったようで、少し真顔になって訊いた。
「善をなすべきであるということは当たり前の事として言われているわよね。それで、わたしは困っている人がいれば施しをする。これは善でしょう。」
「まあ、そうだな。反対する律法学者はいないと思うけれど。」
「だから、わたしは困っている人を見れば施しをしてきたし、それに疑問を持つ事はなかったの。ところが、オルパがね、オベド家の家令のヨセフから伝えて欲しいと頼まれたと言って教えてくれたの。」
「何を?」アモスとオベドの言葉が重なった。
「この前、ヨセフが用事があって町の酒場に寄ったときに、たまたま隣の席でわたしの事を話している二人の男の話しを聞いてしまったというの。『あの女-わたしのことよ-ちょっと涙を見せればお金を出してくれる。嘘っぱちの話を疑いもしない。本当にだましやすい金づるだよ。そのおかげで、こうして昼間っからワインが飲める。飢えに泣いている妻子なんて居もしないのにな』ですって。わたしがそれまで善だと思ってしてきた事は、その男を堕落させただけ。じゃあ、わたしはどうすれば良かったわけ? 施し一つするにも、それが本当にその人の役に立つのかどうか、逆に堕落させてしまわないか、どうしたら分かる?」
その話しを聞いて、アモスがにやっと笑って言った。
「それから、その男は現れたか?」
「その話しを聞いてから、次に来たらどうしたらいいか考えていたんだけれど、そう言えば来ないわね。」
「俺がとっ捕まえて、かなり痛い目に遭わせてやったからな。まあ、二度と来ないだろう。」
「え、アモス様が?」
「わたしの大事なエステルを悩ませるような奴には当然の報いさ。同じ悪でも、やってもまだ許される可能性のある事と絶対やっていけないし許されない事がある。人の善意を踏みにじるようなことは絶対にやってはいけない事だと思う。善を行おうとすることを躊躇させることになるような事は許されない。そのおかげでエステルが悩んでいるのを見たら、ちょっとは罰を受けてもらおうという気になるだろう。」
「アモス様はご存じだったの?」
「もちろん知っていたさ。わたしもヨセフから聞いたからな。ちょっと配下の者に、その男の素性を探らせて、わたしの前まで連れてこさせてな。エステルを悩ませた報いを受けてもらった。」
「まあ、わたしも人の善意を悪用して甘い汁を吸おうという奴など、最低のクズだと思うから、アモスを批判するつもりはない。」
その男にあまりにひどい事をしたのではないかと心配して、エステルがちょっと顔を曇らせたので、オベドがアモスを擁護した。
「まあ、善と悪と言っても、そんなに簡単ではないという事だな。本当の事を見抜く知恵も必要だし、自分がやった事がどんな結果をもたらすかという事についても、慎重に考えなければならないし。」
アモスが、実際の生活の場で善悪の判定をすることの困難さを嘆いた。それにオベドが反応した。
「議論をするとき、善と悪と言うよね。善と悪とどちらを選ぶか。善を選び、悪を捨てよと言われている。だけどこの頃、本当にそうかなと思い始めた。私たちがする事が他人に良い結果をもたらすのが善で、悪い結果をもたらすのが悪だとすれば、絶対の善なんてあり得ない。何をやったって絶対に誰も困らせないことなんてないからな。とすれば、私たちの選択は、小さい悪か大きい悪かでしかない。
「『汝殺すなかれ』って言うだろう。でも、その男を生かしておいたら多くの人が殺されるという場合、その男を殺す事は赦されないのか? 誰も殺さないのが善であって、それが不可能なら、人には、悪の中で小さい方を選ぶという事しかできないのではないか。その男を殺すのは小さい悪で、多くの人々がその男に殺されるのを放っておくというのは大きい悪だと言ってはいけないのだろうか。律法にだって死刑という刑罰が定められているじゃないか。これは結局、大きい悪より小さい悪を選ぶと言う事だろう? 『汝殺すなかれ』という戒律と死刑とは文字通りに取れば矛盾していると思う。」
「オベド、発言に注意しろ。お前、それを誰かを頭において言っていないか。そうでなくても、そう取られかねんぞ。」
「もちろん、こんな事をどこででも言うつもりはない。」
「注意しろよ。お前は声が大きいからな。しかも、興奮すると更に大きくなる。」
「たとえば、『汝姦淫するなかれ』と言われている。しかし誠実な夫や妻を裏切る姦淫はもちろん許されないにしても、暴力をふるう理不尽な夫から逃げ出した女性が逃げるのを助けてくれた人と恋に落ち結ばれた場合、姦淫としてただ批判するだけで良いのかなどと考えてしまう。離婚がまだ成立していないということだけで、なぜそこまで大きい罪とされなければならない? 一つ一つの事例で、事情が違えば判断が違ってくるのは当然だと思うのだけれど、律法では、姦淫は悪、罰は死刑だ。それで良いのか。」
オベドが誰に訊くともなく問う。
「まあ、律法学者の前では、それは言わない方が良いだろうな。」
そこにエステルが思い出したように話しに加わってきた。
「そう言えば、パリサイ派の人達が姦淫をした女をイエス様のもとに連れてきた事があったわね。」
「それは、何のために?」
オベドが訊く。エステルではなく、アモスがそれに答えた。
「たぶん、律法に従えば、この女は死刑ですが、どうすべきだと思いますかと訊いたといった所だろう。」
「そうよ。よく分かるわね。」
エステルが感心したようにアモスを見る。アモスの顔は真剣だった。
「よく考えられた罠だ。死刑を否定すれば、律法を守らない男として祭司や律法学者から批判される。しかし死刑にすべきだと言えば、反逆者としてローマ総督に訴えられることになる。」
「死刑判決はローマ総督の権限だからな。」
オベドはアモスの推測を肯定した。
「それで、イエス様はなんと言ったと思う?」
「彼は,どうも一筋縄では行かん男のようだから、何とか罠から逃れたんだろうな。ちょっと見当がつかないが。」
「最初は、いろいろ言われても、砂に何か書きながら、ずっと下を向いていたらしいわ。それで、最後に一言、『お前たちの中で罪を犯した事がない者から、その石を投げよ』と言ったのね。虚を突かれたみんなは黙ってしまったんだけれど、その内に一人また一人とその場から離れて、最後はイエス様と弟子たち、それにその連れてこられた女だけが残ったの。」
「分からんでもないな。少なくともそこで石を投げられる奴はよほど恥知らずだ。」
アモスがぽそっと言った。オベドは何も言わなかったが、アモスの言葉に賛成している事は確かだ。
「砂に文字を書いていたって、何を書いていたんだ。」
アモスが言う。
「さあ、十戒でも書いていたんじゃないか。」
オベドが推測を述べる。
「まあ、ありそうだな。」
「しかし『汝姦淫するなかれ』じゃないよな。」
「まあ『汝殺すなかれ』とか『汝隣人の家をむさぼるなかれ』とか。」
「二人になって、イエス様が『あなたを罰する人は誰も居なかったのか』と訊いたの。女の人が『主よ、誰も』って答えたら、『わたしもあなたを罰しない。これからこのような事がないように』で終わったわ。」
「少なくともその人は厳格に律法を守るより、事情によっては情状酌量があっていいと考えているわけだ。律法学者たちから見たら許しがたい発言だな。」
「でも、イエス様はその女の人を見て、罰するよりは許すべき事情があったのだと判断したのでしょう。姦淫という言葉にまとめてしまえば十把一絡げになるけれど、その事情はさまざまだし、誰も責められないような事情がある場合には許されるべきだという考えは、律法学者たちは許さないと思うけれど、わたしは素直に心の中で納得できるの。」
「エステルも危険分子だな。まあ、ここに居る三人とも同じだけれど。」
アモスが笑いながら冗談を言った。
第四章
「上司に釘を刺された。」
アモスが言う。かなり真剣な表情と口調で言われたので、オベドもちょっと座り直した。オベドの家の客間で、二人ともよく知っている百卒長が横に控えている。アモスの言う上司とは彼が務めている政庁の上役で、ユダヤ人でありながら、ローマ総督ピラトの腹心の一人だ。百卒長はその上役の指揮下にある男だが、二人とは長いつきあいで、二人もその誠実さに信頼している。
百卒長は、他の国ならほぼ中隊長にあたるローマ軍の役職で、二種類のタイプの人がいる。一つのタイプは良家の子息で、最後は将軍まで狙う事ができる男が、まず最初の頃、まだ若者の内に着く役職として経験を積んでいるという人々で、経験をつんだベテランの副官がつく。もう一つのタイプは兵卒からのたたき上げで、退職間際に最後の役職として百卒長に昇進した者で、酸いも甘いもかみ分けた苦労人が多い。ここに居る百卒長は後者であり、アモスやオベドは、ユダヤ人とローマ人という枠を越えて、親しいつきあいをしている。その百卒長が心配そうな顔で二人を見ている。
「そうなんです。少し注意が必要です。今のところはまだ心配ないですが、いつ状況が変わるかも知れませんので。」
「どういうことだ?」
オベドが二人に訊く。
「どうも、あのイエスという男に対する総督の認識が変わってきたらしい。つまり、あの男のせいで、ユダヤの政治的な状況がかなり悪化しだしたという風に見ているようだ。祭司や律法学者たちとの対立が、不穏な情勢を生み出しているという認識だな。」
アモスが答えると、百卒長はそれを肯定するかのようにうなづいた。
「実際にそうなのか。」
「まあ、それほど的外れな認識では無いだろうな。イエスという男の意図とは違うと思うが、実際、だんだん対立が抜き差しならない状況になってきているようなのだ。」
「それで、釘を刺されたというのは?」
「エステルとオルパの事さ。本人たちには悪意はないというのは上司も知っている。ただ、わざわざ疑われるような事はするなということと、とばっちりを受ける可能性があるから注意せよとは言われた。」
「エステルにもう出かけないようにせよと言ったのか?」
オベドが訊く。アモスは苦虫を噛み潰したような顔でうなずいた。
「『アモス様の指図は受けません』と言われた。『別に法に違反しているわけでもないし、ただ話を聞きに行っているだけです』とさ。エステルにそんな風に言われるとは思わなかった。」
「その人とアモスのどちらを選ぶんだと問い詰めなかったのか。」
オベドの問いにアモスはため息をついた。
「あのイエスとかいう男の方を選ぶと言われたらどうするんだ。」
「そんな事を心配しているのか? ないない。エステルとオルパは似た所があるが、オルパの行動から類推するに、たぶん、自分には非がないんだから問題ないと思っているだけだ。」
「自分に非がなくても、問題が起こるのがこの世の中だ。理不尽な事など、オベドだってしょっちゅう目にしているだろうが。」
「まあな。私たちはそのことを知っているが、二人はどうかな。オルパにせよ、エステルにせよ、純真な心の持ち主で、それが二人の良い所なんだが、あまりに純真すぎるのも心配で。たぶん、理不尽な事が起こるのが世の常だとは思っていないだろう。」
「それは、エステルがあの純真なまま人生を送れたら、こんなに良い事はないと思っている。だが、それではこの世の中、生きてゆけん。」
「アモス。エステルがそのままで人生を幸せに送れるようにするのが、お前の役目ではないのか。」
「まあ、それはそう思っている。しかし、この件では、何か起こりそうで心配で。」
「そのイエスとかいう人も、何となく同類のように感じられるがどうなんだ? それで話しがあうのかも知れん。」
「そうかも知れんな。ただ、彼は世の中の理不尽さを知っているという点で、少し違うような気がする。知っていて、それでもなお、自分が正しいと思う生き方を選んでいる。ひょっとしたら理不尽に殺されることもあるかも知れないという覚悟をしているようにも見える。」
「ちょっと危険な人だな。結婚はしているのか。そんな人と結婚したら、奥さんは大変だと思うが。」
オベドの問いに、アモスは虚を突かれたように一瞬考え込んだ。
「そうだな。考えた事もないが、結婚していても不思議はない年だ。しかし、奥さんが居たら、自分だけの覚悟では済まんからな。あの男の事だから、奥さんが居たら大事にするだろうが、それで、あの生き方を捨てられるかどうか。『あなたは神様とわたしとどっちが大事なんですか』と訊かれたらどう答えるんだ?」
「おいおい、大変な事をあっさり言うなあ。」オベドはびっくりして答えた。「そんな質問は考えてもいけないというのが、われわれユダヤ人じゃないか。」
「そうか。おれは『エステルと神様とどっちが大事だ』と訊かれたら、迷う事無くエステルを取るぞ。」
「すごい事を言うな。まあ、アモスらしいと言えばアモスらしいかな。しかし、主なる神という事は、神様はご主人様なんだから逆らえないはずだろう。」
「奴隷が反乱を起こす事だってあるだろうさ。ご主人様があまりにも理不尽な事をしてきたら。」
「まあ、俺以外の人にあまり言ってくれるな。」
「そりゃあ言わんさ。言ったらどうなるかぐらいの事は分かっているからな。しかし、俺もあの男の話しを聞いている内に影響されたかな。」
「逆の方にか?」
「ああ。彼は父なる神といって、神様を自分のすべてを任せきって大丈夫な父親のように話す。しかし、オベドも知っているように、俺の父親はそれほど立派な男ではなかったというより、かなりひどい男だった。あのイエスとか言う男の考えているような立派な父親も居るだろう。しかし俺は、父親のやる事が理不尽だと思う時には反抗してきたからな。神様がエステルを不幸にするようなことをしたら、そんな神様に仕える気は無い。」
「その時は別の方向へ話がそれてしまったが、あの男が結婚しているかどうかの話があったろう?」
アモスが言う。
「ありましたね。」
「あの男について行っている人達の中に女性も多い。皆、当然のこと彼を慕っているのだろうけれど、どうも特にその内の数人が、彼を教師というより恋人のように慕っているらしい。まあ、それで彼女らの中でもめたりするような事になっていないのは、あの男の人徳だな。ただ、彼女らは、そのような危険な男の危険さを承知の上でついていっているようで、それはまあ、彼女らの勝手だ。」
「ただ、エステルがそのような女性と同じような行動をし始めたら困るというのだろう?」
「まあ、そうだ。」
「まあ、大丈夫だ。オルパの見る所、そこまで深入りするつもりはないはずだ。」
第五章
「いやあ、笑った、笑った。あの青年があの男とあんな話を始めるのを聞いて。お前が訊きたかった事を訊いてくれた。いやあ、あんな場面に遭遇するとは思わなかったな。」
その後、心配になった二人が、百卒長の部下でイエスという男を監視するため張り付いている兵士に話をつけて、ひそかに、エステルとオルパを見張るようにしたのだが、その時、オベドとも顔見知りの青年が、皆に話をしたり、質問に答えているその男に問いかけたのだ。
「『良き師よ、何をしたら永遠の生命を受ける事ができますか』だと。」
アモスのあざけりにオベドがちょっと反発する。
「それは、あの青年は、あまり深く考えずに気軽に質問した。あんな大事な問いにそんな態度で、お前大丈夫かという気持ちになる事は分かる。まあ、彼は物事をそんなに深く考える男ではないが、ただ悪気はない。そこまで笑う事もなかろうが。」
「お前の知っている男なんだな?」
「まあ知ってはいる。友人と言うほどではないが、道で出会えば挨拶ぐらいはする。考えは浅いが、まじめはまじめだ。今日の質問も彼らしいと言えば言える。」
「しかし、ちょっと考えが浅すぎるだろう。あの男と関わると自分にどういう影響が及ぶか理解できていない。今の状況で慎重に行動しなければ、どこから問題が起きるか分からないだろうに。彼の親の立場が悪くなる事だってあり得る。」
「だからあの人もそれを注意していたじゃないか。まあ、あの青年が分かったかどうかと言えば、たぶん分かってはいないだろうけれど。」
「『なぜわたしを良き師よと言うのか』という時、『お前そんな軽い気持ちでそんな事を言って大丈夫か』というほとんど叱責に近い口調だったからな。」
「まあ、彼の事をかばうという面もあったし、そこまで言わなくても。」
「まあな。庶民ならともかく、彼ぐらいの金持ちの家の男なら、あの男を良き師よなんて呼んだことが祭司たちにばれたら、ちょっといじめられるだろうしな。」
「おいおい。ちょっといじめられるってえらく軽く言うが、それではすまんだろう。」
「分かっているよ。あの男もそれがあるから注意するようにと、あの青年にわざわざ注意してやったという面もあるだろう。」
「まあ、あの青年にはもっと直裁に言ってやらないと分からんのだろうけれど。」
「しかし、あの答えは傑作だったな。『もし命を得たいのなら掟を守りなさい』と言われた時のあの青年のぽかんとした顔は面白すぎて、今でも笑える。」
「まあ、『学問ができるようになるにはどうしたら良いですか』と訊いて、『一所懸命に勉強しなさい』と答えられたようなものだからな。」
「しかし、『どの掟ですか』は無いだろう。その質問そのものが、彼が考え無しだと言う事を示している。」
アモスの笑い声は止まらない。
「まあ、そうだな。しかし、あの人はまじめに答えていたな。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな』。」
「そして、なぜかその後に『父母を敬え』が来て、最後が『隣人を自分のように愛しなさい』だ。」
「青年の問題が対人関係にあるという事を、あの人は見抜いてそう言ったんだろう。本当に彼がこの問題を真剣に考えていたなら、『それらは皆守ってきました。他に何が足りないのでしょう』という言葉は出てこないだろう?」
「まあ、そうだな。少なくとも『隣人を自分のように愛しなさい』という掟を真剣に考えていたら、『それらは皆守ってきました』というような言葉がさっと出てくる事はないからな。その点で、彼はお前やエステルとは違うよ。」
「そう言えば、前に姦淫の場で捕まった女の話が出ただろう? 『お前たちの中で罪のない者がまずこの石を投げなさい』というあれ。あの青年は、なぜその時に皆がその場を離れていったのか分からないだろうな。」
「率先して石を投げたり。」
「いや、それはしないだろう。よく言えば、彼は優しい。自分の前で人が刑罰を受けているのを直視できるような男ではない。まあ、悪く言えば気が弱いというだけの事だが、そんなに悪い男ではないんだ。何回も言うけれどな。進んで友達になりたい男かと言われば、まあそれほどではないが、彼なりにまじめはまじめなんだ。」
「毒にも薬にもならんと言う事だな。」
「いや、だから、そこまで悪くは言っていないって。」
「しかし、さっきから気になっていたんだが、なぜ名前で呼ばずに『あの青年』と繰り返すんだ。」
「実はど忘れをして名前が出てこないんだ。わりとしょっちゅう会っているんだけれどな。」
「まあ、その程度のつきあいと言う事か。」
「しかし、『他に何が足りないのでしょう』という問いに対して、『すべてを捨てて、わたしに従え』という言葉は、あの青年には酷じゃないか。」
オベドのつぶやきのような感想に、アモスは簡単に答える。
「あまりにも考え無しだから、ちょっと極端な事を言って脅かして、自分で考えさせるしかないと思ったんだろう。額面通りに受け取る必要は無いと思うがな。」
「本当に真剣に貧しい人達の事を考えてきたのなら、『すべてを捨ててわたしに従え』と言われても、まず、それでは自分の家族や雇い人がどうなるのか。その人たちは不幸になっても良いのか。今持っている財産を売り払って手に入るものと、今のまま商売を続ける事によって得られるものとを比べれば、商売を続けて行く方がよほど人に施しできる金が多いのではないかとか、言わなければならない事はたくさんあるだろう。」
「だから、彼もそう言えれば良かったんだって。そうすれば、あの男だって、それに何らかの答は出してくれたはずだと思う。少なくともあの男には、真剣に訊いてくれば真剣に答える誠実さはあると見たが。」
「その意味では、わたしの問いの答えは、あの場では得られなかったと言う事か。」
「そりゃあそうさ。さっきも言ったが、あの問題は、自分で答えを出さなけりゃあ意味のない課題だろう。もともと、人に答えを出してもらって済むような課題では無いんじゃないか。」
「そうかも知れないな。答えを出す手伝いはできても、最後は自分で答えを出さなければならない。とすれば、教師にできる事は、いろいろヒントを出して誘導する事しかないし、あまりヒントが露骨すぎれば、答えが分かっても意味が無い。」
「あの男は、その点では、わりに我慢強く指導した方じゃないのか? わたしなら、面倒くさくて、『うるさい。自分で考えろ』で終わりだな。」
「もう少し粘って食い下がれば良かったと言う事か?」
「まあ、そうだろう。あの青年が背を向けて立ち去って行ったとき、あの男はずいぶん寂しそうな顔をしていたぞ。」
「しかし、あの後の弟子たちはいただけなかったな。」
アモスが吐き捨てるように言った。
「『私たちは、今あなたが言われたように、すべてを捨てて従いました』という発言か?」
オベドが確認するように訊ねる。
「ああ、そうさ。あの時に『ついては何がいただけますか』は無いだろう。あの質問をされた時、あの男の顔色が変わったろう?」
「ああ、そうだったな。何かこの世の終わりが来たときのような絶望の顔だった。」
「それはまあ、あの時、立ち去って行く青年の後ろ姿に、自分が救えなかった魂のこれからを思って、大きな悲しみを感じている時に、ああいう事を言われたら耐えられないだろう。ああ、この弟子たちは今、わたしの気持ちから一番遠い所にいると感じたらな。あの群衆の中で、あの男は限りのない孤独を感じていただろうと思うよ。」
オベドはアモスの鋭い観察力と推察力に驚いた。
「あの人の気持ちが分かっていない人ばかりではないだろう。少なくとも、アモスはそれを感じ取ったんだし。」
「まあな。しかし俺は弟子じゃない。あれを言っていた連中は、あの男の弟子たちの中でも、かなり側近なんだろう。その連中があれではな。」
「しかし、弟子たちの全部が全部そうであったわけでもないだろう?」オベドが言う。「実は、例の百卒長の部下で、彼らの監視に当たっている兵士たちが何人かいる。その中で、かなり側近の連中と話ができるようになった男がいる。その男の話では、あの時、必ずしも皆が皆そうであった訳ではなく、苦々しい思いをしていた者もそれなりにいるらしい。まあ、その兵士自身が、そのような成り行きに怒っていたらしくて、同じ思いをしている者を見て、ある意味ホッとしたんだな。」
「そう言えば、何人か、わたしと同じように苦々しく思っていた者も見掛けたな。あの男のすぐ近くにいた女性数人、それにあの青年が立ち去る時に、後ろから慰める声をかけていた男とか。」
「ああ、あの女性たちは、前に話していた、あの人のためなら何でもするという人たちで、その内の一人が彼の妻ではないかという噂もある。それと、青年に声をかけていた男というのが、百卒長の部下の兵士と仲が良い弟子で、トマスという、これは本当にまじめな男らしい。この男もあの人に対する忠誠心は見上げたものだと言っていたな。」
「あのぶどう園のたとえ話を憶えているか?」
オベドがアモスに探るように訊いた。
「ああ、弟子たちに対するあの当てつけな。」
「弟子たちは当てつけと分かっていないんじゃないか。」
「まあ、『ついては何がいただけますか』と言った連中はな。しかし、あそこまではっきりと、しかも『多くの先の者は後になり、先の者は後になる』という言葉をたとえ話の前後で繰り返しているんだから、弟子たちも『お前たち、今のままでは後になるぞ』と言われている事ぐらい分かるだろう。浮かれている連中はともかく、それ以外の弟子たちは肝が冷えたんじゃないか。『わあ先生、かなり怒ってらっしゃる。どうしよう』とな。」
アモスがそう言って、たとえ話の感想を言い始めた。
「朝六時から働いた者も、九時、一二時、三時、そして最後は五時に働き始めた者もすべて一デナリの報酬を得たという話は、問題だらけだ。たとえば、これが一日だけであれば問題はないが、収穫期の間、毎日続く話だ。こんな事をやったら、次の日から皆五時まで遊んで暮らすようになるのは目に見えている。」
「まあ、これは人生をたとえているんだから、一日限りの話しなんだろう。」
「しかし、この話しを聞いた者は、『要するに人生の最後、死の間際に改心すれば良いんだろう。それまでは好き放題にやっていいんだ』と思うようになる。実際、神様としては人生の最後にでも反省した人は救うしかないんだろうけれど、それを当てにしてやりたい放題というのを許して良いのか?」
「そうだな。わたしなら次の日は午後五時まで遊んでいた奴は無視して、それでもなお朝六時から働こうとして集まってくるまじめな人しか雇わないようにするな。」
オベドも自分がぶどう園の主人ならどうするかという立場で考えていることに、アモスはちょっと笑った。アモスは言った。
「だいたい、早くから働いていた人から順に一デナリウス払ってゆき、先に返して、『いいか、お前は一二時間は働いていないけれど、家族がパンを食べられないと気の毒だから一デナリウスあげる。他の奴には絶対に言うなよ』とやれば問題が無い話だ。なぜわざわざ遅くから働いていた者から払うんだ?」
オベドは、この点について結構考えていたと見えて、さっと答えた。
「たぶん、この農園の主人は、朝から働いている者は一デナリウスもらえる事が分かっているから安心しているだろうと思ったんだろうな。それより『今日はいくらもらえるんだろう。それで家族のパンがどれくらい買えるかな』と心配している者にまず払って、安心させてやりたかったという設定だ。」
「朝六時から働いている連中が、あいつら幾らもらえるんだろう。一時間しか働いていない奴らは五コドランスか、良くて二アサリオンだとすれば、一人分のパンもまともに買えないぞ。俺たち一日中働いて一デナリオンもらえる連中から少し分けてやるか。明日は我が身だしな。」
「ハハハ、彼らの代弁か。まあ、そうはならないな。」
オベドが、アモスの芝居の台詞のような口調に腹を抱えて笑った。
「まあ、そうだ。実際、あの男も『あいつらが一デナリウスで、なぜ私たちも同じ一デナリウスなんだ』と言わせているしな。」
「だから、弟子たちはそう言ってはいけなかったんだ。」
オベドが苦笑いしながら言った。
「遅くから働いた者に一デナリウス払われて、自分はもっともらえるだろうと思うのが普通の人で、そこで『あの人たちも今日は何とか家族を養う事ができる。よかった』なんて言うような聖人がそんなにいるわけがない。あの男は弟子たちに求めすぎだ。」
「そうかも知れない。だが、だからお前たちは神の国に入れてやらんとは言っていないじゃないか。確かにお前たちは神の国に入るだろうと約束していただろう。」
「『しかし、多くの先の者は...』という叱責付きでな。」
「まあ、それでも一応、ご褒美の約束する所が優しいじゃないか。」
「優しいのか? 俺はその叱責の方が気になるがな。」
第六章
「えらく大変な状況になってきたな。」
アモスが口火を切る。オベド家の客間に、アモスだけではなく、エステル、オルパも寝椅子に座っている。オベドの友人の百卒長も神妙な顔をして立っている。執事のヨセフだけでなく、アモス家のナオミも、エステルの付き添いという形で、部屋の隅、台所へ通じる扉の近くに立っている。
「このエルサレムにロバに乗って入ってくるというのは、油壺に火を放り込むような所行だ。祭司や律法学者たちに宣戦布告をするに等しい。いったいあの男は何を考えているんだ。」
アモスの言葉には、いらだちが隠せない彼の気持ちがはっきりと見て取れる。
「ローマ総督にも報告が行っていますが、どう考えても何もなしで収まるような状況ではありません。」
百卒長が心配そうに言う。彼もどちらかというとあのイエスという男に好意的で、今回の出来事に困惑しているのがよく分かる。
「群衆は棕櫚の葉を振って歓迎した。」オベドが誰に言うともなくつぶやいた。「これで自分はメシアであるという宣言を行った事になる。なぜ、こんなことをした?」
「ここ数年、今年の過越祭の時にメシアが現れ、神の裁きが始まるという噂が流布しているだろう?」アモスが言う。「あの男もそれを信じてこんな事をやったのか?」
「それは分かりません。」エステルが言う。「でも、どちらにせよ、祭司や律法学者たちとの対立がのっぴきならない所まで来ていましたから、イエス様の思う神殿のあるべき姿を実現するためには、もうこれしか方法が無いと思われれたのかも知れません。」
「そう言えば、神殿で両替商や生贄の動物を売る店をひっくり返したんだって?」
「そうなの。両替商にせよ、生贄の動物を売る者にせよ、祭司とのなれ合いで儲けているのは公然の秘密だし、苦々しく思っている人は少なくないけれど、あそこまでやれば、やり過ぎだと思う人も多いだろうと思うの。これまではわりと慎重に行動していたのに、ここしばらく思い詰めたかのような性急な行動を取る事が多いみたい。何かせっぱつまっての行動だという印象があるわ。」
「私が監視のために配置した兵たちの中にも、最近、あの男が何かせっぱつまって焦っているのかなという印象を持っている者も多いようです。」百卒長が口を挟む。「このままでは何か大変な事が起こりかねません。その前に何とかしないといけないのではと進言する者もいるのですが、ではどうすれば良いかと考えても、良い答えが見つからん状況なのです。お手上げですよ。」
「逮捕されたって?」
オベドの質問に百卒長が答える。
「ええ、最高法院の命令です。ほんの今さっきの出来事です。とりあえずご報告しようと思って、ちょっと抜けてきました。」
アモスの家の客間で、皆が集まって話をしている所に百卒長が駆け込んできたのだ。たまたまオベドとオルパがエステルをつれてアモス家を訊ねていたので、四人が百卒長の回りに集まって状況を確認している。ナオミはいない。彼女はたぶん最高法院に向かったんだと皆は思っている。
「最高法院は彼を総督に引き渡して処罰を求めるでしょうから、その移動その他、私に命が下される事になりそうなので、あまり長居はできませんが、とりあえずご報告だけでもと思って。」
「いや、本当にありがとう。これから忙しくなると思うけれど、気をつけてな。一歩間違えると暴動になるかもしれんし。」
アモスのねぎらいの言葉を背に、百卒長が総督の下へ帰るために出て行った後、エステルが心配そうに言った。
「ナオミは意気消沈しているわよね。あのエルサレム入場の日からある程度覚悟はしていたみたいだけれど。」
「お前は?」
心配そうに訊くアモスにエステルが答える。
「私はイエス様の事に関しては、あの人の生き方からして、こうなるしか無かったのかなと思うだけ。ただ、なぜあのような生き方をするとこうならなければならないのかという事に関しては、何かがっかりしたような気持ちになっている事は確かね。この世には理不尽な事があり、それは一人一人の心の中にあるほんのちょっとの利己心の積み重ねだと考えると、よく神様は人間を見捨てないものだと思う。私ならとっくの昔に人間を滅ぼしているかも知れない。ノアの時のように。」
「神様はノアの時に、今後は人を滅ぼしたりしないと約束したからな。」
アモスが投げやりに口を挟んだ。
「そんな約束が当てになるかしら。」
エステルの口調の激しさに、皆少し戸惑った。
「私たちユダヤ人をつないでいる絆は出エジプトでしょう。神に守られて奴隷の地エジプトから乳と蜜の流れる地イスラエルへ脱出したと律法には書いてあるわよね。でも、エジプトを脱出してからイスラエルにたどり着くまでに四〇年かかっている。脱出した人のほとんどが旅の途中で死んでいる。いくらその人たちが神様の掟をないがしろにしたからと言って、それは約束を破った事にならないの?」
「神様との約束を守るならばという限定付きの契約だろう。」
「そんな事、エジプト出発の時にちゃんと説明したのかしら。もししたのなら、それでは脱出はあきらめるという人がたくさん出てきたはずでしょう。少なくとも大半の人が目的地にたどり着けてこそ、約束を守ったという事になるんじゃないかしら?」
「神と人との契約なんてそんなものじゃないか? 契約と言いながら、もともと対等の立場じゃないんだし。」アモスが言う。「あの男は『父なる神』といつも言っていたらしいな。『父親だから信頼できる。約束は守ってくれる』ということだろう。残念ながら、私の父親はそうではなかった。まあ、後で考えれば私の事を考えてあえて約束を破ったという事もあったが、大半は自分の都合や気分での約束不履行だ。『父なる神』がそうでないとどうして確信できる?」
「律法を読んでいると、こちらの態度次第で、いつ神様に手のひら返しをされるか分からないという気持ちになる部分がある事は確かだ。しかし、あの人が『父なる神』と言う時には、自分の子供のためなら何でもするお母さんのような愛情を私たちに注いでいるという確信を抱いている。そういう親に絶対的な信頼をおいているような子供は親にとってもかわいくて、その子のためには何でもしてやろうと思うのだろう。」
オベドの言葉にアモスは皮肉に答えた。
「まあ、そりゃあ、俺みたいな子供はかわいくないだろうよ。」
「死刑の許可が出た?」
アモスが意外な事を聞くように問い直した。横でオベドもびっくりしている。ここアモスの仕事部屋には、今この三人しかいない。
「ええ。」百卒長が答える。「ついさっき。」
「なぜだ? ピラト総督はあの裁判要請が最高法院の連中の勝手な言い分で、ユダヤの連中の信仰上の対立には関わりたくないから、この件には関わらないと言っていなかったか。」
「そうなんですがね。処刑を認めざるを得ないような状況になってしまって。」
「何があった?」
「祭司や律法学者に扇動された民衆の声に逆らいきれなくなったんです。」
「民衆が処刑を求めたのか?」オベドがどう言っていいか分からないというような感じで、絞り出すような声で訊いた。「ついこの間、あの人のエルサレム入場を大歓迎した民衆が?」
「まあ、あの男の思いは最初から民衆とは全くずれていたからな。」アモスは自分なりに納得できたようで、いつもの冷静な態度に戻っていた。
「民衆は、今にも神の国が到来して、神様がローマ人を追い出してくれると思ったから大歓迎したんだ。それがそうでもなさそうだという事になれば、手のひら返しもあるだろう。」
「これまではローマに逆らう事など考えてもいなかったろうに。」百卒長がローマ人の立場から発言する。「反ローマと言いながら、その実ローマ風の生活を送っている。律法を守ると言いながら、それは表面だけで、実際にはローマ人と変わらない生活を送っている連中も多い。ローマの貴族に取り入って何とかしてローマの市民権を得ようとしている奴らが、メシアの到来を持ち、ローマの支配から脱却すると言う。言行不一致もいいところだ。」
「マカベヤ家の反乱の時にシリアからの独立に成功したのは、ローマの後ろ盾があったからだ。それを我々は神に選ばれた民だからあの大国シリアに勝ったのだという思いだけが残ってしまった。だからローマにも勝てるはずだと考えている奴らは現実を知らないにも程がある。」
アモスの激しい言葉に、オベドがちょっと驚いて、つぶやいた。
「ようするに無責任なんだ。ただただ自分の不満をぶつけているだけで。ローマにあこがれて、そのような生活をしたいと思いながら、そこまでの覚悟がないからユダヤ教の戒律は守っておりますと表面だけ取り繕っている。そこへイスラエル王国の再来をもたらしてくれるメシアが現れたと言われれば、その男について行く。挙げ句の果てが、その男が自分の願っていたような事を実現してくれないと分かると簡単に裏切る。」
「そういう奴が一番たちが悪い。群衆の中に紛れ込んでしまうと、自分一人ではできない悪い事を平気でやる。何か責任を問われるような事になれば、自分は皆について行っただけでと、真っ先に逃げ出すくせに。」
「一人一人、ピラトの前に連れ出して、『お前はあの男の処刑を望むのか? そのことに責任を取るんだな?』と問いただせば、『いや、私は別に』と逃げ出す奴らが、たくさん集まるとああなる。」
「しかし死後の審判の時にはそれぞれが、ただ一人で神の前に立たされることになるんじゃないんですか、ユダヤ教の教えでは? 皆がそう言ったからわたしもそう言っただけですという言い訳は通じませんよね?」
百卒長が、心底疑問だという風に訊いてきた。
「最後に自分たちが一人一人神の前で裁かれると本当に思っていたら、あんな無責任な事はできないだろう。」アモスが吐き捨てたように言う。「あいつらの信仰って、その程度のものだ。『汝らの内で罪のない者がまずこの石を投げよ』と言われた時に石を投げておきながら、自分の罪を指摘されたら赦しを乞うやからだな。」
「ピラト総督は何とか助けてやろうといろいろ画策したんですが、民衆の『十字架につけろ』と言う声がすごくて、これであのイエスという男を釈放したら暴動が起きると思ったようですね。」
「気の毒にな」アモスが皮肉混じりに言う。「暴動なんか起これば、自分のクビが危なくなる。民衆がどう言おうとあの男を死刑にする理由はないという思いを貫く事はできまい。あの男だって自分の地位は惜しい。しかし、ピラト総督もなぜそこまで助命を画策するのだ? 彼だって総督になるまでには何回も、あの男よりももっと罪の軽い男でも、さらに言えば冤罪をでっち上げてでも政敵を葬ってきた事があるだろうに。」
「それはそうなんですがね。」百卒長が意外な事を言ってきた。「それは総督が実際、何人もの邪魔者をそうやって排除してきた事は事実ですが、今回は事情が違うようです。私も意外だったのですが、今回の件で、総督はかなり彼を処刑しなければならなかったことに思い悩んでいるようなんです。信頼できる祭司でもおれば懺悔したいと思うほどに。」
「なぜ? 何が違う?」
「これまで、総督がやってきた事は上司の言葉の端々からある程度想像がつきます。実際、かなりえげつない事もやっているみたいです。ただ、その相手が、そうやられても仕方のないようなクズで、そうしなければ自分が逆にやられていたのだからという言い訳で心を落ち着かせる事ができたらしいんですね。あのイエスという男はそういう連中とは違う。あいつを死刑にしたら、あいつの言う『父なる神』の前に立たされて詰問されるんだというような恐怖を感じているんじゃないでしょうか。」
「総督はユダヤ教徒じゃないだろう?」
「もちろん、ユダヤ教徒ではないんですがね。彼がこれまでどんな神様を拝んでいたのか知りませんが、ジュピターを始めローマの神様は善悪といったことには無頓着ですね。神様そのものが姦淫したり、気に入らない人間に意地悪したり、ユダヤ教の信じる神様とはだいぶ違います。それなのに、総督は今、神様からの処罰を怖れているような気がします。ユダヤに来て、少しユダヤ教の影響を受けたのですかね。実は詳しくは聞いていませんが、あのイエスという男とかなり長く話をしたそうですよ。」
「それは判決を言い渡すためには当然だろう。」オベドが首をかしげた。
「いや、そういう話ではなかったようです。どうも総督が、あのイエスという男がどのような信仰を持っているのか気になったみたいですね。総督はいつ誰かから裏切られるかも知れないという不安の中での生活をしているわけですが、そのような生活から抜け出すにはどうしたら良いのか、あの男なら答えを持っているのではないかと感じたのではないでしょうか。」
第七章
「あの若者が、弟子たちの何人かをかくまっているって?」
アモスが不思議な事を聞くといった感じでつぶやいた。オベド家の客間に皆が集まって情報の整理をしている。安息日の明けた日曜日の朝、誰が呼びかけたというわけでもなく皆が集まって来た。この金曜日から土曜日にかけての出来事が気になって、誰かと話をしていないと落ち着かないからだろう。アモス、オベド、エステル、オルパ、それにアモス家のメイドのナオミやオベド家の家令のヨセフ、それに百卒長までいる。
話題は、当然、まず処刑の時の様子、次に様々な関係者たちの動向であるが、弟子たちが散り散りばらばらになって隠れているという事が話題になった時に、エステルが、何人か親しかった弟子たちをかくまっていると言った後で、そう言えばという感じで付け加えた。
「前にイエス様に『すべてを捨ててわたしに従ってきなさい』と言われて、帰って行った若者がいたでしょう?」
「ああ、あの根性無しか。」アモスが言う。相も変わらず辛辣だ。
「そう厳しく言わないの。」エステルがたしなめる。「あの人も、何人か世話しているみたいよ。弟子の中にもいろいろな人がいて、一人になっても食べていける手に職を持った人たちだけじゃないのね。あのグループの中におれば、いろいろ皆のための家事みたいなことをして、食事もできていたけれど、皆が散り散りになってしまったら、その日から食べるものに困るようにな人もいるの。そのような人たちに食事を与えているらしい。」
アモスのさっきの言葉は、それを聞いての発言である。
「いったい、どういういきさつで?」オベドが訊く。
「議員のヨセフさんは知っているわよね、あのアリマタヤの出身の? あの人は今度の事には批判的なの。それで、イエス様の遺体の引き取りまでしたんだけれど、弟子たちの中で困っている人たちに手を差し伸べたの。それを知ったあの青年が、私にも何人か回してもらって結構ですよって、ヨセフさんに言ったみたいね。ヨセフさんも金銭的には困らないけれど、あまりに多くの人の世話をするとなると目立ちすぎるので、信頼できる友人たちに協力してもらおうとしていた時だったから、お願いする事にしたんだそうよ。」
「それでヨセフも信頼できる人たちに頼めば良いんだと気づいたので、エステルにも声がかかったわけだ。ヨセフとは日頃のつきあいはそれほどないが、そういうことを頼めるぐらいの知り合いではあるし。」アモスがやれやれという感じでつぶやいた。「大丈夫なのか? ローマから見れば形式上は反逆者の手下だぞ。」
「弟子たちと言っても、名簿があるわけでもなし、中心的に活動していた人たちはともかく、他の人たちは『あの人の話しを聞きに行った事はありますが、弟子というほど深くかかわったわけではありません』で通るわよ。」オルパが言う。その言葉を聞いてナオミがホッとしたような顔をしたのは、やはり気になっていたからだろう。
「しかし、彼は『後のものが先に』なったわけだ。」オベドが何か感じるものがあったようで、しみじみという感じで話し出した。「あの後、彼を見掛ける事が何回かあった。その時、彼の顔が少し引き締まったように見えた。たぶん、彼なりにいろいろあの問題について考えていたんだろう。まあ、もう一度あの人のところに行って質問する勇気はなかったようだが。」
「そうか。オベドが、悪い奴じゃないということの意味は分かった。少しは根性無しを反省したわけだな。」アモスがちょっと見直したという感じで言う。
「しかし、あの男は立派でした。回りに彼をののしる奴らもたくさんいたし、あの残酷な刑で苦しみ痛みが極限まで身体を痛めつけているはずなのに、最後まで毅然としていましたからね。」百卒長がしみじみと語り出す。「彼は自分を神の子だと言っていたそうですが、神の子というものが本当にいるとしたら、今のこの男こそそれだと心の底から思いましたね。」
「彼の十字架上での言動にそんなに感動したのか?」オベドが訊く。
「ええ、それまでのいろいろな出来事で、人というものに絶望しかけていただけに。」
「絶望?」オベドがびっくりして訊く。
「そうです。人というものはこんなに醜いのかという絶望です。民衆の手のひら返しの死刑要求もそうですが、祭司長を初めとする最高法院の連中の行動もひどいものでした。ピラト総督が何とかあの男を救おうとして、『この男はあなたがたの王ではないのか』と問うたのです。つい何日か前に棕櫚の葉で歓迎した者に対して、そのような手のひら返しをして恥ずかしくないのかという気持ちでしょうね。それに対して祭司長が何を言ったと思います?」
「何かとんでもない事を言ったのか?」アモスがあの祭司長ならとんでもない事を言いかねんと思いつつ、見当もつかないので、あっさり訊ねた。
「『わたしたちには、皇帝の他には王はありません』ですと。これを誰か他の人が言えば、祭司長たちは『神に仕えず、ローマ皇帝に仕える者はユダヤ人ではない』とか何とか言って、権限さえあれば死刑を宣告するぐらいの発言ですよ。」
「まあ、そうだな。」
「あいつらに比べれば、まだピラト総督の方が遙かにましですよ。あの男を救うためにずいぶんと力を尽くしましたからね。まあ、結局は民衆に押し切られてしまったわけですが。」百卒長はそう言いながら、想い出したように付け加えた。「そう言えば面白い事があったんです。総督は十字架に『イエス・キリスト、ユダヤ人の王』という札をつけさせたのですが、祭司長たちがその札を外すか、『ユダヤ人の王と自称していた』と書いてくれと文句を言ったんです。それを総督はそのままにしておくように命令したんですよ。あれは祭司長たちに対する嫌がらせですな。俺はお前たちのやったことを許したわけではないという意味もあったのだと思います。」
「しかも、弟子たちも皆逃げ出したでしょう。処刑の場でわたしが見掛けたのは、女性が数人だけでした。こう言う時は女性の方が強いですな。男はどうしようもない。あ、いや男が一人いましたね。ヨハネと呼ばれていたと思いますが、あのイエスという男にずいぶん気に入られていたみたいで、彼の母親の今後の世話を頼まれていました。」
「女性たちというのは?」
オベドの問いに、ナオミが答える。
「わたしは遠くの方から見ていただけなので、良くは分からないんですが、十字架の近くまで行っていたのは、イエス様の母親とその他の親族が何人か。それに、イエス様の近くで世話をしていた女性たちが数人です。わたしはマグダラのマリアという人以外は名前を知らないんですけれど。」
「その人たちだけが、彼と行動を共にしたわけか。あれだけ多くの人が彼の話しを聞きに行っていたのにな。」アモスが言う。「まあ、自分もあの極刑に処されるかも知れないと思えば、そりゃあ、逃げるだろう。」
「そう言えば」とナオミが思い出したという感じで話し出した。「弟子の中でも、本当に側近中の側近だった人にペトロという人がいるんです。わたしは裁判の様子をうかがうために総督府の庭にいたんですが、その男もそこにいたんですよ。やはり、その男も裁判の状況が気になっていたんでしょうね。たくさんの人が集まっていましたが、なるべく目立たないようにして、裁判が行われている場所を覗っていたんです。
「ところが、彼の事を知っている人がいて、『お前もあの男と一緒にいたろう?』と声をかけたんですね。そうすると、びっくりしたように『いや、わたしはその人は知らない』と答えたんです。ところがその話しを聞いていた人たちの中から、『それは嘘だ。俺はお前が彼と一緒にいるのを見掛けた事がある』って言ったものだから、ますます激しく否定し始めて、もう一人の男が『いや絶対お前はあの男の弟子に違いない。俺は知っている』と言った時には、ついに『誓っても良い。俺はあの男を知らない』と言い出したの。
「その時に、たまたま鶏が鳴いたんです。それでわれに帰ったみたい。急に走って逃げ出したの。ちらっとしか見えなかったけれど泣いていたみたいだった。」
「そりゃあ泣くだろう。自分のふがいなさに。」アモスが厳しい声で言った。
「その男の気持ちは分かる。」オベドが言う。「不意に何かを訊かれた時には、まずどう言えば安全かという事を考えるのは本能的なものだ。十分に覚悟を決めて答える時とは答えが違ってくるのはまあ仕方がない。とりあえず、知らないと答えておいた方がいいだろうというのは、とっさの判断としては自然だ。」
「ただ、一度否定してしまうと、それに引きずられざるを得なくなる。今更、『いやそれは嘘で、実はよく知っている』とは言いづらいし」アモスがその話を引き取った。「回りがそれは嘘だと言えば、それを否定する度に余計に訂正しづらくなる。そして、何回も訊かれる度にますます本当の事が言えなくなってくる。そのペトロとか言う男は総督府にまで行ったのだから、それなりの覚悟もしていたはずだ。それがそんな事になって袋小路に追いつめられたんだ。たぶん、もう精神的には崖っぷちに追い込まれていたろうよ。らくだを押しつぶす最後のわら一本というやつさ、その鶏の鳴き声が。」
第八章
「あの男が生き返ったという噂が流れている。」
アモスが言う。前と同じメンバーがアモスの家の居間に集まっている。月曜日の夕方、日没から日を数え始めるユダヤの慣習から言えば、火曜日が始まったばかりという頃、夕食を共にしながら話をしている。めまぐるしく新しい情報が入ってくるので、自然と、話し合いが続く形になっている。
「総督府では、墓が空になっている事の確認は取りました。」百卒長が報告する。「誰かが死体を盗んで別のところに隠したという噂も流れています。」
「ローマの兵士が監視していたのじゃなかったのか?」アモスがきつい口調で百卒長に訊ねた。
「いえ、わたしはそんな命令は受けていませんし、だいたい処刑の後での確実に死んだのかどうかを確認する所までは通常それを担当した兵士たちが行いますが、その死体を引き受ける人が現れたら、死体の引き渡しで任務完了です。その後、その死体がどうなったかは関係ありません。」
「しかし、祭司長たちが『あの男は死んで復活すると言っていたので、そうではないという事をはっきりさせるためにも、兵士に監視をさせてください』と頼んだのではないですか。」
「監視については、祭司長たちは頼んだつもり、兵士たちは断ったつもりという事もあり得ますね。実際にその場に兵士がいたのかいなかったのかはっきりさせる必要がありそうですが。」
オベドの言葉に、百卒長は毅然と応えた。
「総督からの命令なら、かならずわたしを通りますし、わたしは監視を命令した記憶はありません。ですから、私的に依頼されて監視していたという事は考えられなくもないでしょうが、公的な命令ではあり得ません。」
「百卒長は他にもいるから、そちらの方に公的に命令が出ているという事は?」
「これまでの行きがかりから、頼まれるとすればわたしです。それにローマ軍の兵士をなめてもらっては困ります。もし公的な命令で監視していたのなら、知らない間に死体が盗まれていたというような事は絶対に起こりません。」
「まあ、状況を整理してみよう。」オベドと百卒長の議論にアモスが割り込んだ。「とりあえず生き返ったのかどうかはともかく、死体が墓から消えたという事は確かだと判断していいんだな。」
「はい、それは先ほども言ったように総督府でも確認しています。」
百卒長が答える。
「そして、あの男は十字架の上で死んだということも確かなんだな。死んだと思われていた人がその後に息を吹き返すという例はないわけじゃないが、この場合には当てはまらないと。」
「それはわたしたちが確認しました。あの状態から息を吹き返す事はあり得ません。」
第九章
「わたしは直接見たわけではありませんから、何とも言えませんが、この前、トマスというお弟子さんに会ったんです。」エステルが言う。「彼は、復活したイエス様と出会ったと言っていました。あの人は真面目ですから、こんな事で嘘を言うとは考えられません。」
もう、あの出来事から二ヶ月はたっている。その間、アモス家の客間に皆が集まって一緒に食事をしながら、その後の経過について話をするという事が続いている。もちろん、それまでもアモス家とオベド家の者が一緒に食事をするというのは、わりとしょっちゅうあったのだが、その頻度が高くなり、一週間に三、四度はどちらかの家で集まっている。そこに百卒長も加わる事がまれではない。
「そのトマスという男があの男にかなり近い存在であったとしたら、よく似た替え玉という事はないだろうな。それか十字架にかけられた男の方が替え玉だったとか。」
アモスのその言葉に百卒長が異を唱える。
「十字架にかけられた男の方が替え玉だったという事はあり得ません。わたしは近くで見ていたのですから。あの毅然とした態度をとれる男が替え玉であるわけがない。もし、あの十字架にかけられた男がイエスという男ではないとしたら、あの男の方が本物の神の子で、イエスという男の方が偽メシアですよ。」
「死んだのが間違いなくあのイエスという男ならば、死んだ人が生き返るわけがないということと、弟子たちが復活したあの男に会ったということは、どう折り合いをつけられる?」
「あと残る可能性としては、弟子たちが思い詰めて幻想を見たということぐらいだな。」
アモスのいう事に、オベドがびっくりしたように口を挟んだ。
「何人もが同時にですか?」
「人が多い方がむしろ幻想を見やすいよ。特に、皆が同じように思い詰めている時などに、誰かがその時の皆の思いに沿ったことを一言叫んだら、全員が同じ幻想を見る可能性がないわけではない。」
「まあ、そういう可能性もあるだろうけれど、今回のは幻想ではない。弟子たちが宣教活動を始めたろう。特にペンテコステ以降は彼らの動きが顕著だ。幻想では力にならない。何か彼らを奮い立たせるような出来事があったはずだ。」オベドが言う。
「それが師の復活か?」
「まあ、それでなければ、あのような活動はあり得ない。彼らが死体を盗み出して師は復活したと言ったとしたら、復活が嘘だという事は彼ら自身が一番よく知っている事になる。それであのような宣教活動はできないよ。」
「まあ、わたしは死んだ者が復活したという事は信じない。では何があったのかと言われても、知らないとしか言えない。」アモスが言う。「まあ、すべてがただ聞いただけの話だ。自分で見て確認した事は一つもない。そのような聞いた話をまとめた時に矛盾があれば、誰かが嘘をついているということだ。誰かは分からないが。」
「わたしも信じない。」エステルが言う。「でも、それを信じている人たちに『そんなことがあるわけがないでしょう』と否定して回る気もないわ。ただ、その人たちがこれからどうなって行くのか、知っている人もいるので気になるの。人として立派な方もおられるし。もちろん、そうでない方もおられるけれどね。」
「あの男の死で、これ以上の事は起こらないだろうと予測していたが、あの弟子たちの行動で、そうはいかないかも知れないという状況になってきた。」アモスが厳しい声で言う。「場合によっては、あの弟子たちのおかげで、ユダヤ人の間でか、あるいは弟子たちと総督府の間で、抗争が起こりかねない。そのときにとばっちりを食らう事がないように慎重に行動する必要がある。」
「そう言えば、あの若者はどうなった?」アモスが思いだしたように聞く。「この前、エステルから少しはしっかりしてきたような話を聞いたけれど。」
「そうね。まだお弟子さんたちの世話をしているわよ。」エステルが少し笑いながら答える。なにかあの青年の事をほほえましいという感じで見ているようだ。「ようやく前のように、わりにイエス様と近かったお弟子さんたちを中心とした組織としてまとまってきているようだけれど、皆が必ずしも一枚岩ではないのね。その中でそういった組織から少し距離を置いて、親しい仲間だけで少人数のグループを作っている人たちもいる。そういう人たちで経済的に困っている人たちのお世話をしているみたい。」
「彼自身はどうなんだ?」オベドが訊く。
「彼も、どちらかというと組織の中心になっている人たちと肌が合わなくて、少し距離を置いているみたいね。それで、わりと話が合うグループの人たちとつきあっています。そのグループの中で困っている人たちを支援しているみたい。」
「それはまあ、弟子たちに『彼とは違って、わたしたちはすべてを捨ててあなたについてきました』と言われた話は、彼も聞かされているだろうし、あまり良い気持ちを持てないのは確かだからな。」アモスが笑いながら言う。「まあ、話は合うまいよ。」
「しかし、弟子たちの間で、すでに分派が生まれているのか。」オベドがつぶやいたのをアモスは聞き逃さなかった。
「組織ができれば、その瞬間から分派は生じる。あのイエスという男がメシアだという点では一致していても、メシアがどのような者かという点で、既に意見の相違はあるだろう。いろいろ聞いている話では、すでにいろいろな伝説が生まれているようだし。その一つ一つを信じなければお前は仲間ではないと言われるなら、ついて行けない人はたくさん出るだろう。」
「イエスがメシアであるという点以外では、いろいろな意見があってもそれを許容するという緩い組織ではいけないのか?」
「宗教組織には宣教という使命があるからな。新しい信者を教育しようにも、人によって言う事がまちまちでは信用してもらえまい。それこそパリサイ派の安息日の施行細則のように、『旅行をしてはいけない』、『まるっきり歩かないわけには行かない』、『一回につき何ミリオンの距離までは許される』と言う具合になってくる。それで、旅行に行かなければならない連中はその距離ごとに何か置いて、『忘れ物を取りに行ったら、その先にもう一つ忘れ物があった。だから取りに行っただけで、これは旅行ではない』という始末だ。そして、それはおかしいと誰も言わない。どの組織だって、そうなる可能性がある。教祖が生きている間は良い。でも、その後を誰が引き継ぐかだ。誰もが納得する権威継承のルールがあればともかく、いやあっても無理だな。必ず、いつか意見の対立から分派が生ずる事は避けられない。」
第十章
「オベド、お前、あの青年のために船を出してやったんだって?」
アモスがいったい何があったんだという感じで訊く。
「あれ、聞いていないのか。エステルに頼まれて出したんだ。当然、何があったか聞いているものと思ったが。」
「いや、聞いていない。」
「秘密にするような事ではないのだがな。」
横で、エステルとオルパが笑っている。オルパが口を挟んだ。
「何かもめた時に、知らなければ知らないと主張できるんだから、知っている人は少ない方がいいのよ。オベド様には、船を出してもらう以上、言わなければならなかっただけです。」
「もめそうな話なのか?」アモスが訊く。
「そうね。」エステルが言う。「場合によってはもめるかも知れない。でも、安心して。お二人にはとばっちりが来る事はまあ無いから。」
「わたしはエステルとオルパを心配しているんだ。」アモスはちょっと怒っているようだ。「わたしなら、それにオベドにしても、もめても自分で何とかする。わたしたちの事を心配することなど必要ない。それより自分の心配をしろ。エステルやオルパに何かあったら、オベドがどれぐらい嘆くと思っているんだ。」
「アモス様は?」エステルが不思議そうに訊く。
「わたしの目の黒いうちは、オベドが嘆くような状況にはさせない。絶対に二人を守るからな。」
「え、エステル様をじゃなくて、わたしも入っているの?」
オルパが笑いながら口を挟む。
「まあ、ついでにな」オベドが言う。「アモスはわたしでは力不足の場合もあるしと思っているんだろう。」
「まあな。そういったもめ事に関しては、わたしの方が強いからな。政治的な駆け引きをやるには、オベドはいい人過ぎる。」
「兄をお褒めいただいて光栄です。」
オルパは笑いながらアモスに向かってお辞儀をした。
「この話は、あの青年からエステルを通じて、わたしに依頼があったんだ。」オベドが事情を説明する。「マグダラのマリアという人が遠くに移住をしたいという意向で、あの青年に相談したんだ。彼の家も貿易に携わってはいるんだが、その女性の求める移住先が、彼の家の交易範囲に入っていない。たまたま、その移住先にオベド家の支店がある事を知ったあの青年が、エステルを通じてわたしに頼んできたんだ。」
「エステルを通じてとは?」
「エステルやオルパがあの人の話を聞きに行っている時に、何人か親しく話ができる友人ができた。そのマグダラのマリアという女性を中心にした小さなグループの中に、あの青年やエステルと話ができるぐらいは親しいという人がいたんだ。」オベドが説明を続ける。「まず、その青年に話が行った。しかし、オベド家の助力がいる事が分かって、直接に話を持って行く事がためらわれた時に、エステルがその話を聞いて、わたしとの間を取り持ってくれたということだ。」
「それで、そのマリアという女性はなぜ移住を? しかも、オベド家でないと船が出せないぐらい遠くに。」
「本当は西の端に近い、もう少し行けば地中海の外に出るというぐらいのところまで行くという事を考えていたんだが、そこまでは行っていない。でもまあ、とりあえずローマの向こう、かなり西の港町だ。どうも、あの弟子たちの仲間が誰もいない所まで行きたかったらしい。」
オベドの言葉に、エステルが付け加える。
「どうも、マリアさんは他の弟子の人たちと距離を置きたいと思ったようなのね。どう考えても権力闘争なんていう言葉は似合わない人なんだけれども、いやでもそのような争いに巻き込まれざるを得ない立場にいる。それがいやで他の弟子たちとの関わりを断つつもりで移住を決めたみたい。」
「前にアモス様が分派活動という話をされたでしょう。」オルパが怒りをこらえているような感じで言う。「誰が組織を引き継ぐか? 後継者に権威を与えるのは何か? その意味では、マリアさんは、その気になればその組織を引き継ぐぐらいの権威を持ちうる人なの。何しろイエス様の一番近くに常にいた人なんだから。でも、彼女にはそんな気は無い。イエス様の教えを守って安らかに信仰生活を送れればそれでいい人なのね。
「でも、組織を自分たちで指導して行きたいという弟子たちにとっては、目の上のたんこぶなのよ。彼女は何も言わないけれど、それだけに返って不気味なんだと思う。権力志向のある人にとっては、彼女のように権力に全く関心を示さない人がいるという事が信じられないのね。
「彼らの教会も、別に抗争があるわけではないけれど、何組かのグループに分かれてきた。分派とまでは行かないかも知れないけれど、いろいろ、彼らの教会の教義が固まって行く中で、意見の対立が見られるようになって、イエス様がおられた頃と違ってぎすぎすし出している。」
「それは想像がつくが、」アモスが言う。「だからといって移住まで考えるか?」
「それが、誰が流したのか分からないけれど、マリアさんに対する良からぬ噂が流れるようになって、彼女はそういった噂を流す人、噂を信じる人たちから離れたいと思うようになったの。それが移住の原因。」
オルパの言葉に、アモスはびっくりして言う。
「そのような噂に負けて移住するのか。そんな事をすればその噂を認める事になるぞ。絶対に逃げてはだめだ。」
「アモス様ならそうでしょうね。」エステルが冷静に答える。「でも、彼女はそうじゃない。そういう権力抗争にまきこまれること自体がいやなのね。『それはあの人の願う所ではないでしょう』と、彼女が愛した人なら、自分がどう行動すれば喜んでくれるかという思いから、権力闘争の外にいる事を選んだの。『他の人がどう思おうが、あの人は分かってくれているんだから、それでいい』と言っていたわ。」
「しかし」アモスが納得できないという感じで反論する。「悪評を流してその女性を排除するような弟子たちが教会を指導するようになったら、教会は腐ってくるだろう。それでいいのか?」
「まあ、今の教会には良い人もいれば、一部に困った人たちもいます。でも、宣教されている内容は、彼女の思いとそれほど離れているわけではないし、教会が腐ってくる事もあるかも知れないけれど、それを立て直す人が現れる事もあるでしょう。それは神の御心のままにというのが彼女の思いなの。」
「まあ、教会が腐ってきて、神の御心とは異なった方に歩み出す事があっても、それが神の御心であれば、仕方がないということだな。どうなっても、自分が信じる道を歩むしかないと覚悟しているんだろう。」
オベドが、船に乗り込む時に彼にお礼を言ったマリアの笑顔を想い出しながら、話をまとめた。
「それで、あの青年は今、そのマグダラのマリアという女性と一緒にいるのか?」
アモスがオベドに訊く。今、オベドの家の客室で二人だけでの話である。
「そう。遠い慣れない地でもあるし、落ち着くまでは何かと大変だという事で世話を焼いている。」
「それは色恋沙汰ではないんだな。」
「まあ違うな。どちらかと言えば主従の関係だな。」
「あの青年がその女性に執事として仕えているという事か。」
「いや、むしろ、彼女を通じて、あのイエスという人に仕えていると言った方が正確かな。」
「じゃあ、結局、彼はあの男にしたがったと言う事か?」
「まあそうです。すべてを捨ててと言って良いかどうかは分かりませんが。」
「しかし、彼女の面倒を見るためには金が要る。今の彼の仕事を続けて彼女の生活の基盤を支えるという事は、すべてを捨ててという事とあまり違わないように思える。わたしたちのように、ただ、あの人たちの傍らに立って、ただ見ている者とは違って、彼はあの人たちと共に生きるという事を選んだ。少なくとも、わたしよりは立派だ。」
「だいぶ、彼の評価が変わったな。」
「人は変わる。人が変われば評価も変わる。彼は成長した。立派だよ。」
第十一章
オベドの家の客間に、エステルとアモス、それに百卒長が招かれている。百卒長の送別会ということらしい。
「退職するんだって?」アモスが百卒長に訊ねる。「もう年だし、辞め時かも知れんが、しかし生活は大丈夫なのか? 百卒長の給与ではそんなに蓄財もできなかっただろうし、あんたは気前よく部下におごってやったりしていたしな。もし困った事があったら言ってくれ。悪いようにはしないから。ああ、その前にオベドが何とかしてくれるか?」
百卒長が軍隊を退いて、この地を離れると聞いて、アモスが心配している。親しいのはオベドの方だが、アモスもこの男気のある百卒長を気に入っている。これからはもう会えないかも知れないと思って、少し寂しく思っているのだろう。ちょっといつもより饒舌になっている。
「それが、エステル様を通じて、仕事を世話していただきまして。」百卒長が言う。アモスをちょっとびっくりさせたのを、してやったりという感じのいたずらっぽい顔で笑っている。
「え、ちょっとまて。エステルが?」
「エステルは話を通しただけだ。」オベドが横から割って入る。「彼の雇い主は例のあの若者で、仕事は、あのマリアと言う女性のボディガード兼執事。それでいい人を捜しているという話が、あの若者からエステルそして私にと伝わったんだ。それなら彼なんかそういう仕事には最適だし、まあちょうど良いと思って話を持って行ったら、そろそろ年だし軍隊を退く良いきっかけかも知れないという事で、引き受けてもらえた。」
「そうか、それはいいな。じゃあ老後は、あの青年に見てもらえるわけだ。」
「いや、結構こき使われそうだぞ。あの青年は仕事もあるので、いつもあの女性のそばにいるわけにも行かない。少しでも彼女に連絡が取りやすいように、あの土地に支店を開くことにしたそうで、その開設準備も担当させられそうなんだ。」オベドが苦笑いをしながら言う。「おかげで商売敵が増える。」
オルパが笑いながら、アモスの方を向いて、声をかけた。
「アモス様、心配は要りませんよ。オベド様はそんな風に言っていますが、実はその開設準備に一番手助けをしてくれたのがオベド様で、あの青年もずいぶん感謝していましたし。第一、支店とは言いながら、商売として成り立つかどうかは彼にはどうでもいいんです。マリアさんのお世話をするのが目的のすべてですから。」
「それで、あの青年が怒っているって?」百卒長がお礼を述べて帰って行ってから、アモスがエステルに訊く。
「怒っていると言うより、がっかりしていると言う方が当たっていると思います。」エステルがちょっと心配そうに言う。「あのマリアさんに悪い噂が流れているんです。」
「それは前からだろう?」
「ええ、まあ。でも、引越をしたせいで、やはりあの噂は正しかったんだという人たちがいて。しかも、あの青年が引越を世話した事がわかると、ひょっとしたら彼女とできているのではないかという噂まで出て来て。」
「私たちはそうではないと知っているが、状況だけを見れば、噂を信じる人が出て来ても不思議はない。」オベドも苦々しい口調で言う。「あの青年も真面目だからな。彼女に迷惑をかけたと言って落ち込んでいるんだ。」
「だから逃げてはだめだと言ったんだ。こうなる事は目に見えていたじゃないか。」
「あのマリアという人にとって、もう毀誉褒貶もどうでもいいのだけれど、でもあの青年にとっては耐えられないのでしょうね。こんな理不尽ことがと怒っていたの。」
エステルの言葉に、アモスが訊いた。
「理不尽って? この世の中は理不尽な事だらけだ。そんな事は今に始まった事じゃない。エステルが言うのなら許すが、いい年をした男のいう事じゃない。」
「エステルなら許すだって。」オルパが笑い出した。
「何を笑う?」オベドが言う。「アモスだって、私だって、エステルやお前に世の理不尽などできる限り感じないような生活を送って欲しいと願っている。世の理不尽に立ち向かうのは私たちだけで良い。そう思っているのに、それを笑われては努力の甲斐が無いじゃないか。」
「ごめんなさい。」オルパが、しかしまだ笑いながら言う。「でも、もう子供でもあるまいし、わたしにせよ、エステル様にせよ、この世の中に理不尽な事は山ほどあるという事は、知っているわよ。でもあの人はわたしたちより更に純真ね。」
「本当にね。」エステルも同意する。「あの青年は、ご両親に本当に大事に育てられてきたんだと思うわ。世の悪という事に関しては、子供と一緒。自分に悪意を持って近づいてくる人がいるなんて、これまで考えもしていなかったはずよ。」
「神様は、なぜ人を傷つけるような悪意の人たちに対して何もせずに放っておかれるのでしょうね。」
「そりゃあ、彼らが改心をするのを待っているんだろう? あの男の言う『父なる神』は子供が悪に走っても見捨てないで何とかしようと思っているんだ。」
エステルの疑問に、からかっているような言葉で返したアモスに、オベドが言う。
「でも、それが他の人を傷つけることであったらどうです。刃傷沙汰になるような兄弟げんかなら、父親も何とかしなければならないでしょう。」
「まあな。しかし、兄弟のどちらも大事な息子なら、どう手を出して良いか困ることもあるだろう?」
「神様が困るわけ?」エステルがびっくりしたような声で訊く。
「そりゃあ困るだろう。そもそも、全能の神と言うが、『父なる神』が全能のはずがない。父親という者は、言うことを聞かない子供がおれば、その一点だけで、全能ではなくなる。」
「子供が言うことを聞けば問題ない訳ね。」
「そうか? まだ小さい時ならともかく、いつまでも親の言うことを聞いて、それにきっちり従う子供なんて、親の立場からすれば逆に心配で仕方がないと思うぞ。親は、子供がいつか自立するように育てなければならない。自立への過程で親に反発することも無ければ困るだろう。親の言うことを聞く良い子供なぞ、心配の種でしかない。」
「それで、できる限り手を出さないで、自分で何とかするように考えているわけ?」
「まあそうだと思う。」アモスが自分自身でも納得し切れていないという感じで答えた。
「でも、今のこの世界を見ていると、神様は放置しすぎだと思うわ。」
「前にエステルが言っていただろう。」オベドが言う。「この世の中には善と悪じゃなくて、小さい悪と大きい悪としかないのではないかって。」
「ええ、言ったわ。」
「そうだとしたら、神様は、どこまでの悪に手出しする? どこでどのような基準で線引きする? この理不尽をなくそうとすると、ひょっとすると人をみな滅ぼしてしまうしかないのかも知れないぞ。」
「園芸と一緒だ。」アモスが言う。「雑草のおかげでせっかく植えた花が台無しになる。だからといって、闇雲に雑草を抜いて良いわけでもない。私たちには分からないが、庭師たちは、どうすれば何ヶ月か後にどうなるかという予想をたてて、今、どの草を抜くのか、残すのか、樹木の枝をどう剪定するのか考えているらしい。神様が人間の事に手を出すのは、それと一緒で、先のことまで考えていて、わたしたちには、それが理解できないだけかも知れん。」
「そうだな。一生懸命に育てた花が枯れるのに、植えてもいない雑草は勝手に生えてくると庭師がぼやいていたが、」オベドが言う。「まあ、この世界はそれよりもっと複雑だろうし。あの悪人がと思っても、そいつを取り除いてしまえば、先でもっと大変なことになる可能性も無いことはないからな。」
「神様がおられるのなら、なぜ善人が苦しみ、悪人が栄えるというようなことが起こるのかという事については、『ヨブ記』で書かれているわよね。」エステルが思い出したように言う。「悪魔が、神様に許されてヨブを悲惨な状況に追い込んだ時、ヨブの友達が不幸は悪の結果で、ヨブに何か悪いことをしているはずだと責めるのに、ヨブは、わたしは悪いことはしていないと反論する。ヨブは、この不幸は理不尽だと思っている。」
「実際、理不尽だしな。」アモスが答える。「俺はあのヨブの奥さんに同意するな。俺なら、こんな理不尽な目に遭えば、神様に文句ぐらい言うだろう。親父に文句を言ったようにな。」
「あの本では、不幸は悪の結果ではないと最初から言われている。」オベドが割って入る。「不幸が悪の結果なら、それは納得が行くから話はそれで終わる。」
「では、何の結果だ?」アモスが言う。「あの本では、神様が悪魔にそれを許したからということになっているな。ヨブがそうなっても神様を崇めることは辞めないという事を証明するために不幸にされるのか? ヨブの立場になったら、堪ったものじゃないぞ。」
「そうだな。」オベドが考え込む。「それこそ、あのイエスという人が、その立場に立ったわけだが、あの人の答えは、それを甘んじて受けるということだった。あの処刑こそ理不尽そのものだったしな。」
「あのヨブ記の最後に、神様が自ら語りかける場面があるだろう。」アモスが言う。「あの神様こそ理不尽だ。お前はこの全能のわたしに逆らうのかと、自分がいかに偉いのか並べ立てる。ヨブの『わたしは神に対して悪を行っていない』と言う言葉に、『そうだ。お前は悪くない』と言ってくれても良いじゃないか。事実、彼が信仰厚いという事は神様も認めているんだし。」
「前から不思議に思っていたんだけれど、」エステルが誰にとも言わずに質問した。「あの神様との対話は二回繰り返されているわよね。同じような対話に見えるけれど、それなら、なぜ二回繰り返されているのかしら。」
「ヨブが一回で納得しなかったからだろう?」アモスが自信なさそうに答える。
「最初の対話では、神様は自分がいかに偉大であるかという事を言っているだけのように見えるけれど、ヨブに男らしくわたしの問いに答えよと呼びかけているよね。」オベドが今気づいたという風に話し始めた。「ヨブがなぜ自分に不幸が起こったのか神様に問いかけたので、神様が『お前はそれをわたしに訊いても良いが、それなりの覚悟を持って訊いているんだろうな』と言っているのじゃないだろうか。『文句を言うのは良い。だけどそれなりの覚悟をした上でなんだろうな。さあ、言ってみよ。』とそれこそ父親のように子供に真っ正面からむきあったのではないかな。」
「それでヨブも、少し腰が引けて、すねたのか。『既に言いましたから、もう言いません』と逃げたんだ。」アモスが後を引き継いだ。「それで神様が、すねていないでちゃんとわたしと向き合えと、もう一度同じ事を言ったんだ。」
「ヨブは、それで神様が自分と真っ正面から向き合ってくれたことを知って、文句を言う必要がなくなったのね。」エステルが、ああ分かったという感じで言った。「それで、あの神様への全面降伏のような答えになったのか。」
「そうだな。」アモスが言う。「それでヨブの気持ちは分かった。しかし、なぜこの世に、こんなに理不尽なことが多いのかという問いは放り出されたままだ。神様がそれを許しているのだから、なぜか分からなくても、そこに神様の御心があると信じて、答えを得ることはあきらめなさいと言われても困る。」
「なぜ?」オベドが訊く。
「自分のことならそれで済む。」アモスが厳しい声で言う。「しかし、誰かの悪意で、たとえば赤ちゃんを抱いた若い女性が飢えて泣いていたとして、それが神様の御心だからでいいのか?」
「困っている人を助けるという行為を否定されているわけではないんだし。」エステルがアモスをなだめるように言う。「困っている人を助けることは神様の意に反することではないでしょう?」
「それが、神様の目から見て、返って悪い結果をもたらすようなことだったらどうなるんだ?」アモスが言う。「前に、施しの件で議論したことがあっただろう。施しが悪い結果を生むことだってある。」
「確かに、ただ善意だけでは困るわね。でも、最善の努力をしても誤ることはあるかも知れない。」エステルが嘆く。「でも、神様は、それを責めたりするかしら。少なくとも良い父親なら、そんなときなぜ悪かったかは諭しても罰を与えたりしないでしょう。」
「まあ、良い父親ならな。」
アモスが言うのに、オベドがやれやれという感じで反論した。
「おいおい、お前の父親は、そりゃあ、完璧な父親ではなかったが、お前が言うほどひどい親ではなかったぞ。少なくとも世の普通の親と比べて、ましな方だったと思うが。」
「しかし、あの青年のマリアさんに対する忠誠心はたいした物よ。」エステルが言う。「世の理不尽さを嘆くほど、マリアさんのことを大事にしているという事ね。少なくとも、あの女性に対する誹謗は、彼にとって許しがたい悪なのだと思うわ。」
「マグダラのマリアか。」オベドがため息をつく。「そんなに悪口を言われるほど悪い人には見えなかったが、教団の指導者の人たちから見ると煙たい存在なんだろうな。あの引越も誰が悪いとは言いにくいが、やはり内部での対立が原因だろう。」
「善と悪という話を前にしただろう。」アモスが言う。「エデンの園で、神様はアダムとイブに善悪を知る木から実を取って食べてはならないと命令している。善悪を知るという事はしてはいけないことなのか? むしろ知らなければいけないことなんじゃないのか? 善悪を知る木の実を食べなければ、悪は存在しなかったという事なのか。」
「神様を信じて、言う事に従っておれば、自然に善を行うことになるんだから、善悪を知る必要は無いと言う事なんじゃない?」オルパが言う。しかし、アモスは納得していないようだ。
「善悪を知ることは善か悪かどっちなんだという問題があるな。神様の意に逆らうのは悪だと言えば、善悪を知る木の実を食べることは悪だろうさ。でも何となく、それでは納得できないんだ。なぜ、善悪を知ることは悪か? 第一、実を取って食べてはいけなければ、最初からそんな木を置かなければいいじゃないか。なぜわざわざ置いておいて、食べてはいけないと言うんだ。人間の好奇心と言う点から考えても、そんなもの食べるに決まっている。」
「たしかに、民話でも、そんな場合、食べるのが普通だな。」オベドが言う。
「案外、アダムとイブがその木の実を食べなかったら神様が困ったのかも知れない。一人の人間として、親の言う事が絶対な息子なんて、返って困りものだし。」
アモスの言葉に、オベドがびっくりして訊く。
「主なる神と蛇が共謀して人間を陥れたと言う事か? 蛇に対する神の怒りというは実は嘘で、裏で手を握っていたとか?」
「そりゃあ、悪いことをするなと言うのが親の役目で、あまり堅物になるのも考え物だし、時には少し羽目を外すことも必要だぞと言うのは、まあ叔父の役目だな。」アモスが自分の叔父を思い出したように言う。「良い叔父だったが。俺にとっては人生を教えてくれる教師だった。」
第十二章
「準備はおおむね片付いたぞ。」アモスが言う。「このユダヤの地を逃げ出す時が来るかも知れないと覚悟はしていても、いざ、本当に離れるとなると感無量だな。」
「とりあえず、ローマ行きの船は準備した。荷物はできたものからすぐ運び出すようにしてくれ。」オベドがせかす。「港に船が二隻準備されている。」
「なぜ、二隻なんだ?」
「そりゃあ、どちらかの船に万一のことがあっても大丈夫なようにだ。だから、積み荷の分け方は、どちらか一方しか着かなくても何とか生活ができるように同じようなものを半分ずつ積むようにしてくれ。間違っても、食器類はこちらの船、衣服はこちらの船なんて分け方をするんじゃないぞ。」
「お、さすがオベドは商人だな。言う事が違う。」
「昔から言うだろう? すべての玉子を一つの籠に入れるなというやつさ。」
「じゃあ、アモス様とエステル様は別れて乗る?」オルパが横からからかう。
「馬鹿言え。生まれた時は別々でも、願わくば死ぬ時は共にという二人の仲で、別れて乗るわけがないだろう。」
アモスの答えにオルパが笑った。
「はいはい。余分なことを申しました。」
エステルも横で笑っている。
「しかし、本当に戦争が起こるの?」エステルが言う。「ユダヤが、あのローマに勝てるわけがないじゃない。」
「神が選ばれた民である私たちを守ってくれる。それを信じないような奴は、選ばれた民の風上にも置けないような滅ぶべきやからだ。」
「まあ、祭司長のまねがお上手ですこと。」アモスが祭司長の口まねをするのを訊いてオルパが笑いながら言う。「それを言ってしまったら、まともな議論ができなくなってしまう。皆、それを可笑しいと思いながら、でもそれを否定できない。ローマに勝てないと言っただけで、非国民と断罪される。」
「そして、そのまま滅びの道へまっしぐらだ。少し目端の利く連中は、ぞくぞくユダヤから避難している。」
「戦争と平和とどちらが良いと聞いてみれば、皆、平和の方が望ましいはずなのに」エステルが嘆く。
「選択肢は戦争と平和の二つではない。」アモスが言う。「ローマ以外の国は、実際には戦争と屈従の二択だ。屈従と負けるに決まった戦争とどちらが良いかという問題だな。」
「圧政がひどくなれば、負けるに決まった戦争にでも突入せざるを得ない。」オベドが「そうならないように、これまでローマはわりにユダヤに対しては寛容だった。それが最近、さまざまな形でユダヤの人たちの神経を逆なでするような事が起こっている。ユダヤというのは統治しにくい国だ。これまで総督府がそれなりにうまくユダヤ人の感情をだましだまし何とかもめずに来ていたのに。」
「ローマ皇帝の圧力が強くなって来たらしい。ローマの方にも問題はある。ユダヤの問題を理解していないような男が皇帝の地位に就くと、要らぬもめ事を起こす。」アモスが言う。「しかしローマの圧政というが、では独立してユダヤ王国ができれば庶民は本当に幸福になるのか? 搾取する者がローマ皇帝からユダヤ人の貴族に変わるだけだぞ。政権の中枢にいるあの連中は、今ローマに頭を押さえられているからあの程度で済んでいるので、その箍が外れたら今より状況は悪くなりかねんぞ。」
「その可能性はあるわ。これからは庶民から搾取のし放題だと思う人たちは絶対にいるわね。あれならまだローマの属国だった時の方がましだということになるのかも。」
「ところで、私たちはローマに行くけれど、オベドたちは結局どうするのだ?」
船着き場で、アモスがオベドに訊ねた。積み荷はもうすべて積み込んで、船は出航を待つだけとなっている。
「わが家の支店は地中海全域にある。本拠地をどこに移すかだな。とりあえずユダヤは離れなければ危うい。それは確かだが、どこに行くのかという時に、ローマだけが選択肢ではない。いくつかの重要な都市が候補になるが?」
「どうだ、あのマグダラのマリアという女性が住んでいる町は? 小さな町だから、案外どんな風に事態が推移しても、争乱に巻き込まれないで済むかも知れん。」
「ああ、そういう選択肢もあるな。」オベドがひらめいたように言う。「もちろん、事業を行っていく上で、人口の多い都市でないと困る面はある。しかし、それは実務を取り仕切る部下にまかせればいい。どちらにしてもわたしの仕事は、それらの支店の情報をまとめて大きな方針を定めることだ。幸い信頼できる部下もたくさんいて、支店を仕切ってもらうには困らない。だけどな。」
「だけど何だ?」アモスが不思議そうに訊く。
「そこにアモスやエステルが居ないからな。」オベドが笑う。「酒を飲む相手がいないと困るだろう。」
アモスが大声で笑って、オベドの肩をたたいた。二人だけでなく、エステルとオルパも笑っている。しかしこれからユダヤがどうなって行くのか考えれば、気を引き締めざるを得ない。今まで済んでいた懐かしのわが家にもたぶん二度と戻れない。しかし、四人はこれからの生活への覚悟を新たにするように、顔を海の方へ向け、沈む夕日を惜しむかのように眺めた。それは彼らにはユダヤという国の落日に重なるように見えた。
「ユダヤが滅びるのは、もう避けられない所まで来ている。」オベドが言う。「この夕日のように真っ赤な空は、これからこのユダヤで流される血の前触れだ。そして、すぐに暗黒に閉ざされる。」
「また朝が来るさ。」アモスが自らを励ますかのように言う。「天気が良ければ明日の朝は出航だ。晴れてくれると良いな。」
四人は、そのまま黙って宿舎に向かった。
(完)




