石に転生した話
人が物語を紡ぐ時、その主体の多くは同じ人間だ。
もしくは、良くて動物だろうか。
それは、自身の感情や思念を投影し易い対象というだけで無く、
物語におけるダイナミクスから見ても妥当な話だ。
しかしこの世界の多くを構築しているのは無機物である。
それらは主体性や意識と言ったものが無いかのように扱われているが
それは大間違いである。
彼らはもっと大きな意識体で動いている為、
個々の存在としては意識が無いように思われてしまうだけである。
例えばあなたの体を構成する37兆個もの細胞たちは、
それぞれに目的や役割があるが、
それら個別の意識について取り上げられる事は無い。
それでも、随意的に腕を上げる事は可能であるし、
怪我をすれば瘡蓋が出来る。
こうした大いなる全体の中にある個は実はとても強い。
それは、古代中国の哲学書「老子」に書かれているような
『道』と同化した存在だからである。
今回はそうした話題についての、とある男の話である。
少し一般常識や理念を外して読んで頂ければ幸いである。
俺は26歳の商社マン、石塚 明。
取引先の受付嬢の佐倉 茜と付き合い始めて、
3年目の記念日を迎える幸せ者だ。
今日は婚約指輪を渡す為の一世一代の勝負の日だ。
茜と待ち合わせた高級フレンチ。
カバンの中には彼女の誕生石であるサファイアをあしらった
小ぶりだけど輝く指輪が入っている。
「あ、明君も、もう着いたの?早いね。」
通りの向こう側で、茜が手を振った。
彼女も待ちきれず早く着いてしまったようだった。
彼女の笑顔を見た瞬間、俺の心は高揚した。
「お、茜!お互い早く着いちゃったなー。」
彼女の方へ駆け寄ろうとした、その時━━━
高齢男性が運転するハイブリッドカーが歩行者信号が青の中に
突然スピードを上げて飛び込んで来た。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
ドンッと言う打ち上げ花火よりも大きな音と、
今までに感じた事が無いほどの強い痛みと衝撃。
周囲の景色がグルグルと回転する。
ワケがわからなかった。
(あ、茜……)
どうやら車にはねられたのだと言う事だけはかろうじて理解したまま、
意識が薄っすらと閉じて行く。
茜が泣き叫びながらこちらへ走ってくるのが見えた。
自分の死と言うものが理解出来た時、ほんの刹那の時間、
『せめて彼女を悲しませたくない。
どんな形でも良いからこれからも茜を守り続けたい。』
と言う、無意識下での願いを意識に刻み付けながら、俺は気を失った。
そしてそこで意識は途切れた。
俺の「個」は終わった。
次に目覚めた時、俺の世界は『闇』に包まれていた。
何も聞こえない、見えない、言葉すら無い。
だけど周囲の全ての感覚が俺に伝わって来た。
空気の密度、光の粒子の熱、振動。
それらはまるで俺自身であるかのように、
境界が無く俺自身そのものとして感じられた。
(ここは……どこだ?)
言葉を発しようとして、自分に『喉』がないことに気づく。
思考は明晰だが、体を動かすための筋肉も骨も存在しない。
俺は、茜の手首に触れているようだった。
瞬間、俺は理解した。
俺は、茜の細い手首に巻かれたブレスレットの中央に鎮座する、
一粒のサファイアになっていたのだ。
一粒の無機物としての「石」。
しかし、この石の中に閉じ込められているわけではないようだ。
意識の根源を辿れば、俺の感覚はブレスレットを繋ぐワイヤーを伝わり、
茜の肌の温もりを直接感じ、さらには部屋の隅に置かれた観葉植物の声、
窓の外を流れる雲が運ぶ湿度や風圧、遠くで鳴る稲光の眩さ。
あらゆる自然と微かな共鳴で繋がっていることに気づいた。
俺は、自然と分離された存在ではない。
いつだかに聞いた人体を構成する幾兆個もの細胞の一つ一つのように、
世界という一つの意識体を構成している全体の中の存在なのだ。
夜になり、茜は枕元にブレスレットを外して置いた。
口づけをして、涙を流す。
俺は茜に伝えたかった。
(俺はここに居る。泣かないでくれ、茜。)
俺は自分の思いを伝えようと必死で願った。
するとその願いは何の滞りもなく、するりと周囲を動かした。
彼女が締め切った部屋に閉塞感を感じて窓を開けた時、
緩やかな微風が優しく彼女を包んだ。
彼女が部屋で一人で寝る寂しさに耐えられずに夜道を歩いた時、
道端に咲く花が一番美しい角度で彼女の視界に入った。
茜はブレスレットのサファイアを撫でて言った。
「明君・・・。何だかあなたがまだ隣にいるみたいだよ。
ううん、隣じゃなくて、キミに包まれてるみたいだよ。」
俺は少し風速の強い風を吹かせて、茜の言葉に呼応した。
彼女が俺の存在に気付いてくれた事がとても嬉しかった。
俺は単なる一粒の石では無く、
『世界』として彼女を守り続ける事が出来る。
その事がたまらなく嬉しくて、夜だと言うのに
雲を晴らして月が一番綺麗によく見えるように取り計らった。
しかし、無情にも物理世界での彼女は一人だった。
俺の事がまだ心に引っかかって次の恋に進む事も出来ない茜を、
最悪の不幸が襲った。
それは、ある嵐の夜だった。
残業で疲れた仕事帰りの茜を、一人の社会に絶望した男が襲った。
街灯の灯りも少なく暗い路地裏、人通りも無かった。
「キャア!!」
気付いた茜だったが、ヒールが躓き逃げ遅れてしまう。
(茜!くそ、茜を守らないと!!)
俺は初めての彼女の命の危機に割れんばかりの意識を集中させた。
一粒の石としての全存在を賭けて、周囲の全てのエネルギーを呼び寄せた。
雷鳴を呼び、雨足を強め、大地の振動を一点に集める。
しかし、一粒のサファイアという小さな物理的器には、
あまりに行き過ぎた力だった。
バキィッ!と強く乾いた音と共に、サファイアが砕け散った。
「明君・・・!!」
茜がこんな状況の中でも散らばったそれを拾おうとするが、
男がそれを好機ととらえて彼女に刃を向ける。
━その時、全ての時間が止まった。━
石という『器』から解き放たれた俺の意識は、
爆発的な勢いで周囲の全てと融合した。
路地の水たまり、吹き荒れる暴風、雲を裂く電光、地中を走る根。
それらすべてが、一斉に「石塚明」として牙を剥いた。
突風が男を壁に叩きつけ、激しい雨が彼の視界を奪う。
大地は怒り狂い男の足場を揺らし、この路地裏から追い出した。
物理的な体を持たない俺は、今やこの世界の全てだった。
いつの間にか嵐が過ぎ去り、茜は砕けたブレスレットを拾い集めた。
「明君・・・守ってくれたんだね。
ありがとうね、ずっと、ずっと側にいてくれたんだよね。」
彼女はずっと、俺を感じながら生きていた。
風が愛を囁き、雨上がりに彼女を照らす月が俺の眼差しであり、
彼女が踏みしめる土が、俺の抱擁であることを知っていた。
俺はもう、石という器すらも脱ぎ捨てて、自我も溶けつつある。
ただ一つあるとすればそれは、『彼女守りたい』という願い。
人が物語を紡ぐ時、そこに描かれた世界に確かに存在しているものがある。
それはあらゆる命を慈しみ、破壊し、また再生する、多いなる力である。
自然、世界、神、何とでも呼べば良い。
しかしこれらの世界の輪郭があるからこそ、
人はそこで生き、暮らして行けるのだ。




