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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

感情の欠片② ー短編集ならぬ断片集ー

作者: ぷょ
掲載日:2026/04/04

 紙が好きだった。

 一枚一枚は軽いのに、重ねたらずっしりと重くなるところとか。めくる度に鳴る、どこか軽快なのに慎重な音とか。目を瞑ったら森の中にいるみたいな気持ちになれる匂いとか。撫でると冷たいのに、どこか生きてるようにふわふわしてるところとか。

 インクが好きだった。

 使う人によって、てんで違う意味を持つところとか。ペンをインク壺から上げた時に鳴る、静かだけれど奮い立たせられる雫の音とか。他のものには無いような匂いとか。書き終わった後に見返すと、何であってもどこかやりきった気持ちになれるところとか。

 本が好きだった。

 見た目はどれも似たり寄ったりなのに、どれもこれも全く違うものを持っているところとか。誰かが書き留めたいと願った言葉達が時や場所を超えて、今ここにいる私の目の前に言葉の森みたいに現れるところとか。読み終わった後の、体の中に言葉が飽和したみたいに溢れてる時の、どこかぼんやりとした満足感とか。

 本を開く度に、それぞれの美しい物語が私を本の世界に連れて行ってくれる。どんなに泣きたい時も、本を読めばその世界の一人として笑って、怒って、喜べる。一度だけの変われない人生を、一瞬だけでも忘れさせてくれる。

 私は本を抱きしめた。今も昔も変わらないその重みが、私に押し付けることなく寄り添う。…本だけは、私を裏切ら無かった。

 私は、本が好きだ。それはきっと、今もこれからも、変わらない。本がそこにある限り。


ー・ー・ー


 殺してみろよ。

 どうした、殺してみろよ。…あの人を殺したように、私も、私自身も。

 どうしたんだよ、忘れたとは言わせない。他ならぬ私自身が、あの人を、大切なあの人を殺したのに…

「ぅあぁぁ…」

 私は泣いていた。手のひらで顔を覆うこともできずに。

 この手からは腐臭がしたから。汚い、汚い。この手で顔を覆った側からこの顔も腐り落ちてしまいそうだから。

 …でも、この匂いはあの人のものじゃない。私自身の匂いだ。私の醜い本性が、この手のひらから腐臭となって漏れ出ているのだ。

 ああ許せない。

 許せないのは自分自身なのに、なのにどうして、私はあの人を殺した?

「ぁあぁぁ、ぁぁあ…」

 泣く資格すらないのに、なんで今こうして泣いている?

 ふざけるなふざけるなふざけるな。

 この事態も、この腐臭も、この選択も、私自身がしたことなはずなのに。私自身が招いたことなのに。なのに、どうして…?

 泣くなら皺寄せがいってしまったあの人だけが泣く資格を持っているのに。

 あの人にはもう会えない。私が、殺した。…殺したようなものなんだ。

 他の誰が私はあの人を殺していないと言ったとしても、私は私があの人を殺したと思い続ける。もし仮に、私のその考えを真っ向から否定して打ち砕けてるのは…たった一人、あの人だけだ。

「っぁ、ぁぁぅああ…」

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 また会えたら、謝りたい。また会えたら、抱きしめてもらいたい。また会えたら、また会えたら…

 でも、殺したのはお前だよ?

 蹲って泣く私の横にいつのまにか誰かが立っていた。そして私を責め立てる。そう、その誰かは、他ならぬ自分自身だった。

 ああ、何回も見た錯覚。でも錯覚にしては現実的すぎるし、何回も見すぎた。あの人のことで泣く時は決まって、私が私自身を謗るのを見る。私が私を、許せないから。

 また会えたら、なんて、何度も祈った。そしてその度にまた体が引きちぎれそうになって、また逃げ出そうとした。もう、逃げられないことぐらい分かっているのに。

 ごめんなさい、ごめんなさい。それなのに…

「会いたいよ…」


ー・ー・ー


 私は薄く目を開けた。

 どこまでも広がる空と水。その二つはどこまでも広がっているのに交わらず、よく似つつも決して違う。でもどこか、優しさを湛えていた。

 私は水の上に立っていた。

 波紋がゆらゆらと広がっていく。どこから吹いたかわからない風が、私の髪を優しく撫でて抜けていった。その風は、私の心さえもさわさわと触れるようにして抜けていった。

 水鏡。

 ふと、心がざわつく。俯いた先に水に映った自分が、絶えず揺らめいていたから。その顔が一瞬、泣きそうに歪んでいるように見えたから。

 私は水に跪いた。

 空を流れる雲が悠然と流れているのを、水を介して見る。水の青さは、空の青さだと知る。…水面に映る自分は、紛れもない自分自身だと、知る。

 …寂しい。

 正体不明の、どこの馬の骨かもわからない感情に襲われる。それと同時に、掴もうとしてすり抜けた、誰かの手の感覚を思い出す。そしてその誰かの笑顔も。

 左目から、一滴の涙が流れた。目から溢れたそれは下まつ毛をしならせ、丸い雫となって宙に浮き、重力に従って水面に落ちた。

 また波紋が広がる。水鏡が揺らめく。

『もう、泣き虫なんだからー』

 誰かの声が聞こえた。棘に埋もれて身動きの取れないまま虫の息だった私を、救い出してくれたあの人の声が、聞こえた。

 なぜ?

 どうしようもなく、泣きたい衝動に駆られる。あの人に、会いたい衝動に駆られる。会いたい、会いたい、会いたい会いたい。

 ああ、そうか。

 ここはあの人がよく話していた、夢の世界。あの人の見る夢は、どこまでも優しかった。まるで、その人の心そのものを映すかのように。

 …水鏡の、ような人だった。

 水面に映った私の顔は、どこか憑き物が落ちたかのような、泣き笑いのような表情を浮かべていた。

 水鏡。押し付けるような善意は無く、ただそこにあると言う安心感を与えてくれるもの。私自身を、見つめ返す時間をくれるもの。ただそこに私と誰かがいると、寄り添うように教えてくれるもの。

 …私にとっての、あの人のようなもの。

 私は立ち上がった。涙なんて、とうに消え失せていた。それに、もし私が泣いたとしても、この水面に溶け込んでわからなくなってしまうだろう。

 私は歩き出していた。水面を確かに踏みしめるようにして、あの人が確かにそこに居た軌跡を辿るようにして。

 歩く度に、水面には波紋が広がった。


ー・ー・ー


 2人でいたかった。できるなら、ずっと。お互いの欠けたところを補うように、お互いにぽっかり空いた穴を埋めるように私たちはいた。

 日常に対する漠然とした不安と反抗心。それのその他諸々の衝動に、私たちは突き動かされていた。…その先に待ち受けるのが、何も望んでいない結末だったとしても。

 …ばかな、ことをした。

 その行動が招いた結果が、これだ。今も私はカーテンを閉め切った部屋で1人、身動きもせずに死んだようにただ天井を見つめている。この世界のどこに私の片割れが、私の全てが、いるのかも分からないまま。

 カーテンの隙間から侵入してくる陽の光が眩しい。淡く照らされて色づいた私の体が、拒むように軋んだ。

 私はまた、目を閉じる。そして、眠る度に見る夢をまた見ることを願いながら眠りについた。

 ___陽が傾きかけた、教室。誰もが家路に着いて、人気は失せてどこか、壊れそうな物悲しさを誘う。私はぼうっと、窓の外を眺めていた。

「——!」

 名前を、呼ばれた。上手く聞き取れなかったのに、なぜだか名前を呼ばれたことをよく理解した。それと同時に、どうしようもない懐かしさに襲われる。

 私は振り返って手を伸ばそうと、した。

 …そこには、何も無かった。私の名前を呼んだ誰かも、先ほどまで私が立っていた教室さえも。

 ただ黒い黒い渦に巻かれるように、ぼんやりと宙に浮いて漂っていた。渦の生温かさが心地悪い。どこか体を蝕むように絡みついてくるからだろうか。その絡みついた何かさえも、気味の悪い生温かさを帯びているからだろうか。

 …ああ気持ち悪い。吐き気を通り越して、腹の中の臓器の全てが口から出てきそうだ。あくまで自然に、ずるずると何かに引き摺られるようにして、出てきそうだ。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い___

「っぁ…」

 目が覚めた。またいつもと変わらない天井と顔を突き合わせた。そして見たのも、いつもと変わらない夢。

 私の片割れと別れたあの日から、私はずっと同じ場所で足踏みをしている。違う。もう足踏みすらも辞めて、ただそこに蹲って込み上げてくる空腹感とも渇きともとれない何かををやり過ごそうとしてる。

 私は、私自身が何を望んでいるのかも分からないまま、死んだような顔をして生きている。昨日も今日も同じ悪夢を見ながら生きている。片割れの顔を見ることも叶わないまま、片割れが私を呼ぶ声を聞くことも叶わないまま。

 ベットの上に放り出された手が、手のひらを上にして、脱力している。私はその手をぼんやりと眺めた。

 この手に確かに握りしめていたのに、お互いしかいないと本気で思っていたのに。それなのに、この手からすり抜けてどこかへ行ってしまった。

 さよならも、言わずに。

 …ああ、そうか。私はまた、名前を呼んでほしかったのか。

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