疑心の夜
ただその一心で、なおは森の奥へ駆けた。
枝をかき分け、木々の隙間を縫い、暗闇を手探りで進む。視界は揺れ、呼吸は裂けるように荒い。
それでも止まれない。止まれば終わる。
前へ。
ただ、前へ。
背後の怒号が、次第に遠ざかる。
銃声も、やがて森に吸い込まれた。
それでも走る。
まだ足りない。
まだ、安全ではない。
どれほど走ったのか分からない。
足がもつれ、膝をつき、顔を上げたとき――見慣れた石垣があった。
自宅だった。
玄関灯は消え、窓は黒く沈んでいる。家は眠ったように静まり返っていた。
――帰ってきた。
その瞬間、全身から力が抜けた。
門柱に手をかけたまま、視界がゆっくり傾く。
冷たい地面に叩きつけられる感触。
それが、最後の記憶だった。
⸻
目を覚ますと、部屋は静まり返っていた。
自分の天井。
自分のカーテン。
かすかに差し込む朝の光。
床の上だった。
左脚は、血は止まっているが、ずきりと芯を刺す痛みが残っている。
夢ではない。
赤い警報灯。
迷彩服の男たち。
無機質な銃口の光。
すべて、現実だ。
――あれは、何だったのか。
BES研究所、と書かれた看板。
だが何の研究なのかは分からない。あんな施設が、どうして村の山奥にあるのか。
自分だけが知らなかったのか。
それとも。
村の人間は、最初から知っていたのか。
もし知っていて、黙っているのだとしたら。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
頼れる人はいない。
両親は数ヶ月前から長期出張で家を空けている。電話をかけても、すぐには戻れない距離だ。
この村で、なおは一人だ。
天井を見上げる。
静かすぎる。
いつも聞こえるはずの、朝の生活音がやけに遠い。
(誰かが、見ているのではないか)
そんな考えが浮かぶ。
カーテンの隙間。
玄関の気配。
風の音すら疑わしい。
浅い呼吸を繰り返す。
とりあえず、明日。
病院へ行こう。
傷の手当ては必要だ。このままでは化膿するかもしれない。
でも、もし病院にも、繋がっている人間がいたら。
なおは、目を閉じる。
心の奥底で不安と疑念が形を持ちはじめる。
そして。
遠くで。
――リン。
鈴の音が、確かに鳴った気がした。
それが現実か、幻か。
確かめる勇気は、まだなかった。




