鳴り始めた鈴の音
薄暗い夜だった。
雨上がりの斜面はまだぬかるみ、落ち葉がべったりと地面を覆っていた。山の中腹に、男が伏せているのを見つけたのは早朝に山菜を採りに来た老婆だった。
叫び声が空気を切り裂き、同行者が駆けつけると、そこには言葉を失う光景が広がっていた。
男は村はずれに住む五十代の農家の次男だった。衣服は乱れ、泥に埋もれかけている。
顔は雨で光り、部分的に判別しにくくなっていた。虫の羽音が周囲に小さく散り、香る泥の匂いが不協和音のように鼻を刺す。誰もが、これはただの死ではないと直感した。
だが、最も凍りつくのはその表情だった。目だけが不自然に大きく見開かれ、両手は何かを必死に掴もうとする仕草のまま冷たく固まっている。
死の静けさの中で、その無言の訴えがいっそう重く村の胸にのしかかった。
——三日前。
教室。夏の端、昼休みの湿った空気が窓から入り込み、蝉の声がまだ遠くで震えていた。机を寄せて座る四人の輪は、いつものように弁当の匂いと他愛のない喋り声で満ちている。
「今年の鈴祭り、どうなるんだろうね?」
真っ先に口を開いたのは、栗色のショートヘアを揺らす宮下真琴だ。大ぶりのおにぎりを一口で三分の一も食べた彼女の指先には米粒が一つくっついている。
「なんだよ急に。まだまだ先じゃん」
数学の教科書を閉じながら、 佐伯正弘が眉をひそめた。彼は制服のネクタイを緩め、額の汗を拭う。
「だって今年こそ、“巫女役”やるかもしれないでしょ! 私、練習頑張ってるもん!」
胸を張る真琴に対し、眼鏡の奥で冷静に微笑む桑田隼がツッコミを入れる。
「まだ決定じゃないって聞いたけど。それに去年の失態、忘れたわけじゃないよね?」
「うっ……」
真琴が慌てて弁当箱を盾にする。昨年の祭り準備で、彼女は踊りの稽古中に派手に転んでしまったのだ。
みおはそのやり取りに口を挟まず、黙っておにぎりの包み紙を折りたたんでいた。教室の隅、埃が光の中でふわりと舞う。
笑い声は軽やかだが、みおの胸には針のような不安が刺さっている。何かがずれている気配。それは理由もなく、ただそこにあった。
廊下の向こうから、細く、湿った余韻のある鈴の音が聞こえた。音は軽いのに、耳にいつまでも残る。みおの肩がぴくりと揺れる。
「今の、聞こえた?」
みおが小さく訊くと、三人の視線が一斉に集まった。だが、誰もそれを特別だとは言わない。鈴の音は祭りの前触れかもしれない。
村では、季節が来ればどこからともなく鈴が鳴り渡る——それは普通のことだった。
だがみおには、昔の出来事がふいに蘇った。山の中で見つけた美しい欠片。子どもの手に収まる小さな物体が、当時の熱と不安を呼び戻す。あの時は誰かと一緒にいたはずだ。だがその顔は、どうしても思い出せない。
放課後。真琴は部活へ、桑田は図書室へ。正弘は「村役場にちょっと」と言って去っていった。
みおは昇降口で足を止め、掲示板に貼られた『鈴祭り実行委員会』の紙を眺める。字は荒々しく、慌ただしく書かれていた。
祭りが近づくにつれ、村の空気はいつもと違う方向へ傾き始めている——そう、みおは感じていた。
背後から声がかかった。振り返ると、白衣の藤原悠が立っていた。彼は村の医師であり、研究所跡に縁のある家系だという噂がある。柔らかな話し方にどこか探るような視線が混じる。
「篠宮さん、最近眠れてるかね?」
言葉は簡潔だが、その袖口にうっすら付いた茶色のシミがみおの目に入る。血だろうか。みおの胸がまたざわつく。
「大丈夫です、普通に。」
みおは答える。
だが言葉と体の震えが一致しないのを感じた。鈴の音が、また——微かに、でも確かに——耳の中で鳴ったように思えた。
校庭の片隅、旧体育倉庫の扉がわずかに開いているのが目に入る。風はない。開いた扉の隙間に白いものが見えた気がして、みおはぎょっとする。だが次の瞬間にはそれは消え、扉だけが静かに揺れている。
みおは振り返り、歩き出す。村人の視線はどこかそっけなく、誰もが口を閉ざしている。夏の光は強いのに、空気は冷たく澱んでいる。鈴の余韻が、どこか遠い鐘のように胸の奥で反響した。
数日後の夜、山の中腹で見つかったものが、やがて村の眠りをひとつずつ剥ぎ取っていくとは、まだ誰も知らなかった。




