8 子守り
触媒の注射の時よりもはっきりとずきずきとした痛みが腕を襲う。
ちょうどその痛みの感覚は血が流れていくリズムとシンクロしていた。
鈍く光るその腕輪は太い2本のボルトでしっかりと円の形に固定されていて、それよりもずっと小さな計14個のボルトは、飾りと言うには無骨すぎていた。
装着には生徒1人あたり男3人がかりで、今日の授業を1コマ返上して実施された。
腕輪を着け終えた誰もが言葉少なに自室に戻っていく。
アルベルトも疲れ切っていたから、まっすぐ自室に戻って夕飯も食べずにベッドに横になりたいのはやまやまだったが、医務室にブライトナーを迎えに行かなければいけない。
朝、出がけに見た泣きそうな少女の顔が未だに脳裏にちらついている。いくら馬の合わないブライトナーだからって、今はたった4才の子どもなのに大人げなかった、とバツが悪い。バタバタして昼食の時には行く、と約束していたのに、結局、放課後のこの時間になってしまったのも気まずい。
一緒に学校に行きたい、と駄々をこねるブライトナーを叱りつけると、思いのほかざっくりと傷ついた顔をされて、面くらった。
重い医務室の扉を開ける。磨き上げられた敷石の上を歩くと、足音が軽く反響する。病人用の白いベッドの上に、似つかわしくない小さなシルエットがちょこんと乗っている。
短く、丸まっこい足をぶらぶらとさせて、誰かから貸し与えてもらったらしい読み古した絵本を手に持っている。
その顔は見るからに退屈そうで、でもおとなしく足をぶらつかせて、ベッドの上に座っていた。
「ロイク」
アルベルトの声はそう大きくなかった。
しかし、件の少女はアルベルトが数回瞬きをする間に、風のように走りだし、やがて足元に突っ込んできた。
「アル!」
むぎゅっと抱き着いてくるブライトナーを無理矢理引きはがすこともできずに、結局わたわたと手をばたつかせて、最終的に右手は頭を撫で、左手は彼女の背中を優しくさすることになった。
ブライトナーは一心にアルベルトを見上げていたが、そのぐりぐりした大きな瞳が次第に潤んでいくのにぎょっとした。
「ど、どうした」
「……アル、おこってない?」
きっと今朝のやり取りを気にしているのだろう。
「怒ってない」
「おひるごはんになってもこなくて、わたしがわるいこだから、むかえにきてくれなかったのかとおもった……ごめんなさい」
胸の内をぐっと何かが込み上げてきて、この小さな生き物をもみくちゃに撫でまわしたい衝動に駆られたが、アルベルトの鉄の理性がそれを抑えた。
医務室の主であり、医師でもあるドクター・スネークがぎしりと椅子をひいて振り向いた。どうも、2人の世紀の再会に興味をそそられたらしい。
赤い口紅が光る口元と言い、胸元の大きく空いたシャツと身体のラインをはっきりと見せるボトムと言い、スネークの名が表す通り、どこか毒蛇のような雰囲気を持つ女医がドクター・スネークだった。
そんな彼女だが、思いのほか子供好きだったようで、アルベルトが昼休みに様子をうかがいにきた感じでは、ブライトナーの絵本はドクター・スネークからの借り物のようだ。
「いい子にしててよかったわね、ブライトナー」
「うん、おねえさん、えほんありがとう」
「いいのよ。…お待ちかねだったわよ、ベルクマン」
にやにやと笑う彼女の顔には明らかに「面白いおもちゃ見つけた」と書いてある。
「……今日はお世話になりました」
「気にしないで。どうせ、ミスター・ウルフ達が原因を見つけるまで元に戻れないんだろうし、それまで日中はここに預けて行ったらいいわよ」
ドクター・スネークに向かってパタパタと手を振っているブライトナーの反対側の手を引く。
「医務室で今日は何をしたんだ?」
「なんにも。ごろごろしてたら、あのおねえさんがえほん、かしてくれた。よんでいいよって」
「そうか」
どうやらひどく退屈だったらしい。今朝の落ち込み様や、つい先ほど迎えに行った時のブライトナーの様子を見ていると、明日以降もそのままあのがらんとした医務室に置き去りにするのは心苦しい。
かといって、子連れで授業に参加できるほど、普段の授業は甘くない。
どうしたものかな、と思う。
アルベルトが考え込んでいる最中にも、よたよたとおぼつかない足取りでブライトナーが横を歩いている。考え事をしているうちに、無意識に歩幅がいつものように広がってしまっていたらしく、ブライトナーはほとんど駆け足の体だった。
疲れているからさっさと夕食に行って自室に戻りたい。このままではいつ食堂にたどりつくか分からない。
ひょこひょこと歩くブライトナーを抱えると、その大きな瞳をぱちくりとさせて、やがて状況を把握したのか、アルベルトの肩にしっかりとしがみついた。
食堂に行くと、一斉に好奇の眼差しが二人に降り注ぐ。
学内でも仲が悪いと有名な二人が部屋で大ゲンカをやらかした話も、そのせいでブライトナーが見ての通り小さくなってしまっていることも、格好の話題として各テーブルを賑わせているようだった。
「ベルクマン、えらくかわいい子連れてんじゃん。いいね」
遠巻きにアルベルトとブライトナーの姿を観察しては騒いでいる連中とちがって、面と向かってニヤッと笑いかけてきたのは、案の定というか悪友のフーゴだった。
一見胡散臭そうにも見えるフーゴの軽薄な挨拶は、ものの見事にブライトナーを怖がらせたらしく、アルベルトの陰に隠れるようにブライトナーが首をすくめている。
「おい、無駄におどかすな」
「失礼な、そんなつもりないのに……にしても、ブライトナーの小さい頃ってえらいかわいいな。女の子みたい」
フーゴの言葉にアルベルトが一瞬、ぎくりと肩を揺らすが、ブライトナーが気にしている様子はない。まあ、男だと偽っていることを知らないのだから当然と言えば当然のことだ。
「ロイク、あんまり気にするな。こいつはフーゴ、俺の友人だ」
ぽんぽん、と頭を撫でてやると、強張っていたブライトナーの肩からぎこちなく力が抜けた。
「ロイクねえ」
名前呼びかよ、とでも言いたげなフーゴの顔はこの際、無視した。
「アルのおともだち…?」
「そうだ」
興味津々で視線を送ってくるフーゴと不安げな顔をするブライトナーに挟まれて少々面倒なことになった。
「こんにちは、ロイク。アルとはなかよくいってる?やさしくしてくれてるかな?」
「…アルはやさしいです」
「そっかぁ。いいね、かっこよくてやさしいお兄さんと一緒で」
まるで邪心などございません、というような顔で笑ってみせるフーゴにやっと安心したのか、それともアルベルトが誉められたことで気を許したのか、おそらくその両方なのだろうが、ブライトナーは興奮して頬を紅潮させている。
「はい、アルはキラキラしててすっとしてて王子さまみたいでかっこいいです」
ぶーっとフーゴが吹き出したのと、アルベルトが食事中にも限らず頭を抱えて顔を伏せたのはほとんど同じ時だった。