後編
私は結局、クリスの好意に甘えることにした。ウェインに振られてからというもの、精神的に相当参っていたけれど、クリスと過ごすようになってからは、平穏な時間が少しずつ私に戻って来ていた。
私がクリスと一緒に過ごす時間が増えると、やっかみの混ざった女生徒の視線も多く受けたけれど、クリスは周囲の目などは気にも留めていないようで、ただ私のことを大切に扱ってくれた。
しばらくそんな時間を過ごしているうち、私はついにいたたまれなくなって、2人きりになった時にクリスに言った。
「ねえ、クリス、ありがとう。もう、私は大丈夫よ。クリスのお蔭で、ウェインのことも、随分吹っ切れたから。
……それよりも、クリスが私なんかといつも一緒にいて、いいのかしら?
あれだけ女生徒たちにも人気があるのに、私があなたを独り占めしてしまうなんて、何だか申し訳ないわ……」
私がいたたまれない気持ちになったのには、実はもう一つ理由があった。
私がクリスと過ごす時、ウェインの姿を、つい彼の中に探してしまっていた。私は長いこと2人をずっと近くで見ていたから、クリスがまるで未来のウェインを映すように、ウェインがクリスを追い掛けるように成長していくのがわかったし、将来もきっとそうなるのだろうということが、手に取るように感じられた。だから、私は結局、クリスに甘えることで、ウェインそっくりのクリスに、ウェインの姿を重ねてしまっていたのだ。どこまでも私に対して優しいクリスに対して、性格はまるで違うというのに、容貌が似ているからという理由で、ウェインの面影を探してしまう卑怯な自分自身が、私は酷く申し訳なかった。
けれど、私の言葉に、クリスは少し苦笑した。
「何言ってるの、僕が、君と一緒にいたいだけなんだから。
……それに、マリッサが自覚しているかはわからないけれど、君はとても綺麗だよ。君のことを見ている男子生徒だって多いんだ」
「そんなこと……」
「それに、言ったでしょう。僕はウェインの代わりで構わないって」
「……」
私は思わず口を噤んだ。どうして、クリスほどの人が、こんなにずるい私を、これほど想ってくれるのだろう。それなのに、クリス自身に私の気持ちを勘付かせてしまっているのなら、私は何て残酷なことをしているのだろうか。
クリスは、黙り込んだ私に少し躊躇った様子を見せてから、ぽつりぽつりと話し出した。
「実はね、僕の左足に変わった腫瘍が見付かったんだ。前からしこりがあることには気付いていて、医者にもかかってはいたんだけれどね。今度、手術を受ける。もし腫瘍が悪性なら、歩けなくなるかもしれない。場合によっては、今まで通り学院に通うことも難しくなるだろう。
……だから、学院生活の思い出に、君と一緒に過ごせてよかったよ。幼馴染みとして知っている君だけでなく、いろんな君の表情を見ることができた。
勿論、僕の足が悪くなったら、僕のところにいてくれる必要はない。
君の気が済むまで、ただ僕を利用してくれたなら、僕にとってもそれが嬉しいんだ」
「……何を言っているの?
まだ、腫瘍が悪性って決まった訳じゃないわ。それに、何があったとしたって、クリスはクリスじゃない」
思わず大きな声が出てしまったけれど、こんなに弱気なクリスは初めて見たので、私もすごく不安になった。
クリスは、そうだねと言いながらも、どこか寂し気な微笑みをその顔に浮かべていた。
***
クリスは、街一番の大病院で足の手術を受けることになった。足の腫瘍が、残念ながら悪性だったからだ。
手術後すぐは、たくさんの生徒が、特に女生徒たちが我先にと見舞いに訪れていたけれど、クリスの病状がどうやら思わしくなく、これから車椅子での生活を余儀なくされるようだとわかると、少しずつ、潮が引くように、彼の周囲から女性の数が減っていった。彼女たちは、クリスの何を見ていたのだろうと、何だか切なくなった。結婚相手の優良物件として彼を狙っていた女生徒も多かったようだけれど、彼の表面的なスペックの高さしか見ていなかったのかもしれない。
しばらくは、身体に無理のないように、休学も決めたというクリスの方もまた、身近な私たち以外には、あまり積極的に会いたくはないようだった。
私は、今まで感じていた罪悪感を埋めるように、手術後は、薬を服用しながら家で静養していたクリスの元に、毎日のように通った。注意深く、ウェインと顔を合わせるのは避けていたけれど。クリスは申し訳なさそうにしていたものの、彼の車椅子を押して、広い庭を一緒に回ったり、お茶を飲みながら本を読んで過ごしたりする穏やかな時間が、私にとっては癒しでもあった。クリスが嬉しそうに微笑んでくれると、私まで嬉しくなったし、彼から受けてきた優しさを、少しでも返せたらと思っていた。
けれど、クリスの顔色は優れず、病状は日を追うごとに悪化していった。腫瘍が、足だけでなく全身に転移していたらしい。均整が取れてしなやかだった身体つきが、次第にやつれて手も足もみるみるうちに細くなってしまった。車椅子に乗っているだけでも辛そうな日もあって、そんな時は、私はベッドサイドで、彼が疲れない程度に、彼とお喋りをした。それでも、彼の顔はまだ儚げな美しさを湛えていて、やはりウェインの面影もあった。
ある日、クリスがベッドで寝息を立てるまで彼の手を握っていた私は、部屋に入ってきたウェインと鉢合わせてしまった。
ウェインは、クリスと私を交互に見てから、私が知っていた以前までの軽い調子とは打って変わって、静かに口を開いた。
「……兄さんの様子は、どう?」
「今は落ち着いているけれど、あまり芳しくはないわね」
多分、ウェインも私とあまり出会さないようにしながらも、クリスのことが心配で堪らないのだろう、頻繁に彼の元を訪れている様子を察することができたし、彼の目の下には濃い隈ができていた。
2人の間にしばらく沈黙が落ちてから、ようやくウェインが口を開いた。
「こうして面と向かって話すのも、久し振りだな。
あの、さ。前に、帰りの馬車で……」
「ああ。あの時は、おかしなことを言って、私が悪かったわ。ごめんなさい」
私はそれだけを言うと、ウェインから目を逸らして、早足でクリスの部屋を出て行った。
ウェインと一緒にいて、まだ彼のことが好きなことを悟られるのが、怖かったのだ。
こんな状況ですら、未だクリスの中にウェインを探してしまう自分が、自分でも嫌になった。クリスのことを、人としては大好きなのに、胸がきゅっと締め付けられるように痛くなるのは、やはりウェインのことを思い浮かべる時だった。そんな後ろめたさを忘れられるように、私はクリスが喜んでくれることなら、できる限り尽くしたいと思っていた。
私の16歳の誕生日を間近に控えたある日、クリスが夢見るような表情で、急にぽつりと呟いた。
「君のウェディングドレス姿、きっと綺麗だろうな。……見てみたかったな」
「えっ?」
私たちの住む国では、16歳を迎えると、正式に成人として認められ、婚姻を結ぶことができる。
(……これって、どういう意味なのかしら。
プロポーズ、みたいなもの……?)
私は少し戸惑いながらも、口を開いた。
「……確か、母が昔着たウェディングドレスが、まだ大切に取ってあると思うわ。できたら私の結婚式で着て欲しい、って言っていたの」
「そうか。……無理なお願いかもしれないけれど、着て見せてもらうことはできるかい?」
いつもは私の様子を敏感に察知して、決して私の困るような依頼はしないクリスだけれど、この日は少しだけ押しが強かった。
「ええ、クリスがそれを望むなら、もちろん。
……それなら、クリスは私の隣でタキシードを着てくれるのかしら?」
クリスは、私の言葉には答えずに、ただ静かに微笑んでいた。
クリスに残された日があとどのくらいあるのか、私はこの時、怯えながら毎日を過ごしていた。そのくらい、彼の病状は急激に悪化していたのだ。さすがに、いきなりウェディングドレスとは驚いたけれど、彼の願いなら、できることなら何でも叶えてあげたいと思っていた。
***
侍女に手伝ってもらい、母から拝借したウェディングドレスに袖を通す。母に事情を話すと、好きなようになさいと、黙って私の言葉に頷いてくれた。普段はしない化粧も施して、結った髪に花を飾ると、それなりに花嫁らしい雰囲気になった。
クリスは、君のウェディングドレス姿さえ見られればいい、なんて言っていたけれど、本音ではどう思っているのだろう。大ごとにする気はないから、できるだけ内緒で僕の家の庭に来てね、と、彼は唇に人差し指を当てていた。
私はドレスに合う白いヒールの靴を履くと、そっと私の家から出て、クリスの家の裏口から広々とした庭に入った。
温かな陽光が新緑の合間を縫って、芝生の上に差し込み踊っている。池の湖面が光を弾いて、きらきらと輝いて美しかった。もし本当に結婚式を挙げるなら、今日みたいな日は理想的だろうと思った。
クリスに言われた通り、庭に佇むベンチに腰を下ろして待っていると、大きな屋敷の中から、戸惑ったような声が聞こえてきた。ウェインの声だ。
「なあ、クリス。いったい、何がしたいんだ?俺にこんな格好をさせて……」
「まあいいじゃないか。僕のたっての願いなんだ、今日くらいは聞いてくれても。
ほら、天気だってこんなにいいし。これからマリッサも来るはずだよ」
いったいウェインはクリスと何を話しているのだろうと、私は屋敷から漏れ聞こえてくる声に、耳を澄ませた。
「は?どういうことだ?」
「彼女のウェディングドレス姿をどうしても見たいって、僕がお願いしたんだよ」
「じゃ、兄さんがこれを着ればいいじゃないか?どうして俺が……」
「だって、ウェイン。お前、小さい頃からずっと、マリッサのことが好きだっただろう?」
はっと、クリスの言葉に私は息を飲むと、私は声の聞こえてくる先をそっと覗き込んだ。
「……だったら、何だっていうんだ?
俺の気持ちは関係ないだろう。マリッサは兄さんを選んだんだから、兄さんが彼女の横に立てばいいのに」
「いや、関係あるんだよ、ウェイン、お前の気持ちが。僕じゃなくて、ウェインにマリッサの隣に立って欲しいんだ。マリッサは、お前以外には譲りたくない。
せめて、僕の目が開いているうちに、素直になってくれよ。僕の本当の病状を、家族の皆は先に知っていたんだろう?先の短い僕のために、彼女から身を引いてくれていたことくらいは、わかっている。
……ウェイン、お前は、今でも変わらず彼女のことが好きだろう?」
クリスの車椅子を押しながら少しずつ庭に近付いてきた、タキシード姿のウェインが、降参するように溜息を吐くと、頭の後ろで手を組んだのが見えた。
「……ああ、そうさ。今までに好きになったのはマリッサだけだし、今だって、彼女のことが好きだよ。けど……」
その時、ウェインがはっとこちらを見て固まった。私が彼らを覗き見ていたのに気付いたらしい。みるみるうちに、その頬が赤く染まる。
私も頬が火照るように熱いから、きっと私も顔中が真っ赤になっていることだろう。
クリスは、そんな私たちを見て、にっこりと笑った。とても嬉しそうな笑みだった。
「すごく綺麗だよ、マリッサ。ドレスが良く似合っているね。
さ、ウェイン、マリッサの隣に並んでくれる?
…君たちの結婚式を見るのが、僕の最後の願いだったんだ。でも、本物の式を見るまでは、残念ながら僕の命は持たない。だから、2人が正装をして並ぶ姿だけでも、目に焼き付けておきたくてね」
そんなことはない、と心の底から言いたかったけれど、クリスの言葉が真実だろうということはわかっていたから、ウェインも、私も無言のままで、彼の言葉を聞いていた。
クリスは、すっかりこけた頬で、けれど優しい眼差しはそのままに、私のことを見つめた。
「マリッサ、悪かった。僕は、ウェインの気持ちを昔から知っていたんだ。けれど、ウェインが僕のために身を引いたと知って、身勝手に、君が弱っている所につけ込んだ。……最後に、こんな僕を許してくれるかい?」
私の両目からは、堪え切れず涙が溢れ出した。
「許して欲しいのは、私の方よ。だって、私こそ、クリスを利用するようなこと……」
クリスはゆっくりと首を横に振った。
「僕は、君との2人だけの時間を過ごすことができて、本当に嬉しかった。ウェインにはすっかり借りを作ってしまったけれど……それでも、君のお陰で満たされたんだ。君は、僕が病に伏せってからも、信じられないくらい辛抱強く、優しく僕に接し続けてくれた。この世で君に出会えたことは、奇跡のような幸運だ。
……そして、ウェイン、お前のような弟を持ったこともね。僕のために、マリッサに対してあんな嘘まで吐かせて、お前にばかり我慢をさせて、すまなかったな。これも僕の我儘だが、少しだけでも、世を去る前に、借りを返させてくれ」
「兄さん……」
ウェインの目にも、薄らと涙が浮かんでいる。クリスの前に移動したウェインと、車椅子に座るクリスの2人に、私は大きく腕を回して抱き着くと、2人とも大好きと呟いた。
***
クリスが息を引き取ったのは、そのわずか3日後、私が16歳の誕生日を迎える直前だった。私たちが想像していたよりももっと、彼は自らの死期を悟っていたのだろう。穏やかな顔で、彼は旅立って行った。
ウェインは、安らかに眠る彼に向かって、ぽつりと呟いた。
「兄さんだって、嘘を吐いたじゃないか」
「……どういうこと?」
私が嗚咽混じりにようやく声を絞り出すと、ウェインは力なく笑った。
「タキシードを着て、ウェディングドレスを着た君の隣に誰よりも立ちたかったのは、兄さんのはずだ。俺は知ってる、兄さんが君のことを、昔からどれほど愛していたか。それなのに、兄さんは最後、俺にマリッサを託して、俺に、君の横に立って欲しいと言った。
…なあ、兄さん。兄さんの分まで、俺はマリッサを幸せにするからな」
ウェインが私に向かって伸ばした手を、私もきゅっと握り返した。
クリスの喪が明ける、そのちょうど1年後に、私たちは結婚することになる。
結婚式の日も、クリスにウェディングドレス姿を披露したあの日と同じように、温かな陽射しに満たされた日になった。
あの日と同じウェディングドレスに袖を通して、ウェインと手を取り合った時、ちょうど私たちの周りを、虹色に輝く羽を持つ妖精のような虫が、まるで祝福するかのように、ふわりと円を描くように飛んで来た。
(もしかしたら、見に来てくれたのかしら)
ウェインと私は目を見合わせると、私たちの周りを舞ってから、光に輝き空に昇っていくその姿を、じっと静かに見送っていた。
最後までお付き合いくださり、どうもありがとうございました!