前編
「ほら、マリッサ。これ見てみなよ」
「えっ、何?」
私のすぐ側で、両掌で何かを包み込むようにしていたウェインが、ぱっとその両手を開いた。
指の先ほどの大きさの小さな何かが、ぱたぱたと羽を動かして、私の服の上に静かに止まる。
私は思わず悲鳴を上げた。
「きゃっ、やだ。何、虫……!?」
私が慌てる様子にくっくっと笑うウェインを睨み付け、私は涙目になった。私が虫を大の苦手としていることを知っていて、あえて彼は私に、こんな子供じみた悪戯を仕掛けてくるのだ。……まあ、まだ10歳の彼も、私も、実際に子供なのだけれど。
それだけではない。近くに住む伯爵家同士の幼馴染みという気安さからか、彼は、私が大事に取っておいたキャンディをひょいと取ってしまったり、からかうように後ろから頭を小突いたり、私を見ると、いつもそんなちょっとしたちょっかいを出してくる。男の子って、年齢以上に子供なんだなと、ウェインを見ていると思う。同い年とは思えない。
その時、いつものように、横から落ち着いた優しい声が聞こえた。ウェインの3つ上の兄のクリスだ。
「マリッサ、大丈夫だよ」
そう言って、クリスはそっと私の服からその小さな虫をつまみ上げると、その大きく滑らかな掌に乗せた。
「…マリッサ、君が虫が苦手なことは知っているけれど、見てごらん、綺麗な虫だと思わないかい?
これはとても珍しい虫でね、天に昇った魂が、地上に残された人に会いに来る時に、この虫の姿を取るという言い伝えもあるんだよ。聞いたことない?」
「そういえば、そんな話、昔聞いたことがあるような気がするわ」
クリスはウェインとは対照的に、伯爵家の長男に相応しく、いつも紳士的だ。彼の温かな笑顔に絆されるように、まだ少し距離を取りつつも、私は恐る恐るクリスの白い掌に乗った虫を覗き込んだ。その半透明に透き通った小さな虫の、銀色を帯びた4つの薄い羽は、陽の光を浴びると虹色に輝いて、丸くくりっとした2つの目も、よく見ると意外にも可愛らしく、何だか小さな妖精のようだった。私が嫌いな、見ただけで背中がぞわりとするような感覚は、この虫にはなぜか感じなかった。
「意外と、綺麗、かも……」
戸惑いつつもそう呟いた私に、クリスがにこりと微笑み掛けた。
「そうでしょう?
ウェインも、態度はいつもあんな感じだけど。愛犬のルネを亡くして落ち込んでいるマリッサを元気付けようと、彼なりに必死だったんだ。この虫も、何日もかけて探していたんだよ」
「そうなの?ウェイン。……どうもありがとう」
私がウェインの方を振り向くと、照れたように、決まり悪そうにふいっと彼は横を向いてしまった。素直じゃない。
クリスとウェインは、顔はまるで判で押したようによく似ていて、輝くような金髪に、澄んだ切れ長の碧眼の、人目を惹く整った容姿はそっくりなのだけれど、性格はまるで正反対だ。落ち着いていて、穏やかで優しいクリスに対して、やんちゃで口が悪くて、私に意地悪ばかりしてくるウェイン。
でも、私は、何だかんだ言っても、この2人の幼馴染みが大好きで、彼らと一緒にいる時が一番楽しかった。それに、どうしてかはわからないのだけれど、あんなに憎まれ口ばかり叩かれるのに、ウェインに絡まれると、胸の鼓動がとくとくと速くなる。誰より彼に構われている私は、もしかしたら彼の特別なんじゃないかと、そう思いそうになる。何で、あんなに素敵なクリスじゃなくて、ウェインなんだろうと、自分でも不思議に思うのだけれど、それは理屈で説明できるものではなかった。けれど、私は私で、決して頬を染める様子なんてウェインに見せまいと、ひたすらに意地を張っていた。
「あ、動いた……」
クリスの掌に留まっていた虫が、そろそろと動き出した。私の上げた声に、ウェインもこちらに近付いてくる。
3人の視線を浴びながら、ゆっくりと銀色に光る羽を動かしたその虫は、ちょうど私の目の前で大きな円を描くようにしてから、光を弾きながらきらきらと、空に高く昇って行った。
「もしかしたら、本当にルネだったのかな……」
いつも、私の前で嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振っていた愛犬が、まだすぐ側にいるような気がして、私の両目にはじわりと涙が浮かんだ。
そんな私の頭を、クリスはふわりと優しく撫でてくれた。
それは私たちの何気ない日常の一場面だったけれど、私は、この日柔らかな陽射しの中で、3人で過ごした時間をなぜだかとても愛おしく感じて、この時を切り取って宝箱にしまっておきたいくらいだと思った。
ふとした瞬間に訪れるこんな幸せな時間が、あの時の私にとっては宝物だった。
***
私たちは3人とも、貴族の子女向けの同じ学院に通っていたけれど、クリスとウェインが成長するにつれ、2人を囲む女生徒の数も次第に増えていった。
端正な容貌に加え、成績優秀で人望も厚く、非の打ち所のないクリスが人気になるのはわかるけれど、ぶっきらぼうで、授業からも時折するりと抜け出すようなウェインまでが女生徒たちの黄色い声を浴びるのは、何だか納得がいかなかった。彼の一見愛想のない態度の裏にある優しさや、私を驚かせた後のはにかんだような笑顔や、私にしか知らないウェインの魅力がたくさんあるはずなのに、客観的に見ると、彼に熱を上げて群がる女生徒たちのほうが、私よりもよほど彼のことが好きなように見える。つい可愛げのない態度を取ってしまう私が悪いのはわかっているのだけれど、私はきっと、自覚していた以上に焦っていたのだろう。
それは私たちが15歳になったばかりの時だった。ウェインをついさっきまで取り囲んでいた女生徒たちに、私がつい顔を顰めてしまったら、帰路に向かう一緒の馬車に乗り込んだ時、ウェインがにやりと笑いながら私に言った。
「マリッサ、何でそんなに不貞腐れてるわけ?」
「……別に」
つんと横を向いた私に、ウェインがふざけたように言った。
「何だよ、マリッサ。俺のことが好きなの?」
ウェインは時々、楽しそうにそんな冗談を口にする。決まって私は、そんな訳ないじゃない、クリスのほうがよっぽど素敵だわ、と答えていた。それがいつもの、私たちのお決まりのたわいないやり取りだったのだ。
なのに、なぜ、私はあの時、あんなことを言ってしまったのだろう。今まで抑えていた気持ちが溢れるように、つい口から言葉が零れてしまった。
「……ええ、そうよ」
意を決して、私が彼を真っ直ぐに見つめると、一瞬、虚を突かれたようにウェインが黙り込んだ。ウェインの視線がしばらく中空を彷徨った後、彼は気まずそうにぼそりと言った。
「……変なこと聞いて、ごめん。
俺、マリッサのこと……そういうんじゃないから」
その日、それからどうやって家まで帰ったのか、あまりよく覚えてはいない。後悔と自己嫌悪と、大切なものを失ってしまった空虚な感覚。そんなものがないまぜになって、私の心を覆っていた。
その日以降、私はウェインのことをできるだけ避けるようになった。どんな顔をして彼に会っていいのか、わからなかったのだ。何事もなかったかのように、幼馴染みとして彼と接する自信は、私にはなかった。
長年の想いが届かなかった喪失感から、どうにも悲しい気持ちに襲われて、学院の木陰で声を殺して泣いていた時に、どん底の私を見つけて手を差し伸べてくれたのは、クリスだった。
クリスは、私が好むような人気の少ない場所をよく知っていたようだ。クリスから遠慮がちに声を掛けられた時、涙でぐしょぐしょの顔になっていた私は慌てたけれど、彼の顔を見たらほっとして、幼かった日と同じように、つい彼の胸に飛び込んでしまった。
「マリッサ、どうしたんだい?
最近、いつも明るい君の表情が翳っていたから、心配していたんだよ」
私が何も答えずに泣いているのを、彼はただ優しく私の髪を撫でながら、じっと辛抱強く待っていてくれた。
私は少し落ち着いてから、ようやく彼に言った。
「私ね、ウェインに振られちゃったの」
「……」
クリスは驚いたように目を瞠っていたけれど、私を励まそうとしてくれたのだろう、あえて明るい口調で言った。
「ウェインも、勿体ないことするなあ。僕なら、こんなに可愛いマリッサを放っておいたりはしないのに」
「……本当に?」
私を慰めるための冗談だろうと思いつつも、まだ涙目のまま、私がクリスを見上げると、彼ははっきりとした口調で言った。
「……ああ、本当だよ」
驚くほどに、彼の目は真剣そのもので、そこに烟っている熱に、私は思わずどきりと胸が跳ねた。
「君が弱っているところに、つけ込むようで悪いけれど。
ウェインの代わりで構わないから、僕に、しばらく君の側にいさせてもらえないかな?」
そう私の耳元で囁いた彼の言葉に答える代わりに、私は肯定を示すように、クリスの胸元にぎゅっとしがみついた。