恋のはじまり
恋のはじまりは、突然だった。
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今日の天気は予報どおりの曇り。開いた窓からは秋雨前線による湿った風が吹き込んでくる。
二時間目の授業の後の休み時間。わたしは教室の隅の自分の席で、大黒摩季の「ら・ら・ら」を聞いている。
イヤホンを通して聴こえてくる力強い歌声に酔いつつわたしはなんとなく、薄暗い教室の中をぐるりと見渡した。
見渡してわたしは、窓際の一番前の席で男子二人が会話しているのに目をとめた。一人はその席の持ち主で、もう一人の立っている男子は知らない顔だ。知らない方は、窓枠に片腕を置いて頬杖をついている。
きっと別のクラスの男子なのだろう。わたしの通う高校は一学年に十クラスあるし、入学してまだ半年しか経っていないから、見たことのない生徒は沢山いるのだ。
彼の第一印象は「小柄で色白」。わたしたちの年頃の男子は肌がだいたい凸凹しているのだけど、彼の頰はやけになめらかだった。
肌が綺麗。そう思ったのと、雲間から日が射して彼のそのピカピカの頰をさらに明るく照らしたのと、何か面白い話題でもあるのか彼が肩を揺らして笑ったのと、歌がサビにさしかかったのはほとんど同時に起きたのだった。
彼とわたしの間には少し距離がある。でも視力1.5のわたしの目は、彼の顔のうぶ毛一本一本が光に透けてキラキラと輝くのを見逃さなかった。
彼のほっぺたのうぶ毛に口づけしたい。切実にそう思った。
これを恋と言わずして、何を恋と言うのだろうか!
わたしはイヤホンのコードをくるくると持て遊びながら、彼の一挙手一投足すべてを見逃すまいと、彼の全身に熱いまなざしを注ぎ続けた。
彼が光に目を細め、話し相手から現代国語の教科書を受け取って、チャイムの鳴るギリギリに慌てて教室を出て行くまで、ずっと。
三時間目の授業は日本史だったけれど、教師の言葉は全く頭に入って来なかった。
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次の休み時間、彼と話していた男子に尋ねてみた。この男子とは一学期に購買係として共に働いた経験があるので割と話しやすい。とても幸先の良いスタートだ。
「ねぇ、さっきの休み時間に話してた別のクラスの子、何て名前?」
「二組のシラヌキだけど、なんで? 興味あんの?」
男子は目を丸くした。
「いや、別に……知らない顔だったからなんとなく……」
やっぱりいきなり彼の名前を聞くのは不自然だっただろうか。でも背に腹はかえられない。
男子はニヤリと笑った。
「さっき貸した現国の教科書返しにまた来るよ。その時紹介してあげれるけど?」
「いいって!」
「あいつ俺と同じ卓球部だから、放課後に多目的室に来れば見れるよ!」
男子はしたり顔で言う。
「だからいいって‼︎」
わたしは自分の席に逃げ帰り、イヤホンを耳に突っ込んだ。
久保田利伸の「LA・LA・LA LOVE SONG」がわたしの鼓膜を心地よく震わせた。
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しかし六時間目まで待っても、結局彼は現れなかった。
考えてみれば現代国語の授業は一時間目に終わっているのだ。教科書を返すのは放課後の部活の時でも全く問題ない。手洗いに行くのもそこそこに待ちわびた自分がバカみたいだった。
六時間目は化学。わたしは真剣に、放課後に彼、シラヌキ君を見に行くかどうかを考えていた。わたしはと言うと手芸部に入部したものの、幽霊部員大歓迎のユルい部なので、欠席しても特に問題はない。
シラヌキ君は二組でわたしは八組だ。二つの教室は階が違っているから、今まで顔を合わせる機会がなかったのだろう。
それにしても卓球部か。わたしはシラヌキ君の所属している部活を好ましく思った。卓球部にはちゃんとした部室がないので、多目的室を利用して練習しているという不遇さも良い。妙なところで母性本能がくすぐられる。
おまけに彼の顔は爽やかではあるがイケメンではない。丁度いい具合のルックスで、短めの染めていない髪には清潔感があって、そこにも好感が持てた。バスケ部やサッカー部だとなんだか出来すぎている気がするし、イケメンだと競争率が高そうだ。
「おい、平!」
わたしの考えは教師の怒声によって中断した。
「俺の授業でそう簡単に寝れると思うなよ! ちょっと立て!」
わたしは頬杖をついてうつむいていたから、寝ていると思われたみたいだ。
心臓が早鐘を打つ。わたしはなんとか席を立った。皆んなの視線を感じる。
「そんな調子だと授業について来れなくなるぞ。文系志望だからってあからさまに手を抜くな!」
わたしはイヤホンを耳にねじ込みたい衝動を抑え、化学教師の説教が終わるのを辛抱強く待った。
長い長い授業の後、わたしは研ナオコの「LA-LA-LA」を、いつもよりさらに集中して聞いた。そして放課後に多目的室まで行ってみようと決意した。さっき叱られたストレスを、彼を見ることで解消させてしまおう。