馬小屋から
まるでドラマのワンシーンを見せられているかのような、そんな不思議な感覚だった。
自分の目の前で膝をついて、手の甲にキスをされるなんて……。
いや正直に言えば、レグルスにはされたことはある。と言うか、私がそうするように指導していたし、しなければ怒って手もつけられないような状況だったから、レグルスも仕方なくしていた。
けれどこんなに自然に、熱い視線を向けられたことが未だかつてあっただろうか……?
「あの……」
この熱のこもった気持ちに、なんて答えたらいいんだろう。
私も好きです。って、気持ちを打ち明けられたらいいのに。幸せの絶頂だった前世のあの時みたいに答えられたら、どれだけいいんだろう。
だけど今はそれをしてはいけない。シリウスがこんなに真剣に告白をしてくれているのに。誠実な言葉に、誠実に答えられないのが申し訳なくて、私はシリウスから視線を逸らした。
「気にしないで、スピカ嬢。君を困らせるつもりは毛頭ないんだ」
そう言ってシリウスは私の手を離し、立ち上がった。立ち上がったシリウスは再び私の壁になるようにボルックスとカストルから私を守るかのように立ち、私に背を向けてこう言い放った。
「とにかく、俺の気持ちははっきりしてる。レグルスとスピカ嬢の婚約が形だけのものなのだとしたら、俺はスピカ嬢にアタックするのは悪いことではないだろ? これは俺が勝手にすることで、スピカ嬢が浮気をしているわけではないんだからな」
そう言ったあと、シリウスは再び振り返り、私に笑みを浮かべた。ちょうど陽の光がシリウスの顔に影を差す。シリウスの顔が眩しくて、私は思わず目を細める。
だけどそれは太陽が眩しいせいではなく、シリウスの優しい笑みが私の心に沁みたせいなんだと思う……。
「スピカ嬢は困らなくていいんだ。嫌なら俺を突っぱねればいいし、今すぐに返事をする必要もない」
返事をすぐにでもしたい。だけどそれは今の現状、できそうにもない。
シリウスはそんな私の立場を理解している。だからこそ、ボルックスとカストルに背を向けながら、私に優しく笑みを零してくれている。
「だけどもし、スピカ嬢の気持ちが俺に向いた時は、俺に教えて。今はそれだけでいいんだ」
凛々しい眉尻の角を落として、澄んだ瞳は私に何も今は言うなと訴えかけている。
シリウスはやっぱり、佐々木くんだったんだ。やっと会えた。会えたのに、佐々木くんの想いに応えられない自分が情けない。
どうせレグルスとはうまくいっていない関係で、婚約解消を狙ってるわけだからここで私もシリウスのことが好きだと伝えてしまいたい気持ちでいっぱいだ。
……そう思う一方で、そうすると私は周りから後ろ指を指されて、自殺に追いやられるんじゃないかっていう不安もある。他殺とは違って自殺なんだったら、自分の意思と心持ち次第だし、私は自殺なんてする気は毛頭ない。痛いのも嫌だし、死ぬのももちろん嫌だ。
けれど、私の口を黙らせる最大の理由は、目の前にいるシリウスだった。シリウスが今は何も言わないでって、訴えかけるような目でみてくるから、私はそれに従おうと思う。
自分の身の可愛さというよりも、こうしてシリウスが守ってくれようとして振舞ってくれている行動を、無下にしたくないって思う。好きな人に助けて貰うのは、やっぱり乙女の性質上、嬉しいものだから。
そんな風に私の頭が、シリウスに対する熱でくらくらとし始めていた、そんな時だった。
「……聞き捨てならない話だな」
予想だにしない方向から、予想だにしていなかった人物がこちらに視線を向けていることに気がついたのは。
「婚約者がいるのを知っていて、口説くとはなかなな根性が座ってるじゃないか」
「……レグルス」
ありえないことに、レグルスが馬小屋の影から姿を現した。
なぜそんなところに? そう聞きたくなった気持ちは、一瞬で消え去ってしまった。なにせ馬小屋の角から現れたレグルスの表情が、今まで私の記憶するどのレグルスよりも怒りで溢れかえっていたからだ。
レグルスもこの乙女ゲームでの攻略対象なだけあって、正直綺麗な顔をしている。整った顔立ちと、すっと伸びた高い鼻。金色の髪が王子のようだと思なくもない——ただし子供っぽい性格で、悪役令嬢であるスピカを毛嫌いするような性格の男でなければ。
そんな容姿を持つレグルスだからこそ、怒りに満ちた表情は正直背筋にひゅっと冷たい風が走るほど、私を震え上がらせていた。
「なんだ、聞いてたのか。それなら話は早いな」
レグルスの表情にひるむこともなく、シリウスは再び私をかばうようにして前に立つ。今度は私とレグルスの間に壁を作るように。
「俺はスピカ嬢が好きだ。レグルスがあまりスピカ嬢との婚約に前向きではないと聞いて、俺は正式に彼女にアプローチをしたまでだ」
シリウスの言葉に、乙女な私の心は小さく弾む。
この世界は中世ヨーロッパの世界なのだろうか。シリウスはレグルスに戦いでも挑むようなその背中に、私は王子様のような姿が重なって見えた。
バカバカしいけど、本当にそう見えるのだから、恋とはすごい。
「誰が誰の婚約に前向きではないって……?」
「先ほど、ボルックスとカストルからそう聞いているんだが?」
レグルスの視線が、今度はボルックスとカストルに向けられた。ボルックスは飄々とした様子で、視線をレグルスから逸らす。あたかも『事実だろ?』と言いたげに。
ここで婚約解消になるのだろうか。と、そんな淡い期待を抱いていたその時だった。
「……そんなことはない」
レグルスが信じられない言葉を放ったのは。
「俺は、スピカのことを愛している」




