お迎え 2
「おはよう、スピカ。今朝の体調はどうだ?」
にこやかに笑顔を向けるのは、レグルス。”あの”、レグルスだ。
私の元に駆け寄り、手の甲にキスをするのも今までよりもとても流暢に見える。……だから、なぜ? なぜ嫌々ではないのか? むしろやめて良いって言ったはずだ。口が酸っぱくなるほど言ったはずだ。それなのに……?
呪いとも取れる私の刷り込みがまだ効いているのだろうか。
「ええ、かなり良くなったわ。心配してくれてありがとう」
「そっか。それなら良かった」
ニッコリと微笑みを返すと、レグルスはさらに微笑んだ。そんな笑みを向けられて、私はさらに首を捻りたくなる。
この男、何を企んでいるのだろうか……? ここってゲームの世界なんだったら、何かイベントとかあるよね? 多分だけど木の上から猫を助けようとしたミラのあの行動も、もしかするとゲームのイベントだったのかも。そう考えるとこのレグルスの不審な様子も何かのイベントの前触れなのだろうか?
……そこまで考えたところで、私は思わずハッと息を飲んだ。
もしかして、婚約破棄のイベントが近いとか?! 待って。私そのイベントがいつ、どこで、どうやって起こるのか、何も知らなんだけど! いやいや、落ち着け。婚約破棄されるのにこの態度ってなに? それにそもそも、破棄される分には良いじゃん。私が望む形で、本筋通りのストーリーなんだろうし。
でももし私の読みが正しいのなら、このレグルスの態度はあれかな? 婚約破棄前に、最後の晩餐ならぬ最後の善意からくる態度なのかも。幼馴染のよしみで、態度よくしておいて地に落とすように婚約破棄するために、とか……?
でもなんだそれ。それって‚——。
「鬼だなっ!」
思わずこぼれ出た言葉に、さすがのレグルスもビクッと肩を震わせて驚いている。レグルスだけではなく、玄関の扉を開けて待っているクロイツですら驚いた表情を見せている。
……し、しまった。思考を巡らせすぎた。どうにかしてこの場を取り繕わなくては……!
「……おっ、オホン。失礼しました。昨夜寝る前に鬼が出てくる本を読んでいたので、ちょっとそのセリフが脳裏に張り付いていたようですわ」
苦しすぎる言い訳に対して、瞳をキラキラと輝かせて食いついたのは、レグルスだ。
「鬼が出てくる本? 普段は本を読まないスピカが珍しいな。しかも鬼とは。一体どんなファンタジー小説なんだ?」
ひー! それ以上突っ込んでくれるな。読んだわけないじゃん。
「えーっと、とても恐ろしい鬼が出てくる話でしたわ。まだ読み始めたばかりなのでまだ全貌は掴めていなければ、昨夜は体調が良くなかったせいもあってあまり詳しくは覚えていないのだけれど……」
そんなあやふやな内容しか頭にないくせに、なぜその本のセリフを突然叫んだのか? 私は自分で自分にそうツッコミを入れた。
それと同時に、どうかレグルスがそんなツッコミを入れないでくれることを願いながら……。
「それよりも、そろそろ学校に向かわなければ遅刻してしまいますわ」
この話はこれで終わりだと言いたげに、私はさらに何か言いたそうにしているレグルスを無視して、開け放たれた玄関へと向かって歩き始めた。
「スピカ、段差に気をつけて」
素通りした私の隣につかさず駆け寄り、手を掴んで私をリードしてくれるレグルス。
「あっ、ありがとう……」
お礼の言葉に、レグルスは笑う。それは嫌味のない笑顔だった。
どうやら私のお礼を述べるこんな態度にも彼は免疫がついてきたようだ。昨日はあんなにびっくりしていたというのに。
というかそもそも……段差に気をつけてって何? 段差と言っても、たったの二段だけだし、そもそもここ、私の家なんですけど? レグルスが想像する以上に私はこの段差を上り下りしているし、レグルスよりも多くの場数を踏んでいるというのに。
「スピカお嬢様、お嬢様の荷物はすでにトランクに積んでおります。お昼のお弁当に関してもそちらに入っておりますので、お忘れなきように」
「わかったわ。クロイツ、何から何までありがとう。行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
私はクロイツの隣を通り過ぎ、玄関を出た先にある階段を降りた後はさっさとレグルスの手を離した。
佐々木君が私の初彼だった。佐々木君には告白されたけど、前世でモテたことなんてない私としては、この対応は本当になんていうか……むず痒い。
私はレグルスの車の後部座席に乗り込み、反対隣にレグルスが座った。扉が閉まったと同時に車は動き出したが、私は窓の外に立つクロイツの姿を見つめていた。……いいや、見つめていなければいてもたってもいられないからだ。
レグルスが私をガン見している。真横に座って、まじまじと見つめている。私の視線は窓の外に向いているというのに、私の後頭部はレグルスの視線を受けて悲鳴を上げていた。
「今日のヘアスタイル、とっても似合ってるな」
「ありがとう。使用人がとても上手に纏めてくれたのよ」
相変わらず私は窓の外を見ながらそう言葉を返す。すでに窓の外にはレグルスの姿はない。屋敷の敷地を抜けて、外の景色が流れるように消えていく。そんな当たり障りのない景色だけを私は見つめていた。
今は車の中。私とレグルスとレグルスの運転手だけしかいない。ちょっとくらい変な態度をとったとしても誰も私を咎めはしないし、ジャッジもしない。
……というか、私がレグルスの視線に耐えきれないだけだけど。
「さっき、スピカの執事が言っていたけどお昼のお弁当っていうのは、なんのことだ?」
「あっ、そうなの。私今日からお弁当を持って行くことにしたのよ。だから私たちは別々にお昼を取りましょう」
「なぜ急に弁当なんだ?」
窓ガラス越しに映るレグルスの顔が、驚きに満ち溢れている。
そりゃそうだ。以前の私はお弁当なんて持参するのはどこぞの貧乏人がすることだと言っていたのだから。
「私うちのシェフの料理が好きなの。だから彼にお願いして作ってもらうことにしたのよ」
「スピカがそれほどまで言うシェフの腕前が気になるな……俺にも一口分けてくれよ」
「だっ、だめよ! 私だけが食べていいお弁当なのよ!」
思わずそう言って振り返ってしまった。するとレグルスは再び瞳をまん丸と見開いて驚いている。がめつい奴だと思われてもいい。それでレグルスと別々にお昼を取れるのであれば。
だけど、レグルスは「あははっ」、と声を立てて笑った。お腹を押さえながら。
「分かったよ。それなら今度はそのシェフの手料理をスピカの屋敷でいただくとしよう」
……しまった! それもそれで墓穴だった!
慌てて訂正を加えようとする私に、さらに追い討ちをかけられる。
「と言うか、弁当を持ってきていても学食でそれを一緒に食べればいいだろ。あっ、一緒にと言っても俺はスピカのものは盗み食いするつもりはないから安心しろ」
……そうだ。別にお弁当を持ってきたからって、学食には入れないわけじゃないんだ。なんて馬鹿なのだろうか。凡ミスも凡ミスすぎて、笑えない。
「ほっ、ほら、私だけお弁当を食べると恥ずかしいでしょ? みんな学食のものを食べているのに。みすぼらしいじゃない」
そうだ、その手でいこう。学食で自分だけお弁当を食べてるなんて、恥ずかしいに決まっている。周りは皆お金持ちのご子息、ご令嬢ばかり。学食に食べに来た人の中でお弁当を開いて食べる輩など見たことがない。お弁当を持ってくる人たちは周りの目を気にして外で食べるのが普通だ。
「俺は別に気にしないぞ」
「私は気にするわ」
きっぱりそう言い切ると、レグルスは再び笑った。
「ははっ、そんなもの気にしなくなったから弁当など持って来たんじゃないのか?」
「そ、そうだけど……見られてると思うと、話は別なのよ」
「なら俺も今日は外で買って来たものを食べることにしよう。そうすれば一緒に学園内で食べれるだろ? と言うことで、昼食を買って俺のところまで持って来てくれるか?」
レグルスは運転手に向かってそう言い、バックミラー越しにレグルスに視線を送った運転手が「かしこまりました」と言葉を戻した。
いやいや、待て待て。それじゃ意味ないんだけど。私の計画総崩れじゃん。
「レグルスは別に私に付き合う必要はないわ。好きなものをあの学食で食べればいいし、一人が嫌であれば友人と一緒に昼食を楽しめばいいのよ」
「俺はスピカと一緒に食べたいんだ」
そう言って、レグルスは私の右手にそっと自分の手を重ねた。
……まじかい。
思わず白目を剥きそうになって、私は微笑むふりをしてそっと目を閉じた。




