プロローグ
——その日もいつも通りの朝。
朝目が覚めると使用人が部屋に来ていつものワンピースの制服を運び、私に袖を通せと言わんばかりに差し出している。
(先週新しい使用人に変えたばかりだというのに、すでに態度が芳しくないわね)
私は思わず眉根を寄せた。そして手伝う素振りを見せる使用人の手を払いのけ、制服に袖を通す。
(使用人の教育がなっていないわ。先週も伝えたはずの制服には糊付けもされていないようだし)
別の使用人が私の身だしなみを整えているけれど、私の自慢の青白く艶やかなストレートの髪に対し、雑に櫛を入れているあたり、この使用人もさっさと変えた方が賢明だろう。
朝食もいつも通り、味気なくて質素。毎日文句を言っているにも関わらず、変わらない味付けにうんざりし、いつも通り朝食を二口ほど口をつけて残りをテーブルの上に残したまま、ダイニングを去った。
「スピカお嬢様、今車の手配をしておりますのでもうしばらくお待ちくださいませ」
(車の手配をしている? 私が席を立つ前に車を停めておくのが道理というものではないかしら? 主人を待たせるなんて、相変わらずうちの執事は仕事ができないようね)
そんな風に思いながら氷のような視線を送って見せたところで、この執事は気にも留めない。
(そろそろお父様に言ってクビにするべきかもしれないわね)
そんな風に思いながらも待つこと数分、やっといつものロールスロイスが目の前に停車した。
私はそれに乗って”ティンクルスター学園”に向かう途中、同じ制服を着た、マッシュルームを想像させるような変わった髪型をした令嬢が、街を歩いているところを見かけた。
ティンクルスター学園は爵位のある家柄の者たちが通う名門校。皆車で登校するのが一般的だというのに……?
不思議な光景を見たと思いながらも、その姿はあっさりと後方彼方へと消えて行った。そんな光景すら忘れた頃に、車は学園の入り口にゆっくりと停まった。
「おはよう、スピカ」
にこやかにそう挨拶をしながら車から降りたばかりの私の手を取り、甲にキスをする。
彼は突き抜けるように金色に輝く髪がよく似合う、レグルスという青年。クラスメイトでもあり幼馴染でもある私の婚約者殿。
「おはよう、レグルス。毎朝わざわざ門の前で私を待ち伏せしなくてもいいのよ?」
「ははっ、よく言うな。待っていなければ怒るくせ……いてっ」
「コホン」と咳払いをしながら、レグルスの手をパシンと叩く。
(レグルスの欠点は単細胞で女性の扱いをわかっていないところだわ)
だから私はいつもこのようにレグルスを指導しなければならない。
(だって彼は私の将来のパートナーとなる相手。私の隣に立っても恥ずかしくないような完璧なパートナーになってもらわなくては)
「いいんだ。俺がスピカがクラスに来るまで待てないだけなのだから」
「そう、そこまで言うのであれば仕方がないわね」
正しいテンプレートを言い終えたレグルスに満足をした私は、再び笑顔を振りまきながら、差し出されたレグルスの腕を取ろうと手を添えた、その時だった。
「こんなところに黒猫? やだわ、不吉」
私達の前を横切ろうとする黒猫。私は眉間にしわを寄せながら空いた片手でしっしと追い払って見せた。すると——。
「ミャーオ」
追い払おうとして取った行動にも関わらず、空気の読めないこの猫は突然方向転換をはじめた。そしてそのまま私めがけてジャンプし……突然のことに驚き、猫を避けようと動いた時に足がもつれてしまい思わず転びそうになった。
……けれど幸いにも、寸前のところでレグルスが私を抱きかかえるようにして抱きとめていた。
「スピカ、大丈夫か?」
そう言われたと同時に、猫がレグルスの肩に飛び乗った。
「えらく人懐っこい猫だな」
「ふっ……」
「ふっ?」
鼻腔内を電気が駆け抜ける。
「っくしゅ! くしゅん! くしゅん!」
「どうしたんだ、突然?」
「わっ……わからないわ。その猫が近づいてきたら、鼻の奥がとてもこそばゆくて……くしょん!」
「なんだ、猫アレルギーだったのか? 確かスピカは何のアレルギーも持っていなかったと思っていたが……?」
(猫アレルギー? いいえ、そんなもの持ち合わせていないわ)
アレルギーチェックは毎年のヘルスチェックで確認しているはずで、それには数値が現れていなかった。
もしくは前回のヘルスチェックから今までの間でアレルギーが発症したのか……?
そんな疑問が頭をよぎるが、私は何かが胸につかえていた。
(……おかしいわね。既視感というのかしら? 私以前にもこのアレルギーを発症した記憶があるわ……? 確かあの時は猫に触っただけで反応を起こして、それから呼吸ができなくなって……けれどそれって、いつの話なの……?)
「おい、こら、おとなしくしろっ!」
私が自分の記憶の中を整理している最中、レグルスが何かと格闘しているような声が聞こえて、私はハッとした。けれどそれは気づくのが一歩遅かった。
まだ抱きとめられた状態だった身動きの取れない私の顔に向かって、あの黒猫は飛び込んできた。
——その直後、私の記憶はプツリと途絶える。
代わりに私に別の記憶を植え付けて。
(ああ、そうだ。私は猫アレルギー”だった”のよ……)
記憶が途切れる直前、別の記憶が走馬灯のように脳裏を駆け抜けながら、ふとこう思った。
それは蒼井 梨々香という名前で過ごしていた、前世の話だけど——と……。