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さよならサルトル  作者: きむらともお
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後編

                 第三章


                  7


 天使と会ったことがある。

 小学四年生の秋のことだ。場所は近所の高台にある公園だった。この高台はもともと小山状の地形が数十年前に住宅地として開発されたところで、緩やかな上り坂が渦を巻くようにカーブしながら、てっぺんにある公園にまで続いていた。坂道の道沿いには同じような住宅が建ち並んでいて、ここから同じ小学校に通っている子たちも多かった。僕は学校の帰りにいつも一人で坂道をずっと上まで登って、この公園に立ち寄っていた。

 公園の西側は石段が積み上げられて展望台になっていた。そこから町を一望することができる。展望台の真下は急角度の斜面だ。大きなフェンスが設置されて、人が落ちないような安全対策がされている。もっともこの展望台のフェンスを乗り越えて、斜面に茂った草の上をダンボールをソリにして滑り降りるのが、近所の小学生の格好の度胸試しだった。

 僕は毎日、ここでフェンスの金網に、あとが残るぐらい頬をくっつけて町を見下ろしていた。夕方になると、町全体が夕陽でオレンジ色に染まっていく。夕焼け小焼けのメロディと早くお家に帰りましょうと子どもたちに呼びかける放送が聞こえてくる。そんな時、どこかの家の夕食なのか、魚を焼くにおいがしてくると、僕はたまらない気持になって、泣き出しそうになってしまう。なぜそうなるのか自分でも良くわからなかった。

 僕はここに切なくなるためにきていた。かゆいかどうかわからないから、血が出るまでかきむしってみる。痛いかどうか確かめるために、わざと壁に頭をぶつけてみることもある。自分の気持ちがつかまえられないなら、わざとそんな気持ちになってみるしかない。はっきりしない気持ちがたまらなくて、僕は無理に傷をこじあけようとしていた。

あの頃のことを思い出そうとすると、そんな痛々しい気持ちしか浮かんでこない。だから僕は、あの天使のことも一緒に忘れてしまっていたのかも知れない。


 天使は公園でフェンスに張りついていた僕の横に、いつの間にか浮いていた。最初は、そこに何かいるという気配だけをなんとなく感じていた。意識しはじめると、ようやくぼんやりとした姿が見えてきた。まるで目の焦点が合った時だけ、ふいに浮かび上がってくるマジックアートみたいだった。

 身長は30センチぐらい、地面から1メートルあたりの空中に止まっていた。今はあれを天使だと思っているけれど、本人がそう言っていただけで確証はない。羽根は生えていないし、頭にも輪はない。最初は錯覚かと思って何度も目をこすってみたが、やはりそこに、牧場にいる乳牛のような白黒のまだら模様の服を着た小さな人が浮かんでいるのだ。

 不思議なものが見えるのはだいたいが気のせいだ。その頃の僕にはやたらと変なものが見えていた。お風呂のタイルの模様がどうしても人の顔に見えてしまったり、電灯を消しているのに、天井にはどこかから光が射していて、文字が浮き出ているような気がする。見たくないと思うと余計、見えてきてしまう。そんなことばかりだった。

 天使の顔はよく覚えていない。ぼやけていてはっきりとしていないし、小さすぎて確認することもできなかった。髪の毛は黒くて、そんなに長くはない。顔は人間だが、体は牛の模様。最初、これはもしかすると、学校の図書室で読んだ「怖い話」の本にのっていたクダンじゃないのだろうかと僕は思った。

 クダンは人間の頭と牛の身体を持った生き物で、生まれるとすぐに不吉な未来を予言してすぐに死んでしまうのだという。七十年ぐらい前にも、第二次世界大戦で日本が負けることを予言したクダンがいたと本には書いてあった。そんな不気味な生き物が僕の隣にいる。いつそれが口を開いて、僕の不吉な未来を予言しはじめるのかと気が気でなかった。

 僕はなるべく視線を合わさないようにして、早々にこの場所を立ち去ろうとしていた。なのに、恐ろしいことに、それは僕に話しかけてくるのだ。

「口のまわりにカレーがついてるよ」

 未来の話ではなく、現在のことを言われた。しかも、それほど不吉でもない。その日の給食のメニューはカレーだった。僕はあわてて、口のまわりを手の甲でぬぐう。

「ハンカチ持っていないの?」

 そう聞かれたので、ズボンのポケットに手を突っ込んでみたが、ハンカチが入っていないことは最初からわかっていた。

「あれ、忘れちゃったかな・・・・・・」

 なんて言ってごまかしてみるが、嘘だった。お父さんが洗濯してくれるハンカチは干し方が悪いのか、いつもゴワゴワのシワシワで、たたんで持っていてもカッコ悪いからポケットに入れていなかったのだ。

「君はだらしないなあ。シャツ、半分だけズボンから出ているよ」

 あきれたように言われてしまった。わかってる。実は靴下も左右違うものをはいているんだ。夕方の公園で、なんだか良くわからないものに僕は小言を言われていた。不吉な予言をはしないから、クダンじゃないのかも知れない。クダンの人間の頭はおじいさんだというけれど、この声は若い女の人みたいだ。でも、こんな小さな人間がいるのだろうか。

「君、いつも遅くまで一人でここにいるけど、友だちいないの?」

 そんなことを聞いてくる。今まで僕が気づかなかっただけで、ずっと前からここにいて、僕のことを見ていたのだろうか。

「うん。いない・・・・・・」

学校に仲の良い友だちはいない。一日中、黙っていることも多かった。僕は自分のことを考えているだけで精いっぱいだったし、同級生にも関心がなかった。

「お家の人、心配するよ。そろそろ帰った方がいいよ」

「うち、誰もいないから・・・・・・」

 お父さんは仕事が終わるとすぐに会社を出てくるそうだけれど、午後七時すぎにならないと家には帰ってこられない。僕は一人で家にいるのがいやで、放課後、ずっと小石をけりながら町中をブラブラしていたり、この公園にきたりしていた。

「それじゃあ、寂しいね」

 そう言われて、僕はちょっとびっくりしてしまった。そうか、僕は寂しかったのか。やっと自分のわけのわからない気持ちに名前がついた気がした。でも、なんだか、これ以上、しゃべっていると、僕の家のことどころか、僕の心の中のことまでも、全部、知られてしまいそうな気がして怖くなってきた。

  

その頃の僕はグズだった。クズじゃない。グズグズのグズだ。服装はみっともないし、歯もろくに磨いていない。髪の毛だってめったに洗わない。勉強だけはお父さんにお尻を叩かれてやっていたけど、生活習慣はすごくだらしなくなっていた。

 どうしてそんなふうだったのかというと、ママがいなくなってしまったからだ。

 僕は自分の身の回りのことさえろくにできなかった。僕が小学三年生になってすぐの頃、ママは家を出ていった。たしか、僕が小学校二年生になったあたりから、まだパパと呼んでいたお父さんと、ママはすごく仲が悪くなっていて、ついにそんなふうになってしまったのだ。

 パパとママは、よく夜遅くまで言い争いを続けていた。僕はそれを聞いているのがいやで、布団の中で耳を塞いでいたことを覚えている。僕にもだんだんとよそよそしくなっていったママは、ある日、突然、僕のことも置いて出ていってしまった。

 ママとはそれから一度も会っていない。さよならを言われてもいない。シノハラの時と同じだ。突然、いなくなってしまうのだ。そんなことって、誰にでもよくあることなのだろうか。みんな、こんなどうしようもない気持ちを味わっているものなんだろうか。僕は、未だにわからないでいる。

 お父さんはなにも言わないまま不器用に家事をこなして、僕の面倒を見てくれていた。でも、ママのことを聞くと怒りだしてしまう。だから、僕はなにも聞けなかった。ママはもういないのだということだけはわかっていたが、その気持ちをどうしたらいいのかわからない。中途半端な気持ちを抱えて、僕は宙ぶらりんになっていた。

「君は、一体、なんなの?」

 これ以上、質問される前に、この変なものの正体を確かめておこうと思った。わけがわからないことをそのままにしておくと後で困ることになる。ママのことで僕はこりていた。

「私は多分・・・・・・天使じゃないのかな?。ほら、飛べるし」

 そんなことを言ったかと思うと、ビュンと音を立てて、空中をすばやく移動した。動きに目が追いつかないほどのスピードで四方八方に移動した後、天使は僕の目の前で止まったようだった。相変わらず姿はぼやけている。

「気がついたら、こんなふうになっていたんだけれど、自分が誰かもわからないんだ」

 天使はそう言いながら、困っているわけでもなく、楽しそうに笑っているのだ。

「なにそれ?」と僕も言いながら、少し楽しくなってきた。

 自分のことがなんだかわからない人が他にもいて安心したのかも知れない。

 それが僕と天使の出会いだった。


 それから天使とはこの公園で何度も会うことになった。はっきり姿が見えないのは変わらないが、僕が見ようとすると、だんだんと存在感みたいなものが増してくるような気がした。僕が公園に行くと、天使はノラネコと遊んでいたり、空中を飛び跳ねていたりしている。ここに住みついているようだが、どうやら他の人間には姿が見えないらしい。

 天使はやけにおせっかいだった。僕に母親がいないと知ると、毎日、家で何を食べているのかとか、ちゃんと爪を切ったかとか、お風呂に入ったかとか、そんなことばかり聞いてくる。どうやら僕のことを心配してくれているようだ。あの頃の僕なんて、本当に何のとりえもないし、ただ生きているだけの、役に立たないやつだったのにな。

 僕は学校であったこととか、お父さんのこととか、ママの思い出とかをポツポツと天使に話すようになった。誰か話を聞いてくれる人がいるから言葉が出てくるんだな。


 ある日、天使と一緒に展望台で夕焼けを見ていたら、どこからか魚を焼くにおいが漂ってきた。僕はまたたまらなくなってきて、気がつくと、ポロポロと涙をこぼしていた。いつも泣きそうだったけれど、こんなふうに本当に泣いてしまうことは今までなかった。天使はどうしてそんなに泣くのかと僕に聞く。

「お父さんは、魚を焼いてくれないから・・・・・・」

 そこまで言った途端、僕は胸がいっぱいになって、嗚咽がとまらなくなっていた。

だからどうしたというのだろう。別に焼き魚が好きだったわけではない。むしろ、小骨が多くて食べるのが面倒だし、大嫌いだったんだ。魚を食べると頭が良くなるからねと言って、ママは夕食によく魚を焼いてくれていた。僕は魚が出てくると、スネてわざと食べないこともあった。そんな時、ママはなんだか悲しそうな顔をしていた。

 お父さんが作ってくれるご飯は、冷凍食品や、できあいのお惣菜を温めなおしたものだけだった。ママが作ってくれたものとは違って、あまり美味しくない。ご飯を食べているとママのことを思い出して、鼻の奥が痛くなる。お父さんが不機嫌そうな日には、また怒り出すんじゃないかと思ってビクビクしてしまって、味も良くわからなかった。

 僕は寂しかったんだな。天使に気づかされて、僕は自分が寂しいのだとわかってしまった。だから、もう泣いてしまってもいいような気がしていたのかも知れない。

「君はきっと、将来、立派な人になれるよ」

 天使は泣いている僕を見ながらそう言った。僕は泣いているだけで、ちゃんと理由を説明できずにいたのに、天使はそんな未来を予言しはじめるのだ。

「君はね、言葉にできないような痛みや悲しみを沢山、知っている子だから。きっと誰よりも思いやりのある、優しい人になれるよ」

 そう言って、小さな手を前に差し出して振る。僕の頭をなでてくれたようだった。

「・・・・・・僕はいらないんだ。ママにはいらないんだ。役に立たない。何もできない。だから、いらない子なんだ」

 ずっと、胸につまっていた言葉が出てきた。自分の言葉にせきたてられるみたいに、これまでの、わけのわからない気持ちが言葉になってどっと押し寄せてきて、僕は涙が止まらなくなっていた。悲しいとか、寂しいとか、切ないとか、そんな気持ちが一緒になった言葉だった。天使はただ、僕の前に浮かんだまま、ずっと僕を見ていてくれた。

 

 どうして、あれから何年もたった今になって、ほとんど忘れていた天使ことを思い出したのかというと、僕の目の前に、白黒まだらの牛模様の服を着た人間がいるからだ。つまりそれは、変なパジャマを着て、病室のベッドで眠り続けているシノハラのことだ。

 僕はキクリンに連れていかれた病室で、そのままついてきてくれたシドさんと一緒に、ベッドに横たわったまま動かないシノハラの姿を呆然と見ていた。脈拍と脳波をモニターしている機械の音が小さく鳴るだけの静かな病室で、僕らは黙って立ちつくしていた。意識不明の重体。とはいえ、自分で呼吸もできるし、脳波にも異常はないという。集中治療室ではなく一般病棟の個室に移されているのは容態が安定しているかららしい。

 十日前、キクリンと一緒に映画を観に行った帰り道で、シノハラは車に跳ねられた。目の前で、突然、車道に飛び出した猫を見て、シノハラはとっさに追いかけて行った。車が迫ってきて、足がすくんで道路の真ん中で固まってしまった猫を捕まえて、歩道に向かって放り投げると、シノハラは自分だけ車に跳ねられたのだという。

 猫を助けようとして交通事故に遭うなんて、実にシノハラらしい話だ。そういうバカなことをやるのがシノハラなんだ。キクリンは大慌てで救急車を呼び、この病院にシノハラは搬送された。幸いにも、かすり傷を負っただけで、大きな怪我はなかったが、頭を強く打っていたらしく、状態は安定しているのに意識だけが戻らない。

 テレビのニュースになることはなかったが、新聞の地域面には小さく事故の記事が載ったという。僕は気づかなかったが、中学の頃の同級生や高校の友だちの多くがシノハラのことを知って、沢山、お見舞いにきていたそうだ。キクリンは僕のことも、シノハラを心配してこの病院にきたと思ったんだな。

 キクリンはひどく責任を感じていた。自分があの時、シノハラを止めていればこんなことにならなかったのだという。それで、こんなにやつれて青い顔をしているんだな。

 でも、シノハラは絶対に猫を見殺しにはできかったはずだ。猫がひかれるのを黙って見ていられるわけがない。あいつは弱いもの、小さなものをほっておけない。誰かが困っていたら、かならず声をかける。そういう奴だった。なんとなく僕の方が、キクリンよりもシノハラの性格を理解しているな、と思った。

 僕が最後に会った時、肩まであったシノハラの髪はショートカットになっていた。中学の頃もずっと長かったので印象が結びつかなかったが、この髪型はあの天使と同じだ。最後まで天使の姿は、はっきりとは見えていなかったし、漠然とした印象しか残っていない。けれど、今のシノハラの姿と、あの天使はすごく良く似ていると僕には思えた。



                  8


「まあ、人生いろいろだよな」

 シドさんは会社の応接室のソファーに寝っころがって、そんなことを言う。足のギプスが外れても、すぐに普通の生活に戻れるわけではない。しばらくは治療しながらリハビリが続く。ということで、仕事への本格復帰は全快する九月以降ということになったが、シドさんは通院後に、毎日、会社に顔を出すようになっていた。

「ねえ、サルトル、聞いてる?」

 来ているだけで仕事を手伝うわけでもなく、しかもやたらと話しかけてきて僕の邪魔をする。シドさんがくつろいでいる応接室と、僕が作業をしている事務室は隣り合わせなので、ドアを開けてしまえば同じ部屋みたいなものだった。

「はいはい」と僕はおざなりに応える。

「はい、は一回でいい」

 そんなふうに先輩風を吹かせてばかりだ。

「人生いろいろだよな」

 またそこから始めるのか。

「そうですね」と話の脈略はわからないが、とりあえず相づちだけは打っておく。

「そんでもって、男もいろいろだ」

「そうですね」

 別に同意しているわけではない。どういう論拠で言っているんだろう。

「いやさあ、今日も、あの子の病室に寄ってきたんだよ」

 そう話が続くとなると、 会計ソフトに数字を入力していた僕の手も止まる。

 シドさんはあの病院に診療とリハビリで通っているが、いつも帰りがけにシノハラの病室に寄ってくるらしい。シノハラはまだ眠り続けているので、無論、話はできないが、ガンバレとか、負けるなとか、シドさんは励ましの声をかけてくるそうだ。

 こないだ、病院で僕がキクリンと会った場所にたまたま居合わせていたために、シドさんは僕と一緒にシノハラを見舞うことになった。そして事故の経緯を聞き、深く感じ入ってしまったのだという。シドさんは猫好きだから、自分が猫を代表してシノハラに感謝しなければならないとか変なことを言い出している。

「そうですか。何か変化はありましたか」

 あまり興味がなさそうなそぶりで、パソコンの画面を見ながら聞いてみる。

「お前は冷たいヤツだよなあ。前にあの子とつきあっていたんだろ。だから、男もいろいろだって言っているんだよ」

 よくわからないことを言うシドさんは、ソファーから降りて、足を引きずりながら、事務室に入ってきた。もう杖なしで歩けるようにはなっていた。今日も派手なレタリングで英語の文字が書かれた黒いTシャツを着て、ところどころ破れたジーンズをはいている。髪の毛はボサボサで、目の周りだけ黒く塗ってあるのは、一体、なんのメイクなんだろう。

「キクリンはなかなか熱い男だな。それに比べて、お前は冷たいよな。だからあの子にフラレたんだよ」

 また中途半端に聞き知ったことで、適当な想像をしているんだろうな。

「キクリンがどうかしたんですか? 」

 目を覚まさないシノハラのところにキクリンは毎日通っていた。シノハラの両親も最初はつきっきりだったそうだが、二人とも仕事があるので、意識不明とはいえ、容態は安定していることもあり、今は夕方過ぎにようやく病院にくるだけだという。

 キクリンはシノハラが寂しい思いをしないようにと、面会時間はほとんど病院にいるらしい。そんなにシノハラの事故に責任を感じているのか。シドさんは病院でキクリンと顔を合わせるようになって、随分と親しくなったみたいだ。

「キクリンはあの猫を見つけようと考えているんだってさ」

「どの猫を?」

「あの子が救った猫だよ」

「ひかれそうになったって猫ですか」

 シドさんはうなずいて、ジーンズのポケットから、何重かにたたまれた紙をとりだした。クシャクシャになっていた紙をのばして拡げると、猫の絵が大きく描いてあって、「この猫を探しています」という文字と連絡先が書かれている。

 そういえば、シノハラは猫を歩道に放り投げて助けたという話だったが、猫はその後、どうなったのだろう。無事に生きているのだろうか。猫の絵はどこにでもいそうな茶トラだった。特徴は後ろ足だけが白いこと。なかなかリアルな絵だ。記憶を頼りに描いたものだろうが、キクリンは絵が上手いので、それなりに見映えのするビラになっていた。

「猫を見つけてどうする気なんだろう」

「車に跳ねられたショックで、あの子の魂はその猫に乗り移ってしまったから、ずっと目が覚めないんだとキクリンは考えたわけだ」とシドさんは感心したように言う。

「・・・・・・・アイツ、バカじゃないのかな」

 キクリンのことは、中学の時もそれほど良く知っていたわけじゃないが、そこまでバカなことを考えるやつだとは思っていなかった。成績はあまり良くなかったが、ごく普通のやつだったから、もう少しまともな判断ができると思ってたんだけれどな。

「バカじゃないさ。男っていうのは、そういうものなんだ。好きな子のためには、時々、オカシクなってしまうこともあるんだよ」とシドさんは得々と語る。

「どうかしてるな・・・・・・」と僕は思わず言ってしまう。

「どうかしてることをやるのが男さ。お前だって最強タッグリーグ戦のテリー・ファンクの試合を見て感動しただろ」

 シドさんからプロレスのDVDを渡されて、見ておくようにと言われていた。もう三十年以上前の試合の映像だ。悪役レスラーのブッチャーとシークに、兄のドリーと弟のテリーのファンク兄弟は、ざんざん酷い目にあわされる。レフェリーの目を盗んで繰り出される反則の凶器攻撃。シークに火を吹かれたり、ブッチャーにフォークでめった刺しにされて、テリーは血まみれになっていた。あれは、まさに、どうかしているとしかいいようがないものだよな。あんなもののどこに感動するっていうのか、シドさんの気が知れない。

「なんであそこまで痛い思いをしてプロレスなんかやっているんでしょうね。残酷すぎて見ていられなかったですよ」

 実際、DVDを全部見たわけではなかった。借りたDVDを家のリビングで見ていたら、丁度、帰ってきたお父さんにレコーダーを止められてしまったのだ。プロレスなんて見るな、全部、作りごとなんだとお父さんはまくしたてる。また何かお父さんの心の地雷を踏んでしまったみたいだ。そのうち返してくれるとは思うがDVDもそのまま没収された。

 プロレスはインチキで勝敗は最初から決まっている。あんなものにだまされるな、とお父さんには言われた。でもインチキなんだとしたら、あそこまで身体を痛めつけて試合を見せようとする意味が僕にはわからない。勝つのでも負けるのでも、もっと簡単に勝負をつけてしまえばいいのだ。なんであそこまでやるのだろう。

「それはな、サルトル。テリーがクレイジーだからなんだよ。テリーはムチャをし続ける男なんだ。今も現役だし、六十代なのに電流爆破デスマッチもやるんだぜ。テリーがやられている姿はプロレスへのラブの表現なんだ。イカレてるだろ。男っていうのは、そういう、どうかしているところが魅力なんだ。うちの親父はジャイアント馬場派の変な奴だったんだけど、その頃の小学生男子はみんなテリーに夢中だったって、そう言ってたよ」

 なんでそんなどうかしている人に夢中になるのか、さっぱりわからない。

「お前はマジメすぎて、どうかしているところがないだろ。世の中は損得計算だけじゃないんだ。意味がなかろうが、たとえ損だとわかっていようが、やる時はやるのが男なんだ」  

女のシドさんに、なんで男を語られなきゃならないのか。僕はちょっとムカついた。

「損得だけの簿記の世界の方がわかりやすいですよ。男だろうと女だろうと、原理原則は一緒でしょ。損が出ることを未然に防ぐのが、経理の役割なんじゃないですか」

 今日はちゃんとシドさんに言い返せた。僕は簿記のキッチリとしたところが好きになっていた。採算が合わないことをやれば損失になるし、利益を出すためには費用を絞らなければならない。それは全部、理屈にあっていて揺るぎない。どうかしている、なんてイレギュラーがないのが簿記だ。会計帳簿がどうかしていたら、会社自体おかしくなるだろ。

「だからオマエは魅力がないんだよ。そんなふうだからフラれるんだって」

 シドさんは、僕のことをケナシながら時計を見る。

「おっと、時間だ。じゃあ、アタシ、キクリンを手伝ってビラを一緒に撒いてくるからさ」

「本気ですか?。猫を探したって無駄だと思いますよ」

「無駄、無駄、無駄、多いに結構。無駄を承知でやるのがいいのさ。じゃあな、サルトル」

 そう言って、足を引きずりながら、シドさんは玄関から出ていった。やっと静かになったものの、なんとなく腹立たしい。

 ノラ猫にシノハラの魂が乗り移っているなんて荒唐無稽もいいところだな。キクリンはどうかしている。シノハラが意識を失っている間に天使になって過去の時間で僕と会っていた、というぐらい荒唐無稽な話だ。僕が考えていることだって、まあ、どうかしている。そんなことがあるはずがない。どっちもどっちってところだが、僕は半信半疑だから、まだマシなんだろうな。

 でも、もしあの天使がシノハラだったら、僕にはなんとなく腑に落ちるところがある。隙間が空いていたジグソーパズルに、足りないピースがぴったりと埋まったような気がするのだ。なんにしても、シノハラには早く目を覚ましてもらわないと困るな。まさか、このまま死んでしまうようなことはないだろうと思うけれど、気にかかってはいる。


「あれ、シドは帰っちゃったのか」

 そう言いながら、事務室に入ってきたのはテリーさんだった。

「猫さがしのビラを配りに行きました」

「相変わらず自由でいいな、シドは」

 そう言って笑うテリーさんは今日もカウボーイスタイルだ。どっちが自由なんだろう。

「もし戻ってきたら、俺のところに顔を出すように言っておいてくれ」

 テリーさんはそう言うと、また自分の部屋に戻ろうとする。その時、僕はテリーさんが右手に持っていた見覚えのある紙に目をとめた。

「あの、テリーさん・・・・・・」

 思わず僕は、テリーさんを呼び止めた。

 あの紙は、たぶん、シドさんとの契約書だ。シドさんは契約社員で、七月末で一度、契約が切れたが、また九月から契約を始めると言っていた。僕のアルバイト契約は八月末で切れる。僕の夏休みは今日をいれても残り四日だった。だけど、テリーさんはまだ更新の話を僕にしてくれない。

 夏休み中だけという期限で始めたアルバイトだから、そこで終わるのが当然かも知れない。だけど僕はこの会社にとって必要な人間になっていると思っていた。多分、テリーさんも僕のことを必要としているんじゃないだろうか。でも、もともと雇っていたシドさんがいるから、僕に声をかけづらいんじゃないかと僕は思いたかった。

 この会社の帳簿を見ていれば、人件費に充てられる金額がどれくらいかなんてこともわかる。僕とシドさんを同時に雇っておく余裕はこの会社にはない。となったら、僕はテリーさんにとりいって、シドさんを出し抜かなければならない。いや、そんなことをしなくても、実力を考えたら、僕のことをテリーさんは選ぶのが順当なはずだ。

 「どうした、サルトル君?」

 呼び止めたものの、僕はまた、どう言ったらいいのかわからなくなった。言うべきなのは、僕を九月以降もアルバイトで雇ってくれないか、ということだ。学校があるからフルタイムで働けない。放課後に出社しても中途半端な時間だ。僕の都合に合わせて、無理を聞いてもらわないといけないが、そういうことを人にお願いするのが僕は苦手だった。

「あの、テリーさん・・・・・・僕、テリー・・・・・・ファンクの試合のDVDを見ました」

 なにを言い出しているのだろう。できれば、テリーさんから九月以降も働いてくれないか、と言ってもらいたいのだが、こんな、適当な話題からうまく誘導できるだろうか。

「ああ、シドに借りて見たのか。昔のプロレスは過激だったろ。あんなのをゴールデンタイムに放送していたんだから、びっくりするよな」

「テリーさんも、小学生の頃、テリー・ファンクを夢中になって見ていたんですか?」

「いや、それほどでもなかったな。当時はカウボーイよりもインディアンに憧れていたから、俺は狼酋長・ワフー・マクダニエルのファンだったよ。テリー・ファンクに関心を持ったのは、むしろ、ビジネスを真剣に考えるようになってからだな」

「テリー・ファンクはビジネスマンなんですか?」

「いや、テリーのプロレス哲学はビジネスに通じるところがあるということさ」

 簿記にはコスモがあるし、プロレスには哲学がある。テリーさんの言うことは、やっぱり、なんだか良くわからない。

「テリー・ファンクはこんなことを言っている。チャンピオンは自分の強さで相手の光を消してはいけない。チャンピオンであることの資格は、挑戦者をどれだけ輝かせられるかだ。自分の強さだけを見せつけるひとりよがりなチャンピオンは必要じゃない、ってな」

「それがビジネスとどう関係があるんですか?」

「全体の利益を最大化するためには、誰か一人が儲かればいいわけじゃない。業界全体の繁栄をもたらすためには、時には互いに負けを引き受けあうことも大切だってことだよ」

「ビジネスなんて、自分が勝ち続けなきゃ意味がないんじゃないですか?」

 一円でも安く仕入れて、一円でも高くお客さんに売る。そうやってもうけて、同業者に打ち勝って、会社を大きくするのがビジネスというもののはずだ。

「違うんだな、それが。強すぎるチャピオンが、挑戦者の光を消すような見せ場のない試合をしても盛り上がらないのさ。互いの良さを引き出しあうことで、ベストパフォーマンスが発揮されるのがプロレスだ。それはビジネスも同じだ。わかるかな、サルトル君」

「良くわかりません」

「まあ、平たく言えば、損して得とれってことさ」

「そんなの簿記ではありえません」

 損失はあくまでもロスであって収益ではない。損失を計上することで、収益が増えるなんてロジックがあるわけがない。

「どちらかが圧倒的な勝者になるより、時間切れ引き分けでドローになった方が観客を感動させられることもある。時には負けることで観客を魅了することもできるんだよ」

 そうテリーさんは言うが、わざと勝とうとしないのはインチキやゴマカシということじゃないだろうか。お父さんが言うように、やっぱりプロレスは信用できない。そして、結局、僕は、テリーさんと九月以降の話をするきっかけもつかめなかったのだ。



                 9


 その日、シドさんは会社に戻ってこなかった。仕事ではないので、気まぐれにやってきては好きな時間に帰っていく。会社ってそんな自由な場所でいいのかな。もっとも、時間にしばられて働いている方が想像できないのがシドさんだ。気ままで好き勝手ばかりのシドさんが、会社で事務仕事をやれていたことの方が不思議なくらいだった。

 定時になったので、僕も今日の仕事を終わらせて会社を出た。まだ外は明るく、陽は高い。もうすぐ九月になるのに、夕方になってもムシ暑い日が続いていた。シドさんはまだキクリンと一緒にどこかでビラを配っているのだろうか。猫を見つけて、一体どうしようというんだろう。シノハラの魂を救い出すつもりだなんて、まったく、どうかしている。

 僕はマジメすぎて、どうかしているところがないとシドさんに言われた。でも、僕も、ちょっとどうかしはじめていた。会社を出た僕の足は、あの高台の公園の方へと向かっていた。あそこで天使と会ったなんて僕の思い過ごしだし、天使がシノハラに似ていたなんてことも、ましてや、あれがシノハラだったなんてことがあるはずないのに。

 あの公園にはもう随分と行っていない。いつから行かなくなったのか、はっきりと覚えていない。いつの間にか僕は切なくなる必要がなくなっていた。わざわざ自分の痛いところを確かめなくても良くなっていた。小学五年生になって、お母さんがうちにやってくると、僕はまっすぐ家に帰るようになった。天使のことも忘れていって、いつの間にか思い出すこともなくなっていた。

 天使はいついなくなったのだろう。もしからしたら僕が公園に行かなくなっただけで、天使はまだあそこにいるのだろうか。ここ何日か、ずっと考えていたことだったけれど、バカバカしいと思って打ち消していた。でも、キクリンのどうかしている話を聞いて、僕も、どうかしてもいいんじゃないかと、ふとそんな気持ちになりはじめていた。

 あの公園に行く道順をはっきりと思いだせないけれど、近くまでいけばなんとかなるだろうと思っていた。たしか、家の近所にある川沿いにあの高台の坂道につながる道があったはずだ。以前は橋があって、それで川の向こうに渡っていたが、今は川全体がコンクリートで覆いをされて、遊歩道になっている。

 この何年かで僕の家のまわりは随分と開発が進んで、新しくできた道や、閉鎖されて通り抜けられなくなったところがある。なんとなくこの辺じゃないかとあたりをつけてみたが、以前とは随分と風景が変わっている。どうもおかしい。橋があった場所がわからない。

 あの高台から町が見渡せたのだから、町のどこからでもあの高台が見えるはずなのに、この数年、背の高いマンションが増えたせいで、見通しが悪くなっていた。こっちじゃないかと思う方向には大きなショピングセンターが建っていて、その向こうが見えない。

 夕陽を見ていた公園の展望台が西側だとすると、夕陽を背にして歩けば、たどりつけそうな気がする。でも、僕は方向音痴なので、まったく間違った方向に歩いているのかも知れない。一体、どこから、あの坂道につながるのだろう。それがわからないまま、僕はさまよいはじめていた。近所で道に迷うなんて、そんなことってあるのだろうか。

 夏休みがはじまったばかりの頃、僕は焦燥感で一杯になっていた。家にじっとしていられず、炎天下の町を一日中、グルグルと歩きまわっていた。テリーさんと出会ったあのコンビニ前の公園には何度も行ったのに、どうしたわけか高台の公園には一度も足を運んでいない。というか、その存在すら忘れていた。そして、いつの間にか、たどりつくことさえ、できなくなっているのだ。


 小学生時代の頃の自分と、今の自分との間には大きな隔たりがあると思っていた。あの頃の僕には何もなかった。自分が寂しいってこともわかっていない痛いヤツだったのだ。だらしなくて、何も持っていなくて、誰からも必要とされていない。どうでもいいような、いらない人間だった。だからママだって、僕のことを置いて出ていったんだろう。

 中学生になって、僕はようやく、こうあるべき自分を見つけ出した。努力して、そんな自分になることができた。成績がどんどん上がって、我ながら天才かもな、なんて思い上がっていった。シノハラはいつも僕のことを誉めてくれた。クラスのみんなが僕に一目置いてくれた。学校の期待の星だと呼ばれた。お父さんは僕の成績があがると機嫌が良くなった。そして、あの高校に合格することもできた。

 すべてが順調だった。あの時間、高台の公園の展望台にいた、弱くて、ちっぽけな僕はもういなくなったはずだった。それなのに、高校で自信を喪失して、シノハラにも見限られて、僕はまたカラッポになった。小学生の時の無力な自分に戻ってしまったみたいだ。

 テリーさんと出会い、会社で働くようになって、僕はまた少し自分を取り戻せた。テリーさんが言うような意味とは違うのだろうが、自分なりに簿記や経理の仕事にやりがいを感じはじめていた。でも、九月にはまた居場所がなくなってしまって、誰からも必要とされない人間に戻ってしまう。なのに、僕はもう、あの高台の公園に行くこともできない。

 陽が落ちて、だんだんと暗くなってくる。ちょっと道がわからなくなっただけで、どんどん気弱になってくる。遊歩道をずっと歩きながら、僕は次第に落ち込んでいった。小さかった頃、どこかの駅でママとはぐれて迷子になって、泣きながら歩いていた時みたいだ。あの公園に、僕は何か大切なものを置き忘れてきた気がする。でも、それをずっと必要としていなかった。だから、思い出しもしなかったんじゃないのだろうか・・・・・・。


「そっち、そっち。今、シッポが見えた!」

 聞き覚えのある声が耳に入ってきたのは、シルバーワークサービスの建物の横を通った時だ。この辺は古い団地が多くて、そこに住む老人たちが集まって、なんでも屋みたいな仕事をしていた。けっこういい年のおじいさんたちがここから出てくるのを見かける。

 シルバーワークサービスの門の内側の建物の前の敷地は大きな駐車場になっていて、六台の作業車が停められているが、その車のうしろあたりから声がした。近寄って見ると、しゃがみこんで車の下をのぞいているシドさんとキクリンがいる。これって、不法侵入じゃないのかな。

「行ったよ、行った、行った!」

 なにか素早く動くものが門の隙間を抜けて、僕の目の前に躍り出てきた。

「捕まえて!」とシドさんが叫ぶ。

 僕の足の横を、それが猛スピードで駆け抜けて行くが、とっさに身体は反応しない。

「あ、サルトルじゃないか。ちゃんと捕まえろよ。逃げられちゃったじゃんか」

車の陰から出てきたシドさんに怒られる。僕は振り向いて、さっき横をすり抜けていったものを目で追う。小さな茶色い猫が遊歩道を越えて、向こうの一軒家の門の下にもぐり込もうとする後ろ姿が見えた。全身、濃い茶の毛色なのに、両足だけが白かった。

「もう、せっかく追いつめたのにー」とシドさんは悔しそうに言う。

「今のが、あの猫なんですか?」

「そうだよ。ビラを配ってたら、情報をくれた人がいたんだ。このあたりにいる猫に似てるって言われてさ。それで来てみたんだけど、逃げ足がメチャクチャ速くてさ」

 あんな茶トラのネコ、どこにでもいるんじゃないのかな。。

「・・・・・・もう駄目だ」

 駐車場の白い車の横でうなだれて、大げさなことを言い出しているのはキクリンだった。

「シノハラさんは、このまま死んでしまうんだ」

 キクリンは一週間前に会った時よりも、更に痩せてしまっていた。顔も青白い。むしろ死にそうなのはキクリンの方じゃないのかな。相当、思いつめているな。

「大丈夫だから、キクリン。死ぬなんて言っちゃ駄目だよ」とシドさんが声をかける。

「猫を捕まえられなかったのに?」

「大丈夫だって。あたしたちが捕まえてやるからさ。な、サルトル!」

 シドさんに急に同意を求められる。それって、僕にも猫を探せということか。

「・・・・・・サルトル。協力してくれるのか?」

 顔を上げたキクリンが僕をじっと見つめて、疲れきった顔で聞いてくる。

「ああ、あああ、やるよ。やる。一緒に捜すから。心配するな」

 こうでも言っておかないと、キクリンがボロボロと崩れてしまいそうな気がした。

「・・・・・・すまない、サルトル。僕がシノハラさんとつきあったりするから、こんなことになったんだ。僕が悪かったんだ」

 そう言いながら、何度も頭を下げる。なんで僕が謝られるのかわからない。キクリンはシノハラの事故の責任を感じているのかも知れないが、僕が謝られる筋合じゃない。

「そんなの、キクリンのせいじゃないって。シノハラは目の前で猫が車道に飛び出したのを放っておけるようなやつじゃないんだよ。あいつはそういう人間なんだよ」

 誰が一緒だろうと関係ない。シノハラは絶対、やったはずだ。僕にはわかっている。

「お前、いいとこあるよな。ライバルを慰めてやるなんて、なかなかできないぜ」

シドさんが、そばによってきて、僕の肩に手をかけて嬉しそうに耳元で言う。別にキクリンは僕のライバルじゃないのにな。

「僕はサルトルからシノハラさんをとってしまったのに、サルトルは僕を気づかってくれるのか・・・・・・・」となんだか、感極まったかのようにキクリンは言いだす。

「ああ、コイツはクソ真面目で融通の効かないカタブツだけど、人間の器は大きいんだ」

 なぜかシドさんが得意げにそんなことを言う。

「それは違うって。僕は別にキクリンにシノハラをとられたなんて思っていないからさ」

 シノハラは僕の前からいなくなったが、単に僕が見限られただけだ。だから、キクリンが気にすることじゃない。僕は別にキクリンに負けたわけではないんだから。ところが、キクリンは変なことを言い始める。

「ありがとう、お前は優しいな。なのに、僕はお前に勝てたと思って有頂天だったんだよ」

 そして、僕が思ってもみなかったようなことをキクリンは語りはじめるのだ。


「ずっと同じクラスだったから、覚えているだろ。僕は小学生四年生の時、クラスで一番、勉強ができたんだ。勉強だけじゃない。音楽だって、図工だって、体育だって、全部、得意だった。四年生の二学期の通信簿じゃオールAをもらったぐらいだ」

 シルバーワークサービスの駐車場にしゃがみこんだまま、キクリンはそんな話をはじめる。僕もシドさんも一緒に座りこんで話を聞くことになった。キクリンが話す、あの頃のことを、僕は一切、覚えていない。小学生の頃、キクリンと同じクラスだったことさえ記憶にない。あの当時の僕は、他の人間に一切、関心を持っていなかったからな。

「でも、高学年になって、みんなが本格的に勉強を始めると、僕はどんどん追い抜かれていった。僕は頭がいいわけじゃなくて、人よりちょっと要領が良かっただけなんだ。作文でも、絵でも、普通の教科のテストだって、こうすれば良い点がもらえるってコツがわかっていた。でも、そんなのは高学年になったら通用しない。他のみんなが本気を出し始めたら、僕なんかひとたまりもなかったんだ」

 どこかで聞いたような話だ。キクリンは僕より何年も前に挫折を味わっていたのか。

「私立の受験にも失敗して公立中学に行くことになって僕は腐っていた。しかも、小学生の時、目立たなかったやつが、どんどん成績を上げて大きな顔をしはじめるだろ。とくにサルトル、僕はお前に抜かれたのがすごく悔しかったんだ」  

「そうなの?・・・・・・」

 僕は成績を上げることに懸命だったけれど、僕に抜かれた人間がどんなふうに感じるかなんて、考えたこともなかった。

「そうだな。男の嫉妬は海より深いっていうもんな」

 シドさんが変な茶々を入れる。ふーん。僕はキクリンから嫉妬されていたのか。僕は、僕がうまくいくことを喜んでくれる人がいるから頑張ってきたのに、それを悔しく思ったり、そんなことで傷ついたりする人間も、どこかにいたんだな。

「お前は小学校の時、教室でほとんどしゃべらない変なヤツだったよな。授業中いつも、ポカンと口を開けて、窓の外ばかりを見ていた。四年生の終わりの頃だったかな、夕方にお前がうちの近所の公園で、草むらをかきわけたり、大きな石を動かしたりして、何か必死に探しているのを見かけたんだ。どうしたのって僕は聞いたんだ。そしたらお前は」

「天使を探していた・・・・・・」

「そう。そう言っていた。なんだか、真剣な表情なんで怖かった。頭がどうかしているじゃないかと思った。天使なんているはずがないだろ。なのに、日が暮れても、ずっと探し続けているんだ。正直、引いたよ。だから、僕はお前みたいな変なヤツに負けたくなかった」

 良かった。やっぱり、あの公園はあったんだ。キクリンの話を聞きながら、僕はまた少し思い出していた。天使と最後に会った時のことも、もう少しで思い出せそうだった。

「お前はそんな変なヤツなのに、中学生になったらシノハラさんがずっとついていただろ。僕には理由がわからなかった。なんでお前のことをシノハラさんは応援するんだろう」

「・・・・・・それは、僕が弱くて、小さくて、ちっぽけだったからだよ」

 そんな言葉がスルリと出てきた。キクリンからはひどい言われようなのだが、腹が立つわけでもないのは、実際、僕がそんなふうだったからだ。そうだ。だからシノハラが応援してくれていたんだ。それも、シノハラらしい話だよな。なんとなく寂しいような、温かいような不思議な気持ちがして、少し、笑ってしまった。

「成績が落ちてきてから、僕はなんだか両親に冷たくされているような気がしてた。反抗して、美術や音楽にばっかり力を入れて、余計、呆れられた。僕は親とそんな関係だったのに、お前には、若くてすごく明るいお母さんがいて、参観日の時なんて、お前が答えるたびに声援をおくっていたよな」

 ああ、それなら覚えている。お母さんが授業参観にきて、やたらとはしゃぐので恥ずかしい思いをしたことがあった。先生に静かにしてくださいと注意されたぐらいだ。

「お前は、すごく愛されていていいなって思ったんだ。しかも、あれ、本当のお母さんじゃないんだって後で聞いてさ・・・・・・」

「まあ、本当の母親は出ていっちゃったからな」

  照れ隠しにそんなことを言ってみたが、実は恥ずかしくて、シノハラ以外の同級生には秘密にしていた話だった。でも、それって、恥ずかしいことなのかな。だいたい、なんでママが出ていったのか良く理由もわからないのに。

「おっ、サルトル、仲間じゃん。うちも母親が出ていったんだ。ていうか、親父に追い出されたんだけどさ」とシドさんは言う。なんの仲間なんだよ。

「シドさんだって追い出されたんですよね」

「ああ。うちの親父、すぐ人のこと家から追い出すんだよな」

 そんなふうに言ってシドさんは笑う。シドさんはなんでも笑い飛ばしてしまうんだ。

「僕の家も、こないだ両親が離婚した。父さんが出て行って、母さんと二人で暮らすことになった。高校に入学したばかりだっていうのに、どうしたらいいのかわからなくなった」

 キクリンもそんなことを言い出していた。皆、それぞれ家庭の事情はあるけれど、教室では口に出すこともないし、そんな弱いところは人に気づかれないようにするものだ。でもどうしようもない気持ちを一人で抱えたままで、一体、どうしたらいいんだろうな。

 誰にも話すことができないから、自分の感情がなんなのかわからなくなってしまう。あの当時の僕の両親みたいに、キクリンの両親もずっとケンカばかりしていたのだろうか。キクリンも耳を塞いで、布団の中で聞こえないフリをし続けていたんだろうか。

「僕は中学校で両親が満足するような成績をとれなくて、結局、大した高校にいけなかった。だから両親を幻滅させてしまったような気がしていた。仲の悪かった両親が、余計、揉めるようになった。離婚の原因だって、そのことに関係あるかも知れない」

「ちゃんと確かめてもいないんだろ。そんなこと、わからないじゃないか」

 キクリンの言葉に、ついカッとして僕は言ってしまった。僕だってわからないままなのにな。自分を棚にあげて、何を言うんだろう。でも、両親を幻滅させたとか、自分のせいで両親が別れたなんて、憶測だけでそんなことを言うのは違うんじゃないのかな。

「そんなのは、親の首根っこつかまえて、本当のところを聞いてみればいいんだって」

 シドさんの意見は乱暴だな。僕だってお父さんの首根っこはつかまえられないだろう。

「僕にはそんな勇気はないよ。僕にはなんにもない。得意だった絵や音楽だって、専科のある学校に行けるレベルじゃないし、サルトルみたいにすごい高校に行けたわけじゃない」

「あれ、サルトルは都立三商じゃなかったっけ?」とシドさんが聞く。

「あれは中野クンの勘違いで、本当は××学院高校に行っているんです」

 ついバラしてしまったが、この際、どうだっていい。本当、どうだっていいことなんだ。

「ごめんな、サルトル。その学校、聞いたことないや。でも、あまり気にすんなよな」

 驚かれるかと思ったら、シドさんはまるで僕を慰めるように言う。シドさんが知らないからって気にはしないが、まったく、この人は。本当に悪気ってものがないので逆に笑ってしまうぐらいだ。僕も、こんなにノンキに生きていられたらいいのにな。


 キクリンの話を聞いているうちに、あたりはいつの間にか暗くなっていた。時計代わりにしている携帯電話を見たら、もうすぐ八時だった。もうすっかり夜だな。

 お母さんから「今日は遅くなるの?残業?大丈夫?」とショートメールが入っていた。いつもお母さんは口うるさいが、それでも僕を心配してくれている。

 キクリンはずっと辛かった頃の話を僕らに聞かせていたが、それでも、話がシノハラのことになると、急に明るい表情になってきた。

「だけど、シノハラさんが僕を救ってくれたんだ。僕は自信を無くして、ずっと落ち込んでいたけれど、六月の中頃だったかな。学校の帰りに歩いていたら、突然、シノハラさんに呼び止められて、それで・・・・・・」

 ほら、シノハラは心の弱っている人間を見つけ出したらもう放っておけないんだって。なんとなくその後の流れはわかる。僕を見限ったシノハラが、キクリンとつきあうことになったことは、シノハラだったら納得できる話だ。そういう奴なんだよ、シノハラは。

「シノハラさんは僕にとっては天使みたいだったよ。僕の真っ暗だった毎日を明るくしてくれた。僕ももっと前を向いて生きていこうと思えるようになった」

 キクリンが恥ずかしげもなく、そんなことを言う。

「お、いいねえ。アタシも男の子に僕の天使だなんて言われてみたいもんだよね」

 全身、まっ黒で悪魔みたいなカッコをしたシドさんが言う。

「天使なんているはずがないけれど、いるのかも知れない。そう思えた。いつだったか、サルトルは天使を探していたよな。もしかするとサルトルはそうやってシノハラさんを見つけたのかも知れないと僕は思ったんだ」

 いや、そうじゃないんだけれどな。でも、天使とシノハラはやっぱりどこかでつながっていて、僕が中学生になったらシノハラが目の前に現れるという予兆だったのだろうか。

「シノハラさんは、なにかといえばサルトルのことを口にしていたよ。でも、今、シノハラさんとつきあっているのは僕だ。ずっと悔しい思いをさせられていたお前に、それで、ちょっと勝った気になってしまった。僕はつまらない人間だ。夏休みの始めに会ったなんて、僕はシノハラさんとつきあっていることを、自慢したくてしかたがなかったんだ」

 あの時のことか。まったく僕は、人がどんな心模様でいるかなんてことに、一切、気がつかないんだよな。僕の心の中も、キクリンに気づかれていなければいいんだけれど。

「僕はスケールが小さくて、くだらない人間だ。だから、こんなバチがあたったんだ」

 キクリンは深々と頭を下げた。僕に謝るというのも筋が違う気がするんだけれどな。

「この世の中にバチなんてあるわけがないよ。そんなものは、絶対にない」

 別にキクリンを励ましているつもりはないが、僕はそう言ってキクリンの肩を叩いた。

 そうだ。くだらない思い込みはやめた方がいい。僕もきっとそうなんだよな。

 気持ちを切り替えるため、大きく深呼吸した。空を見上げると、暗くなっているのに星がぼんやりとしか見えない。昼の熱気が残っているので、空気がどんよりと濁っている気がした。どうにもならないなんて思わずに、僕も猫をさがすかなと、ふとそう思った。



                  第四章


                  10


 夏休みも残り二日となった。つまり、アルバイトもあと二日ということだ。今日も仕事をしながら帰る時間までずっと心待ちにしていたのに、テリーさんから僕に契約更新の話はなかった。このままだと明日でアルバイトは完全に終わってしまう。ただ待っているだけでは駄目なのかも知れないと僕は焦り始めていた。

 それなのに仕事が終わった後には、シドさんとまた猫さがしに行くのだ。これで三日目だ。どうかしているのを承知でやるんだから、本当にどうかしている。しかも、シノハラの魂が猫に乗り移っているなんて、わけのわからないことを言い出していたキクリン自身が、昨日、ついにダウンしてしまったのだから始末におえない。

 シノハラが目を覚ますようにと、食事を断って願をかけていたというキクリンのイカレっぷりを知って驚いたが、どおりでやせて青白い顔をしていたわけだよな、と妙に納得してしまった。キクリンもいない今となっては、ここで猫を見つけても、誰の得になるのかという感じだが、キクリンの思いを引き継ぐのだとシドさんは気合が入っている。

 シノハラのことについては、僕はキクリンと比べて随分と落ち着いているのだろう。僕らのどちらがシノハラのことを真剣に心配しているのかと言えば、やっぱりキクリンの方なんだろうな。シノハラがこのまま死んでしまうことだって、無論、それを望んでいるわけではないが、僕は充分にありうる未来のひとつだと受け止めているのだ。

 キクリンと話をしてから、僕はすこし冷静になって、自分自身のことやシノハラのことを考え直していた。シノハラはもうとっくに僕なんて眼中になかったんだろうな。僕は中学時代にだんだんと変わっていってしまった。シノハラが励まし続けていてくれた頃の、まだヤワで弱かった僕とはもう違う人間なのかもしれない。。

 キクリンは僕に屈折した対抗意識を持っていたみたいだけれど、別に悪いなんて思うこともないし、もっと調子に乗っても良かったんだと思う。自慢したければすればいい。バチがあたったなんて言いだすのはナンセンスだし、気弱すぎるよな。

 多分、僕の方がキクリンよりは人間として強いし前に進んでいる。一人で考えていると自分のいる場所さえわからなくなるが、キクリンと話をして、そんなことに気づかされた。


 どこで調達してきたのか、巨大な虫とり網のようなものを抱えたシドさんが、僕の前を歩いていく。それで猫を捕えようという気なのか。まだ軽く足をひきずりながらだが、やる気満々だ。今日も、シルバーワークサービスの周辺、半径百メートルあたりを綿密に調べようということで、僕らは車の下や、人の住宅の庭をのぞいて廻っていた。

「キクリンは、猫に魂が乗り移ったなんて、本気で信じていたのかな」

シドさんの後をついて歩き、猫を探しながら、僕はひとりごちた。多分、猫を探すのも願かけと一緒だったんじゃないのか。猫を見つけて、つかまえることと、シノハラが目を覚ますことに因果関係なんてない。いてもたってもいられず、なにかしら行動をおこした方がマシだと思ってやっていたことじゃないんだろうか。

「疑問に思うな、疑問に。意味なんかなくてもやる。そこに意味があるんだ」

 シドさんはそう言うが、キクリンならともかく、僕らになんの意味があるのだろう。

「猫が見つかったところで、シノハラの目が覚めるわけじゃないとわかっていても?」

「見つけてみなけりゃわからないだろ。それで何かがはじまるかも知れないさ」

 トリガーを引けばイベントが発生する。その法則はここでもアリなのか。

「多分、残念な結果に終わって、意味がなかったってわかるだけですよ」

「じゃあ、どうせ死ぬからって、今、生きていることをやめるのか?」

 シドさんは極端な切り返しをしてくる。誰だって、いつか死ぬことぐらいわかっていても生きているもんだろう。それとこれとは話が別だ。

「さあ。今すぐ死ぬのはちょっと怖いし、とりあえずは生きてるんじゃないですか」

 少なくとも僕はそうだ。みんな口には出さないが、そんな気持ちじゃないのかな。人がどんな気持ちで生きているかなんて、考えてみたこともない。

「だったら、もっとイキイキと生きてみろよ。もしかしたら、宇宙から怪光線が降ってきて、もう誰も死ななくなる、なんて未来もあるかも知れないぜ」

「明日には地球が消滅して、みんな死んじゃうなんて未来もあるでしょ」

「ああ、先のことなんてわからないんだ。それなら未来に希望をつないでみろよ。そうすることで、今を楽しめたら、この瞬間にとっては意味があることだろ」

「そういう考え方次第、みたいなのじゃなくて、ちゃんとした答えはないんですか」

 どうせ死ぬ。

 生きていることには意味がない。

 じゃあ何故、生きているのか。

 最終的には無意味になっても、未来に希望をつないで、この一瞬をイキイキと生きれば意味があるのか。そんなの禅問答だし、僕は信じられない。なんだかぐるぐる迷うだけだ。ブレーンストーミングをやっているような、答えの出ない感じが気持ち悪い。

「正しい答えなんてそもそもないんだって。お前もいい加減、理屈っぽいよな。正解ばかり知りたがるなよ。ちゃんとしすぎだよ。まるでウチの親父みたいだよな」

 そう言ってシドさんは苦笑する。自分の奥さんも娘も追い出してしまったという、シドさんのお父さんに、僕は似ているのか。

「シドさんのお父さんは何をやっている人なんですか?」

「ウチの親父は工場で工程管理の仕事をやっているよ。生産性を上げることが第一の効率最優先の男さ。あの性格は職業病だな。ムリとムダをなくすのが生き甲斐なんだ。作業工程を最適化するためには、ボトルネックを無くすのが一番だとか言ってさ」

「ボトルネックってなんですか?」

「作業がそこで遅れてしまう、問題をはらんだ工程のことだよ。つまり、アタシみたいなもの。いるだけムダって奴。全体が非効率になるから、いない方がいいって奴だよ」

 いつもの口調でシドさんは明るく言うが、なんとなく聞いていて切なくなる。そんなことでシドさんは家から追い出されたのだろうか。

「別にシドさんが、いない方がいいなんてことはないでしょ」

「どうかな。アタシはくだらないことばかり夢中になる、ムリとムダの集まりだからな。タトゥだって気まぐれに入れちゃって、なんの意味があるんだって親父に怒られた。仕事してたって、変なところばかり気にしてて効率も悪いし、ミスも多い。多分、アタシが八時間かかる仕事を、お前なら一時間でやってしまうと思うよ。しかもミスひとつなくな」

 シドさんは僕に背中を向けたまま、なんだか、シドさんらしくないことを言い出す。

「アタシだって、会社に行ってただゴロゴロしてたんじゃなくて、お前の仕事ぶりを見ていたんだよ。お前はスゴいよ。会社のためにはアタシよりお前がいた方が絶対いいよな」

 ドキンとした。シドさんは、そんなに僕の力を認めていてくれていたのか。いつもボロカスに言われっぱなしだったけれど、そんなふうに思っていてくれたんだ。

「でも、アタシのためには、アタシがいた方がいいから、きっちり九月から交代な」

 僕の方を向き直り、僕を指さし確認して笑う。ふん。そういう方がシドさんらしいよ。

「でも、実際、どうするんだ。九月から学校が始まっても、ちょっとはこられるんだろ?」

「ええ、まあ。でも、テリーさんが雇ってくれるかどうか・・・・・・」

「バイトじゃなくてもいいじゃん。お前がいないと寂しくなるから放課後にはこいよ」

 シドさんは、ごくあたり前のようにそんなことを言う。僕はちょっと動揺してしまった。

「た、ただ行くだけですか?」

「ああ。仕事は私がするからさ。今度はお前が応接室でゴロゴロしてればいいんだ」

「高校生が学校帰りに遊びに行くだけって、そんな会社あってもいいんですか」

「あってもいいし、あったらいいだろ。テリーさんも中野クンもイイ人だし、面白いところじゃんか。キクリンも、シノハラさんも目が覚めたら遊びにきたらいいんだよ」

 まったく、シドさんて人は。「お前がいないと寂しくなる」なんて、そんな言葉を人に

使ってもいいのだろうか。僕は、今までそんなことを言ってもらったこともないし、一度だって言えたこともない。ここにいて欲しかったり、このままでいさせて欲しかったり、そんな気持ちがあっても、言葉にすることができなかった。僕はなんだか衝撃を受けて、どうしたらいいのかわからなくなり、立ちすくんでしまった。

 いつの間にか、あたりは暗くなって、街灯がチラホラとつきはじめていた。月と星とが瞬きはじめている。なんだか、目や耳も急に敏感になって、ふいに世界が広がったように感じられた。空気の生ぬるさは変わらないのに、風の涼しさが頬に心地良い。たったひとつの言葉で、こんなふうに世界が変わってしまうことがあるんだ。

「お前、どうしちゃんだよ、急に。金縛りにでもあったのかよ」

 そう言いながらシドさんが笑う。いつものように穴だらけのジーンズと、ちょっと裂けたTシャツを着たボロボロの格好のシドさんが、妙にキラキラして見える。僕は身動きがとれないまま、それでも自分まで明るく照らし出されたような不思議な気持ちになった。


「おい、サトル」

 歩道でつっ立ったまま、ポカンとシドさんを見つめていると、道の向こうから僕に声をかけてくる人がいる。お父さんだった。このところ、家でもすれ違いで、顔を合わせることがなかったが、こんなところで会うとはな。

 こうやって、少し離れた場所からお父さんを見ると、ああ、お父さんも年をとったなと思ってしまう。だんだんと頑固になって、以前に増して怒りっぽくなっていたが、外見もいつの間にか変わっていたのか。髪の毛も随分と白くなったし、こんなに老けていたんだ。

「こんなところで、何をやってるんだ?」

 この辺を歩きまわっているうちに、僕らはいつの間にかまたシルバーワークサービスの前に戻ってきていた。何をやっているのかと言われても、猫をさがしているだけなのだが、うまく状況が説明しにくい。ここにいたるまでの長い説明をお父さんにしたところで、どうかしていると言われて、呆れられるだけだろう。

 お父さんが僕らのすぐ目の前にまで近づいてきた、お父さんの視線は、僕の隣で巨大な虫とり網みたいなものを持ったマダラ茶髪のシドさんに向けられていた。なんとなくこれはマズイな、という気がした。お父さんは常識ハズレなものを見ると、それだけで不機嫌になるのだ。いぶかしげな視線をシドさんに向けながら、お父さんは僕に聞く。

「このところ帰りが遅いって、お母さんが心配していたぞ。アルバイトの残業なのか?」

「いや、これは、仕事じゃなくて・・・・・まあ、ボランティアみたいなものかな」

「ちゃんと残業賃をもらっていないのか。お前のバイト先は人をただ働きさせるようなブラックな会社じゃないんだろうな」

「いや、別にブラックなんてことはないよ。しっかりした会社だよ」

「ああいうベンチャーなんてやっている連中は、儲かるためならなんでもやるからな。気をつけないと、尻の毛までむしられるぞ」

「尻の毛なんてむしらないよ、オッサン」

 横で僕らの会話を聞いていたシドさんが口を開いた。

 ちょっと怒ったような口調だ。お父さんが会社の悪口を言ったと思ったんだろうか。

 シドさんのことを会社の先輩だって紹介しないといけないんだろうな。でも、お父さんがシドさんのことをどう思うか僕は心配だった。見かけほど悪い人ではないが、見てくれは悪い。きっと、お父さんのフィルターを通して見たら、シドさんはかなりランクの低い部類の人間に振り分けられてしまうだろう。

「アンタはなんだ?」

「オッサンこそ、サルトルのなんなの?。なんでそんな威張ったような口をきくのさ」

 別にこれはお父さんのいつもの口調なんだけど、威張っているように聞こえるんだな。

「この子の名前はサルトルじゃない。ルがひとつ余計だ」

 なんか、二人でにらみ合っている。ちょっとマズイ感じがしたので、僕は間に入った。

「お父さん、この人、バイト先の先輩社員でシシドさん。シドさん、これ僕の父親なんだ」

 そう紹介したところで、二人の間の険悪な感じの空気は変わらない。

「先輩社員?。アンタみたいのが、ちゃんとした正社員なのか?」

「ちゃんとした、契約社員だよ」

「随分、若いな。ちゃんと学校は出ているのか?」

「ちゃんと・・・・・・高校は中退してるけどさ・・・・・・」

 普段のシドさんだったら、もっと胸を張って言いそうなことなのに、なんだか所在なさそうに答える。お父さんの視線がどこか威圧的で、人を値踏みするようなところがあるからかも知れない。お父さんもそんなこと聞かなくてもいいのにな。

「シドさんは、ちゃんと簿記三級の資格を持っているし、事務処理の担当だったんだよ。ケガしてたから、僕がバイトで代わりにやっていただけで、九月にはまた元に戻るんだ」

 そんなふうに言いつくろってみたが、あまり効果はないようだ。お父さんは黙って、シドさんのシャツの胸のあたりをジロジロと見ている。

「な、なんだよ。イヤラシイな」とシドさんは手で胸を隠す。

「アンタは、自分のシャツに書かれている言葉の意味がわかっているのか?」

 ジドさんが今日着ている黒いTシャツにもハデハデしいレタリングで英語が書かれていた。お父さんにそう言われて、シドさんはシャツを手前に引っ張って、自分でも文字を見ていたが、意味がわからなかったようで、困った顔をして僕の方を見る。僕も多少の英語なら読める気でいたが、知らない単語が多くて、意味がわからないので首を振る。

「帰ったら、スラング辞典でも引くんだな。若い女の子が、恥ずかしくて着ていられないようなことが書いてあるぞ」

 お父さんは、バカにしたような視線をシドさんに向ける。あのシドさんが珍しく戸惑った顔をした。こんな表情を初めて見た。薄暗い街灯の下だから良く分からないが、赤くなっているのかも知れない。

シドさんが、どう見られたって僕とは関係ないし、どうでもいいことだったはずだ。

 でも、さっき急にキラキラして見えたシドさんが、今は、ぼんやりとして、くすんで見える。

 人はまなざしひとつで息の根を止められてしまう。お父さんの、そんな軽蔑するような視線にさらされたら、シドさんだって色あせていってしまうのだ。    

「お父さん!」

 思わず、怒鳴りつけるように言ってしまった。でも、この後、何を言ったらいいのかわからない。ただ、これ以上、お父さんにシドさんを傷つけて欲しくなかった。

「お父さん、止めてよ。シドさんにそんなこと言わないでよ」

「そんなことってなんだ。この子が恥ずかしいカッコをしているから、教えてやっただけだ。知らないで恥をかいているより、よっぽどいいじゃないか」

「そうだけれど、もっと、言いようがあるんじゃないかな」

「そんなものを着ていたら恥ずかしいって、本当のことを言ったまでだ。本当のことを言ってどこが悪いんだ」

 悪くはない。悪くはないが、どこか、間違っている。

「タトゥなんていれていきがっているのはいいが、ちょっとは考えた方がいいな。娘がそんな恥ずかしいシャツを着て歩いているなんて、ちゃんとした親だったら・・・・・・」

「お父さん!」

 これ以上、お父さんに何か言われないように、僕は二人の真ん中に割って入った。シドさんはお父さんの言葉に、すっかり動揺してしまったようで、取り乱していた。

「ア、アタシのことは何を言ってもいいけど、親のことまでバカにしないでよ」

 そして、左手で自分のシャツのえり首を持ち、今度は、右手でえり周りのちょっと裂けていたところをつかむと、首から胸にかけて一気に引き裂いてしまった。

ビックリして、僕は目をそらすのも忘れていた。

「おい、息子の前で何をするんだ!」

 お父さんもあっけにとられていたが、すぐにシドさんを怒鳴りつける。

「ウルサイ、ウルサイ、ウルサイ!」

 シドさんは頭を振りながらそう叫ぶと、破れたシャツを合わせて胸元を押さえ、足を引きずりながら走り出した。追いかけようとしたが、お父さんに肩をつかまれ止められた。

「ああいう連中とつきあうんじゃないぞ、サトル」

「ああいう連中って、どういう人のことを言っているつもりなの?」

「ああいう、わけのわからないことをやりだす連中のことだ。まともに人と話をすることもできないじゃないか」

「それは、お父さんが怒らせたからだよ」

「怒る?なんであれで怒るんだ。そっちの方がどうかしているだろ」

 お父さんはあたり前のように言う。お父さんは自分が間違っていないと思っている。なんでシドさんがあんなふうになったのかわからないのかも知れない。

「もっとちゃんと話をしてあげても良かったじゃないか」

「話をしたじゃないか」

「違うよ。ただ怒らせただけだよ」

「どうせ、ああいう連中には何を言ってもわからないんだ」

「わかるように言っていないだけなんだよ。どんなふうに言うかが大切なんだ。ちゃんと話せば伝わることもあるんだよ」

「屁理屈を言うんじゃない」

「お父さんが、なんでママがいなくなったか僕に話してくれなかったのは、僕がわからないと思ったから?」

 長い間、フタをしたままだった気持ちが、ふいに溢れだしてきてしまった。お父さんはちょっと鼻白んだが、僕に怒ったように言い返す。

「子どもにはわからないことがあるんだ!」

「子どもだから教えて欲しいこともあるんだよ」

生まれてはじめて、僕はお父さんに口ごたえしていた。

  

 これまであたり前だと思っていたことが、どこかおかしかったんじゃないかと僕は気づきはじめていた。少しずつ感じていたことだったけれど、そんなふうに考えることは、今までの僕自身を壊すことになるような気がして、考えるのを避けていたのだ。

 僕もお父さんみたいに、悪びれることもなく、平気で人を傷つけることを言っていた。

 シドさんを傷つけたことに、お父さんが気がついていないように、僕も何もわかってていなかったんじゃないか。シノハラにあんなふうに言われても、僕は本気で反省していたわけではない。自分は正しいと思っていたから、素直に非を認めてはいなかったのだ。

 そんな厚顔が僕のあたり前になっていた。ほめられたくて、自分を認めて欲しいから、たくさん努力して、人より良い成績がとれるようになった。自信がなかった僕が、自分の正しさを信じられるようになった。でも、僕は自分を輝かせようとするだけで、まわりに影を作ってしまっていた。

 成績の順位があがっただけで、本当に賢くなれたわけじゃない。周囲を明るく照らす街灯ではなく、日影を作るだけの背伸びした目ざわりな建物なんだ。

 お母さんにみたいに、シノハラみたいに、シドさんみたいに、人を励ましたり、奮い立たせたり、喜ばせたことが僕にあったか。無いんだよ。そんなこと、ゼロなんだよ。

 閉じていた世界の扉が少し開いたような気がした。

 僕は今まで何を信じて、何をやっていたのだろう。まるで自分がハダカで街を歩いていたことに、突然、気づかされたみたいだ。シドさんだけじゃない。僕だって、すごく恥ずかしいカッコをしていたんだ。

 いずれにせよ、お父さんとはとことん話合わなければならないと思った。それは、これまでの僕自身と闘うことなのかも知れない。お父さんにわからせることはできないかも知れない。それでも行きつくところまで、話をしないといけなと思っていた。



                 11


 八月三十一日。アルバイト最終日。シドさんに仕事を引き継ぐために、僕は今日中に作業途中の仕事をまとめなければならなった。月末の支払い処理は終わっているが、月明けには今月の請求書がくるので、月末の仕入計上処理に入らないとならない。納品書のデータもチェックしてあるし、これからくる請求書との照合用のリストも用意してある。

 だが、午後になってもシドさんは会社にこなかった。昨日、あんなふうにして別れたきりだから、僕はどんな顔をしてシドさんに会ったらいいのかわからなかった。シドさんも僕と顔を合わせるのが気詰まりで、顔を見せないのかも知れない。シドさんのここでの仕事は九月になってからなのだから、こないのがあたり前なのだけれど。

 シドさんはあんな破れたTシャツのまま、どこに行ってしまったんだろう。ちゃんと家に帰れたのかな。どんな気持ちで一晩を過ごしたんだろう。

 お父さんはシドさんのことをつき落してしまった。その視線で、その言葉で、「ああいう連中」にされてしまったシドさんを、僕はどうやって救い出したらいいんだろう。暗い影の中に押し込まれたシドさんに、僕がもう一度、光を当てて、輝かせることはできるんだろうか。僕は最後の一日の仕事をしながら、ずっと、そんなことを考えていた。


 昨日の夜は延々とお父さんと言い争うことになってしまった。お父さんがシドさんを傷つけたことが僕には許せなかった。いや、以前なら僕だってシドさんみたいな人のことを、なんの根拠もなく見下していたと思う。そんな自分のことをお父さんに重ねて、余計、腹立たしく思っていたのかも知れない。

 家に帰って、お父さんとリビングのテーブルで向かい合い座って話をした。どんなに言葉を重ねても、お父さんにはわかってもらえない。僕がどうしてこんなに興奮しているのかさえ、お父さんは不思議に思っているちyなのだ。普段は空気を読まない陽気なお母さんも、僕らのただならぬ気配を察したのか、そばで心配そうに見守っていた。

「シドさんに謝って欲しいんだよ」

 お父さんにわかってもらえなくてもいい。ただ、シドさんの痛みをすこしでも和らげたかった。繰り返し、僕はそうお父さんに訴えていた。

「なんでこっちが頭を下げなきゃならないんだ。悪いのはあの子の方だろう」

「変なシャツを着ていたって、別に悪くないよ。誰にも迷惑をかけていないんだしさ」

「まったく。あんなのを働かせておくなんて、お前のバイト先はろくな会社じゃなかったんだな。ちゃんと給料はもらえたのか」  

「だから、別にブラックな会社じゃないんだって。給料は末日に締めて、翌月の十日にくれるって、契約書にも書いてあるよ。七月分だって、四日分だけどもらっているんだ」

「あてにならないな。ごまかされないように気をつけるんだぞ。いいか、ルールを守らない人間なんてたくさんいる。そんな連中にだまされないように、自分を守るんだ」

「借方は人件費、貸方は未払金で計上。未払金で八月の月末残高を残したまま、九月の十日に借方、未払金から現金で支払い、なんだってば」

「それがどうしたんだ」

「ちゃんと帳簿をつけている会社なんだ。ちゃんとルール通り支払うに決まっているだろ」

「ちょっと簿記をかじったぐらいで偉そうに言うんじゃない。帳簿がなんだって言うんだ。経理や会計の連中なんて、自分たちじゃ稼ぐことができないくせに会社で偉そうにしている。俺たち営業が外で頭を下げて回ってやっているから会社が儲かっているんだぞ」

 お父さんが、またそんな関係のないことに話をそらして怒りはじめる。

「ともかく、アルバイトは夏休みでおしまいだ。九月からは、ちゃんと学校で勉強するんだ。落第さえしなければ、大学にそのまま進学できるんだ。変な会社の変な人間とはつきあうんじゃないぞ」

 そう言って、お父さんは立ち上がり、テーブルを離れて、自分の部屋に行ってしまった。

 たしかにワイルドウエストは変な会社だし、働いているのは変な人ばかりだ。だからといってダメじゃない。僕はテーブルに座ったまま、悔しさをかみしめていた。

「俺たち営業が頭を下げて回っている、なんて言っちゃって、本当は、お父さんは人に頭が下げられない人なんだよねー」

 そう言いながら、今度はお母さんが僕の前に座った。

「そうなの?」

「そう。お父さんは人にものを頼むのがすっごく苦手なんだ。私の会社の支払窓口に、お父さん、いつも月末に小切手を取りに来ていたんだけどさ。本当は領収書を分割したいのに、なかなか言い出せないんだよね」

「ああ、あの節税のために領収書を二枚にするってやつ」

「そう。ちゃんと分割して節税していないと、会社の経理部門に叱られちゃうらしいんだな。お父さんの会社、大きくてしっかりしたところだからルールが細かいんだよね」

「お父さんも叱られたりするんだ」

 なんだか意外だった。いつも自分が正しいって感じのお父さんが、人に叱られたりすることがあるんだ。

「なんかいつも怒ったように領収書を渡してくるもんだからさ。それで私が、こうされたらいかがですかって、こっちから提案してあげたわけ。その時の、お父さんの戸惑ったような、嬉しそうな顔が可愛かったな。サトル君にも見せてあげたかったよ」

 お母さんは懐かしそうにそんなことを言う。

「お父さんはすごく不器用な人なんだよ。プライドが高すぎて、損していることも多いと思うよ。ああいう人が会社員をやっているのって、けっこう大変なことだと思うんだ」

「お母さんは、自分がやっていた経理とか会計の仕事を悪く言われて頭にこないの?」

「お父さん、悪く言っているつもりがないから。営業が会社を支えているってことを言いたいだけなんだよ。それに、自分は人を怒らせているつもりもないの。いつも、先に怒っちゃうでしょ。あれって、お父さんがすごく傷ついている時のパターンなんだよね」

「それって、僕が言ったことで、お父さんを傷つけたってことなの?」

「そう。お父さんは、すごくデリケートな人なんだよ」

 お母さんがニッコリと笑う。ちょっと、僕はわけがわからなくなってきた。

もしかすると、僕はこれまで、ことあるごとにお父さんを怒らせ続けてきたのだろうか。

 ママはどうしていなくなったの、と僕に聞かれて、お父さんは凄く傷ついていたのか。

それはそうか。シノハラに見限られた時みたいに、人が自分から離れていってしまうことには傷ついてしまうものだ。離れていった理由が正しいかどうかなんて問題じゃない。正解だって受け入れられないことはある。そこには触れられることもいやだし、考えたくもなかったんだろう。

「お母さんは、スゴイね・・・・・・」と、僕は思わずそう言ってしまった。

 お母さんは,お父さんの複雑な性格を僕よりもずっと理解しているのだ。

「あら、サトル君が私をほめてくれるなんて珍しいじゃない」

「いや、本当にスゴイよ」

 それは色々な意味で。

 人の気持は単純じゃない。コントロールは不可能で、それはもう、そのまま受け入れるしかないものかも知れない。とはいえ、お母さんみたいに全部、大きく優しく包み込むことは僕にはまだ無理だということを思い知った。


 午後四時になった。今日の仕事はこの最後の全員ミーティングで終わりだ。僕の夏休みのアルバイトもこれで終わる。シドさんは、まだ会社にきていない。今日はこのままこないのかも知れない。そして、明日からは僕が会社にこないのだ。

 テリーさんと中野クンもそれぞれの部屋から、応接室に集まってきた。大きなオフィスがなくて、それぞれの小さな部屋で作業している会社だから、毎日、みんなで顔を合わせる会議が必要だったのかも知れない。面倒だなと思っていた会議だけれど、これで最後かと思うと、妙に寂しい気持ちがした。

「サルトル君は今日が最後だったね。短い間だったけれど、ありがとう。助かったよ」

 今日もまた、相変わらずのカウボーイスタイルのテリーさんがそう言う。

「いや、本当、サルトル君、これで辞めちゃうのもったいないッスよね」

 中野クンが、そんなふうに言ってくれるのは素直に嬉しかった。

結局、アルバイトを続けさせて欲しいとは言えなかったが、会社側の事情としても、僕はもう必要ではなかったんだろう。この後に及んで、僕は焦ることもなくそれを受け入れようと思っていた。考えてみると、人に頭を下げて頼みごとをするのを僕が苦手なのは、お父さんと良く似ているのかも知れない。せめて感謝だけでもできるようにならないとな。

「どうだった?。会社で働いてみて、少しは簿記の勉強になったかな」

 テリーさんは、そう質問してきた。僕はうなずく。たしかに簿記の勉強はかなり進んだ。テキストだけではこんなに理解できなかったと思う。会計ソフトでとはいえ、実際に帳簿をつけさせてもらって、会社の仕事の仕組みや財務諸表のことも良くわかった。

 お父さんは経理や会計は営業に食わせてもらっているなんて言っていたけれど、会社の数字や実績を管理しているのは経理部門だし、それぞれが違う役割の仕事をする人間がいて、会社が成り立つものだと僕は実感していた。

 簿記をはじめようと思ったのは、シノハラに対する未練と、シノハラよりいい資格をとって見返してやろうなんて、くだらない動機だった。今となっては、自分が小さく思えて、なんだか恥ずかしい。さすがにまだ簿記でコスモを体感することはないが、簿記をはじめて見えてきたものは、それなりに大きかったのだ。

 テリーさんと中野クンを前にして、僕は胸にひっかかっていたことを話すことにした。

「ごめんなさい。実は僕、本当は商業高校の生徒じゃなかったんですよ」

 本当はもっといい学校に行っていたとか、そういうことを言いたいんじゃない。嘘をついて、だましていたような感じがイヤだったので、この場で告白したくなったのだ。

「へえ。それなのに、簿記を勉強しようとか思ってたんだ。凄いね。サルトル君は一体、何者なのさ」

 中野クンはそう感心してくれる。何者と言われても、実際、そんなたいした者ではない。

「何者だろうとかまわないさ。サルトル君が凄くデキる子であることは、あの仕事ぶりを見ていればわかるよ。君の適応力や集中力は並じゃないよ」

 テリーさんもそんなふうに誉めてくれる。だからといって調子にのるのではなく、もう少し、謙虚に受け止めてみようと僕は思っていた。

「クラスじゃビリグループにいるし、たいした奴じゃないと思われていますから」

「それが君の本当の姿なのかい?」とテリーさんはほほ笑む。

「多分。そんなふうに見られているのが今の僕だから」

 ごくフラットに言えばそうなんだ。自分を買い被ってもしかたがないし、それはそれでいいと思い始めていた。それでも少しは前に進んできたのが、今の僕なのだから。

ところが、テリーさんはそれを真っ向から否定する。

「君なんて、まだ何者でもないよ。ただのタンパク質とか鉄分とかそういうものの塊だ。これから君は君になる。それにはまだ時間をかけるべきだと俺は思うよ」

「僕はまだ、僕じゃない?」

 妙なことをテリーさんに言われてしまった。

「ああ、君は他人のまなざしに自分が何者かを決めてもらっている。君はそんな視線から自由になってもいいのさ」

「僕が何者か僕が決めていいって・・・・・・。でも、僕は何になったらいいんですか」

「君は、君の想い描く理想の男になればいいんだ」

「理想の男?」

 テリーさんの言うことは、相変わらず突拍子がない。

「カウボーイだよ、サルトル君もカウボーイになっちゃいなよ」と中野クンが言う。

「ああ、カウボーイはいいぞ。男はみんなカウボーイになればいい」

 テリーさんも言う。こうやってバカバカしい話になっていくのは、いつも通りだった。

「カウボーイって、よくわからなかったけど、ただの牛を飼っている人ですよね」

「そうだ。牛を追い、自然とともに生きる。それがカウボーイだ」

「歴史上有名なカウボーイとかっているんですか?」

「いや、みんな名も無き男たちさ。西部開拓の歴史に埋もれて消えていったんだ。実際、男が憧れるような理想のカウボーイなんて、空想上の存在にすぎないしね」

「え、本当はいなかったんスか」と中野クンも驚く。

「ああ、自由と独立の開拓者スピリットを持った男の中の男、なんてカウボーイのイメージは二十世紀になってからハリウッド映画やショービジネスの中で作られたものだ。本当のカウボーイは誰も憧れやしない、ただの荒くれの呑んだくれの粗野な人間ばかりだ」

「えー。それは、ちょっとショックっスね」

「でも、現実には存在していなくたって、その理想のイメージを俺たちは愛している。そんな生き方に憧れて、理想を実践していくことだってできるんだ」

「でも、それじゃあ、なにがカウボーイの正しい姿かわからないんじゃないですか」

「それぞれの心の中にカウボーイがいるのさ。いいかい、サルトル君。迷った時は君の心の中に住む、沈んでいく赤い夕陽を背負ったあのカウボーイの声を聞くんだよ」

 テリーさんがまたわけのわからないことを言い出す。簿記には宇宙があり、プロレスには哲学があり、男の心の中にはカウボーイが住んでいるのか。

「いいッスよね、そんなカウボーイ・・・・・・」と中野クンもウットリとして言う。

「普段は穏やかに働いているが、時として、大切なものを守るためにはカウボーイは銃をとって闘う。それが男の中の男だ。さて、サルトル君、君は一体、何を守るのかい?」

 テリーさんは銃を抜き、ポーズをつける。そんなことを聞かれてもな。

「自分が何を大切にするべきかわかっていたら人間はブレない。オニギリ一個のために王国を手放したって構わない。大切なものは人それぞれだ。それを見極めるんだよ」

 それは、今日でここを辞める僕へのテリーさんなりの贈る言葉なのかも知れない。真面目なのか冗談なのか、最後まで良くわからない人だったが、僕の世界を広げてくれたことは確かなのかな。ここにいると、だんだん何が当たり前なのかわからなくなってくる。やっぱり変な会社の変な人たちなんだよな。


 雑談が終わって、ようやく仕事のミーティングがはじまった。ところが、明日、送信するメールマガジンの内容について三人で話をしているうちに、どこからか猫がスタスタとやってきて、中野クンの膝の上に乗ってしまった。なんで猫がここにいるんだろう。

「あ、マズイ。ドア、あけっぱなしだった。ダメだよ、出てきちゃ」

 中野君はそういって、猫を抱き上げる。

「中野クン、この猫どうしたの?」とテリーさんは聞く。

「こないだ、会社にくる途中、道端で拾ったんです。すいません。僕のアパート、猫を飼えないから、ここで飼っていました」と中野クンはテリーさんに謝る。

「おいおいおいおい、中野クン」 

 そう言いながらテリーさんは、中野クンの腕から猫をとりあげた。さすがに会社で猫を飼うなんて、どうかしているもんな。

「なにこのニャンコ、スッゴク可愛いなあ。病院には連れて行ったの?」

「まだ行ってないッス」

「駄目だよ。飼うなら飼うで、ちゃんと面倒みなきゃ。まずは健康診断と予防接種だな」

 なんか、テリーさんがやけに嬉しそうだ。

「あのー、会社で猫を飼ってもいいんですか?」

「ああ、このマンション、ファミリータイプでペットも飼えるんだよ」

「いや、そういう問題じゃなくて。普通、会社じゃペットは飼わないんじゃないんですか?」

「原理原則も大切だ。だが、時には正しさよりも優しさを大切にしたっていい。俺の中のカウボーイがそう言っているんだよ、サルトル君」

 ムチャクチャだな。単にテリーさんも猫好きなだけじゃないのか。抱きかかえていた猫がジタバタと暴れるので、テリーさんはそっと床に置いた。猫はビュンと駈け出して、中野クンの作業部屋に逃げ込んでしまう。まだ小さな茶トラの猫で、後ろ足だけがソックスを履いたように白い。あれ、あの後ろ姿は・・・・・・。

「あの猫、どこで拾ったんですか?」と僕はドキドキしながら中野クンに聞く。

「シルバーワークサービスの前あたりだったかな。なんか妙にナツカレちゃってさ」

 やっぱり。キクリンが探していたあの猫だ。こんなところで見つかるとはな。これでシノハラが目を覚ますとは思えないけれど、早く、シドさんに教えてあげないと。僕の頭の中には、シドさんの喜ぶ顔が浮かんでいた。

 僕は立ち上がって、テリーさんと中野クンに言う。

「すいません。アルバイト最終日に悪いんですけど、ここで早退させてください」

「おや、急にどうしたの?」と、二人ともキョトンとした顔で僕を見る。

「僕の中のカウボーイが、仕事より大切にするべきことがあるって言うので」

 この際、どうかしたまま、突っ走ってみようと思った。

 きっとシドさんは、あのシルバーワークサービスのそばで、一人で猫を探しているはずだ。絶対、そうに違いない。僕にはそんな気がしていたのだ。



                   12


 あの展望台のある公園で初めて天使と会ってから、一か月ぐらいが経った頃だった。

「あのね、サトル君。私はもうすぐ帰らなくちゃいけないみたいなんだ」

 天使はまるで人ごとのように僕にそう告げた。

「帰るってどこに?」

「わかんない。でも、誰かが帰ってきてって、ずっと言っている気がするんだよ」

「もう会えないの?」

「わかんない」

「そうなんだ……」

 また会いたいと素直に言えば、会うことができたのだろうか。どこにも行って欲しくないと言えば、行かないでもらえたのだろうか。僕は頭の中が一杯になってしまって、何を言ったらいいのか良くわからなくなってしまった。

 でも、僕は何も言えない。

 いつもそうだった。

 大切なことを言えないまま、時間が過ぎていってしまって、手遅れになってしまうんだ。

「ねえ、私と約束してくれないかな。ここから消えてしまったら、前のことを覚えていないみたいに、サトル君のことも忘れてしまうかも知れない。もしいつかサトル君が、私とどこかで出会うことがあったら、思い出させて欲しいんだ。きっと、その頃、サトル君は強く立派な人になっているよ。もう寂しい人じゃなくなっているよ。たとえ私が覚えていなくても、あの夕焼けの公園で泣いていた、あの子なんだよって、こんなに大きくて、立派になったんだよ、って、私に教えてよね」

 天使はそう言って笑った。僕はただ、うなずいて聞いているだけだった。きちんと約束したのかどうかも覚えていない。

「君の未来は明るいよ。すごく輝いているんだよ」

 そうだ。天使は僕の未来を、そんなふうに予言してくれたのだ。 

次の日、学校の帰りに公園に行ったけれど、天使はもういなかった。草むらとか、砂場とか、石の下とか、色々な場所を探してみたが見つからない。

 それから何度かあの公園に行くことがあったけれど、天使を見かけることは、もうなかった。やっぱり天使も、僕にさよならを言わないまま、いなくなってしまったのだ。

 僕はすごく寂しくなった。ああ、これが寂しいって気持ちなんだと、今度はちゃんとわかった。天使が教えてくれた気持ちだった。やっとはっきりして、そんな気持ちにも、僕は少しだけ立ち向かえるような気がしていた。


 天使と最後に会った時のことを思い出しながら、僕はシルバーワークサービスへの道を急いでいた。夕方も近いのに湿度が高くて、走っていると汗がふき出してくる。

 あの公園から消えた天使はどこに行ったのか。もとの世界に戻ったのだろうか。もし、シノハラが意識を失っている間だけ、あの世界に現れていたのだとすれば、一ヶ月はこのまの状態が続くはずだ。でも、その後、シノハラは目を覚ます。そうであって欲しい。

 シノハラの目が覚めた時、僕はどんなことを話したらいいのだろう。僕には天使との遠い約束があった。でも、強くて立派な人になんて僕はなっていない。相変わらず、ちっぽけで、何もできないくせに、プライドばっかり高いヤナな奴が僕だ。少し自分自身のことを思い知ったけれど、どれほど謙虚になれたかはわからない。

 あの頃の未来に、僕はもう来てしまっているのだろうか。それともまだ、この先の時間に、天使が予言するような輝く未来が待っているのだろうか。過去から現在を貫いて、僕は未来へと進む先端にいる。今、この瞬間をどう生きるかで未来は変わっていく。たとえ、明日で世界が消滅するとしてもアクションを起こそう。トリガーを引き続けるんだ。何が起こるかなんて、どうせ、その時がくるまでわからないんだから。

 いつだって、手遅れなんかじゃない。

 未来は変えることができる。

 僕から失われたものは順位だけじゃないか。

 発想を変えてみるんだ。自分のまわりにもっと輝いている人たちがいるのなら、その輝きで照らしてもらえばいい。きっと僕は明るい世界を生きていくことができるだろう。いろんな種類の輝きを持った人がいる。今、とっておきの報せを持って、僕は道を急いでいる。シドさんに喜んでもらうために。もっと輝いてもらうために。


 やっぱりいた。

 シルバーワークサービスの手前の道路の反対側のアンキョの植え込みの前に、大きな虫取り網を抱えたシドさんがいた。

「シドさん!」

「よお、サルトル、早いな。会社はどうしたんだ?」

 まるで昨日のことなんてなかったみたいに、なんの屈託もない様子で、シドさんは僕に笑いかける。落ち込んでいるわけでも、怒っているわけでもなさそうだ。ずっと走ってきた僕は、はあはあと息を切らしながら、シドさんに聞いた。

「なんで、会社にこないんですか!」

「なんでって、あたしの契約は九月からだろ。仕事でもないのに、毎日行くなんて思うなよな。それに、できたら今月中に猫を見つけておきたいと思ってたんだよ」

 そういいながら、ブンブンと網を振り回す。シドさんの印象がなんだかいつもと違う。黒いTシャツではなく、中袖の白いTシャツを着ているんだ。シャツを見つめている僕の視線にシドさんは気づいて、ぶっきらぼうに言う。

「ああ、これか。前に親父がくれたのがあったんだ。腕のタトゥがみっともないから隠しとけって言われてさ。他に日本語が書かれたシャツを持っていなかったから、しかたなく着てやったんだ。まあ、意味のわかんない言葉が書かれたシャツを着て歩いているなんて、あまりカッコいいことじゃなかったよな」

シドさんのシャツの胸のところには、太くて黒い墨文字で「だいだらぼっち」と書かれている。別に何か言葉が書いてある必要なんてないのにな。

「だいだらぼっち、ってなんですか?」

「なんか、民話に出てくる巨人じゃなかったかな。うちの親父、むやみにデカイものが好きなんだよ。タンカーとか、トレーラーとか、ジャイアント馬場とかさ」

「お父さん、ムダなものが嫌いなんじゃなかったでしたっけ」

「デカイからってムダじゃないさ。親父は几帳面で細かい性格だから、逆に、スケールの大きなものに憧れてるんだ。ハーレーみたいなデカいバイクに乗りたがっていたから、アタシがバンドで成功したら買ってやるって言ってんだけど、アテにされてないんだよな」

 そう言ってシドさんは笑う。家から追い出されたとか言っていたけれど、心はちゃんとお父さんとつながりあっているのかも知れない。  

「うちの父親、偏屈で自分本位で、デリケートなくせにデリカシーがないんで、すいません、なんか、シドさんにヒドいことを言ってしまって・・・・・・」

 僕はすっかりお父さんのことを恥ずかしいと思うようになっていた。自分ばかりが正しいと思いこんでいる人間なんて、どうかしてるんじゃないかと思うようになったのだ。

「いや、そんなことはいいんだ。後でネットで調べたら、あのシャツ、とんでもないことが書いてあったのがわかってさ」

「なんて書いてあったんですか?」

「バカ。そんなこと、女の子に言わせるなよな」

 シドさんは顔を赤くしながら言う。

「ともかく、お前の親父には、お礼を言わなきゃならないんだ。ああ言われなかったら、もっと恥をかいていたところだからさ」

 結果的には良かったとシドさんは言ってくれるが、まだ僕には納得がいかなかった。

「でも、あんな言い方ってないですよね」

「お前の親父は、お前のことをすごく大切に思ってるんだよ。アタシみたいのがそばにいたら、そりゃあ警戒するのが当然だろ」

 そう、なのか。なんだかわからなくなってきた。

 僕もお父さんに言い過ぎてしまったんだろうか。どうも加減がよくわからなくなっている。

「さあ、今日は徹底的に猫を探すからな。なんとか八月中に捕まえようぜ」

  そう言って、シドさんはまたブンブンと網を振り回す。

「ああ、そうだ。あの猫、見つかったんですよ」

「えっ、どこで?」

「会社で。中野クンが保護していました」

「バカ。なんで、そんな大事なことを先に言わないんだよ。よし走るぞ、サルトル!」

 シドさんを喜ばせるどころか、叱られてしまった。せっかくのニュースだったのに、言い出すタイミングを間違っていたな。 まあ、いいか。シドさん元気で良かった。

まだ明るい夏の夕方、僕らは、まっすぐ会社に向かってに駆け出した。


 なんだかんだで、この日は、すっかり家に帰るのが遅くなってしまった。

 会社に戻った僕とシドさんは、早速、中野クンから猫を借りて、キクリンの探していた猫だということを確認した。だからと言って何が起こるわけでもない。

 テリーさんにも事情を話したら、さっそく「猫に乗り移った人間の魂を分離するにはどうしたらいいか」というブレーンストーミングが始まった。そんなのどうかしてるだろ、なんて言われないのが、この会社のいいところではあるんだ。もっとも、いつものブレストと同じで正解はない。

 良い方法が見つからないままに、シドさんは猫を抱きあげて語りかけていた。

「シノハラさん、ここから出てきてよ。シノハラさんが戻ってくるのを、キクリン、ずっと待っているんだからさ。お願いだから、身体に戻ってよ」

 猫も無理を言われて困っているような気がする。かといって、シノハラは天使になって六年前の公園にいるんですよ、とはさすがに僕も言えない。そっちの説だって、全然、説得力はないし、シノハラが、この後、ちょうど一か月で目を覚ますという確証もない。

「サルトル、お前、ドリトルになって、この猫と話をしてみてくれよ」

 シドさんは猫をつきつけてそんな無茶を言い出す。結局、なにも起きないまま、とりあえず明日に期待するしかない、ということで解散することになり、僕は家へと帰ってきた。

 家のドアを開けると、玄関にお父さんの靴がある。僕より先に帰ってきていたのだ。昨日のことがあったので、なんとなく気づまりで、あまり顔を合わせたくなかった。

 でも、もしかすると、お父さんだってそう思っているのかも知れない。シドさんみたいに、なにもなかったように僕が明るくふるまった方がお父さんも気が楽なのかもな。

「サトル君、おかえり。お疲れさま。夕飯まだでしょ。お父さんも食べずに待っているよ」

 出迎えてくれたお母さんが言う。せっかちなお父さんが、食事もせずに待っていてくれるなんて、ちょっとびっくりした。お父さんも何か思うところがあったのだろうか。

「お父さん、ただいまー。あー、お腹すいたなあ」

 なんだか、わざとらしい感じだけれど、お気楽そうに言いながら僕はリビングに入る。

 お父さんがテーブルで、テレビをじっと眺めている姿が目に入った。

 画面に映っているのはプロレスだった。こないだ、僕からとりあげたDVDを、お父さんが食い入るように見つめているのだ。

 それまでブッチャーの凶器攻撃に血まみれにされ、劣勢を続けていたテリー・ファンクが立ち上がり、反撃を開始しようとしているところだった。テリーは拳を握りしめ、ブッチャーに敢然と立ち向かおうとしていた。会場のボルテージは最高潮で、テリーコールが巻き起こっている。お父さんは、それをじっと見つめている。プロレスなんて、筋書き通りの茶番の芝居だ、と言っていたお父さんがどうしたんだろう。

「お父さん」

 僕がかけた声に、お父さんはやっと我に帰った。

「ああ、サトルか。帰ってきていたのか。お前に、これを返そうと思っていたんだ。友だちに借りたのなら、明日、学校に持っていくのかと思ってな」

 シドさんに借りたものだが、また話がややこしくなるので詳しくは言わないことにした。プロレス好きだってことでシドさんがまた悪く言われることもいやだったのだ。

「・・・・・・ママはこのレスラーが好きだったんよ」

 画面を見続けているお父さんの口から意外な言葉が出た。

「テリー・ファンクのことが?」

「ああ、そんな名前だったな。昔、一緒にテレビを見させられて、なんとなく覚えていた。なんでこんなもの好きなんだろうと思っていた。今、見たら、少しはわかるかと思ったが、やっぱり全然、わからないな」

 三十年以上も前の試合だから、お父さんもママも学生の頃の話なのかな。

「ママはプロレスが好きだったんだ」

「ああ。長いつきあいだったけれど、ママの考えていることは、オレにはわけのわからないことが多かったよ。オレより、ずっと頭も良かったし、小難しい屁理屈が得意で、オレは言い負かされてばかりいた。プロレスなんかが好きなわりには合理主義者で、洗うのがもったいないからって、皿の上にラップを敷いて食事を盛ったりしていただろ」

 ああ、そうだった。ママがいた頃は、それがあたり前だったんだっけ。

「結局、なんでママが出ていったのか、オレだっていまだにわからないままだ。オレはママの考えていることが理解できなった。だから、お前になにも説明できなかったんだよ」

 お父さんは視線を合わせず、画面を見ながらそう言う。これって、お父さんは昨日、僕が言ったことに答えようとしてくれているんだな。

「時々、オレは自分が間違っているんじゃないかと思うことがある。オレは正しいつもりで言っているのに、人を怒らせたり、予想外の反応が返ってくることがあるんだ。でも、どう考えても、オレの方が正しいんだ。だから頭にきて、すぐにイライラしてしまう」

 お父さんがそんな自分の心のうちを話してくれることは、はじめてだった。

「正しさよりも優しさを大切にした方がいい時があるって、バイト先の社長が言ってたよ」

 そんなことを言ってみたけれど、僕だって、お父さんと同じタイプなんだよな。

「オレはそんな融通をきかせることはできない。正しいか、正しくないかがオレの判断基準だ。でも、人が黙ったまま、怒って、いなくなってしまうのも、すごく困るんだ」

 いつものように不機嫌そうな様子だが、これはもしかして、お父さんは僕に謝っているつもりなのだろうか。僕が昨日、怒ってしまったことにお父さんは戸惑っているのかも知れない。そうか。だから今、お父さんは懸命に自分の胸のうちを僕に説明しているんだ。お母さんみたいに、この複雑な表現を汲み取ってあげることが僕にもできるのだろうか。

「シドさんが、お父さんにお礼を言っておいてくれって言ってた。ああ言われなかったら、もっと恥ずかしい思いをしていたって」

「ふん。わかればいいんだ。別にオレはあの子のことを悪く言ったわけじゃないんだからな。オレは別にタトゥを入れているぐらいで人を差別したりしない。でも、サトル、いいな、ああいう素行の悪そうな連中とつきあうのは止めたほうがいいぞ」

 お父さんの言い方は相変わらずだな。きっとシドさんを悪く言っているつもりはないし、僕のことを心配してそう言ってくれているんだろう。お父さんの真意を理解するのは難しい。自分が悪かったなんて、決して言葉にすることはない。僕は思わず苦笑していた。

でも、シドさんが言うように、お父さんが僕を大切に思ってくれていることだけはよくわかった。お父さんはすごく不器用な人なんだ。でもそれも男の魅力だって、テリーさんも言ってたもんな。僕がもっと理解しようとすれば、わかることもあるのだろう。

 お母さんが夕食をテーブルに運んできてくれた。絶妙のタイミングだった。お母さんは僕らには気づかれないように、いつもさりげなく気づかっていてくれたのかも知れないな。


 こうして、僕の夏休みは終わった。アルバイトもなくなって、明日からまた普通の学校生活に戻る。でも、なんだか実感がわかない。一学期は心の引きこもり状態だったせいで、同じクラスの子たちとも親しくなれず、みんながどんな顔をしていたか覚えていない。いや、自分がどんな顔して学校に通っていたのかさえ覚えていないのだ。

 だったら、二学期からは心機一転、転校生気分で学校にいってみるか。そんなふうに開き直って考えられるようになったのは、この夏休みの収穫だ。僕が輝けなくても、輝いている同級生たちがいる。明るく照らしてもらうのもいいだろう。簿記で世界が広がったんだから、勉強以外のことにも興味を持ってみたら、面白い発見があるかも知れないしな。

 夏休み最後の夜、眠りにつくその前に、僕はベッドの上で、久しぶりにシノハラから最後にもらったメールを読み返していた。以前は何回となく繰り返し読んでいたのに、いつの間にか、僕はこのメールを読まなくなっていた。そのうち、このメールを削除できる日がくるのかも知れない。いや、緩やかに忘れていって、思い出さなくなるのだろう。

 心が大きく自由になったら、僕の未来はもっと輝くとシノハラは書いていた。シノハラはあの天使だったのかも知れないし、そうじゃなかったのかも知れない。どっちにしろ、僕の未来は明るく輝くのだと予言してくれていたんだ。どこからが未来なのかかわからないが、今日の延長線上に、いつかその日がやってくるんだろう。その時、僕の心が自由でいられたらいいなと思う。

 明日に希望をつないでいこう。眠りにつけば、また明日になる。そうやって一日一日を重ねていくことで、輝く未来がやってくる。大丈夫だ。なんとなかなる。シノハラも必ず目を覚ます。明日に望みをかけながら、僕も眠ることにしよう。



                  エピローグ


  久しぶりの高校は、なんだか以前とは違った場所のように思えた。同級生たちの顔には、やはり、あまり見覚えがない。僕が変わったように、同級生たちにもこの夏それぞれのドラマがあって、色々な経験をして顔つきが変わっているのかも知れない。それとも僕の見方が変わっただけなのかな。一学期とは別人みたいだねと何人かの同級生に言われたが、君だってそうじゃないかと言い返すこともあった。

 なにかクラブ活動でも始めてみようかと思っていた。でも、運動は得意ではないし、これといった趣味のない僕は、どこのクラブに入ったらいいかわからない。放課後、校舎をウロウロしていたら、二年生の教室で軽音楽部のバンドが練習をしていた。シドさんから聞かされたCDは、何かわけのわかないことを叫んでいるだけだったので、バンドってそういうものなのか、と思っていたけれど、随分と違う雰囲気の音楽もあるようだ。 

 練習をながめていたら、興味があると思われたのか、ギターを弾いていた軽音楽の部長だという三年生から声をかけられた。楽器の経験はある?ときかれたので、ベースを運んだことならあると答えたら、妙にウケてしまった。軽音楽部で会計をやってみたいと言ったら、変なやつだなと言われたが、とりあえず入部OKになった。そのうちシドさんからベースを教わって、僕もバンドをやってみるのも面白いかな、なんて考えていた。

 結局、シノハラが目を覚ましたのは、九月五日のことだった。猫にも、天使にも関係なく、そんな日に突然、目を覚ました。ようやく復調したキクリンが泣きながら僕に電話をくれた。目を覚ましても、一ヶ月近くも眠っていたわけで、日常生活に戻ってくるには、それなりの時間がかかるようだ。またしばらく面会謝絶になって、会うことができるようになったのは、それから五日後のことだった。

 その日は高校の帰りに八月分の給料を受け取りに会社に寄るので、シドさんの仕事が終わったら、一緒に病院にいくつもりだった。会社の応接室で待ちながら、事務室で会計ソフトに入力をしているシドさんを見るのはなんだか新鮮で、オカシくて笑ってしまった。シドさんがパソコンを前に事務仕事をやっているイメージがまるでなかったのだ。

「久しぶりにきたと思ったら、なに笑ってんだよ。だいたい、なんでお前はもっと会社にこないんだよ」

「寂しいですか?」

「バカ。寂しいわけないだろ」

 シドさんの表現は実にわかりやすい。

「はい。コレ、八月分のバイト代。お疲れさまでした」

 応接室に入ってきたテリーさんが、そう言って僕に給料の入った封筒を手渡してくれた。

「いくら入っているか知っているんだからな。なんかオゴレよ」

 事務室からシドさんの声だけが聞こえる。

「サルトル君、君に最初に借りた五百円。返すのを忘れていたよ。悪かったね」

 テリーさんは五百円玉を一枚、僕に渡した。僕もすっかり忘れていたな。

「それで、これはささやかな利子だ」

 テリーさんは僕の頭にカウボーイハットをかぶせてくれた。

「これ、商品なんじゃないですか」

 しかも、けっこう値段がはるものだということも在庫管理をしていた僕は知っていた。

「俺の感謝の気持ちだ。これで君もカウボーイだ。大切なものを守るために闘うんだぜ」

 そう言って、テリーさんは僕にサムアップすると、口笛を吹きながら、そのまま自分の部屋へと戻っていった。多くを語らず、というのはカウボーイの美学だな。よくしゃべるテリーさんらしくはないのだけれど、男はそんなカッコもつけたい生き物なのだ。

「いいなあ、サルトル」

 シドさんが事務室から応接室に顔だけ出して羨ましそうに言う。僕は帽子を目深にかぶり、ワイルドに窓の外を眺めながら、僕もカウボーイみたいな男の中の男になれるのだろうかなんて、いつかくる未来のことを考えていた。


 シドさんが仕事を終えた後、僕らは一緒に病院を訪ねた。シドさんは目を覚ましているシノハラと会えることを楽しみにしていたが、僕はものすごく緊張していた。シノハラとどんな顔をして会ったらいいのかわからなかったのだ。キクリンによると、個室の病室に移ったシノハラは、ようやく話ができるぐらいには回復しているらしい。

 そっと病室のドアを開けると、ベットで半身を起こして、こちらを見ているシノハラと目があった。髪の毛は短いままだが、牛模様ではなく、濃い紺色のパジャマを着ている。

「・・・・・・やあ。サトル君、だよね?」

 シノハラは首をかしげながら、僕に聞く。なんだかまだ、ぼーっとしているようだ。

「スゲエ、シノハラさん、生きて動いているよ」とシドさんが叫ぶ。

「もともと、死んでません」とベッドの横に置いた椅子に座っていたキクリンが言い返す。

「ねえ、シノハラさん、アタシのこと覚えてる?」

 シドさんはベッドのすぐ近くまで寄って、シノハラに聞く。シノハラは首を振る。

「そうかあ、残念。ねえ、シノハラさんはずっと猫に入っていたの、どうなの?」

「・・・・・・ああ、キクリンが言ってたみたいに?。眠っている間のことはよく覚えていないんだ。なんだか、すごく長い夢を見ていたみたい」

「天使の夢?」と思わず僕は聞いていた。

「わからない。ただ、夢の中で、誰かがずっと帰ってこいって言っている気がしたんだ」

「それ、キクリンだよ。良かったね、キクリン。夢の中まで声が届いたんだよ」

 シドさんがキクリンに声をかける。キクリンはニッコリと笑ってうなずいた。

「ああ、良かった。あのままシノハラさんの目が覚めなかったらどうしようかと思っていたんだよ。な、サルトル」とシドさんは大げさに喜んで、僕の肩をたたく。

「・・・・・・違うよ。その子はサルトルじゃないよ。サトル君だよ」

 シノハラがシドさんに言う。それを聞いて、キクリンがちょっと困ったような顔をした。

「シノハラさん、まだ記憶がはっきりしないんだ。サルトルの話をしても、覚えていないって言うし、中学生の時のことも忘れているみたいなんだ。もう少ししたら、思い出すとは思うんだけれど・・・・・・」

「・・・・・君は、サトル君だよね」

 シノハラはどこか懐かしそうにじっと僕を見つめて言う。

 僕は黙ったままうなずいた。

 看護師さんが病室に夕食を運んできた。キクリンが食事の準備を手伝う。僕とシドさんは、それじゃあ、ということで、帰ることにした。

 シノハラに背中を向けて病室を出ながら、たぶん、シノハラと顔を合わせるのは、これが最後なんじゃないかなと僕は思っていた。


 病院を出て、僕らは薄暗くなった街路を歩いていく。せっかく給料も出たことだし、駅のそばにあるファミレスでシドさんにご飯をご馳走する約束になっていたのだ。

「なんか、サルトルはシノハラさんに忘れられちゃったみたいだな」

「そうですね」

「元気出せよ。アタシがついているぜ」

「そうですね」

「でも、サトル君って誰のことなんだろうな。誰かとお前を勘違いしているのかな」

「僕がサトルですよ」

「え?サルトルって本名じゃなかったっけ」

「違いますよ。でも、もう、サルトルとはさよならしてもいいのかもな」

 僕はもう、サルトルと呼ばれなくてもいいような気がしていたのだ。

「♪さよならサルトル、またきてシーク」とシドさんが節をつけて言う。

「それ、さよなら三角、またきて四角でしょ。シークってなんですか?」

「シークはブッチャーのタッグパートナーだよ」

「ああ、あの火を吹いていた人か」

「♪シークはコワイ、コワイはブッチャー。ブッチャーはお前で、アタシはテリーね」

 シドさんはこぶしを握って、僕にパンチを浴びせてくる。テリー・ファンク反撃のシーンの再現だ。こんな道の真ん中で急にプロレスごっこなんて始めるんだからな。

「プロレスじゃ、パンチは反則でしょ」

「テリー・ファンクは何をやっても許されるんだよ」

 まったく、シドさんにはかなわないな。なんて、冷静に言っている場合じゃなくて、僕ももっとフザけてもいいんだ。僕はシドさんに必殺技、地獄突きをくらわせようとブッチャーの拳法のポーズをマネしてみた。ヘタクソすぎてシドさんに笑われたけど。


 世の中を悟ったような顔をして自分本位に生きていたサルトルとは、さよならしてもいいみたいだ。

 天才でも鉄クズでもない、ただの高木サトルとして、明日に希望をつないで、今日をイキイキと生きてみよう。みんなに行き先を照らしてもらいながら、いつかくる未来に僕も輝いて、みんなを明るく照らせるように。そんな願いを、小さくてちっぽけな高木サトルに託してもいいと、僕も思えるようになっていた。

 月明かりの下、僕はこの荒野に立つ。首ひもで背中に回しておいたカウボーイハットをかぶり直す。

 さよならサルトル。

 さよならシノハラ。

 僕も、僕の大切にすべきものを守ってみせるさと、精一杯、カッコつけてみようか。

「バカ。帽子の向きが逆だぞ」

 悪魔みたいな僕の天使が、そう言って笑った。

                                   (おしまい)

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