前編
第一章
1
「君、俺に千円、融資してくれないか?」
公園のベンチで、隣に腰かけた知らない中年男性からそんな依頼を受けたとして、素直に言うことを聞いてしまっていいものだろうか。
融資してというのは、お金を貸してくれってことだろ。僕には夏休みでも、カレンダーでは平日。昼休みでもないこんな時間に、普通、会社で働いているはずの大人が公園にいるというだけでも怪しいし、信用できない。
「俺に千円、貸してもらえないだろうか」
意味が通じていないと思ったのか、今度は、わかりやすくそう言う。目を合わせてはいけないと思いながらも、話しかけてくるこの男性を僕はついマジマジと見てしまった。
この暑いのにスーツの上着にベストまで着て、キリっとネクタイを締めた姿は、それなりの企業に勤めている会社員という感じだ。でも、変なところもある。カウボーイがかぶるようなツバの広い大きな帽子はこの炎天下だから仕方ないとしても、ズボンの裾からのぞいている派手な革のブーツと口ヒゲはどうなんだろう。業界っぽい会社だったら、こんなカッコもアリなのかな。この辺は住宅地だし、そんな会社なんて近所にないはずだよな。
「五百円でいい。五百円貸してくれたら・・・・・・そうだな、かわりに君に王国をくれてやる」
そう言って、男性はニヤリと笑う。王国ってなんだろう。変な人だ。やっぱり、ちゃんとした会社で働いている人じゃないのかな。だいたい僕みたいな高校生に大人がお金を借りようとすること自体がマトモじゃない。関わらないことが一番だな。
キッパリ断ろうと思っても、このところの僕の状態ときたら、何か言おうと考え始めただけで言葉が出てこなくなってしまう。夏休みに入ってからは両親以外の人とは口をきいていないものだから、さらに人と話をすることが難しくなっている。
「頼む。財布を会社に忘れてきてしまったんだ。でも、すごくお腹が空いているんだ。そこのコンビニで何か買えるだけのお金でいい。どうか、貸してもらえないだろうか」
ためらっているうちに、男性は帽子をとり、ベンチに額がつきそうなぐらい頭を下げてしまった。オールバックにした髪の毛が整髪料で光っている。高校生に向かってこんなことをする大人がいるなんてビックリしてしまう。どこの会社の人かは知らないが、それなりにステータスがある人がここまでするのは、余程のことなのかも知れない。
本当に困っているのならお金を貸してあげてもいい。僕は冷たい人間ではない。人の気持だって良くわかるのだ。黙ったまま、小銭入れから五百円玉を一枚取り出すと、男性の目の前に差し出した。それを受けとって男性はニッコリと微笑む。すごく嬉しそうだ。なんだか吸い込まれてしまいそうな笑顔だった。
「ありがとう、少年。恩に着る。君は優しい子だな。かならず借りは返す」
男性は背広の内ポケットから取り出した名刺入れから一枚の名刺を抜き出す。そして、裏にボールペンで『金五百円也、確かに借り受けました。』という文と今日の日付を書き、サインをすると僕に渡した。そして、このベンチの正面に見える、公園の入り口の真向かいのコンビニに向かって小走りで駆けだした。
僕はベンチに座ったまま男性を見送ると、借用書代わりにもらった名刺の表面を見た。
『有限会社ワイルドウエスト 代表取締役 テキサスブロンコ テリー照井』
知らない名前の会社だった。住所はここからそう離れていない。なんだ、有限会社ってことは小さな会社か。テキサスブロンコってなんだろう。でも、代表取締役って社長のことだよね。社長の肩書を持った人が、初対面の高校生にお金を借りたりするものかな。テリー照井。ふざけた感じの名前だ。本名じゃないよな。ハーフって感じでもなかったしな。
数分後、男性はコンビニから出てくると、まっすぐこの公園に戻ってきた。手には買物をしたコンビニのビニール袋を持っている。そしてベンチまでくると、また僕の隣に座り、袋からペットボトルのお茶とオニギリを取り出して食べ始めた。
「助かったよ。昨日から何も食べてなかったんだ。わざわざここまできたのに、財布を取りに戻るのもユカイすぎるだろ。君がいてくれて本当に良かったよ」
そう言うと、もぐもぐとオニギリ三個を平らげて、ノドを鳴らしながら、お茶を飲みほす。いい飲みっぷりだ。年は四十ちょっとぐらいかな。同じ中年だけど、僕のお父さんより一回りは若い。そうか、お父さんは中年というよりも、もう初老に近いんだよな。
「煙草、吸ってもいいかな?」
食後、ポケットから携帯灰皿と煙草を取り出して聞くので、僕は首を縦に振る。美味しそうに煙草を吸って、一息ついた様子の男性は、僕にさらに話しかけてきた。
「君のプロファイリングをしようか。こんな天気のいい夏休みの午後に、一人、公園のベンチで簿記のテキストを読んでいる、ということは・・・・・」
僕が持っていた本には書店のカバーがついていたのに、中身までのぞかれていたのか。
「ズバリ、君は商業高校の生徒。おそらく一年生だ」
僕は商業高校の生徒ではないのでハズレ。一年生ということは正解なので首を縦に振る。
「そして、ウッカリさんだ」
「・・・・・・どうして?」
やっと言葉が口から出てきた。どうにも時間がかかる。このところ僕は普通に人と会話ができない。なるべく変なことを口走らないようにと慎重になっていたら、いつの間にか言葉自体が出てこなくなってしまったのだ。用心していたつもりなのに、それでもなにかウッカリをやってしまっていたんだろうか。
「それは日商簿記のテキストだろう。商業高校の生徒が受けるのは全商簿記だ。間違えて買ったんじゃないのかい?」
男性の言ったことに驚いて、カバーを外して本の表紙を見ると『絶対合格テキスト。日商簿記三級』とある。簿記の資格にそんな種類があるなんて知らなかった。あの子から簿記三級の勉強をすると聞いた時も「どうせなら、一級を受けたらいいじゃない」なんて、軽口を叩いたぐらいで、それ以上、詳しく聞いてもいなかったんだっけ。
「それとも、君は一年生なのに、日商簿記にもチャレンジしようという気なのかい?」
男性は興味深そうに聞く。そんなつもりは全然ない。別に簿記の資格をとりたいと思っていたわけでもないんだ。全商と日商の違いも、そもそも、今日、なんで簿記のテキストを買ってしまったのかさえ、自分でも良くわからなかった。僕は首をかしげたが、男性は勝手に合点して話を進める。
「夏休みの挑戦か。いいねえ。チャレンジスピリットのある子だ。君、名前は?」
「・・・・・・」
「個人情報を保護したいなら、匿名でもいいよ」
「・・・・・・サルトル」
僕の本当の名前は高木サトルだ。
サルトルは、あの子が僕のことを呼んでいた名前だ。
「サルトル君か。チャレンジングな哲学者だな。俺のことはテリーと呼んでくれ」
そう言って、テリーさんは握手を求めてきた。
これが僕とテリーさんとの出会いだった。夏休みが始まってから五日目の午後。僕には心の限界が迫っていて、もうすぐ破裂寸前という、そんな状態の時だった。
高校一年生の夏休みは、楽しいものになるはずだった。私立の名門高校に合格できたことで、受験一筋でやってきた僕の中学生時代は最高のフィニッシュで飾られた。有名大学の付属校だから、そのままエスカレーター式に進学できる。好きなことをやって高校生活を満喫して、勉強の方はそこそこの成績がとれればいいと思っていた。高校一年生の夏は夏期講習に明け暮れていたこれまでの夏休みを、全部取り戻すつもりいたのだ。
それなのに、高校で一学期を過ごしただけで、僕はすっかりヤル気を失ってしまっていた。ショックで心はペチャンコになり、明るい気持ちで夏休みを過ごそうなんて気持ちになれなくなっていたのだ。
原因は二つ。一つは、上には上がいることを知ってしまったためだ。学校でそこそこの成績をとるどころか、どう頑張ってもクラスのビリグループから抜け出せない。しかも、できる子たちはみんな涼しい顔をして、いい成績をとる。実力が違い過ぎるんだ。まさか自分が教室でそんなポジションをとらされるなんて思ってもみなかった。いくら優秀な生徒が集まってきているハイレベルな高校だとはいえ、自分の力がその程度だったなんて。
僕は足場をなくして、すっかり不安定な気持ちになってしまっていた。成績がいいこと以外に僕にはとりえがない。スポーツも容姿も平均点で、これといった特技もない。おそらく僕と同じようなショックを抱えながら、趣味に夢中になったり、ファッションに凝ることで、成績以外に価値観を見出そうとしている連中もクラスにはいた。でも、それはなんだか勝負に負けて逃げているみたいで、僕にはみっともないとしか思えなかった。
そしてもう一つの原因は、自分の人間としての本質を根底から否定されるような目に遭ったためだ。そのせいで、僕の口からはなかなか言葉が出てこなくなり、日常生活でも困ったことになっている。部活に参加することもできないし、教室でも次第に黙り込むようになってしまった僕には、親しい友だちもできない。この夏の計画も白紙のままだ。夏休み五日目にして、僕はもう何をしていいのかわからなくなっていた。
あと三十日以上もこの長い休みが続く。去年までは講習や模試で忙しかったのに、今年はなんの予定もない。クーラーが効いた部屋の中で一日中ぐうたらしながらゲームをやっていてもいいはずなんだ。それなのに、焦燥感が募ってきて、じっとしていられない。ダメな自分がここにいることの存在感に耐えられない、というか。そんな感じなんだ。
外に出たところで、暑い中、近所をブラブラと夕方までほっつき歩いて、図書館や公園で暇をつぶすことしかできない。この無力な感じは、小学生の頃の自分に戻ったみたいだ。焦りっぱなしなのになにもできない自分自身がたまらず、僕は破裂しそうになっていた。
こんな行き詰まった状態から脱出するためには、なにか具体的なアクションを起こさなくてはならない。
だから今日、僕はついに、書店に行って簿記のテキストを買ったのだ。
自分が破裂するのを食い止めるには、ここで簿記のテキストを買わなければならなかった。
でも、何故、簿記なのか。その理由が自分でも良くわからないのだ。
そして、公園のベンチで、買ったばかりの簿記のテキストを読みふけっていたら、テリーさんが現れた、というわけだ。なにかアクションを起こすと、それがトリガーになって次のイベントがはじまる。現実もロールプレイングゲームみたいだな。簿記のテキストが引き金になって、変な男性に声をかけられた。ただ、現実にはリスクが生じる。変な人と関われば危険な目に巻き込まれることもあるというのがゲームとは違うところだろう。
テリーさんは煙草を吸い終えると、借りたお金を返したいから会社までついてきてくれと僕に言う。どうも怪しい。そのまま僕を会社に連れていって、監禁して、両親に身代金を要求する気じゃないのかな。これ以上、関わりたくなかったけど、断ろうにも、また言葉が出てこない。前を歩くテリーさんに僕はついていくしかなかった。
午後の熱い日差しにやけついたアスファルトから熱波が押し寄せてくる。道の先がぼんやりと霞んで見える。ちょっと歩いただけで汗が噴き出す。大きな帽子をかぶっているとはいえ、テリーさんはスーツを着込んでいるのに涼しい顔をして汗ひとつかいていない。そして僕に、どこに住んでいるのとか、クラブ活動は何をやっているのとか、色々な質問をぶつけてくる。いくらぐらい身代金が取れそうかと値ぶみしているのだろうか。
僕はハイ、イイエと短い言葉だけで応えながら、テリーさんに導かれるまま、日陰の少ない、うだるような暑さの道路を十分以上も歩いた。やがて住宅街にある古いマンションに僕らは着く。どうやらここにテリーさんの会社があるらしい。ここにくるまでコンビニを一軒も見かけていない。やっぱりテリーさんは、遅い昼ご飯を買いに、あのコンビニまで来ただけなのだろうか。どうにも僕は疑りぶかくなっていた。
警備員がいないどころか、オートロックすらないオープンなロビーを抜けて、マンション内の階段を二階まで登る。二階の長い共用廊下には、ずらりとドアが並んでいた。
「ここが俺の王国だ」
そう言って、テリーさんは、階段をあがったすぐ近くのドアに背中を向けて、親指で指さした。ドアの横のインターフォンのすぐ上には「有限会社ワイルドウエスト」と書かれたプラスティック製の小さな看板がとりつけられていた。こんなマンションの一室でやっている会社か。なんだかいかがわしい感じがするな。どんな仕事をしているんだろう。
テリーさんがドアのノブをひねろうとすると、あらかじめドアが少し開いていた。
「おーい、不用心だよ、中野クーン」
テリーさんは部屋の奥に向かって声をかける。
「あ、スイマセン、テリーさん。さっき、宅配便がきたスよ。そのまま開けッパでした」
そう言いながら、玄関まで出てきたのはオカッパの男性だった。二十代前半だろうか、やせていて、ボーダーのTシャツにジーンズ、首には黄色いバンダナを巻いていた。
「ああ荷物が来たんだ。今日、出せるものあった?」
「名寄せで待っていたのが入ったんで午後便で出しますよ。もう梱包してあります」
「納品書のチェックと売上伝票の処理は?」
「僕がやるんでしたっけ?」
「やるんだよ。何、言ってんの中野クン。決済してキャットの控と売上伝票を一緒に綴じて未処理ボックスの中に入れておいてよ。それと発送メールも忘れずにね」
「納品書はどうやって入力するんでしたっけ?」
「在庫管理システムに納品書の番号と仕入先と金額を入れて登録すればいいんだよ。何度も教えたじゃない」
中野クンと呼ばれた男性は首をかしげている。どうも良くわかっていない様子だ。テリーさんも困ったような表情を浮かべる。そして、おもむろに隣に立っていた僕に聞く。
「そうだ。サルトル君、この夏休み、ウチの会社でアルバイトしてみないかい。ちょうど、事務担当の子がケガで入院してしまって、人手不足で困っていたんだ」
「え・・・・・・でも」
「だって、君、わりと近くに住んでいるし、クラブ活動もやってないって言ってたじゃない。夏休みにも、とくに予定がないんなら、いいと思うんだけれどな」
いつの間にか、僕は色々なことをテリーさんに聞き出されていたんだ。油断できないな。
「お、この子、アルバイトにきてくれるんですか。イイッスね。そうですよ。だいたい僕は事務担当じゃなくてウェブ担当なんスからね」
中野クンが言う。テリーさんは「この子、サルトル君っていうんでヨロシクね」と僕のことを紹介するが、僕の本当の名前さえ知らないはずだよな。よくアルバイトにこないかなんて誘うもんだな。
「サルトル君は商業高校に行っているから簿記もわかるし、会計業務もやってもらえれば、簿記の勉強にもなるから調度いい。実務が一番、勉強になるからね。仕事は梱包出荷や雑用が主になるけど、伝票発行や会計処理も是非、チャレンジして欲しいな」
テリーさんは勝手に話を進めてしまう。僕が本当は何者かも良く知らないくせに、そんなことを託してもいいんだろうか。僕があの高校の生徒だと知っているのなら、それを見込んで信用するというのはわかる。それぐらい僕が通っている高校は有名なんだから。でも、僕のことを、どこかの商業高校の生徒だと思っているのに信用してしまっていいのかな。地方ならともかく、東京の商業高校なんて普通高校よりレベルが下のはずなのに。
「君、どこの学校の子?。この辺の商業だと都立三商?」
中野クンが僕に聞く。そこは、あの子が通っていた商業高校の名前だ。
「・・・・・・ええ、まあ」
誤解されていることを解こうとすると、そもそも僕がなんで簿記のテキストを読んでいたのか、というところから話を始めないとならない。だいたい僕だって、今日、なんであんなものを買ってしまったのかよくわからないのだ。どうしても買わずにいられなかったから買った、なんて説明してもわかってもらえないだろうな。
なんだか良くわからないうちに、明日からこの会社でアルバイトをすることになってしまった。履歴書もいらないという。ただ所定の用紙に必要事項を記入して保護者の印鑑をもらってくれと契約書みたいなのをテリーさんから渡された。労働条件が細かく書かれている。よく読んでみたが、特に怪しいところはなさそうだ。
自分がアルバイトをするなんて、考えてもみなかった。高校一年生だからバイトしたって全然、おかしくはない。もう十六歳なんだ。ただ、家ではお小遣いを充分にもらっているし、バイトをしてまで欲しいものなんて特に思い浮かばない。多分、お父さんにバイトをしたいなんて言っても、欲しいものがあるのなら買ってやると言われるんだろうな。
それでも、不思議なことに、ずっと何かに追いたてられていたような気持が、アルバイトをすることが決まって、少しだけおさまった気がする。それが、だんだんと膨らみ続けていた僕の風船から、ちょっとだけ空気が抜けて、破裂しないですんだ瞬間だった。
僕は、この夏に迎えることになる転機の最初の一歩を踏み出していた。もっとも、この時点では、僕の過去と未来がここでつながることになるなんて考えもしなかったのだ。
2
明日、朝九時に来てくれたら仕事の説明をするからとテリーさんに言われて、とりあえず今日は帰ることになった。この会社の場所なら、僕の家から歩いて十五分もあれば通えそうだ。生まれてはじめての通勤生活のはじまりだ。
テリーさんの会社を出てから、僕はまだ、さっき貸した五百円を返してもらっていないことに気づいた。だが、また明日ここにきて、お金を返してもらえばいいのだと思うとあまり気にならない。監禁されるかもなんて心配をしていたせいで、ホッとしたこともあるけれど、多分、明日の予定が出来たことで、随分と気持が落ち着いてきたのだろう。
太陽がギンギンに照りつけている暑い午後だった。家に帰るにはまだ早い。このまま図書館に行って時間をつぶそうかなと思った。クーラーのきいた図書館で、この簿記のテキストを読んでみるのもいい。一応、ちょっとは簿記がわかっていることになっているんだし、どんなものかぐらいは見ておかないとな。
そんなことを考えながら、図書館の方角に向い、川を覆って作られた遊歩道を歩いていると、向こうから歩いてきた中学の時の同級生とばったりと顔を合わせることになった。
「よお」そう言いながら、そいつは片手をあげる。
「・・・・・・おう」
僕もそう応える。中学の時の同級生に会うのは久しぶりだ。僕と同じ高校に同じ中学から一緒に入学した子はいない。あの高校に合格した生徒が出たのは、うちの中学では何年かぶりという話で、教頭先生がすごく喜んでくれたんだっけ。学年でいつもトップにいた僕は、中学を卒業するまでは学校の期待の星だったのだ。それが、今では星クズの方だ。いや、ただのクズだ。あの高校の中では、僕はいてもいなくてもいい存在なんだ。
僕が応えたのを見て、ニッコリと笑い返してきたのは菊地陽一だ。できれば一生、顔を見たくないと思っていたヤツだった。
菊地陽一は同級生からキクリンと呼ばれていた。手先が器用で、音楽や美術や技術が得意科目だった。学校新聞や文集にイラストを書いたり、合唱コンクールでピアノの伴奏をしたり、作文が上手くて、読書感想文コンクールでも賞をもらって、全校朝礼で表彰されていたこともある。そんなことで内申点を稼ごうとしていたんだろうな。
でも、勉強の成績はそんなには良くない。都立のあまりレベルの高くない普通高校に進学したと思う。本当なら、すぐに忘れてしまっているようなサエない同級生の一人だった。
でも、そんな、サエないキクリンに、僕はあの子をとられたのだ。
いや正確には、僕の前からあの子がいなくなって、その後、キクリンとつきあっていることを知ったのだ。だから、僕がキクリンに負けたというわけではないと思う。
「あれ、サルトルの家、こっちの方だっけ?」
親しげに話しかけてくるキクリンの言葉に僕はドキッとする。僕のことをサルトルと呼んでいたのは、あの子だけだ。中学生の時、キクリンは僕のことを名字の高木で呼んでいた。あの子が僕のことを話すときにサルトルと呼んでいたのだろうか。キクリンは、あの子から僕の話を聞いているんだな。僕のことなんて話題にするなよな・・・・・・。
「・・・・・・ああ、僕の家は、こっちの、方だ・・・・・・」
色々な感情が心の中に渦巻いて、うまくしゃべることができず、冷や汗も出てくる。。
「どうしたの。なんか顔色が悪いよ。日射病じゃないの?」
「・・・・・・ああ、そうかも、知れないな」
とぼけるように僕は答える。キクリンが、ふいに真剣な表情で僕のことを見つめる。
「・・・・・シノハラさんのこと、悪かったな」
キクリンはいきなりそんな直球を投げてくる。
シノハラというのが、あの子の名字だ。
できれば思い出したくなくて、僕は自分の頭の中でさえその名前を伏せていたのだ。
「・・・・・・だ、大丈夫だ。問題ない。平気だから。ぼ、僕のことは気にするな」
動揺している。僕の言葉を聞いて、キクリンはしばらく押し黙った後、また言葉を発したが、なんとなく、半笑いを浮かべているような気がした。僕の気にしすぎだろうか。
「俺さ、サルトルに、ちゃんとシノハラさんのことを話したいと思っていたんだよ」
キクリンがそんなことを言う。一体、何の話をする気だ。どういうつもりなんだ。
「・・・・・・大丈夫だから。僕のことは、平気だから、まったく気にするな」
そんな話なんて、絶対に聞きたくない。僕は手をふりながら、キクリンの横をすり抜けて、そのまま歩き出した。大丈夫、心配するな、僕のことは放っておいてくれ。
シノハラのことなんて、もう一生、思い出したくない。
シノハラに関わる一切の記憶を消してしまいたい。
なのに、今日、僕は簿記のテキストを買ってしまった。退屈だったからか。いや、それならマンガでも買えばいい。簿記といえばシノハラだし、シノハラが簿記をやっていたから、僕も簿記のテキストを買ってしまったのだ。僕は自分の行動の説明のつかなさに困っていた。
「簿記なんてたいしたことないよ。高校生でも普通にとれる資格じゃないか」
たしか、そんなことをシノハラに言った記憶がある。
「僕が今、高校でやっていることのレベルは超高いんだ。簿記なんて商業の子でも、あたりまえに受かる資格だろ。私たち二人とも大変だよね、なんて一緒にしないでくれよ」
なんの悪気もなく、僕はシノハラに言っていた。本当にそう思っていたからだ。
高校に入って一カ月ぐらいの、成績が上がらなくて、ちょっと焦りはじめていた頃だった。
「サルトルくんは凄いよね。私なんて、全然、かなわないよ」
僕がちょっと不機嫌そうにしていると、シノハラはいつもそう言って僕の機嫌をとろうとしていた。ずっとそうだった。なにかと僕をほめ続けていてくれていたんだ。
それなのに、あの日から、シノハラは僕にてのひらを返した。メールの返信もこないし、なんの連絡もよこさなくなった。そして、突然、僕とはもうつきあえない、という最後通告がきた。さすがに僕も戸惑った。僕はなにかシノハラにひどいことでもしたんだろうか。本当のことが知りたくて、学校から帰るシノハラを待ち伏せして問いただした。
あの明るくて元気だったシノハラが困ったような顔でうつむいたまま、「何を言ってもしかたないから」と言う。なんだか憐れむような目で僕を見る。シノハラは一体、どうしたんだろう。少し時間をおいた方がいいのかと思い、しばらく放っておくことにした。
シノハラから絵文字ひとつないメールが僕のケータイに来たのは、それから何日か経ってからだった。僕は毎晩、ベッドの上で、最後にもらったそのメールを読み返している。
『 サルトル君へ
僕のどこがいけないんだ、と聞かれたので、やっぱりこれを書くことにしました。
手加減せずに書くから、ちゃんと読んで、考えて欲しい。君は私の言うことを、いつも話し半分にしか聞いてくれなかった。だから最後ぐらいは、しっかりと聞いて欲しいんだ。
あのね、よく知りもしないことを知っているかのように話すのはいけないことだと思うよ。自分がやったこともないことを、君はさも簡単みたいに言うよね。頭のいい君なら、実際にやってみてもそう思うかも知れない。それでも、隣で一所懸命にやっている人への気づかいは必要だと思うよ。人のことを簡単にダメだと言ってしまうのは、ダメだよ。
君のいつもの「どうせ、ああいう連中は」って口ぐせを聞くたびに、私はすごく傷ついていたんだと思う。君はどうしてそんなふうに人のことを簡単に判断してしまえるんだろう。私がそう言われているんじゃないとしても、君の尊大さや傲慢さに怖気づいてしまって、近くにいるだけで、心が切れてしまいそうな気持ちになってしまうんだ。
たしかに君は立派だと思うよ。中学生の時にものすごく勉強をして、誰もがうらやむような有名な高校に入学することができたんだから。このまま大学に進学して、卒業して、立派なエリートさんになるんでしょう。君の未来は明るいね。
でもね、エリートさんじゃなくたって、立派に生きている人は沢山いるんだよ。
世の中なんてこんなものだって、悟ったつもりのサルトル君。君は大切なことをわかっていないんだよ。君は、道で見かけた、すごく体が不自由な人のことを「ああいう人って、世の中に必要なのかな」って言っていたよね。あの時、私は黙っていたけれど、今は、はっきり言う。
君は心がすごく不自由な人だ。君みたいな考え方の人も世の中には居ていいのかも知れないけれど、そういう人のそばにいると、私の心は弱いので、傷ついてしまう。
こんなことを言ったら、君のことだから、私とはつきあっていられないだろうね。多分、許してくれないよね。私はだんだんと自分が君を、そんなふうに考えていることに気がついてしまった。それを自分で認めたら、もう君のそばにはいられないと思ってた。
それでも、私は君のことを嫌いじゃないんだよ。このメールも、君にわかってもらいたいから書いたんだ。サルトル君の心がもっと大きく自由になれたら、未来も、君自身だって、もっと明るく輝くと思うよ。だから、もっともっと考えてみて欲しいんだ。
シノハラ 』
シノハラに言い返したいことは山ほどある。なによりも許せないのは「君のために言ってあげている」という態度だ。シノハラからの最後のメールを何百回読み返しても、そのたびに怒りがこみあげてくる。これじゃあ、僕がすごくイヤな人間みたいじゃないか。
シノハラは黙って僕の話を聞いていてくれていた。サルトル君はスゴイよね。さすがだよ。いつもそう言っていた。ずっと僕の話に感心しているのだと思っていた。そんななんの気なしに僕が言ったことをシノハラが気に留めているなんて思ってもいなかった。
そりゃあ、誰かのことをダメだとか、必要ないよなんて、ウッカリ言ってしまったこともあるかも知れない。でも、別にシノハラのことを言ったわけじゃない。なんでそれでシノハラが怒るのだろう。僕だって、愚痴をこぼすこともあるし、人を切り捨てるようなことを言うかもしれない。でも、そんなのは誰でも思っていることじゃないか。。
いくら僕が勉強を教えてやっても、全然、成績が上がらなかった、あのシノハラが「尊大」や「傲慢」なんて難しい言葉を知っていただけでも驚きだが、そんな言葉を使って僕を否定してくることにはもっと驚いた。この手紙をもらってから、僕は普通にものを話すことができなくなってしまった。前は何も考えずに、ごく自然に言葉を口にできたのに、今は、ためらってしまう。
何をしゃべっても、どこかでシノハラからダメ出しされてしまいそうな気がして、僕の口からは言葉が出てこなくなってしまったんだ。
僕は自分のことを真面目な人間だと思っている。人にもそれなりに親切にしてきたと思うし、友だちに面と向かって悪口を言ったことはない。校則だって破ったことがないし、人に迷惑をかけたこともない。それなのに僕はシノハラから見るとダメな人間なのか。
シノハラは、突然、頭がオカシクなってしまったのかも知れない。シノハラにはそんなところがある。いつもはボンヤリしているくせに、いきなり変なことをやりはじめる。ノラ猫同士のケンカを止めようとして腕を七針も縫う大ケガをしたり、信号無視をした子どもを大声で叱りつけて、その子の親に怒鳴られたりしたこともあった。
シノハラは僕を尊敬のまなざしで見てくれた。天才だって言ってくれた。
それなのに、最後に会った日のシノハラは、憐れむような目で僕を見ていた。
どんなふうに見られたって、僕は変わるわけじゃない。僕は僕のままだ。でも、気持ちは強くなったり、弱くなったりする。今、僕は高校生活で自信を喪失して、ペチャンコになってしまっている。こんな時にこそシノハラがそばで励ましてくれたらと思う。それなのに、シノハラときたら。
こうやって、ひとりでずっと考えていても正解は出てこない。なのに考えてしまう。
自分でやったことがないことを、僕が簡単だなんていうからシノハラは怒ってしまった。
でも、僕が高校でやっていることのレベルに比べれば、簿記なんてきっと簡単なはずだ。それは間違いない。簡単なものを簡単だと言ってどこが悪い。それが事実じゃないか。嘘じゃない。それが納得いかないのだったら、簡単だってことを証明してやろう。
僕は簿記を勉強する。シノハラよりもレベルの高い簿記だ。実務をやれば簿記の勉強になるとテリーさんも言っていた。この夏はアルバイトをしながら、簿記をマスターしてやる。そして、資格をとる。シノハラが全商なら僕は日商だ。同じ三級でも全商より日商の方が難しいらしい。合格したら、シノハラはまた尊敬のまなざしを僕に向けるはずだ。僕が簿記のテキストを買ったのは、そういう未来を予感したからかも知れない。
全然関係ないようなこと同士がつながっていて、すべてが必要なことだったんだと、後になってようやく気づくことがある。胸が潰れそうな悲しみや痛みさえ、次のステップを昇るためには必要なことだったのだと、僕はやがて思い知ることになるのだ。
3
ドアをドンドンと叩く音がする。
「サトル君、起きて、朝だよ。七時だよ」
お母さんの声がする。昨日、夜遅くまで、簿記のテキストを読んでいたものだから、起きるのが辛い。クーラーをつけっぱなしにして寝ていたせいで身体も冷えている。
「七時に起きるんでしょ。起こしてって、言ってたじゃない」
ウルサイな。もう目はとっくに覚めている。ベッドの中で、もうちょっとグダグダしていたかっただけだ。僕は身体を起こすと、枕元に広げたままだった簿記のテキストを閉じてカバンに詰め込んだ。読んでいるうちにいつの間にか眠っていたみたいだ。でも、まあ、昨日一日で簿記というもののだいたいのアウトラインはつかめたような気がした。
大学受験の心配のない今の学校に通っていても、参考書を使って勉強はしている。でも、高校受験を目指していた中学生の頃のような緊迫感がないのだ。よほどのことがないかぎり、そのまま大学に上がれるという安心感のせいかも知れない。だから成績が伸びないのだろうか。受検生の頃の集中力が、高校生になってからの僕にはなくなっていた。
でもこの簿記のテキストを読んでみて、久しぶりに手ごたえを感じた。
読める。内容がどんどん頭に入ってくる。資格試験への合格という、はっきりとした目的があることが、僕の力を目覚めさせたのかも知れない。このテキストを選んだのも「合格」の文字が書かれていたからだ。
僕の好きな言葉、それは「合格」だ。あの死にものぐるいの集中力を発揮できる瞬間が、また僕にくるのかも知れない。くすぶっていた頭脳が息を吹き返しはじめる予感を僕は感じていた。
「サトル君、どうしたの、起きてるの?」
わかっているって。僕は部屋のドアを開けた。廊下にいたお母さんと目が合う。
「・・・・・・もう、起きてるよ」
ボソボソと僕はつぶやく。お母さんは、僕の姿を上から下まで見て言う。
「もーう。寝る時は、ちゃんとパジャマに着替えなさいよ」
簿記のテキストを読みながら寝てしまったから、部屋着のままだったのだ。お母さんはこういうことばかり口うるさい。そこはママと一緒だった。女の人はたいていそうなのかも知れない。あれやこれや小言ばかりだ。そういえば、シノハラも良く僕にそういうことを言ってたな。勉強しすぎで、あまり眠っていなくて怒られたこともあったっけ。
「朝食、お父さん待っているから、早くきてね」とお母さんは言い、階段を降りていく。
そうだ。お父さんにアルバイトをするのを説明しておかないとならなかったんだ。昨日の夜、遅く帰ってきたお父さんは、なんだか不機嫌そうだったので、話をすることがためらわれた。いつものように、まずは反対されると思っていたので気後れしていたんだ。でも、今日は保護者印を契約書にもらって、会社に持って行かなくてはならない。自分で押してもいいけれど、僕はゴマカシが嫌いだ。僕は嘘がつけない真っ直ぐな人間なんだ。
お母さんはお父さんが待っていると言っていたが、リビングのテーブルでは、お父さんはもう朝食を食べ終えて、経済新聞を広げて目を通していた。お父さんが食べないで待っていてくれることなんてないもんな。お父さんは食べるのが速い。それは会社員として必要なスキルのひとつなんだと言っている。家族で外に食事に行っても、父さんは真っ先に食べ終えて、一人でイライラしていることが多い。
僕はお母さんが用意してくれた朝食のトーストを食べながら、お父さんにアルバイトをしたいという話をした。さすがに、公園で知らないオジサンにお金を貸してくれと声をかけられて、という出だしのところは話が複雑になるので省略した。テリーさんからもらった契約書を見せると、お父さんは老眼鏡を取り出して、その紙を読み始めた。
案の上、お父さんは僕のアルバイトに反対した。お金が必要なら、お小遣いをもっとくれるというのだ。説明に困ってしまった僕は「簿記の資格試験の勉強になると思うんだよ」と、テリーさんの受け売りを言ってしまう。
「簿記の資格なんてとってどうする。将来、公認会計士とか税理士にでもなりたいのか?」
お父さんは、コーヒーを飲みながら僕に言う。
「簿記の資格をとると会計士とか税理士になれるの?」
簿記とそんな仕事がつながっているとは思わなかった。公認会計士や税理士ならステータスがある。大企業に勤めていなくても世の中でリスペクトしてもらえる職業だ。
「税理士はたしか簿記一級が受験資格のはずだが、大学の商学部や経済学部を卒業していたら免除される程度のものだ。まあ、やつらの知識としては必要なんだろうけどな」
「じゃあ、将来のためにも勉強しておいた方がいいんだよね」
なんてことを言ってみたが、将来、何になりたいかなんてまだ決まってはいない。大学を卒業して、漠然とどこかの会社の社員になるんだろうなと思っているぐらいだ。それが大企業で、名前が知られていて、給料が良ければいい。
「別にお前は今の高校からそのまま大学に進めば、立派な学歴が手に入るだろ。今からそこまでやることはない」
「お父さん、今の時代、有名大学を出ているだけじゃダメなんじゃないかな。プラスして資格があれば、もっと就職が有利になると思うんだよ」
とりあえず説得するために資格の必要性を訴えてみたけれど、なんだかお父さんは不機嫌になってしまう。
「いや、どこの学校を出ているかということだけで、会社って場所じゃコースが決まってくるんだ。オレはそれで随分と損をしたんだ」
マズイな。お父さんの地雷を踏んでしまったみたいだ。話がシフトしている。
お父さんは従業員が一万人を超える大企業に勤めているが、私立の中堅大学しか出ていない。そのせいで、出世コースに乗り遅れたのだと言う。定年まで十年もないのに係長のままだ。同期や後輩が出世して、部長や取締役のような重要なポジションにまで出世していることも悔しいらしい。
「大きな会社の仕事なんて、誰が何をやってもそう変わるもんじゃない。大企業というのはそういう組織だ。個性的に仕事をやろうなんて人間は嫌われる。やれ業務革新だ、イノベーションだ、新しいソリューションだなんて建前では言うが、ちゃんと引き継げる仕事でなければ組織としては意味がない。会社っていうのはな、サトル。仕事の能力よりも、ナチュラルなブランド力がある人間の方がポジションを引き寄せるんだ」
お父さんが経験から得た教訓だと僕にいつも言っていることだ。人間としてのブランド力をあげるために、なるべく良い学校を出ておけ、というのがお父さんの持論だ。どんなときも人間を守ってくれるのはステータスなんだと言って譲らない。
「じゃあ、簿記なんかできても意味なんてないのかな」
「事務屋としては悪くないだろう。でもまあ、簿記の資格なんて一級まで持っている派遣社員がゴロゴロいるからな。そういう連中でも、なかなか正社員になれないのが今の時代だ。それに経理や会計なんて、結局は営業や開発部門に食わしてもらっているだけだ。お前は事務屋じゃなくて、ちゃんとした大企業の管理職になることが将来の目標なんだから、そこを勘違いするなよ」
そうか、それが僕の将来の目標だったのか。大企業でちゃんとした管理職になること。でも、同じぐらいの有名大学を出た優秀な人間同士で、今度は競争になるんだよな。今、僕が高校のビリグループにいるみたいに、やっぱり何かを持っていないと、その中で輝くことはできないんじゃないんだろうか。
「簿記だったら、私が教えてあげようか」
横で話を聞いていたお母さんが言う。いつものことながら、お母さんは空気を読まずに、能天気なことばかりを言い出す。三十五歳にもなるのに、若い女の子みたいなんだ。
「ほら、私、会社で財務にいたから、ちょっと勉強しているんだよ。資格は持っていないけど、実務はやっていたからさ」
「財務って言ったって、お前のは支払窓口だろ。ただの金勘定じゃないか。お前みたいなのがサトルに教えられるはずがないんだ」
お父さんがお母さんをたしなめる。本当は「お前みたいな、大学にも行かずに高卒で就職した人間が、優秀な学校に通っているサトルに教えられるはずがない」と父さんは言いたいところなんだろう。これが、気づかい、というものなんだろうな。
たしかに僕にはこれが足りなかったのかも知れない。僕は真っ直ぐすぎて、嘘がつけないし、なんでもストレートに言ってしまうのだ。自分がどんなにできたって、それを当たり前のように言ってはいけない。シノハラに言われたことへの反省なら僕にだってちょっとはあるのだ。
「支払窓口だって、伝票起票もしてたし、仕訳ぐらいはやってたのにな・・・・・・」
お母さんはブツブツ言いながら、テーブルの上の食器を片づけてキッチンに運んでいく。そろそろお父さんは出かける時刻だ。僕はお父さんをどう説得していいか、だんだんとわからなくなってきた。ところが、僕のそんな気持ちを察してくれたのか、お父さんは急に態度を軟化させた。
「だが、まあ、そんなに変な会社でもないようだな」
もう一度、契約書に目を通しながら、お父さんは言う。
「どうしてそう思うの?」
「法定通りに労働条件が明示してある。就業時間や作業内容も、必要事項は全部、書いてある。向こうにとって不利なことも書いてあるのが良心的だ。会社としてはあたり前のことだが、小さな会社のわりにはちゃんとコンプライアンスができているところのようだな」
会社員生活の長いお父さんから見ても、その契約書はしっかりしたもののようだった。ますますテリーさんがわからなくなってきた。その方が安心ではあるのだけれど意外だ。
お父さんは立ち上がり、ペンと印鑑を持ってくると保護者欄に署名と押印をしてくれた。
「まあ、これも経験だな。将来、なにかの形でメリットがあるかも知れない。ベンチャー企業みたいだが、こういう会社も見ておいた方が大きな会社のありがたさがわかるだろう」
そして、僕にその契約書を返してくれた。頭ごなしに否定しておいても、最後にはちゃんと懐の広いところを見せてくれる。僕がお父さんを好きなところだった。
行ってくる、と言って、お父さんは背広の上着を着た。どんなに暑くても、クールビズなんていう、いい加減なカッコをしないのがお父さんの会社員としてのポリシーだ。テリーさんをなんとなく信用してしまったのも、あの暑い中で、キッチリと背広を着ていたからかも知れない。お父さんと同じ会社員魂を感じたのかな。
「もっと涼しいカッコをしたらいいのに。もう年なんだから」
お父さんを玄関まで見送ってリビングに戻ってきたお母さんは、呆れたように言う。お母さんは、良くわかっていなと思う。女の人というのは、みんなそうなんだろうか。シノハラとお母さんはけっこう似たところがあると思っていた。悪い意味でだけど。
「じゃあ、サトル君もアルバイト、頑張ってね。お母さんも高校一年生の時、はじめてファストフードでレジのアルバイトをしたんだよ。絶対、将来、役に立つから、頑張るんだよ」
お母さんは僕に向かってそう言って、お昼のお弁当を渡してくれた。レジのアルバイトをしていたお母さんは、会社に入って財務部の支払窓口になった。社員にお金を払い出したり、取引先に支払いをする仕事だそうだ。結局、就職してもお金を数えるだけの仕事なのだ。笑ってはいけないが、お母さんらしいスケールの小さな話だ。
お母さんは、その窓口の仕事が縁で知り合った、取引先の会社に勤めていたお父さんと結婚することになった。お母さんは入社して十年目。ママが出ていってから、お父さんは、僕を一人で育ててくれていた。僕はまだ、お父さんのことをパパと呼んでいた頃だった。
お父さんが順調に出世できなかったのは、働き盛りの時に会社を休んだり、残業ができなかったり、仕事よりも僕のことを優先にしなければならなかったからかも知れない。お母さんがうちに来てくれて、ようやくお父さんも仕事に専念できるようになった。
二十歳近くも年の差があって、しかも子連れの男と再婚ということで、お母さんは随分と周囲から反対されたらしい。それでも最終的にお父さんと結婚できたのは、やっぱりお父さんが、ちゃんとした大企業の会社員だったから、みんなが認めてくれたんだろうな。
僕はこの年頃としては、父親のことを尊敬している方だと思う。お父さんの良さはなかなか人に伝わりにくい。気難しいところがあって、とっつきにくいところがある。あまり友だちもいないし、会社の人たちが家に遊びにきたこともない。それでも、僕はシノハラが僕を裏切ったみたいに、お父さんに尊敬のまなざしを向けなくなることはないだろう。
少し早めに家を出て、会社に向って歩きながら、昨日、簿記のテキストを読んで、自分の頭で理解したことを順番に思い出して復習してみることにした。これは僕の受験生時代のテクニックの一つだ。これで理解が深まる。朝だというのに、今日も日差しが強くて参るが、集中して頭を動かしていれば、十五分の道のりなんてあっと言う間のはずだ。
まず、簿記というのは、帳簿を記入することだ。だから「簿記」なんだな。記入するのは会社のお金の動きだ。お小遣い帳をつけるみたいに、いくらもらって、いくら払ったか、毎日の記録を積み重ねていく。この時、ひとつのお金の動きを、ふたつに分解して記録するのが複式簿記というスタイルだ。
ただお金が入った、ということだけではなく、「どういったことで」「何がどうした」をそれぞれ、左右に分けて記入する。こうした記入するモノの名称を「勘定科目」と言う。例えば、お父さんから千円もらったとする。右側の借方と言われる方に「現金」千円と書く。左側の貸方と言われる方に「お小遣い」千円と書く。現金を何かに使えば、現金は減っていくけれど、千円、お小遣いをもらった、という事実は、そのまま記録に残される。
お金を使った時には、やっぱり「どういったことで」使ったかを書く。例えば、百円のノートを一冊買ったら、左の借方に、「ノート」百円、そして、右の貸方に「現金」百円と書く。入ってきたものは左、出ていったものは右。この左右を間違えると大変なことになる。このひとつの出来事を、左右に振り分けることを「仕訳」というそうだ。
簿記は、この仕訳を毎日の商売の中で、何百回と繰り返しながら、月末に同じ、その「どういったことで」同士をまとめあげる。つまり勘定科目ごとに集計するわけだ。それで、最終的に、何にお金を使って、お金や買ったモノがどれぐらい残っていて、いくら儲かったかが、一目でわかるような表になるというシステムなのだ。
お金やモノだけならわかりやすいが、売掛金や買掛金という実体のわからないものも登場する。これがまだイメージがつかめていない。モノを取引先に売って、相手がお金を払ってくれていない状態、つまりツケで売った場合、売掛という状態になる。逆にモノを買って、払っていない状態が買掛だ。この場合、お金は動かない。
またモノではなく、費用とか収益というような考え方も出てくる。モノそのものではなく、モノを買った、という事実を記録するのだ。つまり、帳簿に記録されるのは、ノートというモノが手に入った、ということではなく、「文具費という費用」が発生したことになる。
このあたり、考え方の問題なので、けっこう難しい。資産と負債、費用と収益。勘定科目ごとの属性があって、これも仕訳で、どちらを左右に振り分けるかが重要なようだ。
この仕訳は、練習問題を沢山こなせばマスターできそうだ。過去問なんかで仕訳千本ノックをやってみよう。基本的には、ひとつの取引を、左右に分けて記入するだけだから、パターンを覚えればなんとかなる。後は、年度の最後に決算という時がくるので、締めきったそれぞれの勘定科目の集計をして財務諸表を作れば、それで完了する。
同じ数字を使うものでも、今、高校でやっている数学や物理に比べたら、簿記は全然、単純だ。
減価償却というので率の計算が出てくるものもあったけれど、ほとんど、足し算、引き算で用は足りてしまう。調べたところ、日商の簿記試験は、年齢も関係なく誰でも受けられるというのだ。小学生でも受ける子がいてもおかしくはないんだ。
簿記資格は、試験で問題の七割以上に正解していたら、誰でも合格できるという。受験した人間の半分程度は受かるらしい。一発合格はもらったな。厳しい競争を勝ち抜いて今の高校に入ったことを考えれば、なんてことはない。ただし、簿記三級の次の試験日は、今年の十一月の終わり頃だ。四カ月以上もある。勉強するのに少しは時間が欲しいけれど、あまり先すぎるとペース配分が難しい。それなりに手ごたえがあったらいいんだけれどな。
そうだ、夏休みが明けて学校に行ったら、どこかの部活に入って、会計を担当してみようか。別になにをやっている部活でもいい。お金が沢山、動いて、帳簿をつけられるのならそれでいい。僕が夏休みに習得した帳簿つけを見せてやれば、みんな目をみはるだろう。それで来年は二年生がやることになっている、生徒会執行部の会計担当になればいい。
簿記の資格を持っていると大学推薦入試の時にメリットがあるということも知ったが、うちの高校じゃ、そんな必要はないから、誰も簿記資格なんてとらないだろうな。僕はテキストで勉強しただけじゃない、実社会仕込みの簿記をマスターする。意外なことができる男だって、クラスの連中に見せつけてやることができる。また、きっと尊敬のまなざしで見てもらえるようになるのだ。しかも、あの高校でなんだ。
僕の心の風船は、また少し、膨らみはじめていた。焦りや不安ではなく、希望で膨らんでいるのだ。目の前にやることが見つかった僕は、ようやく自信回復への手がかりをつかんで、大いにほくそ笑んだ。でも、気をつけよう。風船はちょっと手を放しただけで飛んで行ってしまうものだ。そんな危うさも知っている僕は、うかつにそんな希望を信じないようにと気持を引き締めた。
第二章
4
『やあ、シノハラ。
この夏、僕はアルバイトに明け暮れている。去年までは夏期講習に追われていたけれど、今年は自由時間がたっぷりあるから、高校でできた新しい友だちと海や山にでかけようかなんて計画もしていたんだ。でもね、いくら受験から解放されたからといって、遊んでばかりいるのもどうだろう。こんな時だからこそ、社会の勉強をするべきじゃないかって僕は思ったんだ。
今、僕は毎朝九時にアルバイト先の会社に出勤して、一日中仕事をしている。もう半月になる。事務処理担当で会社の会計処理もまかされているんだ。基礎教養として簿記の勉強もしてみた。まあ、ちょっとわかりにくいところもあったけれど、三日もあれば理解できたよ。
でもね、実際のビジネスを経験した僕から言わせてもらえば、テキストで簿記を勉強することと、実社会で仕事をしてみることは、全然、違うんだ。テキストの上で架空の取引をするのではなく、現実に、出たり入ったりするお金で会計処理をするというのではリアリティが違っている。というか、これがリアルなんだな。つまり、僕は簿記をしっかり体感しているんだよ。
現実のビジネスは簿記のテキストみたいに古臭くない。僕が勤めているのはウェブサイトでショップを運営している会社だ。クレジットカードの支払いやポイント精算なんて、簿記じゃ出てこないだろ。アフィリエイトみたいな普通の売り買いじゃないビジネススキームだってある。銀行の入出金処理だってネットバンキング経由で、手形や小切手なんてもらうことはない。海外取引だってあるんだ。現実のビジネスというのはそういうものだ。だいたい検定でやる簿記なんて、未だに伝票処理だろ。今の会社は会計ソフトを使うのが当たり前なんだから、ちょっとは考えた方がいいよね。
まだまだ小さなベンチャービジネスだけれど、社長はこの会社をもっと大きくしたいと言っている野心家だ。そんな社長にスカウトされて、僕はここで働くことになったんだ。まあ、面白い経験をさせてもらっているし、感謝はしているかな。将来、僕は大学を出て大きな企業に就職するつもりだけれど、こういう小さな場所でのビジネスの経験もきっと役に立つと思うんだ。もし僕が大企業に入ったら、この会社にも何か仕事をやらせてあげるつもりだ。それが僕なりの恩返しになるんじゃないかな。・・・・・・』
と、ここまでメールを書いてみて、言葉に詰まってしまった。
遠回りばかりしていて、なかなか言いたいことにまでたどり着けない。僕は別にシノハラに近況報告をしたいわけじゃない。シノハラがくれたあの最後のメールはなにかの間違いだったんじゃないのか、と問い質したいただけなのだ。それなのに、なかなかスムーズにその話題に移れない。
落ち着いて、もう一度、自分の書いたメールを点検してみよう。核心に触れる以前に、ちゃんと僕の人間性と誠意が伝わる文章になっていることが大切だ。
まず、高校の友だちと遊びにいく計画の話は、嘘だ。高校にはそこまで親しい友だちはいない。かといって、そんなことを正直に書いたんじゃ、僕の評価を落とすよな。高校でボッチだなんてシノハラには思われたくない。このぐらいの強がりは許されるんじゃないかな。アルバイトだって、なりゆきで始めることになっただけで、社会の勉強をしたいなんて考えたわけじゃない。でも、ポーズをつけてこその人間だろ。
簿記のことも、仕事のことも、大げさに言って自分を大きく見せようとしているな。これも僕の悪いクセだ。だいたい自分の話だけで、シノハラのことについては一言も触れていない。これがマズイんだろうな。この「簿記の勉強をしてみた」の前に「シノハラを見習って」を入れてみるか。さりげなく持ち上げているし、気を使っている感じだよね。
そうだ、こういう時は「ところで」を上手く使えば、話題を変えられるんだった。ところで、シノハラがくれたあのメールだけれど、あれって、すごくキツイ冗談だったよね。すっかりだまされちゃったよ。なんて、フランクに話を振ってみたらいいんじゃないかな。案外、シノハラも、そうそう、あれは冗談だったんだよって返事を・・・・・・。
僕は一体、何がしたいんだ?。こんなメールを書いてシノハラの気でも引きたいのか。それで一体どうなるっていうんだ。ダメ。こんなのボツ。即刻、削除。デリート実行。
毎晩、僕はシノハラへのメールを何度となく書いては消していた。何を未練がましく考えているんだろう。シノハラはもう僕の目の前から消えた人間だ。僕の良さがわからないロクデナシだ。もう用はない。キクリンあたりとつきあっているのがお似合いなんだ。
ただ、悔しさはある。僕の人間としての本質をシノハラに誤解されたままというのが納得できない。なんとしても見返してやりたい。それには、シノハラがいなくても、僕はすごく楽しい毎日を送っているところを見せつけてやらないとな。たしかにアルバイトを始めてからのこの半月間というもの、あの落ち込んでいた状態から考えたら、僕は随分と立ち直ってきていたんだ。
「はじめに言っておこう。会計処理とはスピリットだ。原理原則オンリーではないんだ」
アルバイトで出社した初日の朝。テリーさんから言われたのはそんな言葉だった。応接室のソファに僕を座らせたテリーさんは、会社という場所で働く上で考えておくべき基本を押えておくからと言って、大きなホワイトボードの前に立って話しはじめた。マジックでホワイトボードに大きく、スピリットと書いて丸で囲む。
「経理、会計、財務とか会社によって呼び方は色々だし、機能も分かれている場合があるから、まとめて経理部門としておこうか。要はお金の動きを捉えている部門のことだ。大きい会社になればなるほど業務は細分化する。販売や仕入の計算処理は別部門になる。純粋な経理部門の仕事はキャッシュフロー含めた現物の管理、損益を計算して財務諸表を作り、税務計算を行い、経営層の意思決定を補佐することだ。しかし、ここで一番、重要なのは経理部門の会計処理を見つめるスピリットだ」
テキストに書いてあった言葉もあれば、初めて聞く言葉もある。漠然としか意味がわからない。何故、こんなところでスピリットが必要なんだろう。テリーさんが言っていることは抽象的で理解するのが難しい。僕はさっそく社会の壁にぶつかったような気がした。
続いてテリーさんはホワイトボードに大きなTの字を描いた。これは仕訳のマークだな。
「君は簿記というツールを使って会社の会計処理をやるわけだが、それは同時に、この宇宙がどうやってバランスしているのかを捉える試みでもある。わかるかな、サルトル君」
テリーさんはニヤリと笑いながら問いかけてくる。僕は首をかしげた。なんでいきなり宇宙が出てくるのだろう。テリーさんは、その大きなTの字の、中心線を挟んで左側に「宇宙」、右側に「サルトル君」と書く。
「借方が宇宙、貸方はサルトル君。これで貸借が合っていると思うかい?」
それはつまり、僕と宇宙が数字としてイコールかということか。宇宙も僕も勘定科目ではないというのは置いておいても、質量だけなら完全にノーだ。僕は首を横に振る。
テリーさんは「サルトル君」と書いた下に「諸口」と書き入れる。これは「その他」の勘定科目の総称だ。たしかに僕と「諸口」とで宇宙ができているのかも知れないが、それで左右の貸借を合わせるには「諸口」が大きすぎる。
「世の中のすべてはバランスする。世の中の事務仕事のほとんどは、左と右を間違いなく合わせ続けることだ。原理原則通りで一円の誤差も許されない。でも、考えておきたいことは、ひとつの仕訳の中にはコスモがあることだ。ここでは、諸口が未知数なんじゃない。未知数なのはサルトル君の方だ。君はどこまでも大きくなり、やがてこの宇宙と貸借できる存在となる」
マズイなあ。テリーさんはかなりイカレた人だ。これ、なんかの宗教の勧誘なんじゃないのかな。僕はここにきたことを早速、後悔しはじめていた。
「これが会社という場所で働く上で、最初に知っておくべき基本だ。ルーティンの仕事なんて退屈なくせに、正確さを問われ続けるやっかいなものだ。でも、どんな少額の仕訳ひとつにもコスモがある。それを魂で感じながら仕事をしてもらいたいんだな」
「・・・・・・コスモ」
「そう。未来への可能性と言ってもいい。たとえ金額は小さくても、ひとつの取引へ寄せる思い入れは無限大だ。ビジネスっていうのは、つまり、そういうものなんだよ」
つまり、どういうものなんだと聞き返したかったが、うまく質問することができない。
テリーさんはその後も、仕事、ビジネス、商売について話を続けていたが、僕は理解するのを早々に放棄してしまった。真剣に話しているつもりなのかも知れないが、今日のテリーさんのカッコときたらフザケすぎていて、真面目に聞いているのがバカバカしいのだ。
昨日と同じような派手なブーツを履いて、ズボンはジーンズ。大きなバックルのついたガンベルトには、革のホルスターがついていて、モデルガンだとは思うが拳銃も入っている。デニムの長そでシャツの上に革のベストを着て、赤いバンダナを首にまいている。帽子は首から紐で背中に下げているが、要するに完全にカウボーイのカッコをしているのだ。
テリーさんは、うちのお父さんのような会社員魂を持っている人じゃないのかと思っていたのだけれど誤解だったかも知れない。カウボーイのカッコをした変な人にビジネスを語られても、そう納得できるもんじゃないよな。とはいえ、テリーさんの口調には、なんだか、グイグイとひっぱっていかれてしまうような吸引力があった。
テリーさんの前置きはさっぱりわからなかったが、ようやく一段落ついて、今度は具体的な仕事の説明が始まった。そっちの方はごく単純でわかりやすかった。僕の仕事は仕入した商品の入庫と出庫の作業だ。ここは4LDKのファミリーマンションなので、かなり広い。倉庫として使っている部屋もある。そこで在庫を管理しているというのだ。その入出庫作業をやりながら、会計の帳簿つけもやって欲しいとテリーさんに言われた。
それから毎日、会社に来て、同じような作業をしている。最初は少し戸惑ったけれど、慣れてくると、僕の仕事はそれほど難しいものでもなかった。教えてもらいながら、商品の出し入れをしたり、帳簿をつけていると、だんだんと会社の仕事の流れが見えてくる。
この会社はネットでの通信販売をビジネスにしている。ウェブサイトのショップ「ワイルドウエスト」で、お客さんから注文をとり、在庫の中から抜き出した商品を送るのが商売だ。自分たちでモノを作っているわけではなく、問屋やメーカーから商品を仕入れて、上乗せした価格で販売する。これでもうけている。つまり小売店なんだな。海外のメーカーから取り寄せる商品もあるけれど、今は円高だからメリットが大きいらしい。
仕入した商品を納品書とつけあわせて、在庫管理システムにデータを入力して入庫処理をする。今度は注文データで商品を在庫から抜き出し出庫処理をして、販売伝票と一緒に梱包して宅配便の集荷に受け渡す。仕入代金は月末にメーカーからくる請求書と照合して、その翌月の終わりに支払う。売った方のお金は宅配の運送会社やクレジットカードの信販会社が回収してくれる。お金が動く時には必ず会計処理が必要になるので、会計ソフトで帳簿をつけていると、会社全体の動きがだんだん理解できるようになってきた。
アルバイトを始めたのが、七月の終わりだったので、すぐに月末締の作業になった。メーカーや問屋から送られてくる請求書の明細と入庫データを照合して、会計システムに入力する。簿記だとモノが入ってきたら、その時点で「仕入」になるのだけれど、この会社では普段の入庫は会計処理せず、請求書が来たタイミングで仕入を計上していた。
会計ソフトに入力するのも、簡単なインターフェイス画面を使わずに、全部、仕訳入力画面から入れた方が簿記の勉強になるとテリーさんに言われたのでやってみた。借貸の勘定も自分で選ぶのだ。左の借方に「仕入」、右の貸方に「買掛金」と入力する。この「買掛金」に取引先ごとのタグをつけて識別する。一カ月後に買掛金を借方にして、貸方の銀行預金から支払いを行えば、買掛金が消えていく。仕訳にコスモは感じないが、漠然としていた勘定科目のイメージがつかめてきて、僕の簿記の理解は確実に進んでいった。
会計ソフトで月次を締めて、財務諸表を作成するところまですることができた。そういうサポート機能もあるから簡単だ。帰ってから家で、簿記のテキストで決算処理のところを勉強して確認する。簿記のテキストの損益振替の意味が良く理解できないでいたのがわかってきた。この会社がやっているのはごく単純な商売だけれど、会社というものは、こうやって儲かっているのか、ということがアクティブに理解できたことは良かった。
困ったのは、仕入先から送られてきた請求書とこれまでの入庫データが合わないことだ。保管されている納品書を確認して、どうして合わないのか調べていくと、入庫処理の時のデータの誤入力が見つかる。取引先を間違えて入力していたり、金額のミスも多い。売上の請求書にも間違いが見つかって、どうやって修正処理をしたらいいのか悩まされた。
どうやら前に働いていた事務処理担当の人が休んでから、中野クンが代わりに作業をしていた間に、随分と間違いを犯していたみたいだ。中野クンは今年、二十四歳になる。本当なら、中野サンと呼ばなくてはならないのだろうけれど、「中野クンでいいよ。さかなクンみたいなもんだから」と言われて、そのまま中野クンと呼んでいる。
いつの間にか、中野クンとはタメ口になってしまった。気さくで話やすいので、他人と口をきくことのリハビリにはちょうどいい感じだった。中野クンはウェブサイトの操作の方を担当していて、販売する商品をネット上のショップに並べたり、お客さんの対応をしたり、バナーを作ったりしている。ただ、数字にはすごく弱いし、ミスが多い。
さかのぼって確認していくと、前に働いていた事務処理担当の人のハンコが色々なところに残されていた。やたらとメモをしたがる人で、色々書類に書きこみがされている。丸っこい女の子の字だ。ハンコの名前は「宍戸」。テリーさんが「シドはどこにあの書類をしまったんだろう」なんて良く言っているが、シシドさんだから、シドと呼ばれていたんだな。
このシドさんもあまり仕事ができる人ではなかったようだ。計算を間違えていたり、仕訳が逆だったり、書類の綴じ込みも日付や番号通りになっていなかったり、単純なミスが多いのだ。メモが多いのも記憶力が悪いからかも知れない。バイクで転んで足を複雑骨折して会社にこられなくなったらしいが、注意力も足りない人だったんだろう。
はっきり言って、この会社のレベルは高くない。半月で僕にもわかってきた。テリーさんは最初こそ僕に色々と処理の仕方を教えてくれたが、僕が慣れてくると、毎日、カウボーイのカッコをしたまま、腕を組んで会社の中を歩きまわったり、パソコンに向かってずっと何かやっているだけだ。社長ってそういうものなのかな。なんかたいしたことないな。
ともかく、焦りっぱなしだった僕の気持ちは、この半月で随分と落ち着いてきていた。毎日やることがあるし、家に帰ってからやっている簿記の勉強もはかどっている。失われた自信が少しずつ回復していくのを僕は実感していた。そうなってくると、またシノハラに、僕のそんな姿を見せつけたという気にもなる。
それでも、以前のように、完全には自分を信じることができなくなってもいた。僕は本当はダメな奴なんじゃないのかという不安に襲われる。一度、地面に落ちてしまった星は、なかなか空には上がれない。僕は星クズどころか、鉄クズなのだ。鉄クズは地面にはいつくばっているのがお似合いだ。そんな考えを僕は無理に打ち消そうとしていた。
5
『メール件名:【ワイルドウエスト】男は焚火の前に座っているのが似合う生き物だ。
全国のカウボーイの皆さん、こんにちは。
「ワイルドウエスト」オーナーのテキサスブロンコ、テリー照井です。
金曜日のメルマガは、いつものようにカウボーイグッズ四方山話をお届けしましょう。
銃と馬を友として、牛を追いながら長い旅に出る。テキサスからワイオミングまで、草原を越え、道なき荒野を往く。川で口をすすぎ、草を枕に星を眺める。それが自然を肌で感じるカウボーイの旅。ダッチオーブンはそんな私たちの旅の必携アイテムでした。
ご存じのように、ダッチオーブンはただの深鍋ではありません。携帯できるオーブンなのです。煮焚きはもちろんのこと、燃え盛る炎の中にくべて、窯として利用することができるのが特徴です。幾度も炎に焦がされることで、その真鍮のボディは深みを増していきます。使い込み、貴方だけの色にすることができる鍋。カウボーイの自主独立のフロンティアスピリットを象徴する調理器具。それがダッチオーブンなのです。
月明かりの下、荒野の野営地で危険な野生動物を警戒しながら、気の合う仲間たちと酒を酌み交わす。男たちの中心には、いつも焚き火とダッチオーブンがありました。岩塩だけで味をつけた肉の塊を高温でローストする、その香ばしい匂い。満天の星空の下、肉汁をしたたらせながら、ワイルドにかぶりつく男たちの宴。もしリチャード三世が行きずりのカウボーイなら、きっと貴方にこう言うはずです。「そのダッチオーブンを俺に寄こせ!かわりに俺の牧場をくれてやる」と。
そんなあなたに吉報です。この週末はワイルドウエストが選りすぐりのダッチオーブンを、なんと30%OFFでご提供します。お買物はこちらから。是非、ご来店ください。
さあ、週末はカウボーイ衣装に身を包み、ワイルドに荒野を目指しましょう。陽射が眩しい季節です。お出かけの際はカウボーイハットを忘れずに。そして、心にはいつもの合言葉を。「若者よ、西へ行こう!」。
テリー照井でした。』
月曜日の仕事は金曜日に出したメールマガジンの実績検討会から始まる。スタッフ全員でミーティングをすると言っても、テリーさんと中野クンと僕の三人だけだ。応接室のソファに座って中野クンが作った資料をもとに、今回のメルマガでどのぐらいお客さんがショップにきたか、また、いくら受注があったかを確認するのだ。
普通の会社がどうなのかわからないが、この会社は会議が多い。なにかといえばミーティングが始まる。僕は集中して自分の作業をやりたいのに、こうした会議に毎日つきあわされるので、なかなか仕事が進まない。しかも会議の内容は毎度、どんどんとバカバカしい方向にエスカレートしていくので、正直、無駄な時間だと思っていた。
資料をもとに週末の受注金額を報告をした後に、中野クンが議題を振り出した。
「どうも金曜日のメルマガは開封率が悪いんスよ。それが受注件数にも響いてきちゃって」
「一番いいのは何曜日なの?」とテリーさんが聞く。
「水曜日です」
「ちょっと小粋なカウボーイジョークの日だな」
「カウボーイの泣ける話、の月曜日もわりといいんスよ」
「カウボーイグッズ四方山話は、ダイレクトな商品紹介だから受注は伸びるはずなんだけれど、開封されないんじゃしょうがないな。ショップにきてもらうどころじゃないな」
「やっぱりメールの件名に「ダッチオーブン、今なら30%オフ!」なんてダイレクトな文句を入れた方がいいんじゃないスかね。みんな見るのはそこでしょう」
ウェブショップ「ワイルドウエスト」は、月水金の週三日、お客さんたちにメールマガジンを送っていた。実際には店舗がないヴァーチャルな世界だから、呼び込みのチラシがわりにメールを撒かなくてはならない。メールを見てくれたお客さんたちが、ウェブページのショップにやって来て買い物をする。どんなメールを書くか次第で、お客さんの数や、注文数が変わってくるというのだ。テリーさんは商品をセレクトして、メーカーから買いつけをしながら、どんなふうに宣伝するかのマーケティングを考えているらしい。
「もっとうまくダッチオーブンの魅力を語れたら良かったんだけどな。俺たちが売っているのはモノではなくロマンだ。ロマンよりもネダンをプッシュするべきなのか・・・・・・」
テリーさんは口ヒゲを指でしごきながら、考えをめぐらしている。
「どう、サルトル君はなにか意見はない?。この停滞した現状を打開するためにさ」
急にテリーさんから話をフラれた。いつも会議に参加してはいるものの、聞いているばかりで、発言したことはなかったのだ。
「・・・・・・売っているものが悪いんじゃないですか」
緊張しながらも、僕はなんとか口を開いた。
「というと?」
「なんでカウボーイグッズしか売らないのかと思って」
それはずっと疑問に思っていたことだ。なんでカウボーイグッズだけなんだろう。
「それはウチがカウボーイグッズ専門店だからさ。でも、その発想はコロンブスの卵かも知れないな」
テリーさんはもっと話を聞きたいという感じで、僕の方に身を乗り出してきた。
「もっと売れるものを売ったらいいのに」
「例えば?」
「もっと値段の高い・・・・・・自動車とか」
おそるおそる自分の意見を言ってみた。さすがに自動車は在庫できないだろうし、無理かと思っていたのだ。それにカウボーイってなんかエコっぽいし、移動手段は馬だもんな。
「なるほど、面白い」とテリーさんは言って、立ちあがるとホワイトボードに「自動車」と書く。 そんなのダメだよと否定されると思っていたので、逆にびっくりしてしまった。
「カウボーイっぽい自動車ってなんだろう?」とテリーさんが逆に僕らに質問する。
「ジープじゃないスかね」と中野クンが言う。
「ジープは荒野を駆ける現代の鉄の馬か。すくなくも四輪駆動だな」
テリーさんはそう言いながら、ジープ、四輪駆動とホワイトボードに書いていく。
「ハーレーみたいなバイクもいいスけどね。いっそのこと、船はどうスか」
中野クンの言葉に、そりゃないだろ、と思ったが、テリーさんはそのまま「船」と書く。
「海を行くカウボーイか。牛を追うのではなくて、魚を追うんだな」
テリーさんはそう言うが、それはもう漁師なんじゃないのか。
「それは漁師っスね。いいッスね漁師。男のロマンじゃないスか」
僕が思っていたことを先に中野クンに言われた。しかも、ロマンにつなげて肯定するか。
「カウボーイグッズと漁師グッズ専門店というのもいいな」とテリーさん。
いいわけがない。このバカバカしい話はどこまでいくんだろう。もともと自動車と言い出したのは僕だが、だんだんとこの不真面目な雰囲気にガマンできなくなってきた。ここの会議は毎回、こういう悪ノリがエスカレートしていくのだ。
「・・・・・・それはダメじゃないんですか」とつい僕は言ってしまう。
「サルトル君。それはルール違反なんだが、一応、聞いておこう。その理由は?」
「学校の近所にある喫茶店が『コーヒーと刺身定食がウマい店』って看板を出しているけど、どっちも美味しそうに思えないから」
「なるほど。二兎追うものは一兎を得ずということもあるな。でも、その店が本当にコーヒーも刺身定食も美味しくて、それぞれのファンがついているってこともあるだろ」
「・・・・・でも、なんか変じゃないですか。常識がないっていうか」
「勉強と運動ができて、イケメンだったら女の子にモテると思わないか?」
「・・・・・・それとこれとは話が違うんじゃないでしょうか」
「じゃあ、僕はどうにもモテないっスね」と中野クンがションボリして言う。中野クンは虚弱体質っぽいし、頭の程度もだいたいわかっている。顔もなんだかオモシロ系だ。
「いや、器用になんでもこなせるだけが男の魅力じゃない。不器用だって、不器量だって魅力になるものさ。うん。たしかに、もっと金になる商売はあるだろうが、カウボーイグッズ一筋の不器用さだって人を引き寄せるものがあるな。ワイルドウエストは不器用で時代にはぐれた無骨なカウボーイたちに癒しを与えるショップなんだから」
そうテリーさんがまとめて、この議題は終わった。結局、何も進展していない。
後から説明を受けたが、この会社の会議はブレスト、つまりブレーンストーミングという形式で、人の意見を一切、否定してはいけないのだという。しかもどんどん話を広げていくということもルールなのだそうだ。正解がないことを話し合うにはこうやって自由な発想を交換し合うことが必要なんだとテリーさんは言う。
うちのお父さんは、僕の言うことをなんでも頭ごなしに否定する。でも、後からちょっとだけ懐の広さを見せてくれる。テリーさんのやり方は逆なんだ。お父さんは自分なりの正解をちゃんと持っていて、その幅をすこし広げてくれる感じだが、テリーさんは一緒に答えを探そうとする。テリーさんがおかしいのか、お父さんが古いのかはわからない。ただ、こういうカルチャーギャップに直面すると、なんだかハラハラしてしまう。
ビジネスにはセオリーはあるが正解はないそうだ。何が正しいのか良くわからないところを、手探りで前に進むというのは、僕にとっては気持が悪い状態だった。僕は一発で正解を答えて合格したいのだ。正解がないなんて、まるで真実がどこにもないってことみたいじゃないか。会社生活は僕に自信をとりもどさせてくれたけれど、ここにいると、なんだか違う世界の考え方を見せられて驚かされるし、戸惑うことも多かった。
「さて、問題です。百万円の小切手を掛け売りしていた商品の代金としてもらいました。仕訳はどうなる?」
家での夕食の時間。一緒に食事をしながら、お母さんが簿記の問題を僕に出してくる。
「借方、現金、百万円、貸方、売掛金、百万円」と、面倒だが一応、答えておく。
「凄いじゃない、サトル君。引っかけだったのに、ちゃんと小切手が現金勘定だってわかってるんだ。じゃあ、百万円の小切手を振り出して鉛筆を買いました。この仕訳は?」
「百万円も鉛筆を買ってどうするのさ」
「そういうところは気にしなくていいの。問題なんだから」
「借方、文具費、百万円、貸方、当座預金、百万円」
「ご明答。まだ半月ちょっとなのに、覚えるのが早いよね。さすがサトル君だね」
お父さんは帰ってくるのが遅いので、いつも夕食は僕とお母さんの二人だけで食べる。
月末処理の時は残業もあったけれど、普通の日は六時までには仕事を終えて、家に帰ってこられる。お母さんはおしゃべりで、何か話していないといられない性格で、食事時でも騒がしい。やたらとバイトのことを聞きたがったり、簿記の問題を出してきたりする。
「別に簿記なんて、そんなに難しくないよ。それに今時のビジネスじゃ、小切手なんて使うことなんかないんじゃないかな」
「そんなことないよ。大きな会社同士の取引じゃ必要なんだよ。あたしがお父さんと知り会ったのだって、カウンターで支払いの小切手を受け渡していたからなんだだよ。じゃあ、こんな問題はどう。四百万円の小切手をもらいました。領収書は何枚切りますか?」
お母さんがなんだかイタズラっぽく聞いてくる。
「何枚って、一枚に決まっているじゃない」
「ブー。不正解。三百万円と百万円の二枚に領収書を分けると印紙税が二百円安くなります。これ節税になるから覚えておくといいよ」
節税なんて簿記とは関係ないのにお母さんは得意そうにそんなことを言う。これまで僕の受験勉強には一切、口を出せなかったのに、僕が簿記を始めてからというもの、やたらとちょっかいを出してくる。十年も財務の支払窓口をやっていた、とかいうけれど、簿記の資格も持っていない。僕はすぐにお母さんを追い越すことになるだろうな。
「あとさ、借方と貸方って、どっちが右でどっちが左かわからなくなることがあるじゃない。そんな時、お茶碗を持つ方が借方。お箸を持つ方が貸方、ってイメージするといいんだって。会社の時、先輩から習ったんだ。簿記の入門の本とかに書いてない?」
お母さんは自分のお茶碗と箸を持つ手を交互に前に出しながらそんなことを言う。
「左利きの人もいるから、その法則は一般的じゃないんじゃないのかな」
「そういう人は逆に覚えればいいんじゃない。それとも、左利きの人は天才が多いっていうから、自然とわかっちゃうのかな」
そう言ってお母さんは笑った。僕は左利きでもないし、天才でもない。
以前に僕は天才と呼ばれていたことがあった。お母さんもそう呼んでくれていた。
でも、もう誰も僕のことを天才だなんて呼びはしない。なんだか、お母さんにイヤミを言われているような気がして、鼻の奥が痛くなり、後は黙々とご飯を食べ続けた。せっかく回復しかけた自信も、ちょっとのことで揺らいでしまう。
お父さんと再婚したとき、お母さんはまだ二十代だった。知らないお姉さんが家にいすわっているみたいで、最初はなんだか落ち着かなかった。ママとは色々なことのやり方が違うし、僕の方が戸惑っていた。お母さんは、いつも陽気で明るくて、優しくしてくれたけれど、照れくさいものだから、僕はいつもぶっきらぼうな態度ばかりとっていた。
それでも、僕が学校のテストでいい点数をもらって帰ってくると「すごいよ。サトル君は天才だよ!」と、お母さんが大声をあげて喜んでくれるのは嬉しかった。大げさなことを言われて、恥ずかしかったけれど、自分がすごい人間になったようで、フワフワした気分になる。そして、僕はもっとお母さんにほめてもらいたいと思うようになった。
でも、ある時、お母さんが僕のことを天才だとほめるのを聞いたお父さんが、サトルを天才と呼ぶんじゃない、と突然、怒り出したのだ。お父さんにはたくさん心の地雷があって、うっかりそれを踏んでしまうと、怒りだして不機嫌になってしまう。しかも理由を説明してはくれない。それ以来、お母さんは僕のことを天才だとは言わなくなった。
次に僕のことを天才だと言ってくれたのがシノハラだ。
中学で同じクラスになったシノハラは、すごく変なヤツだった。クラスの誰にでも遠慮なく話しかけたり、挨拶したりする。いつも変な歌を口ずさんでいるし、僕はシノハラが側を通ると、なにか話しかけられるんじゃないかと思って、ビクビクしていたぐらいだった。
それが、席替えで隣の席になってしまったものだから、やたらとフレンドリーな態度で接してくるシノハラと、毎日、話をすることになってしまった。小学校時代から大人しかった僕には、あまり友だちもいなかったし、ましてや親しい女の子なんていなかったから、どう対応していいのかわからない。それでも、シノハラがフッてくるくだらない話題に答えているのが楽しくて、なんとなく僕らは親しくなっていった。
小学校が違っていたので、中学で知り合ったシノハラだったが、どこか懐かしい気持ちになることがあった。こんな変なヤツにどこかで会ったことがあったかな、と考えてみても思い出せない。ただ、お母さんにちょっと似た雰囲気があることは確かだった。
授業中いつも上の空で、ノートにイラストばかり描いているシノハラは、まったく勉強をする気がない。テスト前に授業のノートを貸してやったら、僕のノートがもの凄くわかりやすいと感激して、シノハラは僕のことを天才だとほめちぎった。僕はシノハラにほめられるのが嬉しくて、どんどん勉強を頑張るようになった。
中学に入った頃の僕の成績は、まだそこそこ勉強ができるという程度だった。それが、シノハラにもっといいところを見せようと頑張っているうちに、どんどん成績があがっていった。お父さんも喜んでくれて、レベルの高い塾に通わせてくれた。いつの間にか、学年でもトップを争う成績を僕はキープできるようになっていた。
不思議なもので、成績が上がってくると自分に自信がついてくる。クラスではほぼ一番の成績をとるようになった僕に、みんなも一目置いてくれるようになった。ホームルームで発言しても、僕の意見ということだけで感心してくれる。みんなが僕をリスペクトしている様子を見て、シノハラが満足そうにしていることもなんだか嬉しかった。
ねえ、知ってる?。サルトルって天才が二十世紀にいたんだって。サトルとサルトルって似てるよね。ある時、シノハラはそう言いだして、僕のことをサルトル君と呼ぶようになった。天才の称号だ。僕には才能があるから、その名前がふさわしいというのだ。サルトルはノーベル賞にも選ばれたのに、それを断ったスゴイ人だとシノハラは感心している。
サルトルがなぜ世界最高の栄誉ある賞を断ったのか僕には理解できない。でも、本物の天才というのは、そういうわけのわからないヤツなのかも知れない。今、高校のクラスで成績がいいのは、ちょっと変わったタイプのやつが多かった。全然、勉強をしているように見えないのに良い成績をとってしまう。あいつらこそ本当の天才なんだろうな。
僕は結局、天才ではなかった。ハンパな秀才。いや、ただの鉄クズだ。だからシノハラにも見限られたんだ。中学で成績が上がって、みんなからチヤホヤされるようになると、僕はちょっと思いあがりはじめていた。僕はデキる。デキないやつは努力が足りない。いつの間にかシノハラに対しても、上から物を言うようになっていたのかもしれない。
鉄クズに偉そうにされていたら、そりゃあシノハラも怒るよな。ハハハハ。
ベッドで目を閉じると気が弱くなる。僕は毎晩、そんな想いに苦しめられ続けていた。
6
夏休みもあと十日を残すだけになった。土日は休みだから、会社にくる日数はそれよりも少ない。アルバイトの契約は八月末までだった。でも僕が辞めたら、ここはまた元の状態に戻ってしまう。中野クンは頼りにならないし、ミスばかりだから、また後で大変なことになるだろう。今、この会社にとって僕は必要な存在になっているはずだった。
二学期になったら、どこかのクラブに入って会計を担当してみようかなんて思っていたけれど、そのままアルバイトを続けられるのならそっちの方がいい。というか、ここに残ってくれないかとテリーさんに言われるんじゃないだろうか。それなら好都合だ。学校以外にどこかに居場所を作っておいた方がいいと僕は思っていた。どうにも僕は臆病に、いや慎重になっていたのだ。
「おはようございます・・・・・・」
会社のドアを開けると、応接室の方から騒がしい笑い声が聞こえてきた。テリーさんと中野クンが誰かとしゃべっている。相手は若い女の人のようだ。こんな朝早くお客さんがきているのは珍しい。僕の声に気づいたテリーさんが廊下に出てきた。
「サルトル君、おはよう。紹介したい人がいるから早く入ってきて」
そう言いながら、僕を手招きする。僕のバイト中にも、メーカーや銀行の人が訪ねてきたことがあった。そんな時、出迎えるテリーさんはキッチリとスーツを着ていた。僕が初めて会ったのもお客さんがきた日だったんだろう。でも、今日はいつものように、ふざけたカウボーイルックのままだ。たいしたお客さんじゃないのかな。
応接室に入ると、ソファには中野クンと、もう一人、知らない女の人が座っていた。金色に近い茶髪が根元の方で黒くなっている、長髪でヤサグレた感じの人だった。メイクもやたらと濃い。黒いTシャツには派手なレタリングで英語の文字が描かれていて、大きな十字架のネックレスをしている。目を引かれたのは、右腕の袖口からのぞいている紺色のタトゥと、黒いジーンズを履いた左足につけられた白いギプスだ。
「よお!」
ソファに座った女の人は僕に向かって手をあげる。メイクでわからなかったが、良く見ると若い人のようだ。もしかすると、まだ十代かも知れない。
「シド、彼がサルトル君。今、在庫管理と会計処理をやってくれているアルバイト君」
テリーさんがその女の人に僕を紹介する。シドって、たしか前に勤めていた人だ。
「よろしく、サルトル。でも、なんなのその変な名前。猿を取ってどうすんのさ」
「サルトルって言うのは二十世紀を代表する哲学者で、小説家でもある人物の名前だ」
そうテリーさんが説明してくれる。テリーさんは色々なことを良く知っていた。
「ふーん。テツガクシャなんだ。なに、君、頭いいの?」
女の人はなんだか僕をいぶかしげに見てそう聞く。
「シドさん、サルトル君は凄いんだよ。バイト始めて、あっという間に仕事を覚えちゃったし、僕やシドさんが間違えていたのだってみんな見つけちゃったんだからさ」
「えー、アタシ、なんか間違ってたの?」
中野クンの説明に驚いて、反応している。やっぱり、この女の人があのハンコの名前の人、シシドさんなんだな。もっと地味そうな事務の女の人だと思いこんでいたので、こんなヤンキーみたいな人だとはイメージがつながらなかった。
「・・・・・・振り込み手数料の計算とか、仕訳が逆だったりとか」と僕はボソボソと答える。なんかこういう下品なタイプの女の人は苦手なんだよな。
「ああ、そりゃ悪かったね。君、会計ソフトのオペレーションもやってるんだ。まだ高校一年生なんでしょ。なかなかやるじゃん」
「サルトル君は日商簿記三級にチャレンジしようとしているんだよ。実務経験を積んで、大分、簿記を理解できてきたみたいだよね」とテリーさんが言う。
「え、君、簿記やってんだ。商業高校?、どこの学校なの?」とシドさんが聞く。
「サルトル君は都立三商だって」と戸惑っている僕に代わって中野クンが答えてくれる。まだここではそういう話になっているのだ。
「なーんだ。三商ってバカ校じゃん。アタシ、富士見台商業だからレベル上だね。ま、中退しちゃったけどさ。でも、全商簿記三級は持ってんだぜ」
なんて自慢げに言いながらガハハと笑う。これにはさすがに僕もムカついてしまった。
商業高校を中退したような人に、自分の方がレベルが上だなんて言われる筋合いはない。僕が本当はどこの学校に通っているから教えてやろうか。簿記だって、日商三級に一発で受かる自信があるんだ。何でこんな人にバカにされなきゃならないんだろう。と思いながらも、やはりこういう局面では、また言葉が出てこなくなるのが悔しい。
「全商と日商って、何がどう違うんスか?」
僕の怒りをよそに中野クンがテリーさんに聞く。
「良く言われる例えだが、全盛期の全日本プロレスと新日本プロレスぐらい違うな」
「どっちが上なんスか」
「おいおい。気軽なジョークにガチな質問をしないでくれよ」
「そんなの全日本に決まってるよ。全盛期の全日って言ったら、最強タッグリーグのファンク兄弟対ブッチャー・シーク組の試合だよ。あれを越えるものなんてあるもんか!」
シドさんは拳を振り上げて熱く語る。
「シドさん、相変わらずプロレス好きなんだね」と中野クンが言う。プロレス好きか。ロックバンドでもやっていそうなカッコだし、なんだか大雑把で無神経だし、下品なものを集めた人って感じがするな。僕はこのシドさんにかなり反感を抱いていた。
「あ、全然、紹介になってなかったな。サルトル君、この子がシド。君に来てもらう前に、今の君の仕事をやっていた担当者だ」
「ヨロシク。アタシ、宍戸春菜。シドって呼んでよ。バイクで事故って足折っちゃって、しばらく休ませてもらっていたんだ。アタシの代わりを務めてくれて、ありがとう。会社のこと、すごく心配だったから、君がいてくれて助かったよ。感謝してます」
そう言って、シドさんは僕に手を差し出してきた。なんだ、人のことをバカにしているのかと思ったら、今度はそんなことを言い出すのか。シドさんはソファに座ったままで、無理にこちらに手を伸ばしているような感じだ。まだ自由に立ち上がることができないらしい。僕からシドさんに近寄っていって握手した。温かくて、小さな手だった。
病院に行くついでに会社に寄ったというシドさんは、二本の松葉づえをついていた。今日は、これから病院で足のギプスを外すという。もう六週間もギプスをつけているシドさんの怪我は、かなり大変なものだったらしいが、ようやくこれで自由に動きまわれるようになると喜んでいた。
片足にギプスをつけて、松葉づえをついているくせに、ケースに入れた大きな楽器もシドさんは持ってきていた。やっぱり外見どおりロックバンドをやっているそうで、ベースを弾いているのだという。病院に行った後に、午後からバンドの練習があるからとか言っているが、ムチャな人だな。なんて思っていたら、テリーさんに、シドさんの荷物を持って、病院まで付き添ってやってくれないかと頼まれてしまった。
シドさんは調子がいい人で、サンキュー、サンキューとか言いだす。今日はたしかに出庫も入庫も予定はないし、入金の確認ぐらいしかやることはない。でも、できれば納品書を綴じ直して、在庫とデータの照合もしたいと思っていたのだ。僕はこんな人のために仕事の腰を折られた感じで、正直、不愉快だった。なのに、言い返せないのがもどかしい。
「テリーさんとアタシは、ネットのプロレスコミュで知り合ったんだよ。アタシ、親父の影響で、小さい頃から昭和のプロレスのビデオを見て育ったからさ、もうテキサスブロンコのテリーなんて名前聞いたら、たまらないじゃない」
シドさんはそんなことを話しながら、松葉づえを使って、器用に道路を前に進んでいく。シドさんが通っている病院は会社からすぐ近くにあるので、タクシーを呼ぶまでもないというのだ。僕はシドさんのエレキベースを抱えて、横についてゆっくりと一緒に歩く。
「・・・・・・テキサスブロンコってなんですか?」
いつもテリーさんがメルマガで名乗っている肩書きだ。名刺にも代表取締役テキサスブロンコって書いてあった。シーイーオーみたいな経営の責任者ってことなんだろうか。
「え、知らないの?。テキサスの荒馬って意味だよ。テキサスブロンコって言ったら、普通、テリー・ファンクのことだろ」と余計、わからないことをシドさんは言う。
「テリー・ファンクってなんですか?」
「なんだオマエ、テリー・ファンクを知らないのかよ。今やレジェンドになっているプロレスラーの名前だよ。よし、今度、最強タッグリーグ選のDVDを貸してやるよ。絶対、感動するからな。今どきの総合格闘技なんかよりプロレスの方が凄いことがわかるから」
いつの間にか、シドさんにオマエ呼ばわりされるようになっている。なんか偉そうな人だな。僕はプロレスも総合格闘技も好きではない。ああいう乱暴なのはイヤなんだ。そうか、テリーさんの名前はそのテリー・ファンクってプロレスラーからとったのか。照井だからテリーかと思っていたけれど、やっぱり変な人だな。
「テリーさんて、一体、何者なんでしょうね」
「何者はないだろう。社長に向かって失礼なヤツだな。テリーさんは××大学を卒業して一流商社に入ったすごいエリートだったんだけど、会社員を十年やったところで、遠い呼び声がして、会社を辞めようと思ったんだってさ」
「遠い呼び声?」
「いや、遥かなる呼び声だったかな。自然に還れって声だったか、なんかそんなこと言ってたな。それでフロンティアスピリットが目覚めて、カウボーイになることにしたんだって。ほら、テリーさんってなんか頭イイだろ。アタシらみたいなバカには良くわからないこと平気で言い出すんだよ。簿記は宇宙でスピリットだとかなんとか言ってなかったか?」
「言ってました。・・・・・・でも、僕らはバカじゃないですよ」
バカなのはアナタだけだ、と言いたかったけれど、そこはぐっと我慢した。
「おっ、オマエ、なんかイイコト言うじゃない。そうだよな。バカ校に行っているからって、自分のことバカだなんてわざわざ言う必要ないもんな。いや、アタシが悪かった。アタシもオマエもバカじゃない。そうだよな」
いや、バカはアナタだけなんだ。僕は鉄クズかも知れないけれどバカではない。そうは言えないまま僕が黙っていると、ウンウンとシドさんはうなずいて合点している。そして僕を真面目な顔をして、じっと見つめた。
「オマエ、結構、骨のあるヤツなんだな。気に入ったよ。アタシ、これからリハビリしながら、会社に顔を出して、復帰できるようにするからさ。会社行った時には、お前に簿記のコーチをしてやるよ」
なんかとんでもないことを言い出すな。こんな人に簿記を教わったら、出来るものもできなくなる。それにもう仕事に復帰する気なのか。この人に完全に戻ってこられたら、僕の仕事も居場所もなくなってしまうんだよな。僕はまた少し焦りを感じてしまった。
シドさんが通っているという整形外科は大きな総合病院の中にあった。受付をすませて中に入ると、既に多くの人で混み合っている。この病院はウチからもわりと近くて、建物だけはいつも目にしていたが、僕はそんなに重い病気にかかったことがないので、ここにはかかったことがなかった。古い建物だし、消毒薬臭いジメっとした雰囲気で嫌な感じだ。
行きがかり上、シドさんの診察が終わるまで、僕は一緒についていなければいけないようだった。ベースはけっこう重い。こんな重い楽器を、僕よりも随分と背の低い小柄なシドさんが演奏しているんだな。診察室の前の席で順番待ちをしている間も、シドさんはひっきりなしに話をしている。どうして女の人というのはこうも話をしたがるのだろう。しかも内容のない、どうでもいい話ばかりだ。
「で、その時、今、一緒にやっているドラムの子と出会ったんだ。あれは運命の出会いだったね。それでビシャモンズって、ガールズバンドを組むことになったわけ。最小のユニットで最大のサウンドを作りたいっていうのがアタシたちの考えだったから、あとはギターボーカルだけだったんだけれどさ。うまいギターの子は見つかったんだけど、ボーカルがヘタでさ。じゃあ、っていうんで、アタシが歌うかってことになったわけ」
シドさんは自分のバンドの話をずっと聞かせてくる。こう見えてもまだ十八歳のシドさんは、高校二年生の途中で学校をドロップアウトしたのだという。右肩から二の腕にかけてタトゥを入れたので、怒ったお父さんに家を追い出されたのだ。そのまま学校も辞め、友達のところを転々としながらバイト生活をしてきたらしい。かなりのアウトローぶりだ。
どう考えても、この人はマトモじゃない。
こんな人を雇う気になったテリーさんもどうかしている。ネットで知り合っただけ、なんていう人に仕事をさせるなんて、いい加減にもほどがある。きっと中野クンもどこかで拾ってきたに違いない。会社にちゃんとした経歴の人を雇わないからいけないんだ。だから、あんなミス連発なんだよ。
「まあ、今度、アタシらが作った曲のCD持ってくるから聞いてみてよ。なぜか若いコたちより、年とってる人たちに人気があるんだ。歌詞をストレートに伝えようと思って、サウンドはごくシンプルに研ぎ澄ましていったせいかも知れないな。スリーピースっていうのはさ、凝り始めるとキリが・・・・・・ちょっと、ドリトル、アタシの話、聞いてんの?」
考えごとをしていて、ろくに話を聞いていなかったら、シドさんに耳をつねられた。
「ドリトルじゃなくって、サルトルです」
「ああそうか。ドリトルってなんだっけ?。聞いたことあるぞ」
「たしか、動物としゃべれる医者じゃなかったかな」
「オマエ、サルトルとかドリトルに詳しいんだな」
「さあ。どっちも読んだことないけど」
「それ、ダメじゃん。誰かの名前を名乗るなら、ちゃんとリスペクトしろよな」
そうシドさんに言われたが、別に僕はサルトルに思い入れがあるわけじゃない。これも説明が難しいので黙っておく。シドさんは、その後、延々とシドなんとかというベーシストの話をし続けていたが、うわの空で聞いていた。しばらくして、シドさんの受付番号が呼ばれて、診察室に入ってくれたので、ようやく僕は解放された。
診察室の前はすごく混みあっていて、しかも手足に包帯をグルグル巻きにした人が立って待っていたりするので、なんとなく気まずくなり、僕はこの場所を外れることにした。一階の受付そばにロビーがあったから、シドさんの治療が終わる時間まで、あそこにいようかなと思った。ギプスを外すと言っていたからそれなりに時間がかかるだろう。
ロビーのソファに座って、備えつけられたテレビの画面を眺めながら、早く帰りたい、とそればかり考えていた。病院というのは、なんだか嫌なところだ。身体の調子が悪い人がくる場所だから仕方がないのかも知れないが、マイナスのオーラが出ていて、自分のエネルギーを全部、吸いつくされてしまような気がする。ただでさえ、僕はテンションが下がっている。こんな場所に長くいると、干からびてしまうんじゃないかと思っていた。
「あれ、サルトルじゃないの?」
ぼおっとテレビを見ていた僕に、横から声をかけてくる人がいた。声の方向を振り向くと、そこにいたのはキクリンだ。白いTシャツにジーンズ。でも、そんなカッコが似合うスポーツマンタイプでもない。会いたくない奴に限って会ってしまうのは、何かの法則なのかも知れない。なんでこんなところでキクリンと顔を合わせるハメになるんだろう。
「おう・・・・・・」
僕も応える。その後の言葉が出てこない。普通、こんな時はなんて言うんだろう。病院で知り合いに会ったら、どんな話をするべきだったのか。
「シノハラさんのお見舞いにきてくれたんだな。ありがとう」
僕が言葉を発する前に、キクリンが言う。ちょっとびっくりしたのは、前に会った時よりも、キクリンの頬がこけてしまっていることだ。それに、シノハラのお見舞いって、何を言っているのだろう。僕は首をかしげる。
「お前、もしかして、シノハラさんが入院したの、ここだって知らないのか?」
キクリンが驚いたように続ける言葉にも、僕は首をかしげたままだ。
「・・・・・・まだ、意識不明のままなんだよ」
キクリンが真剣な顔をして言う。誰が意識不明なんだろう。まさか。
「シノハラが・・・・・・意識不明なのか?」
僕は立ちあがり、キクリンに向きなおって聞いた。
「本当に知らないのか?」
僕はただ首を縦に振る。キクリンは僕から視線をはずし、うつむいた。
「・・・・・・そうなんだよ」
その一言を言うと、すべてを説明し終えたかのようにキクリンは押し黙る。
そうなんだよって、なんなんだよ。僕はキクリンを問いつめたいのに言葉が出てこない。シノハラが意識不明?。意識不明と言えば重体だろ。重体と言えば、死にかけているということか。
「あ、いたいた。オマエ、勝手にどっかに行くなよな。まだまともに歩けないんだぞ」
遠くの方で、シドさんの声がしたような気がした。僕の視線の中に松葉づえをつきながら、こちらに向かってくるシドさんの姿も見えている。それなのに、なんだかグルグルと世界が回転してしまっていて、まともに捉えることができないのだ。シノハラが意識不明。そのフレーズだけが、頭に響いていた。
前編終了