記録その七
アメルカは困惑していた。昨日からずっと、とある男に付き纏われているからだ。
今までそんな事がなかった訳ではない。それこそ男など、羽虫の如く付き纏ってきた。
(……違う)
だがこの男は、何故か違う。うまく言えないが、何かこう……。
(……懐かしい?)
不思議と、彼女の中で、懐かしい気持ちが沸き上がった。
(昔、誰かに、こんな風に接してきた人が……)
そこまで考えて、ふと気付く。後ろに誰かいる。いや、誰かではない。今自分を困惑させている男は、ただ一人!
「……しつこい男は嫌われましてよ? いい加減諦めてはいかがかしら?」
アメルカは鬱陶しげの態度を隠さず、振り返りながら言った。そんなアメルカに対峙するのは、この物語の主役、ヴェントだ。
二人はDクラスの廊下で、ずっと追い駆けっこをしていた。
ちらり、と、アメルカは横の教室の表記を見る。
【3ー6ーD】。
(……まさか、第三地区まで走る事になるとは)
そう、彼等は第三地区の廊下まで走っていた。後、第七地区分走れば、一周する。
(にしても、息も絶え絶えね)
汗一つかいていないアメルカに比べ、ヴェントは汗だくで、今にも倒れそうだった。
それでもヴェントの闘志は、死んでいない。
「……わかりませんわ。……あなた、何を考えているんですの?」
アメルカには分からなかった。この前の出来事から、こいつはずっと関わって来ている。その前は、まったくの無干渉だったのに。
(もしかしてこいつ……!)
頭の中で最悪の事が思い浮かぶ。いや、しかし、こいつに限ってあり得ない。そもそも、1ー6ーDには、既にあいつがいるのだ!
「? 追い駆けっこは……もう終わりなの? だったら……僕の……勝ち」
ヴェントは、息をするのも辛そうにしながら、それでも勝ち誇った様に、言った。
アメルカは唖然とした。彼の言った言葉が、一瞬、本気で理解出来なかった。
(勝……ち? そんな息も絶え絶えな、死に損ないの様な無様極まり無い姿で? 比べる事すら烏滸がましい! 競う事すら無意味極まる! それほどまでに、圧倒的な差があるにも関わらず、勝っただと!!)
困惑。
困惑。
困惑。
困惑。
困惑。
――憤慨。
アメルカは、有無を言わせず走り出した。
本気の走り、本気の競争、本気の――勝負。
(風呂は一週間に一回? 息も絶え絶えで今にも死にそう? ……知るか!? 二度と、勝ち、何て言えない様に、そんな事すら思えない様に、ついてくるのが馬鹿らしくなるまで引き剥がしてやる!!)
アメルカはまるでチーターの如く駆け出した。
幸い、彼女の殺傷力を持った突進を、受ける生徒は一人もいなかった。
今の時間は、午後二時。
昼御飯を食べ終えた子供達は、地上にある遊具で遊んでいる事だろう。
走って、走って、走って、走る。
音すらも、自分を追えていない。そう感じる程に。
ただひたすらに、走った。
***
倒れた。無様に倒れた。
アメルカはもう限界だった。
廊下に仰向けになって、照明器具を見上げた。この照明の明るさ加減なら、時間は、午後五時ぐらいだろうか?
(……さすがに、やり過ぎましたわ)
頭も冷え、口調も元に戻ったアメルカ。しかし彼女には、この後に地獄が待ちわびている。
そう、帰宅と言う地獄が。
(服も汗でびちょびちょ……本当に! あの男最悪ですわ!!)
汗だくになったのは、全力で走った自分のせいなのだが、しかし、元凶はヴェントなので仕方無い。
その元凶の男の姿は、見えない。
(ふん! 当たり前ですわ! 私とは鍛え方が違いますの! この前の手加減した喧嘩で良い気になった様ですけれど、これで格の違いと言うやつを思い知ればいいですわ!!)
彼女はヴェントを鼻で笑い、しかし、あの男から感じた懐かしさを思い出し、物思いに更ける。
(……あの時感じた懐かしさ。忘れてしまった何かを、大事な何かを、あの男から感じた)
火照った身体を、ヒンヤリとした廊下で冷やしながら、考える。
あの懐かしさは何だったのか。
(……はぁ、きっと勘違い。デジャヴというやつですわ)
勘違いと結論をつけ、息も整ってきたので立ち上がろうとした、その時。
廊下の奥から、誰かの息遣いが聞こえる。そんな馬鹿な、あの男の訳がない。
違うと思いながらも、彼女は立てなかった。まるで金縛りにあった様に。
(そんなのあり得ませんわ! きっと違う人、そうに違いありませんわ!)
その声は、息遣いは遠い。しかし着実に、そして確実に、こっちに向かって来ている。
彼女は立てない。もう息は整った筈なのに、またすぐ走れる筈なのに。
姿が見えた、彼だ。
汗は
もはや流れない程に。
身体は今にも倒れそうな程に。
けれども彼の、目は死んでいない。
アメルカは理解する。
こいつの心は、折れない。
例えどれだけの差があろうが。
例えどれだけの高さがあろうが。
こいつは死ぬまで、前に進むと。
――そう、確信した。
やがて彼は、倒れているアメルカを追い越し、そして自らも倒れた。本当に今にも、死にそうだ。
(何でそこまで……)
自分を追い駆けるのか、アメルカには理解出来ない。
彼の思想が、思考が、信念が。
彼の行動の理由が、理解出来ない。
「あなた、おかしいですわ」
気付けば声は震えていた。怖い、怖い、怖い。
先程まで、あんなに優位だったのに、あんなに圧倒的だったのに。
しかし今は、こんなにも――怖い。
こいつは今は苦しそうな顔をして、自分の前にいる。
(殺してしまいましょうか、こいつ)
彼女はそう思った。
本気でそう思った。
この男は障害になる。
残り日数、二十四日。
(邪魔される訳には、いかない)
彼女の原点、彼女の行動理由。彼女が求める、ただ一つの希望。
それを手に入れる為、彼女は自らの性質を使おうとした。
「おかし……くない……よ?」
しかしその前に、彼は言った。息も絶え絶えで、まだ苦しそうにも関わらず、断言した。
自分の行動は、間違って無いと。
自分の行動は、正しいのだと。
断言、したのだ。
「……いいえ、おかしい! あなたはおかしいですわ!!」
アメルカは起き上がった。跳び跳ねる様に起き上がった。
そして叫んだ。
断言する様に叫んだ。
断罪する様に叫んだ。
ちらりと、横の教室の表記を見る。
【1ー6ーD】。
そこにはそう書かれていたのだ。
一周したのだ。三地区分で、息も絶え絶えだった彼が。
七地区分、走りきったのだ。
「意味がまったくわかりませんわ! あなたは何ですの!? 何でそこまで追い駆けて来ますの!?」
有らん限りの声をぶつける。有らん限りの疑問をぶつける。
気が付けば、アメルカの大声につられて、ちらほらと、Dクラスのメンバーが周りにいた。
しかしそれすらも、どうでも良い。
「……正直に言いますと、今私はあなたに恐怖していますわ。」
声を押さえ、殺気を押さえて言う。今ここには、奴がいる。
「……ごめんなさい」
ヴェントが呟いた。しかしその声はあまりにも小さく、彼女には届かない。
「? ……聞こえませんでしたわ? 何と仰ったのかしら?」
ヴェントはそれに答える様にゆっくりと立ち上がり、彼女の目を見据えて、今度はしっかりと言った。
「ごめんなさい」
今日何度目になるか分からない、困惑。
こんなにも分からない人間は初めて見た。
今までいた男は、もっと単純だった筈だ。
例えばそこにいる男。この前飛び掛かって来た男。
その男は分かる、嫉妬や妬み。
今はましになったが、あの出来事の前なら。
敵意と同じ、視線を向けていた。
しかしこの目の前にいる男は、分からない。
何を考えているのか。
何を思っているのか。
何を、謝っているのか。
追い駆けた事を謝っているのだろうか? いや、違う。
じゃあもしかして。
(この前の出来事を謝っていますの!?)
つまりこいつは、そんな事の為だけに、十地区分、走りきったと言うのか!?
「この前突き飛ばして……ごめんなさい」
ヴェントが続けて言った言葉で、確信が確定に変わった。
単純だった、どの男よりもこいつは。
謝る機会を伺ってただけだった。
しかし、それでも分からない。あの時感じた懐かしさは、原因はいったい何だったんだろう。
「あの……アメルカ?」
「えっ?」
名前を呼ばれて、はっとする。目の前の男は、先程とはうって変わって、不安そうな顔をしている。
「ああ、別に良いですわ」
「許してくれるの?」
「ええ、許してあげますわ」
そうアメルカが言うと、ヴェント笑みを浮かべた。あの出来事の時に浮かべた笑顔。全てに期待されて無いDクラスで、あまりにも場違いな、明るい笑顔。
「ベルン」
「……はぁ、たく。分かってるよ」
ヴェントに促され、ちょうどそこにいた男、ベルンはアメルカの前に出ると、頭を下げた。
「……この前飛び掛かって、悪かった」
「え、ええっと……」
またもやアメルカは困惑する。
今までこんな事、一回も無かった。そんな状況。
「アメルカ」
「…………」
しかしそれでも、分かった。
「……私も、酷い事を言って、ごめんなさい」
きっとこうする事が、正しい事だと。
彼が浮かべる笑顔が、その答えだった。
外の世界まで、後二十四日。
***
この日を境に、アメルカとDクラスは一気に打ち解け始める。
それもその筈、何故ならここには。
同じ境遇。
同じ環境。
同じ結末。
血よりも濃い、絆で繋がった、家族。
誰にも期待されず、誰にも必要にされない。そんな彼等が求めた希望。
例え周りが何と言おうが、彼等にとって、過ごしやすい、楽園。
Dクラス、死を受け入れさえすれば、そこは、彼等にとっての憩いの場。
今回の記録はここまで、次回はまさかの転校生! が、現れるかも知れないね。
多分、きっと、そうなんじゃないかな?
では、次の記録で。