力を抜いて
今日は今年に入って三度目の“ノー・ボトムズ・デイ(NBD)”だ。
“おはよう”
“おはようございます”
入社2ヶ月目の部下に朝のあいさつの声をかける。まだ恥ずかしそうだった。前回の時に彼女は初めて下をショーツだけにしてきた。余程勇気がいったに違いない。女子社員たちのアンダーウェアは華やかだった。ウェアであれアンダーであれ、着飾る心は同じようなのだった。
“英里さん、リラックスできてる?”
“ありがとうございます。2回目ですから慣れました。あら、課長、ショーツなんですか”
“ああ、僕も皆に倣ってね、冒険だが少しは見栄えを考えたよ”
“あ、そうなんですか、でも似合いますよ”
“ありがとう、今日はNBDだ、お互いゆったりと仕事しよう”
“そうですね、ありがとうございます”
そう言って彼女は席に着いた。
広いフロアに課やグループごとに島のように机の群が配置されている。会社は、業界でも待遇・福祉の面で先進的な取り組みをしていた。このNBD制度に先がけて、リラックス・ルーム(RR)制度というのも実施されていた。生理の日に女子社員は始業と終業時に併せて1時間、席に着いていれば、あとは何時間でもRRにいていいのだ。グループウェアのスケジュールにRRと入力しておけばよかった。もちろん出社せず生理休暇を取ってもいい。RR内は個室になっていて、ハーブティなどの飲物も用意され、ベッドとリクライニングチェアが各室に完備されていた。医療知識をもつカウンセラーも常駐していた。
RR制度を導入してからは、既に2年弱が経っていたが、それ以来この会社の株価は上昇を続けていた。女性の“行きたい会社”ランキングでも常に上位をキープしていた。
LGBTの人たちも積極的に雇用しているこの会社にはトイレも4つある。女子、男子、identityが男子、それが女子の4つだ。みな、それぞれに離れた場所に配置されていて、トイレに行くのに余計なストレスもない。社員たちにも好評だった。
NBDがスタートしたのは1年弱前だった。社長が主唱したのが実施にこぎつけるまでに、議論が続いた。主に年輩の役職者たちと女子社員たちが反対し続けたのである。ストリップ紛いのことをなぜ会社がするのか、という強硬意見が大勢だった。皆、疲れていた。しかし、LGBTの社員や女子社員の中にも、こだわりのない自由な考えの持ち主もいて、彼(女)らが社長の意見に積極的に応じたのである。やがて、制度が強制ではなく、従来どおり普段着でいても構わないことなどが受け入れられ、制度は導入された。それに伴い、男・女・LGBT用2室の4つの着替え室も増設された。セキュリティ上、社内の窓はすべて目張りがしてあり、外から内部を窺うことはできなくなっていた。
NBDの初日、着替え室からショーツ姿で出てきたのは、LGBTの社員と賛成派の女子社員たちだった。彼(女)らは闊歩しながら周りの社員にあいさつし、それぞれの席に着いたのだった。同僚たちは圧倒され、小声であいさつを返すばかりだった。インターネット専門の保険会社には営業職もいない。その分、福祉や設備に回しても人材確保には有利にはたらいたのである。当初は月1回、しばらくして月2回と日を重ね、やがて少しずつ周囲もそれに順応していくようになった。何よりも、最初反対の女子社員たちが、賛成派たちを見て感化されていったのが潮目だった。彼女たちの眩しいウェストラインを見、“あたしも”と次の回から反対派を撤回していったのが大きく作用した。やがて男子社員もこれに加わった。LGBTの社員は状況をリードしていた。(元)男子は最初からセクシーなショーツを穿いてきた。一方の(元)女子は男子のボクサータイプを身につけた。男子社員は寒色のボクサーパンツがほとんどで同じものを穿いているのに気づき、沈黙が広まることも重なった。そのうちに、男子の中からショーツを穿いてくる社員が現れた。が、誰も奇異の目を向けることはなかった。LGBTの社員たちがそのようなスタイルで通していたからである。彼らはこの男子社員を賞賛したのである。アンダーの自由さは、次第に浸透していった。仕事に真剣に向き合う分、不要な緊張から解放されたのだった。
RR制度、NBD制度と、会社は世間の耳目を集め、週間誌記者の取材申し込みも引きも切らなかった。彼らのほとんどは好奇の目で話題をかき立てようと、ロングショットの社内風景を掲載したり、モザイクを入れて様子を紹介する雑誌もあった。が、LGBTの世論がそれらの好奇の視線を非難し、会社を外から援護したのである。会社に対するLGBTの支持は高まった。
社は仕事をきっちりこなすことだけを求めた。社員たちはその分、仕事をおろそかにしようとしなかったのである。下がアンダーウェアだと上着も軽くなる。程なくランニングやキャミソール姿も見受けられるようになっていった。月1回から2回、さらに週1回とNBDは増えていった。小さな驚きが回を追うごとにあった。Tバックを身に着けてくる社員がいた。ペニスケースの“ゴサガ”を着けてくる猛者も現れた。水面に石を投げるように驚きと笑みを周りに広げ、受け入れられていったのである。マスコミ報道を見て、自社にも、と採用する会社も出てきた。志気が上がってゆくことが明らかだったのである。衣服という権威を脱ぎ捨てるのは、業務に肩肘張らずに注力するのと表裏をなしていたからだった。
言語圏マーケティングプロジェクト、イスラム圏プロジェクト、ハビット・タブー調査チームなど、海外進出を見据えて準備も着々と進められていった。既に英語圏要員としてカナダ人とイギリス人の男女計3人が採用され、プロジェクトは少しずつ進んでいた。彼らはRRもNBDも抵抗なく受け入れたのである。テストケースとして、会社はアジアのイスラム圏留学生のアルバイトも募集してみた。応募者は多かった。面接時に社内制度についてもていねいに説明し、受け入れられる応募者から男子と女子を1名ずつ採用を決めた。が、NBD当日、女子アルバイトは事前に納得していたものの、実状を目の当たりにして絶句し、会社をそのままにし、戻ることはなかった。連絡も途絶えた。男子アルバイトは黙り込み、仕事にも身が入らなかったようだった。結局は辞めていったのである。募集はその後も何度か試みられた。が、断念するか、現状に直面して去っていくかだった。数度の募集を経た後、イランの女性が応募してきた。彼女も制度を理解し、採用が決まった。NBDと葛藤しているのは明らかだった。幾度かの後、ロクサナはアンダー姿で席に着いたのだった。
イスラム圏プロジェクトのミーティングには新たにロクサナも交えて始まった。ロクサナは率直に心境を語りはじめた。今も戸惑いはあること、社内制度はビジネスと関連が見出し難いこと、ムスリム、特に男性に反感を買うだろうこと、同時に、私は同じ目線に立ってみようと一歩を踏み出したことなどを口にした。彼女の発言を機に、上司や男子社員も制度について口にしはじめた。
“いやぁ、最初はとにかく、自分が恥ずかしかったよ、ズボンは穿いたままだったし、でも女子社員はもう綺麗な下着で目の前を歩いていたし”
“課長もですか、僕もちょっとドギマギしちゃいましたよ。でも自分からズボンを脱ぐ勇気はまったく無かったです”
“参ったね、あれは。社長があんなこと言い出すんだから。まあ、しばらく普段着で誤魔化そうと思ったけどね。でも、彼女たち、堂々としてるんだもの、こっちは形無しだよ。だから、翌日下着売場に走ったよ。どうにか格好のつけられるものを探しにね”
“やっぱり、そうでした? 私も探しに行きましたよ、ブリーフじゃいくらなんでも・・・。対抗ってわけじゃないけど、どうにか太刀打ちしなくちゃ、とか思って”
“衣服なんて、ま、こけおどしなんだな。あんな直球で迫られたら、どうしようもないよ。それでも次の時には買ってきた下着でどうにか通したけど。でもまあ、彼女たち、それでも誉めてくれたからよかったけど。格好がつかないのはどうしようもなかったな”
“ちょっとヤラれましたね。でも言ってみれば半裸でフラットにお互い向き合えるのはよかった気がします”
“俺なんかもう、カッとするような真似はできなくなったよ。女房も会社で何かあったの? とか聞いてくるし、隠すわけじゃないけど、話をしたら驚かれて。でもまあ、へ~ぇ、ずいぶん会社も思い切った事したじゃない、なんて冷やかされて。でも格好のつくものを見立ててくれるようになってさ。俺、ブリーフだったからな”
“僕なんか、これじゃ駄目だって、思い切って会社帰りに澄美香さんに、自分に似合うようなの、ないかなって相談したんです。それで、下着売場で何枚かお勧めのを選んでくれて、次の回にエイヤって穿いていったんですよ。澄美香さん、喜んでたな、そっと拍手してくれて。それから、もう吹っ切れた感じで。そういう趣味なかったけど、女子社員への気後れも少し減ったかなって感じでした。何なんでしょうね、下着だけだと男は完敗ですね”
“なるほどね。ま、沢口君を見て俺もその気になったんだけどね。女房に言ったら、あなた変態? 別にわたしの選んだあのパンツでいいじゃない? っていって怪訝な顔されたよ。まあ事情を知ってたから、結果的にそれでもショーツを選んでもらって。大きなサイズがなくて難儀したけどね”
ロクサナも話に加わってきた。
“みなさん、ストラグルしていたんですね。私とは事情が違っていますけれど、お気持はわかるような気がします。でも、会社の姿勢はあまりイスラム圏では公にしない方がよいように思います。私自身、日本に来てまだ20週にもなりませんが、さまざまな日本の人たちを知った中で、考え方にも幅があることを少しだけ理解したと思っています。ただ、ムスリムの人たちは中心にクルアーンがあって、それ以外は無価値と等しいのです。ムスリムの価値観に沿わないと保険ビジネスも困難だと思います”
“ロクサナさん、率直な意見、ありがとう。これからも忌憚なく教えてください。みんなも。じゃあ、今日はこれまでにしよう。次回のミーティングもNBDの日、14時からでいいかな?”
“はい”
“それで結構です”
まほらま生命保険は、インターネット生命保険会社の中でも徐々にシェアを伸ばしていった。社員定着率がよかったからである。思い切った社内制度が功を奏し、求職者を引きつけたのだった。何よりも社員の確保を優先したのである。商品の教育には最も力を注いだ。人材基盤は充実していった。
“はい、まほらま生命保険、受付でございます”
“……”
“もしもし、どちら様でございましょうか、もしもし……”
“おかしいな、菜摘さん、ちょっと入口、見てきてくれない?”
“はい、わかりました”
会社の受付は頑丈なドアで隔てられていた。ロゴを大きく掲げてあるものの、小さなテーブルにインターフォンを置いただけである。顧客はそこで来意を告げるようになっていた。菜摘が戻ってきた。
“樋口さん、誰もいませんでした。でもこんな荷物が置いてありました”
荷物を受け取った樋口智子は不審に思った。
“ありがとう、菜摘さん。何かしら?”
2人は目を合わせ、困惑の表情を浮かべた。
“もしもし、樋口です。寺島さん、総務で何か荷物の配達に心当たりありませんか”
“ああ、智子さん? ……特にないけど、どこからの荷物?”
“はい、ええと、モスレム・ワン……ネス、って書いてありますけど”
“ちょっと変ね。わかりました、すぐそちらに行きます”
轟音が社内を貫いた。暗転は一瞬だった。吹き飛んだ窓から、充満した黒煙を通して外光が鈍く射し込んでいた。血だらけの人形のように、身体が転がっていた。悲鳴や呻き声、泣きわめく声が周辺に満ちていた。
溝口英里は突然の激痛にうずくまっていた。右腹部には大きな傷口から血が流れ、左股も深く切れていた。呻くことしかできなかった。が、必死で周りの同僚を助け起こし、声をかけ続けた。
“澄美香さん、澄美香さん! 大丈夫ですか? 私の肩につかまってください!”
英里は澄美香の腕を首に巻き付け、しっかり握りしめて立ち上がらせ、半ば引きづるようにリラックス・ルームの方向に抱えていった。澄美香をなんとかベッドに横たえると、痛みと恐怖を推して、同僚の救出にふたたびフロアに戻っていった。
──英里には長い時間のように思えた。サイレンの音が聞こえ、救急隊員の姿を見ると力が抜け、英里は気を失い、その場に倒れ伏した。
夕方のニュースのトップに、地方都市郊外で起きた爆破事件が大々的に報じられた。若い女性被害者が次々に搬送され、一様にほっそりした脚と鮮血の映像が目を奪った。海外で頻発する自爆事件との関連も含め、捜査が開始されたとニュースは付け加えていた。