彦坂総合病院の裏事情
彦坂総合病院は、俺の鍼灸院から歩いて七分。七階建ての大きな病院だ。
病院の評判は、なかなかよい。
ただし近所の人は内科だけは利用しない。公麿が内科部長になってから、悪い噂ばかりが流れているせいだ。
公麿は誰が来てもバファリンを処方する。太ったおじさんを妊娠五か月と誤診したというウワサもある。公麿の実力を考えれば、このウワサはたぶん本当。
近所の薬局は、公麿の処方箋だけは受け付けない。そのくらいヒドイ。
公麿が医師免許を持っているのは、世界七不思議のひとつ。
自動ドアを抜けて、エレベーターで七階へ。
七階は他の階とは違う豪華な作りだ。一番奥は院長室。公麿の父上、彦坂大膳氏の部屋だ。
どういうわけか、院長はほとんど病院に来ないらしい。だから、この病院では公麿が一番エライ。実質的な院長だ。
バカ殿というコトバは公麿のためにあるようなものだ。
院長室の手前が内科部長のお部屋。ドアには院長よりも大きなプレートがかかり「内科部長彦坂公麿」と書いてある。
ノックは三回。公麿のどうでもいいこだわり。
「どうぞー」
ドアを開けると、白衣を着た公麿が大きな椅子に身をうずめていた。
見るたびに腹が大きくなっている。超メタボ。大きなメガネが似合っていない。ポマードで固めたテクノカットが超ダサい。でも、自信満々の笑顔。
目の前のテーブルには、大きなマシーンが載っていた。プロペラが四つ付いている。
俺は、いつものようにドアを閉じて、カギをかけた。
ここでの話は秘中の秘だ。
「狩嶋ちゃん、遅いじゃないの」
「すいません、今日も患者さんが多すぎて、診療が長引いてしまいました」
「これ、何だと思う?」
「ドローンですか?」
「正解。今日届いたの。これから飛ばそうと思ってたところ」
「遊びよりも、仕事優先でお願いします。俺は患者が多くて忙しいので」
「仕事?」
「治療のために呼んだんでしょう?」
「あっ、そうか。忘れてた。さっそくだけど、昨日から入院している患者さん、治療させてあげるよ。狩嶋ちゃんみたいな未熟者が、ウチみたいな大病院で研修できるんだから、君はラッキーだよね」
また始まった。すなおに頼むと言えない性格。
まあ、俺も商売だから逆らわない。
「じゃあ、さっそく行こうか。私が監督するから、ダイジョウブ。自信を持って打ちなさい」
「経過とか、病状とか、そういうのは?」
「カルテ見てみる? あ、ごめん。カルテは英語だった。狩嶋ちゃんの低学歴では、読めないよね」
俺は看護師の星野さんから聞いて知ってる。公麿のカルテは英語じゃなくて、ローマ字だろ。
だけど、何も言わないのが俺流。
「英語が読めない君のために、説明してあげる。患者さんは、高田五郎様。六十歳、男性。父上の代からの市会議員さん。ウチの病院に補助金をもらうときのキーパーソン、つまりVIP。ここのところ大事だからね」
病気と関係ない話ばっかりじゃないか。公麿は余計な話が多すぎる。だけど笑顔が俺流。
「昨日の夜、腹痛で来院。検査結果は異状なし。バファリンを処方。今のところ効き目なしと」
腹痛にバファリン。効くわけない!
むしろ悪化するだろ。
でも、バカ殿にはさからわないのがおとなの知恵。俺はおとなだからホンネを表情に出さない。
「手ごわい患者さんですね」
「狩嶋ちゃんは、経験が浅いから、わからないだろうけど、私の腕なら簡単に治せるんだよ。だけど君のような未熟者に鍼の腕を磨く機会を与えてあげようと思ってね。私くらいの大物になると、若い人の育成とか、日本の医療の発展を考えないといけないから」
「ありがとうございます」
「じゃあ、さっそく行くよ」
公麿はエレベータに乗り、六階のボタンを押した。
階段のほうが速いのに、わざわざエレベーターに乗る。ココナツオイルにハマっているらしいけど、公麿のメタボ体形は永久に治るハズがない。
六階でエレベーターから出ると、ヨーロッパのお城のような内装が広がっていた。
俺は六階に来るのは初めてだ。こんな階があるなんて全然知らなかった。
「このフロアはね、お金持ち専用。豪華でしょう。床の大理石は、イタリアから取り寄せたんだよ。ちなみに上のシャンデリアは一千万円」
こういう自慢話が面倒くさい。
廊下の左右は個室になっている。どの部屋も広そうだ。ちょっとしたホテルよりもずっと豪華。
「どの部屋ですか?」
「一番奥」
「ここですか?」
部屋の前には「院長の許可を得たもの以外は立ち入り禁止」と書いてある。
「そっちじゃない。こっち、こっち」
公麿は病室のドアを開けて入って行った。
部屋に入ると星野さんがいた。スカイブルーのナース服が似合っている。
一瞬のアイコンタクトで、だいたいわかる。今回も公麿の誤診で大変なことになっているようだ。
星野さんは優秀な看護師さんらしいけど、公麿の患者さんを受け持っているんだから宝の持ち腐れ。こんな病院なんか辞めて、モデルにでもなればいいのに。
「先生、患者さんの熱が下がりません」
「何度あるの?」
「三十九度です」
「おっかしいな。バファリンの量増やしといて」
「右下腹部に反跳痛ありますけど」
「だから何?」
「部長」
病院の中では、公麿を「部長」と呼ぶのが、バイト中の決まり。
「カルテを見せてもらっていいですか?」
「見たってわからないでしょ」
「鍼師の決まりなんです」
「そうなの? 鍼師のくせに生意気だね」
俺は公麿からカルテを受け取り、検査結果に目を走らせた。
白血球が異常に増えてる。看護学生でもわかる明らかな細菌感染。しかも右下腹部に反跳痛ありだから、確実に虫垂炎。ブラックジャックで読んだから、間違いない。
この検査結果を見て異常なしと判断した公麿……恐るべきヤブ。
患者さんは腹を曲げて苦しんでいる。肌は脂汗でじっとり。
ちゃんとした医者にかかれば、今ごろはテレビでも見ながらくつろいでいたはずなのに。
この病気は、俺に言わせれば、体を守る衛気がばい菌に負けている状態だ。
こういうときは、陽気を注入して衛気の力を強くする。そうすると衛気がばい菌を殺し、病気は自然に治る。
「では、打ちます」
「高田さん、喜んでください。ウチの病院では、VIP限定で、鍼治療を併用しています。鍼治療なんて古臭いと思われるでしょうが、内科部長のこの私が監督しているからダイジョウブ。打たないよりマシです。さ、狩嶋君、始めなさい」
目を細めると、左右のひざの下に白い光が見えた。
あれは足三里。有名なツボだ。気の力が弱ったら足三里。爺ちゃんも言っていた。
右足のツボをアルコールで軽く消毒。これが鍼を打つ前の決まり。
愛用のディスポ三番鍼を打鍼。
鍼は抵抗なく沈んでゆく……
おっと、指先のこの震え。ツボのど真ん中に当たった。
ここから俺の得意技、挿気補法で陽気を流し込む。
鍼をゆっくり右回転させる。鍼の頭に陽気が集まり、経絡に流れ込むのがわかる。陽気が経絡に充満すれば、衛気が活性化して、虫垂炎なんて一発で治る。
「どうですか?」
「ヒザのあたりから、何かが上がってくる感じがする」
「それです、それ。効きますよ」
俺は右足に置き鍼をしたまま、左足にも打鍼した。
左右の足三里から陽気が押し寄せ、衛気を助け、腸で炎症を起こしている菌をコテンパンに叩く。
指先に伝わってくる衛気の勝利。ばい菌が降参しているのがわかる。
「痛みがおさまった」
高田さんは大きく深呼吸した。
もうあなたは治っている!
今すぐコッテリ背油トンコツラーメンを食べても問題ない。
「どうです高田さん、鍼も悪くないでしょう?」
公麿の笑顔。目が悪光りしている。
何かを企んでいる目だ。
「驚いた。これはスゴイ。さっきまでの痛みがウソみたいだよ」
「鍼を取り入れたこの治療は、内科部長である私のアイディアです。この治療を広めるために研究費が必要なのですが、補助金のほう、何とかなりませんか?」
「いくらかかるの?」
「二億円くらいです」
「二億? 高いね」
「医療には、お金がかかるんです。何しろ、人の命を守るお仕事ですから」
「しかしね、市にも予算というものがあるからねえ」
「先生のパーティー券、三千万円分買いますよ」
「二億ね。了解です。パー券については、秘書から連絡させるから」
「お待ちしております。では、また、のちほど。狩嶋君、ちょっと」
公麿は俺を部屋の外に連れ出し、部長室に戻った。
「今日の鍼治療、なかなかよかったよ。だけど、鍼を打つ前の消毒のしかたがダメだね。もっと練習しときなさいよ」
「わかりました。さっそくですが、代金をください」
「はい、これ」
封筒の中を見ると、三万円しか入っていない。今までは五万だったのに。
「少ないじゃないですか!」
「狩嶋ちゃん、君、無免許なんだって?」
「あ、いや、それは……」
「私が保健所に電話したらどうなるかな?」
「それ、汚くないですか?」
「お黙りなさい! 前から言おうと思っていたけど、医療業界では、医師が一番エライってこと、わかってないでしょ? 鍼灸師なんて職業は、医師会のお慈悲で潰されずに済んでるんだよ。医師の中でも、エリート中のエリートのこの私に、無免許鍼師の君が口ごたえするなんて、一万年早い」
「どっちがエライとか、ありえないと思いますけど」
「大アリです! だって、どう考えても、私のほうが君よりエライでしょう」
「そんなことないと思いますけど」
「私が乗ってるのはベンツ、君はボロい自転車。私は九兵衛の寿司食べ放題、君は贅沢しても、ペヤング大盛り。私は海外に別荘たくさん持っているけど、君は借家。私はリゾートでスイス、君は近所を散歩」
悔しいけど事実。やっぱり本業のほうで頑張っておけばよかった。
「わかったら、その領収書にサインして、とっとと帰りなさい」
「領収書の金額は五万円になってますけど?」
「君みたいなビンボー人と違って、お金持ちは税金対策が大変なの。黙ってサインしなさい」
ひどい!
俺は領収書に泣く泣くサインした。
「あ、それからね、これから治療に使った鍼は持ち帰ってね」
「どうしてですか?」
「医療廃棄物って、処分するのにお金かかるの。狩嶋ちゃんのゴミは、狩嶋ちゃんが処分してよ」
「小さな鍼たった二本ですよ」
「そういうところがいい加減だと、経営は成り立たないの。経費削減、無駄の節約。私は経営者としても一流だから、狩嶋ちゃんとは感覚が違うのよ。星野君に電話しておくから、帰りにゴミを受け取って帰ってね。じゃ、そういうことで、とっとと帰ってくださーい」
くそー! もうこんな病院で二度と治療なんてしてやらない。
部長室を出て六階に行くと、星野さんが申し訳なさそうな顔で待っていた。
「ごめんなさい。これ、さっき抜いた鍼です」
「星野さんのせいじゃないですよ。それに、医療廃棄物の管理は鍼師の責任ですから、気にしないでください」
キレイな人の前では、カッコつけるのが俺流。
俺は試験管に入った使用済みの鍼を受け取った。鍼を破棄する代金よりも、この試験管のほうが高くつくだろ。
「ところで、高田さんの病室の向かいの部屋なんですけど、あそこにも誰か入院しているんですか?」
「そうみたいね……」
「星野さんも知らないんですか?」
「あの部屋ね、開かずの間って言われているの」
「開かずの間? 不気味な……」
「あの部屋にはいつもカギがかかっていて、特別な人しか出入りできないの。内科部長も入れないのよ」
殿様である公麿も入れない部屋となると、入院患者の素性は、病院のトップシークレットにちがいない。
「芸能人とか、ですかね?」
「さあ、わたしも詳しいことは知らないの」
「誰が主治医なんですか?」
「院長がいるときは院長。ふだんは皮膚科の高木先生」
「皮膚科の高木先生って、聞いたことありますよ。すごく評判がいい先生ですよね」
「腕もいいし、人柄も温厚。院長が一番信頼している先生よ」
「そうか、院長にも一応、人を見る目があるんですね」
「確かに、そうね」
「それなのに、あの人が内科部長だなんて……」
「世の中に、完璧な人間なんていないわ。身内に甘いのが、院長の欠点ね」
「甘いにも限度があります。部長は別の病院で何年か修業したほうがいいですよ。医者っていうのは、人の命を預かる仕事ですからね」
「受け入れてくれる病院なんてないわよ」
「そうか……それも、そうですね」
「せめて、自分の実力を認めて、経営だけやってくれれば、いいんだけど」
「確かに、部長は自信過剰。医療には謙虚さが必要です。腕自慢したいなら、俺くらいの天才じゃなければダメですよ」
「自分のことを天才って……やっぱり、人間って、自分のことはわからないものなのね」