わあっ!
「お前、何をしている?」
冷たく気持ちを押し殺したような声が背後から聞こえたと思った瞬間にグレイの身体は舞っていた。
音も立てず、瞬時に腰にぶら下げていた剣を抜き取り後ろから私の細い首にピタリと当てた。
目の前に見える剣の先端は、鋭く尖り赤く染まっている。
脅しを兼ねて私の首を掠らせたのだろう。
血が出ているというのに不思議と痛みは感じず、逆に冷静になれたことは感謝かな。
ここでパニクったら、グレイの思う壺だろうし、私もこのままでは済ます気は無い。
しかし、若僧のくせに私も舐められたものですね。
賢者と呼ばれるのなら、相応の準備は出来ているのに思慮が足りないよ。
グレイの剣技には隙はなく、誰よりも早く鮮やかな分、私のこの姿では敵にもならないだろうという油断が出てしまったのだろうか?
首を掠めた技量も確かに神業というべきだし、アストラーナ帝国にはグレイの剣さばきに勝てる者などいないことは周知の事実となっている。
グレイに狙われたら、命はない。
アストラーナ帝国、近衛師団の優鬼と言えば近隣諸国でのグレイの通り名だ。
私は、心の中に生まれた沸々と煮えたぎる怒りをグレイに悟られまいとして、平然とした顔を取り繕うのがやっとだった。
シャル姉様に流し込んだ生命のエネルギーは、私の考えていた量の十分の一にも満たない。だけど失敗したまま二人共がここで朽ち果てるのだけは我慢出来ない。
せめて、シャル姉様だけは自由にしてあげたい。
私がどんなに長く生きていても、シャル姉様より素晴らしいことや幸せな気持ちをみんなに与えてあげることなんて出来るはずもない。ならば、私が役に立つには、シャル姉様を救い出すことで十分!
「ふん。平然な顔をしているが、このまま私がこの剣を少し動かしただけでお前の命は消し去ることができる。そのまま動かずにじっとしていろ。
ナターシャ様以外はこの部屋から出て行きなさい。
アズールの犬は私が自ら始末するから、わざわざ近衛兵は呼ばなくてもいい」
一応の体裁は繕ったようがだ、少なからずメイド達が衝撃を受けたことは見て取れる。
心の声も色々な反応があった。
「さあ、みなさん。この場は出て行きなさい」
手をパンパンと鳴らして、ナターシャ妃がメイド達を部屋から追い出そうと必死だった。
グレイの正体がバレると自分達が危険な目に会うと考えた上での行動だろう。
グレイの言うとおりに動かねば、ここに居るメイド全員を葬り去ることも容易いことだし、なによりこの後にシャル姉様やナターシャ妃に降りかかるグレイの愚行に怯えているみたいだ。
それに付け加えだが、私の命の心配までしてくれている。
メイドが全て部屋から出て行くと同時にグレイは私に命令を出した。
「ゆっくり、こちらを向け。おかしなことをすれば、命はないぞ」
先ほどまでの声音ではなく、低く冷酷な声音に聞こえたのは私だけではないだろう。
私は言われたとおり、ゆっくりと身体をグレイの方に向けながら、ある規則どおりに軽く息を吐いた。
「さあ、言ってもらおう。シャルロットに何をした?
お前の後ろ姿から気を感じた。それに空気が揺らいだのは間違いない」
ナターシャ妃がオロオロしながら、私達を見ているのがよく伝わって来る。
グレイの殺気を感じてのことだろう。
私も気をしっかりと保たなければ、グレイの殺気に気圧されそうになるほど顕著に怒りを顕にしている。
「シャルロット王女に私の生命力を渡そうとしただけです」
「ふん、そんな余計な真似はしなくてもよい。
シャルロットを殺すことはない。
ところで……お前は何者なのか?
シャルロットの病気を治すのは、どういうつもりなのか?」
「いえ、ただ単にシャルロット王女に元気になって欲しいと思っているだけです。それはグレイ様も同じではないでしょうか?」
あと、少し……。
もう、少し話せれば……。
「ふふん。シャルロット王女には、私の子供を産んでくれたらそれでいい。あとは静かに余生を送ってくれれば用無しだ。それに、あまり長生きというのも酷というものだろう。シャルロットの病気は進行はしても回復することは無い」
「どうしてそんなことを言われるのでしょうか?
シャルロット王女を愛してはいないのですか?
あなたにとって大事な人と思っていないのですか?
このままでは、本当にシャルロット王女はいなくなります。それでいいのですか?
もうシャルロット王女の命は風前の灯火でしかない。私にはそれを感じる能力があります。将来の話をする以前の問題です」
「ふん、言われなくとも昔はシャルロットを愛していた。私は長年にわたり、シャルロット王女のことを一筋に思っていた。だが、それでも一向に受け入れてもらえなかった。それならば、誰かに取られる前に力づくでも側に置いておこうと思ったまでさ」
「あなたは哀れな人ですね。
好きな人の幸せを願うという選択肢は無かったのでしょうか?
たぶんシャルロット王女は、誰とも結婚などしないおつもりだった。そのことは王女から私は直に聞いています。
結婚しない理由までは話されなかったのですが、こんなことをしなくてもずっと側にいられたのでは?…と思うのです。
まあ、今更お話ししても無駄でしょうけど、今からでも遅くはありません。シャルロット王女を自由にしてあげてください。今のままでは、あまりにかわいそうです」
「ふっ、もはや後戻りは出来ぬ。
シャルロットにはかわいそうだが、私が正当なアストラーナ帝国の王になるため役立ってもらう。
さて、ここまで話す気は無かったが、聞いてしまったならば消えてもらうしかないな。
覚悟はいいか?」
グレイが剣を持つ手に力が入るのが手に取るように伝わってきた。
あとの手段は、もう残されていない。
私は再び、息を吸い込んで、一気に吐いた。
それと同時にガシャーンという耳をつんざく音と共に真紅の竜が顔が部屋に突っ込んできた。
グレイも予想外の出来事にドラゴンに対峙し、剣を構え直して身構えた。
その隙に乗じて私も一気にベッドの上のシャル姉様の元に飛びついて、頭の髪飾りから武器として持って来ていた鋼の串を抜き取りグレイに向けて身構えた。
ドラゴンに向かい剣を構えたるとは、一瞬の出来事に対してのグレイの判断力はさすがだ。
私の鋼の串なんて、狙って投げても難なく弾かれるだけだろう。
それならば、逃げるのみ。
「ドラちゃん。バリアを張るから炎の吐いて!」
一瞬、ギョロリとこちらを視認してから、ドラちゃんは口を開けたのだが、その口から炎を出すことは無かった。
「おい、この女がどうなってもいいのか?」
グレイの声には、勝ち誇った自信がある。
それもそのはず、グレイの足元には剣を突きつけられたナターシャ妃が髪の毛を掴まれて身動き出来ずにいる。
「ミーシャさん。私のことは気にせず、このままグレイを炎で焼きなさい!」
ナターシャの決意は固いみたいだ。
だが、そうと言われても、『はい分かりました』とはいかない。
逆にコッチがピンチになってしまったらしい。
「うぐぐ……」
口の中にいっぱいに血の味がする。
噛み締めた唇から流れ出た血が口の中に入ったのだろう。悔しいが手はない。
「ナターシャ様、ごめんなさい。ドラちゃんお願い」
再び、ドラちゃんは口を開けようとした途端、聞き慣れた懐かしい声がそれを阻んだ。
「ふふふっ、だめだよ。
ドラ、そんなことはしなくてもいいからね。
ミーシャ、私を助けるために人の命を犠牲にするなんてことは許されないわ。
でも、本当にありがとう。気持ちはとても嬉しい。
あなたのおかげで声が出せるし、少しは動けそうよ。
グレイ、私がナターシャお母様と代わります。
だから、ナターシャお母様を離して、それにミーシャはアズールに帰してください」
シャル姉様は、私を後ろからギュッと抱きしめてると、私の手から串を取りあげて、ベッドの横に捨てるフリをした。その内の一本だけは後手に背中のちょうど腰のベルトに挟んだみたいだが、グレイからは死角になっている。
シャル姉様はヨロヨロと身体を起こして立ち上がると、私の頭をひと撫でしてから、おぼつかない足取りで、グレイに向かって歩き始めた。




