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氷雪の狙撃手  作者: ゆうかりはるる
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1-1

 息を詰めて、いや、そんな生易しいもんじゃない。

 息を殺すのでもまだ足りず、自分が呼吸をしなければ死んでしまう生き物であるということを忘却の彼方の彼方へと飛ばした上で、己を思考さえ放棄して一個の岩のような、いや、もっと鋭い、例えば鍛えぬかれた刀剣のようなものに昇華させる。

 もちろん瞬きだってしない。自分には瞬きしなければならないような眼などない。

 あるのはただ、標的を照準するスコープだけ。

 どれほどの時間、ここでこうしてうずくまっているのか。それを考える脳はとっくに放棄しているはずだが…それでも焦れてくると心が戻ってきしてしまう。

 そして、惑ってしまうのだ。

「………!」

 急に、情報の波が空っぽだった思考を蹂躙する。

 周囲の様子、萌える草木の匂いや吹き抜ける風、差し込む光やさわめく音、五感が次々に送り込んでくる情報が世界を立体的に再構築していく。

 気づけば、ただ当てるだけの的だったはずの標的は、無限に連なる情報の層のはるか彼方に微かに見えるだけ。

 これではダメだ。何とか落ち着いてもう一度、さっきの境地に戻らないと。

 しかし、いつ来るかわからない合図に、はやる心が平静を取り戻すのは不可能だった。

 視界の隅で赤い点が明滅する。

 合図が来た。

 標的は見えているが見えていない。

 命中する未来が見えないのだ。

 しかし、彼女は発射した。

 失敗。

 視界が真っ赤に染まる。

 ゲームオーバーだ。

 少女は、ゴーグルを上げ、両眼をつむって深々と息を吐いた。

「おつかれ、ミサ」

 声に反応して目を開ける。狙撃手には大きすぎる瞳は黒から深い碧のあいだの複雑な濃淡を帯びていて人目を引きつける。

 目の前にいたのは今回の実習でペアを組んだ金髪の少女、リーン・オルトノイだ。いまは迷彩柄のウィッグを被っている。対する黒碧の瞳を持つ少女ミサナ・ハイクリフの髪は闇のような漆黒だ。実は彼女の本当の髪色はほとんど白髪と言ってもいいほどの銀髪だが、この学校に入って最初の授業で狙撃手に不向きな容貌として明るい髪色が挙げられるとその日のうちに真っ黒に染め、しかも背中まで伸びていた美しい髪をばっさりと切ってしまった。ちなみに実戦演習直後のいまは、その白すぎる肌の露出している部分はすべて煤を塗ったくってある。その様子はさながら、美しすぎる煙突掃除婦だ。

 ミサナはすまなそうに、

「ごめん、最後外しちゃって」

「十発中九発も命中させておいて何言ってんの。ウチらのチーム、ダントツでトップだよ?」

 ミサナは何か言いたそうな表情を浮かべるが、リーンがそれに気づかなかったので言葉にはせず呑み込んだ。こういう言うだけ無駄なような気持ちにもそろそろ慣れっこになってきている。

 そのまま無言で『用具室』へ戻り、演習用スナイパーライフルを置いて外に出ると、二人の少女がミサナとリーンを待っていた。

「いやー、おつかれー」

 いたって軽いノリで手をひらひらと降ってきたのはノカ・ミラ、そしてその半歩後ろで首をかしげるようにして笑みを浮かべているのがエミ・エレナ。この二人も実習ペアだった。

「今回もミサちゃんたちがトップだね」エミがいつも通りの静かな声で言うと、横からノカが割り込んでくる。

「でもでも今日はウチらもスコア入ったからね。やー、ノカちゃん天才」

「ほんと、見ててびっくりしたよ。銃になんか細工したんじゃない?」

「こらっ、リン! なんか教官がこっち見てんじゃん! これがノカちゃんのほんとの実力だっつーの!」

「まあ実際はエミのサポートが良かっただけだろうけど。ていうか、もしかしてエミがノカのフリして射手を務めたんじゃ...」

「なんやとーっ! ワレちょっとオモテに出んかーいっ!!」

 ノカとリーンが騒いでいる後ろをミサナとエミが黙って付いて行く。

 普段よりもさらに大人しいミサナの様子に気がついたエミが、

「どうしたの、ミサちゃん?」

 と訊いてきた。

「ごめん、何でもないよ。……ありがとう、エミ」

 四人はそのままぞろぞろと学食へ向かう。

 誰かが提案することもなく、自然と足が向くのは、つまり常日頃の行動だからだ。

 演習場はキャンパスの西半分を専有している広大な区域であり、学食までは結構な距離がある。従って、午前中の二コマを通しで実習に費やされる木曜日は、一日限定二十食シリーズは最初から諦めるしかなかった。

 やがて一行が辿り着いたのは、およそ学食という呼び名がまったく似つかわしくない白木造りの瀟洒な平屋の建物だ。実際、正式な呼称はカフェテリアである。しかし、女子しかいないこの学園だが、軍直属であることもあって避けがたく体育会系のノリが伝統であるため、洒落たネーミングの施設はおしなべて「漢」な通称を与えられている。

 四人はエントランス、もとい、「入り口」を通って「学食」の中へと入っていく。

 さすがに券売機製造メーカーも、女子校専用デザインのリリースは考えなかったらしく、外観同様にお洒落でファンシーでクリーミーな(?)カフェテリアの中で、そこだけ正々堂々と「学食」オーラを醸している。四人の最後に食券(空間的にはチケットと呼びたいところだが、それはどこからどう見ても食券以外の何物でもない)を買ったミサナは、券売機の列から配膳カウンターの列へと進む際に、ふと横からの視線を感じた気がして首から上だけくいっと曲げた。

 学園最高の狙撃の腕前を持つからこその直感が働いたのか、果たしてミサナが視線を放った先に、まっすぐにこちらを見る、というより射るような視線が向かってきて空中で衝突して火花を散らした。…というほどのことはもちろん起こらなかったが、相手の顔ははっきりと見た。

「ミサナ?」

 すぐ前のリーンが振り返って呼びかける。見ると彼女との間に、一メートルほどの空間ができている。列が続いていると主張するには苦しいほどの距離だ。慌てて間を詰めたミサナの耳元に、

「あれ、五回生のひとたちだね」

 リーンは先程までミサナが見ていた方を見て言っているようだ。

 言われてもう一度振り返ると、窓際に五、六人ほどのグループがあった。さっきミサナを見ていたのはその中のひとりだった。声までは聞こえてこないが、口々に何事かを話している中に混じってときどき静かに喋っているように見える。と、またこっちを見た。

 視線が交差すると、時間が消えたように思える。

「ミサ、あの人と知り合いなの?」

 リーンが訊いてくる。リーンも相手がミサナを見たのがわかったのだろう。

「ううん、初めて見た人」

「ちなみに、結構な有名人だけど」

「…リン、知ってるの?」

 予想通りのミサナの答えに、リーンはにっこり笑った。ちなみにリーンは仲間内ではリンと短く呼ばれている。当人は、それについては意外と不服そうだ。

「人呼んで、学園の堕天使」

「堕天使?」

 思いもよらない単語に、ミサナは声をひそめる。

「そう。ミサも気をつけてね」

 気をつけるも何も、初めて見たのだ。しかし、確かに気になる感じではあった。

 向こうから接触してきたらどうしようかと思っていたのだが、そんな心配は杞憂だった。メニューが豊富すぎるためか、遅々として進まない列を何とか踏破した頃には、窓際の五回生グループの姿は影も形もなかった。

 いつも通りに食事の時間は過ぎていく。すなわち、ノカが他愛もない話題を次から次へと繰り出し、リーンがそれにツッコミを入れ、エミがフォローするというか、逆方向に引っ掻き回す。ミサナは普段通りの無表情でそれらを静かに眺めている。と言ってもひとり蚊帳の外というわけでも退屈に耐えているというわけでもなく、こう見えてミサナは、このささやかなグループに愛着を持っていた。

 けれど一方で、心の半分はいつも、拭えない不安に苛まれてもいた。

 それは、突き詰めてしまえば、自分は何者かという自身への問いかけだ。

 世界を巻き込むほどの大規模な戦争がなくなってすでに百年以上の時が流れ、人々は平和を謳歌している。というより、平和であることを当たり前のこととして日々の暮らしを送っている。それでも、こうして自分たちのように、戦争をするための技量を磨き続ける人間が必要であるならば、平和とは、何とも脆いハリボテのようなものではないか…。そうした思いはミサナを修練へと駆り立てた。その結果、元々の適性もあったのだろうが、狙撃銃の腕前という点において、特異点とも言うべきほどの技量として結晶することとなった。だが、周囲から浮くほどの技術をみにつけてしまったがゆえに、かえって自分の立ち位置がわからなくなっているとでもいうのか、ミサナは常に自信がなく、また、自己評価が低かった。

 もしも、本物の銃を自分と同じ血の通った人間相手に向けなければならないような時が来たら、果たして自分は本当に発射することができるのか。その、答えの出ない問いが思い浮かぶたびに、ミサナはどうしようもない不安に落ち込んでいく…。

「ちょっと、聞いてよミサちゃん! エミったらさー」

 底なしの泥沼にずぶずぶ沈み込んでいた気分が、ノカの声で一気に引き上げられた。

 客観的に見ても、この仲間はミサナにとってなくてはならない存在だ。

 そんな彼女の心境を知ってか知らずか、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ友人に対して、ミサナは胸の内で確かな感謝の言葉を述べた。

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