プロポーズ大作戦 2
(さいっていっ! 大っ嫌い! 出て行ってよ、オリーのばかあっ!)
愛しいコムギにそう拒絶されてから二週間あまり。俺は彼女とまったく顔を合わせることはなかった。
なにしろコムギは徹底的に俺を避けていたし、俺は俺でリーグが終盤戦ということで地味に忙しく、アウェイやなにやらも重なり、なかなかまとまった時間がとれない。
それに加えて、断り切れなかった取材を受けていたりしたら、あっという間にそれだけの時間が経ってしまっていたのだ。
俺は焦る。
もうコムギは俺のことなんか忘れてしまったんじゃないのだろうか。
もしかして、落ち込んだ彼女を誰か他の男が慰めていたりするんじゃないだろうか。
そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回り、ついに俺はお気に入りのテディベアを抱いても眠れなくなってしまっていた。
『オリー、今日はいいから早く帰って休めって』
目の下に隈をつくった俺にモトハシが声をかける。
俺が黙って首を振るとその背後から、いつかのスタッフがひょっこり顔を覗かせた。前に俺を怖がっていたその女性は、緊張したような面持ちでこちらになにかを差し出した。
そして意を決したように口を開く。
「あのっ、お疲れだって聞いて……その、この栄養ドリンクけっこう効くんです!」
見ればその手に握られていたのは、金色のラベルの栄養剤。
言い切って少し笑みを浮かべた彼女の手から、俺は驚きを隠せないままそれを受け取った。怖がられているとばかり思っていたんだが。
きょとんとしたその顔がよっぽど面白かったのか、モトハシが笑いながら俺の肩を叩いた。
『だから言っただろう。時が経てばわかってもらえるって』
その言葉に、改めて目の前でこちらを見上げるスタッフを見る。彼女は緊張していて、けれども俺と目が合うとにっこりと笑ってくれた。
最初に会ったときには、こちらを見るのも怖がっていたのに。
ドリンクを受け取ったまま無言でいる俺の脇を、モトハシが肘でつついた。ぱちり、と器用に片目をつむって見せ、俺に何かを促す。そうか。
「ダンケシェーン! オリー、ちょう頑張りますよ!」
できるだけ優しそうに見えるように微笑むと、スタッフはとても嬉しそうに笑顔を返してくれた。そして勢いよく頭を下げると、スタッフルームへと戻っていく。
その姿に俺は、ここしばらくのみんなのことを思い出した。
めっきり食欲の減退している俺を、ご飯を食べに行こうと誘ってくれたキーパーたち。来日してからの疲れが出てきたんじゃないかと心配して、休みを調整してくれたフロント。いつも何かと声をかけてくれるモトハシ。他の選手たちもみな、最近は覚え立てのドイツ語で話しかけてくれていた。
そしてこの栄養剤。
不覚にも俺は泣き出しそうな心地になって、ぐっと奥歯を噛み締めた。
そうだ。諦めなければ、伝えようと努力すれば、きっと気持ちは伝わるんだ。
俺はコムギに対して自分を押しつけるばかりで、きちんと彼女の気持ちを考えていただろうか。わかってほしいと言うばかりで、彼女の言葉を訊こうとしただろうか。
『元気が戻ってきたみたいだな、オリー』
『モトハシ!』
『俺の知ってるビルケンシュトックは、一回の失敗くらいじゃ諦めない奴だったと思うけどなあ?』
いつもの彼の笑みに、俺は大きく頷いてみせる。
大事な試合でミスしたときもあったし、あと少しのところで力及ばず優勝を逃したこともあった。けれど俺は絶対に諦めなかったから、今こうしてここにいるんだ。
『ということではい、これチケット。ホーム最終戦のやつ。これ持って会いに行ってこいよ』
「モトハシ……! オリーはモトハシが大好きですよ!」
「なんでそういうとこだけ日本語になるんだあああっ」
叫ぶモトハシをぐっと抱き締め感謝の意を表すと、俺はありがたくそれを受け取り、彼が勧めてくれたようにそのまま早めにグラウンドをあとにした。
コムギにこの気持ちをわかってもらえるまで、コムギの気持ちを聞かせてもらえるまで、絶対に踏ん張ってみようと心に誓って――。
***
ところが、である。
コムギの帰宅を、彼女の家の前で――今日はムッタァが留守であったため――待っていた俺の目に入ってきたのは、抱き合うようにして歩いてきた男女の姿。
薄暗い街灯の明かりに照れされたその顔は、間違いなく俺の愛するコムギ。そして、その身体に手を回して歩いてくるのは、俺の見知らぬ男。
それを見た瞬間、体中の血液が沸騰したような、反対に凍り付いたような。そんな強く複雑な想いが駆けめぐり、俺は無意識にその二人に向かって駆け出していた。
「コムギ!」
ありったけの大声を出して近づくと、名を呼ばれたコムギよりも先に、男のほうがびくりと肩を揺らしてこちらを見た。
一見すると真面目そうな若い男。そいつはなぜかぐったりとしているコムギの腰に手を回し、その身体を支えている。俺は威嚇するようにそいつを睨み付けた。
「コムギ、どうしたですか! あなたは悪いことをしてますか!」
「えっ、あの、俺……」
「Scheisse!」
吐き捨てるようにそう言って、俺は強引に男からコムギの身体をかっさらう。
その小さくて華奢な身体をそっと持ち上げると、俺は再び目の前の男を射殺す勢いで睨んだ。男はその俺の顔をまじまじと見つめ、それからなぜか満面の笑みを浮かべる。
「ビルケンシュトックさん!? オリヴァー・ビルケンシュトックさんですよね!」
「……Ja」
「すっごい! 本物! 俺、ドイツ代表のファンで、ビルケンさんのことすっごい尊敬してました! チャンピオンズリーグのPKの時とか、マジ神がかってて……やっばい、俺本物に会っちゃったよ!」
なんだか変な方向に行っている気がする。
男のあまりに無邪気な様子に、俺は入っていた肩の力が抜けていくのがわかった。どうやら、俺が考えていたようなことではないらしい。
抱え上げられ、俺の胸に寄りかかったコムギが低く唸る。それに気がついた男が、あっと声を上げて口を開いた。
「今日、会社で早めの忘年会だったんですけど、なんか鈴木さんすっごくペース早くて、潰れちゃったんですよ。普段はこんなことないんですけど……。それで俺が同じ方向だってことでここまで連れてきて……あっ、変なこととか下心とかまったくないですから! 俺、ちゃんと彼女いるし!」
ころころと変わる表情に完全に毒気を抜かれた俺は、わかったというように頷いてみせる。とりあえずこいつは悪い奴ではないらしい。
「ダンケシェーン、あー……」
「木村です!」
「ダンケ、キムラ。コムギ、オリーが持って帰ります」
ぺこりと日本風に頭を下げると、キムラはひどく恐縮してしまった。そこでモトハシからもらったチケットが二枚あることを思いだした俺は、お礼にとそれを彼に渡す。すると、キムラは目をきらきら輝かせて喜び、「必ず彼女と見に行きますっ」と宣言し、来た道を戻っていった。
サッカーを愛する人間に悪い奴はいない。
俺はひとつ大きく頷くと、気持ちよさそうに眠ったままのコムギを抱え直し、家へと歩みを進めた。まあ、とりあえず俺のうちに運んで寝かしつけよう。
寝室のテディベアに囲まれ眠るコムギを想像し、俺はちょっとだけ湧いた下心を神に懺悔した。