キスとみかんとミソズッペ
初めて彼女――コムギにキスをしたのは、近所のスーパーのヴルストコーナー前だった。
『ずっと、俺のそばにいてくれ……』
そうささやいて、この胸の中に抱き締めた彼女の身体は予想以上に小さく細く、そして今まで感じたことのないくらい柔らかかった。強く強くそれを感じたいような、壊してしまいそうで怖いような、相反する幸福感に俺の頭はどうにかなってしまう。
サッカーで鍛えた理性を総動員しようやく身体を離した俺が、そっとコムギの顔を覗き込むと、彼女は可愛らしく赤く染まった顔でこちらを見上げた。
少し、非難するようなその瞳は、しかし俺のなけなしの理性をぶちやぶる破壊力を持っていた。苦しかったせいか、大きな黒い瞳がうるんで。
そして俺は、思わずその薄紅色の唇に自分のそれを重ねていた。
信じられないほどの甘い、甘い感触。一瞬だけのその触れあいに、暴走しそうになる自分自身を抑え付けるにひどく苦労する。
ここは人前だ。人前なんだ。押し倒すわけにはいかない。……多分。
何か他のことを考えろ、考えるんだ、オリヴァー。そう、ローマ教皇だ。教皇の顔を思い出せ!
「おっ、オリー? 大丈夫?」
一瞬にして赤から青へと変わった俺の顔色に、恥ずかしそうに辺りを気にしていたコムギが慌てて手を伸ばしてくる。
さすがは教皇。想像以上の破壊力をもって、俺の中の悪魔を追い払ってくださった。気分は……あまりよくないが。
しかし、小さなコムギの手のひらが心配そうにお腹をさすってくれるのは、嬉しい。もしかして、これが試練を乗り越えた俺への恩恵か!
「コムギ、Ich liebe dich immer und ewig.」
永遠に君を愛する、なんてまさか自分が誰かに告げることになろうとは、今の今まで想像もしていなかった。
むしろ、そんな風に愛に夢中になっている奴らを、「イタリア人でもあるまいし」などと冷ややかに見たこともあった。そんな自分が、今や目の前の妖精に夢中。
その言葉に、コムギは仕方ないとでもいうような優しい目をして、ぽんぽんと俺の腕を叩いて頷いた。
「わかったってば。もう、早く買い物しないと遅くなっちゃうよ?」
「Ja!」
当然のように指しだした俺の手に、少し戸惑ったようなコムギは、それでもそうっとその手を重ねてくれた。潰さないように、傷つけないように、小鳥を包み込むような繊細さをもってその手を握る。
その時俺は確信したのだ。絶対に、彼女と結婚するんだ、と。
***
『ということで、日本式プロポーズの言葉を教えてくれ』
「またパンチングでゴール狙うようなことを……」
本屋でそれらしい本を買い込んだはいいが、自分が日本語は話せても読み書きがまだ完璧ではない、ということをすっかり忘れていた。
そう言って、すべての本をどさっとモトハシの目の前に置く。すると彼は頭を抱えて机に突っ伏してしまった。既婚者である彼が頼りなのに。
ドイツであれば同棲したままの事実婚でもいいだろうが、ここは日本、そうもいかない。特に、コムギに対して俺はいい加減なことはしたくないのだ。
将来をしっかりと約束する前に手を出せば、あの優しい両親が心配するだろう。正直、このままでは俺の理性が保たない。
『……婚約して、彼女に早く手を出したい』
『いやいや、その本音は隠しとけよ!』
ぼそりと俺が呟けば、机から勢いよく顔を上げたモトハシが叫ぶ。そうして再び頭を抱えると、何かを思いついたのか、ばしりと机を叩いて立ち上がった。
「こういう時こそ、うちの選手たちだろう!」
「センシュ……シュピーラァ?」
「そう、シュピーラァ。その彼女と歳が近い奴らに助言してもらったほうがいいって。ラートだよ、ラート。そうすりゃ懇親にもなるしなっ」
「Rat……」
なるほど、そう言えば主力選手はみなコムギと歳が近い。意外と参考になるかもしれないな。さすがだ、モトハシ!
「ダンケシェーン、モトハシ!」
「ぐわあっ」
感謝を伝えるべく、俺は目の前のモトハシを強く強く抱き締める。何から何まで、本当にしてもしたりないくらいだ。
腕の中で照れて暴れるモトハシの身体をいったん離し、その頬を両手で挟み込む。そして、俺はドイツ人はあまりしないキスというやり方で、最大限の感謝を示した。
右に、左に、もう一度右に、とその時。
がちゃっとミーティングルームのドアが開き、事務の女性が顔を覗かせた。彼女は俺たち二人を見て瞬間的に固まると、そのままそっとドアを閉めて出て行ってしまう。
『なぜだ、ササキサンが戻ってしまった。俺かお前に用事ではなかったのか?』
「うわあああああああ!!」
俺がモトハシにそう告げると、彼はなぜか叫び声を上げ、出ていったササキサンを追いかけて行ってしまう。現役時代と変わらず熱いな、モトハシ!
日本人は本当に仕事熱心だ、と俺は感心してそれを見送ったのだった。
そんなことがあってから、数日後。待ちに待ったチャンスが俺の前にやってきた。
コムギのムッティに「田舎からみかんが届いたの、食べに来て来て!」との誘いを受けたのだ。神は俺を見守ってくださっている!
俺は多少よそ行きの服に身を包むと、いそいそと隣の家のチャイムを鳴らした。
少し間があって開けられたドアから顔を覗かせたのは、毎日でも見ていたいほど愛しいコムギだった。ああ、今日もあの日本アニメの妖精のように、可愛らしい……。
「あ、オリー、早かったねえ」
「グーテンアーベントゥ、コムギ!」
「こんばんは、かなあ?」
「Ja!」
聞き取れたドイツ語に喜ぶ顔にすかさずキスを贈ると、コムギは手にしていた調理器具で俺の頭を軽く叩いた。照れる姿も初々しく、たまらない。
こちらを睨み付ける彼女は、まるでコアリクイの威嚇姿にも匹敵する可愛らしさだ。
「もう、油断も隙もないなあ。早く入って! おみそ汁火にかけたままなんだから!」
「ミソズッペ?」
ぱたぱたとキッチンにむかって駆けていく小さな背を追って、俺も今や自分の家並みに慣れてしまった廊下を抜ける。キッチンから続くダイニングに入ると、ミソ独特の匂いが鼻に届いた。
なんだろうか、この幸福感。この場所こそが人類の追い求めてきた楽園なんではないだろうか。そんな感激にひたりつつ、俺はこちらに背をむけて立つ彼女の背に近づいた。
「今日はコムギ、食事つくるですか?」
「みそ汁だけね。お母さん、ご近所にみかんのおすそわけ行ってるけど、もうすぐ帰ってくるよ。あ、そこのお椀取ってくれる? 三つね。お父さん、今日も残業だから」
真剣な表情で鍋を見つめるコムギが、こちらを見ずに指示を出す。これは……なんだかとても、新婚ぽい!
俺は言われたとおり、食器棚から三つ分の木でできたお椀を出す。そうか、コムギのファータァは帰っていないのか。できれば家族が全員揃ったところでプロポーズしたかったのだが、仕方がない。
「オリー、みそ汁よそうから、悪いけどあっちのテーブルに持っていってくれない?」
「かしこまった!」
大まじめに頷いてみせた俺に、コムギはなぜか爆笑しながらお椀を渡す。「熱いから気を付けてね」という言葉だけで、天にも昇る心地だ。
結婚すれば、これが毎日……そう思うと、自然と気合いが入る。それに、昼間若い選手たちから教えてもらったプロポーズの中に、確かミソズッペに関するものもあったはず。
よし、それでいこう!
決意を新たに、テーブルにミソズッペを並べ終えると、俺はいそいそと再びコムギのもとへとむかった。
コムギのムッタァが帰ってきたところで、俺たちはダイニングでの食事を開始した。
コムギの手料理、コムギの手料理、コムギの手料理。しかも、初めて味わうのだから、感激も深まる。
「オリー、みそ汁の味、大丈夫?」
一口一口大事に味わっている俺を見て、みそ汁が苦手だと誤解したのか、心配そうにコムギが訊いてくる。
ああ、もうだめだ。コムギのことが愛おしすぎて、我慢できない!
俺はお椀と箸を置き、目の前に座る彼女の目をしっかりと見つめる。緊張のため、顔が引きつっているのがわかるが、仕方がない。
そんな俺の態度に何かを感じたのか、コムギとコムギのムッタァも箸を置いて俺を見つめ返してくる。こんな緊張感は、W杯決勝でも味わえないだろう。
「コムギ、オリーは大切な話をします」
そう前置きをすると、コムギはかすかに首を傾げながらこくりと頷く。
こうなればもう、後には引けない。俺は昼間、チームの第一GKであるイリエに聞いたセリフを、必死に頭に思い浮かべた。
彼曰く、日本で最もポピュラーなプロポーズの言葉らしい。
それさえ言えば絶対に伝わる!と、モトハシも自信を持って後押しをしてくれた。もしもそれで駄目だったらと、第二案まで考えてくれたキーパーチームにも感謝。しかし、緊張でそのふたつのセリフを正確に思い出すことができない。
まあ、あとは勢いでなんとか伝わるだろう! 大切なのは気持ちだ!
ごくり、と生唾を飲み、俺は覚悟を決めてその言葉をコムギに放った。
「毎日みそ汁で、オリーのパンツを洗ってほしい!」
「無理です!」
一世一代のプロポーズは、その日、なぜか失敗に終わった。
やはり日本語は難しい。機会を見てまた明日、今度はドイツ語で頑張ろうと、俺は決意を新たにしたのだった――。