こけし様が見てる 4
ドイツ語は間違ってるかもしれないです。ごめんなさい。
「Sie ist sehr attraktiv!」
突然玄関先に現れたエルネスタさんは、驚いて固まる私と王子にかまわず、何やらうっとりとしたようにドイツ語でまくしたてると、そのままぎゅうっと私を抱き締めた。あれ、うん、なに!?
羊子ちゃんのような柔らかさはないけれど、細くしなやかな印象のその身体からは、なにやらとってもいい匂いがする。なんていうか、大人の女!っていう感じの。それがまったく押しつけがましくはなく、ほんのりと私を包み込んでいる。
昨日見たのとはまた違う、シンプルで機能的な黒いシャツに、細くて長い足を包むのはカジュアルなジーンズ。足下の無骨なデザインのブーツが、それらを引き締めて見せていた。
決して派手な装いではないのに、彼女が着るとどこかのブランドの一点もののように思えてしまう。
「sehr su"ss……Ich bin glu"cklich und zufrieden……」
息を吹きかけるように、女性にしては低めの声が耳元で響き、私は思わず声を上げそうになった。壮絶に色っぽい。
ますます腕の中で身を固くする私を見て、彼女は少し笑ったようだった。
「ムギコサン?」
「はっ、はい!?」
艶を含んだような声で名前を呼ばれ、私が勢いよく返事をすると、頬に柔らかな感触が。えええええ!
ちゅっと音を立てて彼女の唇が離れるのを感じる。えーと、えーと、えーと、挨拶。そう、挨拶……だよねえ?
あまりその手の欧米的なものに慣れていない私が慌てていると、今度はするりと長い指がうなじを辿る。なぜか、こう、性的なものを感じる動きで。ぞくり、と身を震わせた私に口笛を吹いて、次にその手が背中へ降りてお尻に到達しようとした、その時。
「Ernesta!! Auf gar keinen Fall!!」
すごい勢いで走り込んできたオリーが私と彼女の間に割り込み、それを阻止。私は久しぶりにオリーの大きな胸の中に抱き込まれる。
「Mist!」
「コムギ! コムギ、大丈夫ですかっ。変なことされないですか!?」
「へ、変なこと!?」
引きはがされたエルネスタさんが頬を膨らませるのを見ながら、私は何か必死に肩を揺さぶってくるオリーに問い返す。ちょ、ちょっとあんまし揺さぶられると、気持ち悪くなっちゃうから!
突然の出来事の連続に私がうまく答えられないでいると、オリーはますます悲壮な顔をして揺さぶりを強くした。待って、待って、ちょっと、待てえっ。
私が助けを求めるように手を伸ばしたのを見て、それまで唖然と事の成り行きを見ていた王子がオリーを後ろから取り押さえてくれる。
「オリー! デンチュウでござるっ!」
うん、それ使い方あっているようで間違ってるから!
王子のお陰で乗り物酔いを回避できた私は、ようやく深呼吸。そうして、まだじたばたと暴れるオリーと止めようとしている王子、それをにやにやと笑って見ているエルネスタさんを見回した。ある意味、この上のない地獄絵図。修羅場。
しかし、いつまでもここで騒いでいるわけにはいかない。とにかく、色々と聞きたいこともあることだし。
「オリー、ちょっと落ち着いてよ」
「コムギぃ」
浅草の雷門に立ってるあれのようなオリーに近づき、いつものようにそのお腹をぽんぽんと叩いてあげると、とたんに彼はご主人に叱られた子犬のように肩を落とした。
それを見て王子が手を離してやると、オリーは私に近づいて、その大きな身体を丸めるようにして訴える。こう、お母さんに言いつけるいじめられっこ?
「コムギ、エルはひどいです! コンビニでビア買う言ってオリー騙したですよ。オリーの鍵盗って逃げたです! オリーはコムギを魔の手から守りたかったのに……」
「よしよし、わかった、わかったから! とりあえず部屋に入ろうよ、ね?」
太い眉を下げて情けない顔をするオリーの頭を撫で、私はなんとか居間へと誘導する。こんな姿、元カノに見せて幻滅されたりしないんだろうか。
心配になってちらりとそちらを振り返れば、彼女はなぜかものすごく満足げににんまりとした笑みを浮かべていた。なんか、物語に出てくる笑う猫みたい。
「ええっと、エルネスタさんもどうぞ!」
「Wie bitte?」
ああ、彼女は日本語わからないのかあ。ここ最近、妙に日本語が達者なドイツ人ばかりと話してたから……。
どうしようかと思案している私の横から、王子が何かを彼女にドイツ語で言う。そういえば、王子はドイツ語話せるんだったよね。ていうか、ドイツ人だったよね!
「拙者が通訳してやるでござる」
「か、かたじけない」
そうして、私と三人のドイツ人はこけしだらけの居間に集合。こたつに入ってようやく一息ついたのだった。
いつものように私を抱えて座るオリーの正面にエルネスタさん。その横に、臨時同時通訳である拙者王子。「コタツ! ミカン!」と片言の日本語で喜ぶ彼女に緑茶を勧めつつ、私は口を開いた。
「あの、どうしてこちらに?」
私の言葉を王子が伝えれば、彼女は待ってましたとばかりに勢いよくドイツ語で話し始めた。それをまた、王子が同時に日本語にしてくれる。
『一昨日まで仕事でね、せっかく日本に来たんだからオリーにも会いたかったし、婚約者でもあるあなたにも会ってみたかったの!』
そう言って私の手を握ろうとする彼女を、素早くオリーがブロック。しばし睨み合い。のち、エルネスタさんはその美しい顔に似合わず、ちっと舌打ちをして手を引っ込めた。なんだろう、この二人の間に漂う緊張感は。
どう考えても、一度は婚約までいった元恋人同士っていう感じじゃないんだけど。
当てつけるように大きなため息をつきながら、エルネスタさんは短く整えられた薄い金の髪を掻き上げた。
「Du ist geisig!」
「Ach so」
王子が訳してくれないところを見ると、どうでもいい言い争いのよう。
「コムギ、これは魔女です。口を聞いたらダメですよ!」
「オリー、苦しい苦しい苦しい!」
お腹に腕を回してぎゅうぎゅう抱き締めてくるオリーに、ギブアップサインを送れば、エルネスタさんははっと馬鹿にしたような声を上げた。
『力を込めればいいってもんじゃないのよ、オリー。女の身体は繊細なの! 特に、コムギってばとっても感じやすいみたいだし……。私だったらもっと素敵な体験をさせてあげられるのにっ』
「Nein! コムギはオリーのですっ。そうですよね、コムギ!」
「え?」
「は?」
ドイツ語日本語の入り交じった言い合いに、私もそれを訳した王子も首を捻る。今、何かとんでもないことをエルネスタさんが言いだしたような気がするんだけど。
通訳した王子を見れば、彼も間の抜けたような顔をして姉であるエルネスタさんを凝視している。そのふたつの視線を受けて、彼女は少し困ったような、悲しそうな笑みを浮かべた。
『私、恋愛対象は女性のみ、なのよね』
さらり、とそう告げてお茶に口を付けた彼女に、オリー以外、私と王子はぽかんと口を開けたまま沈黙。だって、彼女はオリーの元婚約者、だよね?
助けを求めるように背後のオリーを見上げれば、彼もまた微妙な顔をして微笑んでいた。いったい、何がどうなってるわけ?
固まる私たち二人をおいて、当のエルネスタさんといえば、テーブルの上に置かれていたビール缶に手を伸ばした。
ぷしゅり、と酒飲みならば心騒ぐ音を立ててプルトップを開けると、それを高く掲げてにっこりと笑う。
「Auf die Freundschaft!」
***
『つまりぃ、私もオリーもその頃周りの目が窮屈で仕方なかったのよぉ。私はようやく写真家として世間に認められたところだったし、大きな仕事も舞い込み始めてたし。オリーはオリーで、サッカー選手として一番いい時だったでしょ? もう、マスコミがうるさくってねえ』
白い頬を赤く染めながら、いつの間にかビールからワインに変わったグラスを手に、エルネストさんはそう言った。
衝撃の告白の後、「素面じゃこんな恥ずかしいこと語れないわ」とのことで、彼女の希望通りにそのままこたつ宴会へと突入したのはいいんだけど。言い出したこの人が一番お酒に弱いって、どういうことなの。
弱いというか、すぐに酔っぱらっちゃったというか。
私はいつものように、オリーが温めてくれた日本酒をちびちびと舐めるように飲む。テーブルの上には他に、おつまみとして乾きものなんかが並べられているけれど、ここにいるドイツ人たちは飲む時にはあまり食べないほうらしい。私だけが、なんでかオリーにチー鱈で餌付けされている。じ、自分で食べられるから!
抗議の意味を込めてべたべたと引っ付いているオリーを睨めば、へらりと相好を崩した彼に、今度はサラミを差し出されてしまった。
「コムギ、あーんですよ、あーん」
『ちょっと、私が真面目な話してるのに、なんであんたはいちゃいちゃしてんのよ! ずるいっ、ちょっとくらいコムギを貸してよっ。私も餌付けしたいっ』
「Leider nicht!」
もう半分やけ酒になってる王子が、丁寧にそんなことまで訳して伝えてくれた。……うん、強く生きてよ、拙者王子。
私は争いの元を断つために、オリーの手を叩いてサラミを落とすと、三秒ルールでそれを口に入れた。あーっなんて声が後ろから上がるが、無視。
「エルさんごめんなさい、続けてください」
背後にひじ鉄をかましながら私が言えば、エルネスタさんは心底おかしそうに華やかな笑い声を上げた。
『あのオリーがねえ!』
そうしてグラスに残っていたワインを一気に煽り、またさっきの話の続きを語り始める。
『私とオリーが初めて会ったのは、お互いまだがむしゃらにもがいていた時なの。急速に自分たちに集まる注目に、本当の自分を押し殺して。代表の写真集を撮った時だったわ。彼の目をファインダー越しに見つめて、気が付いた。この人もそうなんだって』
ボトルからグラスにワインをそそぎ、今度はゆっくりとそれを飲みながら、彼女は遠い目をして言葉を紡ぐ。
それは私の知らないオリーの過去の断片。
『周りのイメージと本当の自分のギャップに、この人も苦しんでるんだって一目でわかったわ。だから、私から飲みに誘ったの。他の人たちは、もっと色っぽい理由だって思ったかもしれないけど。……そんな風に何度か会ううちにね、この人ならうち明けても大丈夫だって確信したのよ。私の、この性癖を、この人はきっと馬鹿にしたり蔑んだりしないってわかったから……』
伏せた目の上で、髪と同じ色をした睫毛が光る。
彼女の苦しい気持ちを、私はきっと理解することはできないんだろうけれど。だけど、好きな人に好きと言えない気持ち。それだけは自分の心でわかる気がした。ただ、好きなのに――。
『その頃、ミハもサッカー選手として注目され始めていたし。私のこのことが世間にばれれば、私だけじゃなく彼もひどい中傷を受けるでしょ。それは何としても嫌だった。だけど、私にはその頃愛してる人がいて、幸運なことに彼女も私を愛してくれていた。いくら女同士だからって、あんまり親密にしていれば疑われるでしょう? だから、オリーに頼んだの。表面上でいいから、私と婚約したことにしてくれないってね』
「……偽装婚約?」
彼女の言葉にそう声を上げれば、オリーはいたずらに成功した子供のような顔で頷いた。
「オリー、しつこくしつこく聞かれました。『好きな女性は? 結婚は? それともゲイ?』。本当にくだらない。オリーはただサッカーに夢中でいたかったですよ。オリー、女性は嫌いじゃないけど、一生過ごしたい人、まだいなかった。だから、エルの言葉に『Ja』言ったです」
「それじゃあ、オリーとエルさんて……」
「ダチですよ、ダチ! エルはとっても楽しいダチです」
ふわりと笑ってオリーがエルネスタさんを見れば、なんとなく意味は伝わったようで、彼女も手を振りそれに答えた。
私は明かされた事の真相に、一気に緊張がとかれて脱力してしまう。意味不明の唸り声を上げながら腕の中に沈む私を、オリーは大事そうに抱き締めた。すりすりと、頬を頭に擦りつける。
「でもオリー、嘘をつき続けるの、疲れました。やっぱりまた、周りは言うですね。『エルとの結婚はいつ?』。オリー、うんざりでした。だからヤーパン来たです」
「オリー……」
包まれるほどに大きさの違う手に取られ、ちゅ、と甲に口付けを落とされる。
まるで大切な大切な宝物に触るようなその仕草に私は、どうしてこんな風に触れてくるこの人を疑ったりしたんだろうと、そう思った。
セロファンみたいに綺麗な青の瞳は、いつだって情熱を込めて私を見つめていてくれるのに。
「オリー、ごめんね。ごめんねっ」
「コムギ?」
その暖かな胸にすがりついて涙ぐむ私に、戸惑ったようにオリーが腕を回す。さっきまで強く求めていたその手が、私の背筋を優しく宥めるようになぞった。
「私ね、昨日オリーがエルさんと会ってるの、見ちゃったの。仕事だって言ってたのにって……私、オリーが浮気してるんだって思って――」
「オリー、コムギを愛してますよ!?」
「うん、だからごめんなさい。信じられなくて、ごめんなさいっ」
「コムギ……」
ぎゅうっとオリーのシャツを掴んで謝る私を、オリーは壊れ物でも扱うかのようにそうっと抱き締め返してくれた。鼻先に香る彼の匂いはいつだって私を安心させてくれる。この腕の中にいれば大丈夫。
そんな想いに満たされて、私は顎に触れてきたオリーの指先に従って顔を上げ、近づいてくる唇に瞳を閉じ――。
「ハレンチでござる!」
重なる直前、そんな王子の声が居間に響き渡り、私ははっと我に返るとオリーの口を手のひらで押さえた。ああああ、危ないっ。流されるところだったよ!
誤魔化すように王子にむかってへらっと笑えば、彼はそんな私以上に真っ赤な顔でそっぽを向いてしまった。ご、ごめん。
「コムギ。オリーがコムギに嘘言ったのは、オリーのシットです」
「嫉妬?」
キスを邪魔されたことでがっくりと肩を落としながら、オリーは思い出したように話し始めた。心なしか、恨めしそうな視線を王子に向けながら、頷く。
「エルとオリー、ちょっと好きな女性のタイプ似てますね。エルとコムギ会わせたら、大変危険なことになりますよ! だからオリー、秘密にしました。秘密にして、さっさとドイツに返すですよ!」
敵意むき出しの言葉を、にやにやと笑いながら私たちを見ていたエルさんが、ふんっと鼻で笑い飛ばした。豪快、だなあ……。
ボーイッシュなスタイルは、ちょっと宝塚の男役さんみたい。
『汗くさいゴリラより、私のほうがよっぽど美しいわ。でも、残念ね。私にはもう、心から愛を捧げる相手がいるの。それを、オリーとミハ、ふたりに伝えたくて来たのよ』
突然名前を呼ばれた王子が、はっと顔を上げてエルネスタさんを見た。
彼にとっても、驚きの連続だったに違いないこの告白の数々。よく似た美しい姉弟は、そのまましばらく無言で視線を交わす。
王子の瞳の中に、エルネスタさんを侮辱するような、否定するような感情の色はなくて。それがわかったのだろう彼女は、ふ、と安堵の息を吐いた。
お姉さんの顔で優しく微笑んで、王子に何かを言うと、彼もまた少しだけ泣きそうな顔でそれに言葉を返した。
私にはその意味はわからないけれど、きっとわかりあえたんだろうな。
自分が女の人しか愛せないって告白して、大切な弟さんに嫌われたら、軽蔑されたらどうしようって、きっと怖かったはず。
だけど、彼女は大事な人を得て、それを一番大事な家族に理解してもらうために来たんだ。
そう思ったら、なんだか私まで泣けてきてしまった。ぽろっとこぼれ落ちた涙を、オリーの指がそっとなぞった。
見上げれば、限りなく優しい瞳がこちらを見下ろしている。
「オリー、あのね、あの……。私、オリーにどうしても伝えたいことができたの。聞いてくれる?」
今度は、私が勇気を振り絞る番だ。
オリーへと向き直り、私はきょとんとしてこちらを見ている彼にそれを告げる。
「私と、結婚してください!」