こけし様が見てる 3
泣き疲れて眠ってしまった後、オリーがいつ帰ってきたのかはわからなかった。
顔を合わせる前に朝早く彼は出かけてしまったようだし、私はひどい気分を引きずったまま、会社へと出勤した。
こたつで眠ったせいか、身体はあちこち痛いし、泣いたせいで瞼も腫れてる。会社の窓口である受付に座るにはどうなのよ、という惨状だったけれど、他の人たちはなんにも言わないでいてくれた。
その日は一日奇跡的に来客もなく、伝票整理をしながら私はほっと胸をなで下ろす。情けないなあ、私。
そうして就業時間を過ぎ、帰り支度をするためにロッカーへ入ったところで、それまで何も訊かないでいた羊子ちゃんが突然私の身体を抱き締めてきた。えええ。
「私、オリバー・ロルフ・ビルケンシュトックに復讐を誓います!」
「なんでいきなりそんな不穏!?」
「そんなひどい顔をさせるために、私は麦子先輩をゆずったわけじゃないですっ」
「初耳だよ!」
身長差のため、羨ましいくらいに豊かな胸に抱かれて、私はそんな羊子ちゃんの言葉に少し心が軽くなるのを感じた。何にも訊かないのに、寄り添おうとしてくれる気持ちが嬉しい。
私が、自分のことのように悲しそうな顔をしている後輩の背を宥めるように軽く叩くと、それを合図に羊子ちゃんは私から身体を離した。
「それで、どうします? 復讐、闇討ち、どちらも松竹梅と取り揃えてますけど!?」
羊子ちゃん、それどうなの。
珍しく筋肉以外のことで頬を赤くして、新婚さんである羊子ちゃんは鼻息荒く私に迫った。ちょっと、落ち着こうか。
「えっと、まだただの勘違いとか誤解かもしれないし」
「大丈夫です。何が原因か知りませんけど、先輩に勘違いとか誤解をさせるのがまず悪いんです。もし間違ってたら、やってしまった後で謝ればいいんですからっ」
「怖いよ羊子ちゃん、その考え怖いよ!」
まあまあと羊子ちゃんを諫めつつ、私たちは着替えのためにしばし沈黙。
ふっふっと興奮した闘牛のような鼻息が隣からするけれど、とりあえずは聞かなかったことにして、私はふとさっき自分の口から出た言葉を思い返していた。
――勘違いとか、誤解かも。
今までオリーは私に隠し事や嘘をついたことがなかったから、昨日はひどく動揺してしまったけれど。そうだよね、もしかしたら仕事関係の人だったのかもしれないし!
と、浮上しかけた心に、またもやふっと影が差す。
王子の口からこぼれた言葉。『エルネスタ』という、名前。だったらなんで、王子があの人のことを知ってるんだろう。なんであんなに驚いてたんだろう。
ぐるぐると思考の迷路に入り込んだところで、隣のロッカーをばんっと乱暴に閉めた羊子ちゃんが、再びこちらに向き直る。
「そもそも婚約してから一年も経つのに、結婚のけの字も出さないってどういうつもりですかっ、あのゴリラめ!」
「あ……」
言われて初めて気が付く。
そう言えば、勢いよく押されるように婚約したのはいいけれど、その後具体的な話が二人の間ではちっとも出ていなかった。
オリーの指には揃いの指輪が今でもしっかりとはまっているし、今はほとんど一緒に生活もしているし。なんだかそれが普通で、結婚のことなんて頭から飛んでいた。今の、今までは。
「麦子先輩?」
羊子ちゃんの言葉に固まってしまっていた私は、顔を覗き込まれて少し動揺する。
けれど、それをなんとか笑顔で覆い隠すと、私は羊子ちゃんの頬をむにむにと引っ張った。美人、という言葉がぴったり当てはまるその顔が愛嬌のあるものに変わって、今度は自然な笑みがこぼれた。
「ふぇんふぁい?」
「えっとね、大丈夫だから。だから……ありがと、羊子ちゃん」
「……ふぁい」
なんとなく納得し切れていない表情で、だけど羊子ちゃんはそれ以上追求することなく頷いてくれた。会社の外まで一緒に出て、そこで待っていた旦那様である部長と帰っていくのを見送る。
なんかいいなあ、ああいうの。
ぽつん、とそんなことを思って、私は首を振る。違う違う、そういう風に人の幸せを思ったら失礼だ!
反対方向の駅に向かって歩き出しながら、私はぎゅっと肩から提げた鞄を握りしめる。
私がちゃんとオリーの口から聞かなくちゃ。そう決意して、真っ直ぐにオリーの家へと帰ったのだったけれど――。
「オリーならまだ帰ってないでござる」
居間で私を出迎えた王子は、開口一番、気まずそうな顔をしてそう告げた。
なぜなのかわからないけれど、こたつやその周りは昨日買い込んだこけしだらけになって、なんというかある意味壮絶な光景になっている。か、片付けようよ、怖いから!
どん引きしている私にかまわず、王子はこたつの中に入って、そのまま目の前に置かれたこけしと見つめ合う。
「お、王子?」
「拙者、練習に連れて行けと申したでござるよ。拙者直々に、オリーがいるチームを見たかったでござる。なのに、オリーは何度言っても『Nein!Nein!Nein!』。本当に、昔から頭が固いのでござる!」
「それで……拗ねてこけし並べてたの?」
「拗ねているわけではない! 拙者は怒っているでござる!」
同じことだと思うんだけどなあ。
なんか、中学生くらいの男の子のようにぶすっと拗ねる王子を見て、せっかくの決意はどこかへと霧散してしまった。まあ、肝心のオリーもいないし。
私はがっくりと肩を落とし、鞄をそこらに放り投げると、王子の向かいへと腰を下ろした。
なんか、こけしの視線が痛いんだけども。
「昔からって、王子とオリーはいつからの知り合いなの?」
かごに入れられたみかんに手を伸ばしながら、私はぶつぶつとこけしに向かって文句を並べている王子に話しかけてみる。なんていうか、こけしが友達?
すると、王子はその薄い色の瞳をちらり、とこちらにむけた。
「オリーから、何も聞いてないでござるか?」
「う、うん」
私が頷くと、王子はそのアーモンド型の綺麗な瞳を一瞬細め、何も言わずにふうんとつまらなそうに返す。そうして自分もみかんへと手を伸ばし、皮をむきながらぽつり、と言った。
「オリーは元々姉上――エルネスタの婚約者だったでござる」
不意のその言葉に、私はみかんを机に落としてしまう。それを見ていた王子は、なんだか難しい顔になって、だけど気にせず先を続けた。
「エルネスタと拙者は歳が離れているでござる。エルは写真家で、ある時代表の写真集を撮ったことでオリーと知り合ったでござるよ。拙者にとっても、オリーはその前から神様みたいに憧れの存在で、彼と家族になれるかもしれないと思って、めちゃくちゃ嬉しかった……」
口元に浮かんだ素直な微笑みとは反対に、私は無意識に唇を噛み締めた。
私の知らないオリーの過去。
そりゃあ、オリーだっていい大人なんだし、今まで誰とも付き合ったことがないなんて思っていなかったけれど。でも、頭で納得するのと心で納得するのは違うみたい。きりきりと、胸の辺りが痛む。
「拙者は両親にとって遅くできた子供でござるから、甘やかされ放題で育って、わがままで友達も少なかったでござる。その拙者に根気よく付き合ってくれて、サッカーを教えてくれて、叱ってくれたのもオリーでござった。いずれは自分も選手になって、そしたらオリーにコーチしてもらうのが夢だったでござるよ。エルと結婚すれば、それが全部叶うって、勝手に思いこんでいたのでござる」
王子と知り合って日はまだ浅いけれど、彼がどんなにオリーのことが好きかなんて、充分態度でわかっていた。なんていうか、大好きなご主人にまとわりつく子犬みたいな。そんな微笑ましさが、彼らの間にはあったから。
ふと、懐かしそうに話してくれていた王子の眉が、ぎゅっとひそめられる。そうして吐き出された言葉は、とても苦々しいものに満ちていた。
「でも、引退する少し前、オリーは突然エルとの婚約を解消したでござる。しかもヤーパンなんかに来て、オリーの経歴には到底見合わないクラブチームのコーチなどやって! それでヤパーナリンなんかと……っ」
そこまで言って、王子ははっとした顔で私を見る。私は何とも言えず、ただ黙ってなんとか微笑んで見せた。
彼にとっては、私はオリーを盗っちゃった人なんだ。だからあんなに、名前を聞いただけでトゲトゲしてたんだなあ。なんて、なぜかほっとした気持ちでそんなことを思う。
理由もなく嫌われているよりは、そっちのほうがいいなと、それだけ。
だけど、言ってしまったほうの王子が、何だか傷ついたような表情で私から目を逸らす。
「……婚約したって聞いて、どうしても確かめたくて、クリスマス休暇を使ってきたでこざる。エルよりも劣るような女であれば、無理にだってオリーを連れ返すつもりで、拙者は……」
「お姉さんも、同じ気持ちなのかな……」
ぽつっと呟いた言葉に、王子はみかんの皮をむく手をびくっと止めた。すぐにその動揺を隠すようにして、むき終わったみかんをひとつ口に放り込む。私も同じように手にしていたみかんを食べて、しばらく二人して沈黙した。
私はオリーのことが好き。
オリーも私のことが好き。
たったそれだけのことなのに、確信が揺らいで初めて、それがどんなに奇跡的なことなのかを痛感していた。
一番好きな人が、自分のことを一番好きでいてくれるなんて、そんなのはありふれたものじゃなくて。私はちゃんとそれをオリーに伝えていたのかな。彼の気持ちに甘えて、仕方ないなんて大人ぶって、そこから逃げてなかったかな。
彼のこと、わかろうとしたのかな。
「……拙者は、エルが日本に来てるとは知らなかったでござる。そんなこと、ひと言も言ってなかったし、オリーと今でも連絡を取ってるとはわからなかった。だから、その、あれは偶然で、拙者は――」
「うん、わざとじゃないって知ってるよ。王子は、そんなことしないでしょ」
私とオリーを引き離そうと、わざと王子があそこへ連れて行ったのかも……というのは、まあ正直少しは考えた。
だけど、短いつきあいかしれないけど、この真っ直ぐな瞳をしている王子様はきっとそんなことはしないだろう。そんな、変な確信めいたものが私の中にはあった。
そんな小細工するくらいだったら、最初からかっ飛ばして刺々しい態度ではこないと思うんだよね。
「こけし好きには悪い人いないって言うし」
言わないけど。
気まずそうにしている王子にそう言って慰めると、彼はあからさまにぱっと嬉しそうな表情を見せた。気持ちが全部表に出てる、晴れやかな笑顔。
「そうでござる! 拙者、こけしに誓ってだまし討ちはしないでござるよ!」
その真剣なんだけどどこかとぼけた言葉に、私は思わず吹き出してしまう。あれだけチクチクいじわるしておいて、これだもんね。
それでも、何だか仕方ないなあ、なんて思わせる雰囲気が王子にはあった。昨日一日だけでも、少しは距離が近づいたからかもしれない。
一気に機嫌の直った王子は、ひとつ目のみかんを食べ終えると、ふたつ目を手に取る。こたつにみかんに、こけしにきらきらドイツの王子様。すごい取り合わせ。
ふう、と私はため息をつきながら、まだ手元に残っているみかんに視線を落とした。
私は王子やエルネスタさんや、本橋さんやアンゲラみたいに、オリーのことそんなに詳しく知らない。
だから、どうしてオリーが仕事だなんて嘘を付いて、エルネスタさんと会っていたのかなんて想像もつかない。ううん、嫌な想像ばっかりしてる。
そんな自分がすごく嫌だけど、これもオリーを好きだって気持ちの中に入っていたものなんだ。
私はずっと、自分が傷つかないでいいように、オリーに甘えてた。好きだと言われても、頷くだけで返さない。そういう私を、オリーはずっと待っていてくれてた。そのことに、今さら気が付いた。
私の気持ちが自分に追いついてないって、そう感じていたからオリーは結婚の話を無理に進めなかったのかもしれない。
オリーがエルネスタさんに気持ちを残してたら、私、すごく真っ黒な気持ちになる。そんなの、わがままでも何でも、すごく嫌だ。
オリーが優しい瞳をむけるのも、その唇が触れるのも、その手が辿る身体も、どこか切なく歪む表情も。熱い吐息も、心地いい低い声で呼ぶ名前も、過ぎてむせび泣く私を、時に強引に追い立てるその仕草も全部。
全部、全部、全部、私だけのものにしたい。
――あ、と思わず声に出してしまう。
今自分が何を考えていたのかに、心より遅く頭が追いついて、そしてその貪欲さに顔が真っ赤になってしまった。まるでオリーの厚い手のひらが撫でた時のように、お腹の辺りがむずむずして。
私、好き。
心だけでも、身体だけでもなくて。全部でオリーが、好き。
強烈なその気持ちに私自身がまだうまく対応できなくて、何事かとこちらを見ている王子の視線を避けるように、テーブルにうつぶせになった。
好きで、たまらなくて、オリーに欲情してるなんて。こんな気持ち、初めてでどうしたらいいかわからない。
優しくて穏やかなだけが好きの気持ちじゃないんだって、今、初めて思い知る。
初めてオリーを好きだと思った時の気持ちだって本物だったけど、それ以上に強烈な焦燥感に苛まれた。もしかして、オリーはずっとこんな風なの?
それを確かめたい。すぐに。
がばり、と身体を起こし、意味不明な一連の動作に唖然としている王子をほったらかして、壁の時計を見る。どんなに遅くても、そろそろ帰ってくるはず!
そう思ったちょうどその時、玄関で鍵を開けるがちゃがちゃという音が聞こえてきて、私は弾かれるように立ち上がった。オリーが帰ってきた!
顔を合わせるのが辛いな、なんて考えていた朝とはまるで正反対に、私は逸る気持ちを抑えきれず、玄関まで走って出迎えに行く。慌てたように後ろから王子もついて来る。
そして、私が玄関までやって来た時、ゆっくりと扉が開かれてそこに――。
「Guten Abend!! Ich komme aus Deutschland!!」
華やかな声とともに、目の前に現れたのは昨日の密会の相手。
王子のお姉さんである、エルネスタさん、その人だった――。