プロローグ あいつこそがドイツの王子様?
後輩の結婚式からほろ酔い気分で帰ると、家の前に王子様が立っていた。
正確には自分の家ではなく、婚約して一年になるオリーの玄関ポーチ。
きらきらと光るプラチナブロンドと、神様が気合い入れて作りましたって感じの端正で繊細な横顔。それだけでもう、王子様。冷たい風が吹く中、その形の良い鼻も真っ赤になってしまっている。
見慣れたドイツ人よりも、すらりと高い身長。品のいい黒いコートに包まれた身体は、何かスポーツでもしているんだろうか、均整がとれて見るからにモデル体型。うわあ、王子様って生き物はディズニーランドにしか存在しないものだと思ってたけど!
なんてぼうっと見とれていた私に気がついて、その王子様がこちらを振り返った。
透き通るような青の瞳。この冷たい空気に冴えるような、アイスブルー。少し釣り上がり気味の、どこか血統書付きの猫を思わせるその瞳が、私の姿を見つけてちょっと見開かれる。え、私?
まるで映画でも見ているような、非現実的なものを眺める感覚でその王子様を見上げる。ええっと、なんだろうか、この状況。
一年前の冬、うちに例のゴリラっぽい何かがやって来た時と似ている気がする。
「ええと、その……何かうちにご用、ですか?」
見つめ合うこと数分。
待っても何も言わない王子様に焦れ、私は恐る恐るそう切り出してみる。日本語が通じればいいんだけどなあ。
駄目だったら、途中のコンビニでビールとおつまみ調達中のオリーを待とう。一応外見はゴリラ的な彼だけど、中身は日本語英語ドイツ語を操る人間翻訳機だからね!
と、後ろを振り返っていた私の頭に、ぽふり、と何か温かいものが乗せられた。んん?
驚いて視線を上げれば、頭の上に王子様の手のひらが。
見上げればにこおっと、なんだか滅茶苦茶無邪気な笑顔をむけられた。んんん!?
「拙者、ミヒャエル・ベルンシュタインと申す! フロイライン、この家の者でござるか?」
拙者!? 拙者ってなに!?
びしっと固まってしまった私の頭を、王子様は撫でる。撫でる撫でる、そりゃあもう撫でる。な、な、なんだろう、これ。
あの、結婚式ということで振り袖に合わせてせっかく髪も整えてあるんで、あんまし撫で回さないで欲しいんですけど……。ついていけないぶっ飛んだこの状況に、半泣きになりながら私がそのミヒャエルさんを見つめると、彼はちょっとだけ頬を染め、今度は私の手を取った。
「失礼つかまつった! フロイライン、名は何と申す?」
そうしてちゅ、と手にした私の指先に唇をつけ、その整った顔を近付けてくる。……初めて知ったね。美貌は暴力!時に、美貌は暴力!
慌てて彼から手を取り返すと、私は本格的に涙目になりつつ自己紹介。
「鈴木です! 鈴木麦子ですっ」
「スズキ、ムギコ……?」
それまで愛想のよかったその顔が、私の名前を聞いたとたん、びきっと凍り付く。そしてさっと距離をとり、鋭い瞳でこちらを睨み付けてきた。ええええ。
何だその変わり様は!とむっとした私も負けずに睨み返す。なんていうか、意地?
この寒い中、慣れない着物は苦しいし草履を履いた足は痛いし、そろそろ化粧も落として結婚式の感動的な余韻に浸りつつ、オリーが買ってきてくれるはずのビールを飲んでベットでごろごろしたいのに!
半ば八つ当たり気味に相手を威嚇しつつ、横を通って家へと駆け込もうとダッシュして――私は見事に捕獲された。
「拙者のTorは割らせぬ!」
「まったく何言ってるんだかわかりませんよ、このエセ侍が!」
左腕一本、小脇に犬猫のように抱えられた私は、底意地悪そうな笑みを浮かべてこちらを見下ろす王子様の顔を睨み付ける。綺麗なだけあって憎さ倍増。ていうか、なんで私がこんな目に!?
ぐぎぎぎぎ、とまた睨み合いに発展しかけた、そこに。
「コムギ!?」
聞き慣れたオリーの声が響き渡り、私は王子様改め拙者王子に抱えられ、間抜けにお尻をむけたままで声を上げる。
「オリー!!」
同時に重なった声に、拙者王子と私は思わず顔を見合わせた。真面目に、あんた誰!?
まさに猫とネズミ、蛇とマングース。
またもや睨み合いになったところで、ひょいっと私の身体は馴染んだ腕の中へと抱え上げられた。いや、オリー、そこは地面に降ろしてくれていいんだけどね?
横抱きにされて見慣れたゴリラ顔を見上げれば、オリーは目をまん丸くして王子を見つめていた。
「ミヒャエル? なんでここにいますか!」
「無論、拙者、オリーに会いに来たでござるよ!」
ほんと、最近ドイツって国がわからないよ!
この日のこの出会いが、鈴木麦子と拙者王子ミヒャエル・ベルンシュタインとの、よくわからない戦いの始まりだった――。
***
「やはり、寒うござる時にはビアに限るでござるな!」
「めちゃくちゃだ……、その日本語めちゃくちゃすぎる……っ」
「Nein、本当に寒い時にはアツカンがいいですね。コムギ、オリーはアツカンを作りますか?」
「アツカンとはなんでござる? 拙者も頼もう!」
「いやいや、拙者王子はちょっとは遠慮しようよ!?」
「本当は火にかけますが、時間がないのでチンしますよ」
「苦しゅうないぞ、オリー」
「もうやだこのドイツ人たち……」
衝撃の出会いから三日。
オリーの家の居間、うちと同じくこたつが鎮座するそこに三人仲良く足を突っ込みつつ、会話の中心は酒である。なんか間違ってるでしょ、多分。
決定的におかしいことになってるのは、この「こたつとは拙者初めてだが、なかなか良い物でござるな」なんて、顔に似合わないどてらを着込んでくつろいでるこいつだ!
その名をミヒャエル。悔しいし、うまく発音できないので、拙者王子で通す。
オリーの一番仲の良い後輩で、現役のドイツ代表GK様らしい。しかし、サッカーをまったく知らない私に、そんな後光は通用せんぞ、ドイツ王子!
私がオリーと楽しもうと思っていたアサヒビールロング缶を次々と空け、その上で私の日本酒を飲もうとは……いい度胸してるじゃないか。
なんでか名乗った瞬間から敵視してくる王子の足を、私はこたつの中で蹴りつけてやる。
「やめろでござる、チビスケ!」
「なんだって?」
「短い足で、頑張らないほうがいいでござるよ、チビスケ」
「切れた。かんっぜんに切れた!」
にやにやといやらしく笑うその端正な顔に、私はむき終わった後のみかんの皮を投げつける。それは見事なまでにびしゃっと真正面から貼り付いた。おかしいのは、あんたらの国の平均身長だっ。
壮絶なまでに美しい怒りの表情で、拙者王子はゆっくりと顔からみかんの皮を取り除くと、手元にあったみかんそのものを私に投げつけた。それはぼこっと私の額にヒット。みかん、意外と痛い……。
投げつけられたみかんを拾い、赤くなっているだろう額に手をやると、拙者王子はそれを指さし大笑い。うんうん、そうかそうかあ。そんっなにみかんが好きなら、心ゆくまでその口に詰め込んでやるわ!
私は無言で立ち上がると、思いっきり王子の身体へとダイブした。
ごつん、といい音をさせて拙者王子は仰向けに倒れる。そこへ私が馬乗りの状態。
突然の暴挙に、彼はあんぐりと口を開けてこちらを見上げ、固まる。そこに、私はみかんを皮のまま丸ごと押し込んでやった。ほらほら、いくらでも食べなさいよ!食べてみなさいよ!と、勝利の微笑みを浮かべたそこで。
「コムギ! 食べ物で遊ぶのよくないですね! あと、オリー以外の男の上に乗っかるのは、絶対禁止ですね!」
こたつテーブルの上にアツカンを置いたオリーが、ほとんど子供を叱る親のようにそう言って、私の身体を持ち上げる。そして「だってこいつが!」と愚痴る私を宥めるように、額と頬にキスをして、そのままこたつに腰を下ろした。
いつもの通り、背後から私を抱きかかえてそこはかとなくご満悦なオリーに、むくっと起きあがった拙者王子が顔をしかめる。
「ハレンチでござるよ、オリー」
「拙者王子、いったい何を見て日本語覚えたのよ……」
「ハレンチ? それは性的に興奮する意味ですか? 教えて、コムギ」
「面倒くさあああい、何もかもがもう面倒くさああいっ」
甘えるように顔を寄せてくるオリーの鼻っ柱を叩き、私は早々と戦線離脱を宣言し、テーブルの上の熱燗に手を伸ばした。ダブルボケって、深刻なツッコミ不足だよ。
ならば負けじと同じように熱燗を手にした拙者王子は、ひとしきり匂いを嗅いだ後、危なっかしい手つきでお猪口にそそぎ、ぐいっと一杯……いったと思ったら思い切り咳き込んだ。日本酒なめんな!
「ミヒャエル、イッキは駄目ですね。ちびちびいきますよ?」
「この者、何やつ……」
苦しそうな王子にコップの水を手渡し、背中をぽんぽんと叩いて介抱してやっているオリーの姿は、なんだか本当の兄弟のよう。
その様子を飲みながらじっと見ていた私と、少し潤んだ王子の目がばちり、と合う。初めて会ってからこっち、なぜか一方的に絡まれている私としては、ここで目を逸らすのもむかつくのでそのまま睨み返してみた。
すると、何を勘違いしてるんだか、「へへん、おまえのオリーは俺のほうが好きなんだぜ!」みたいな勝ち誇った笑みをむけられる。なんか、今ものすごく下らない敵意を感じ取ったよ、私。
「u"brigens、ミヒャエルは何をしにヤーパン来ましたか?」
再び私を抱きかかえる定位置についたオリーが、それを悔しそうに見ている拙者王子に問いかけた。そうよ、それ。それが聞きたかったの!
頷きながら、なきにしもあらずな下乳とお腹の境界線で何やら怪しい動きをするオリーの腕をつねって牽制。最近この人、人前でも遠慮しなくなってきたから、なにか考えないと。
上を向いて睨み付ければ、オリーはただへらりと嬉しそうに笑うばかり。
そんな彼に王子は、ものすごく不満そうな顔をしつつも、近くに置いてあったスーツケースの中をごそごそと漁り始めた。
「これでござるよ!」
そうしてその中から取り出したものを、ひどく誇らしげにテーブルへと置いた。
どん、と途轍もない存在感をかもし出して私たちを見つめているのは、こけし。どこからどう見ても、こけし。しかも嫌に巨大。
なんとなく、微妙な空気が流れる。え、何これを見て私にどんなツッコミを期待してるの、この王子様!
「す、素敵なこけし、ですね」
思わず敬語。むやみやたらに刺激してはならない種類の人なのかもしれない、こいつ。
すると、その張りつめた空気をまったく読む気配もなく、拙者王子は大きく満足げに頷くと自信満々な笑みをむけた。
そしておもむろに、こけしの頭を掴んで左右に回す。
――きゅっ、きゅっ、きゅっ。
……うん、鳴るね。なんていうか、鳴子こけしですね。
もうすでに号泣したいような気分に駆られたまま、私はどうしようもなく、王子のうっとりとした顔を見つめることしかできない。そんな私に、王子は少し照れたような、いくらか可愛らしい顔をしてさらにもう一体のこけしを取りだした。ま、まだあるの? どんな顔をして荷物検査を受けたの!?
「おぬしにこれをやってもよいぞ」
うわあ、いらないっ。
とは言えず、私は勢いで、ごつごつして不格好なそれを受け取った。受け取ってしまった。何だろうか、この手作り感満載のこけしは。描かれている顔が、呪われそうなほどに怖い。
これはもしかして、もしかしなくとも。
「拙者の手作りでござる! 今回、拙者は日本でこけしを心ゆくまで集めるでござりまする!」
「それは芸術的な休暇ですね、ミヒャエル!」
なんでこけし!? これなんて残念王子!? どうしてそこでオリーも喜ぶ!?
スーツケースからこけし取り出す美形とか、もうどこから突っ込んでいいのかわからないよ!
恍惚の表情でこけしを撫でるその手つきがどこか卑猥だ、なんて現実逃避をしつつ、私はどうしようもない疲れに撃沈してしまったのだった。