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ドイツさんと私  作者: 吉田
番外編と後日談
24/32

幸せは味噌汁とともに 4



 それからの私は、ものすごく忙しかった。

 私にできることはなんなんだろう。それを考えることから始めた私は、まずは両親に意見を訊いて、友人たちにも、もちろんオリーにも訊いて回った。その結果は、『美味しいものを食べさせる』ということ。

 落ち込んでいる時には、お腹から満たしてやるのがいいのよ、というのがママの談。

 なんとなく単純すぎてどうなの、とは思うけれど、私には彼の怪我を治すこともリハビリを手伝うこともできないし。かといって、ただ傍にいるだけでは負担になるだけ。だったら、どんなに見当違いでも、やってみる価値はある。

 あなたのことを心配していると、押しつけじゃなく伝わればなんだっていいの。

 そこで、オリーに彼の好物を訊ねたんだけれど――。


「そういえば、前に『ミソシルが食べたい!』って叫んでいた気がする」

「『ミソシル』ってなに?」

「わからない。多分、奴の故郷の食べ物なんだろう」


 要領を得ないヒントだったけれど、とりあえず「ありがとう」とだけ言って、すぐさま私はパソコンで検索を開始した。ミソシル、ミソシル、ミソシル……。たどり着いたのは、何やら茶色のズッペらしきもの。これ、食べ物?

 ひととおり色んなサイトを開いてみたものの、わかったのはこれが『ミソ』という謎のペーストを溶かしたズッペだということ。具は家庭や人によってまちまちで、決まったものはないということ。

 プリントアウトしたものを目の前に、私は大いに悩む。

 まずは『ミソ』を手に入れないとならないわね。まあ、中心部に出れば比較的日本人も多いことだし、日本食コーナーに置いてあると思う。調べたところ、日本人の定番食みたいだし。

 具は、どうしたものかしら。ベースが茶色ってところが味気ないし、少し色味が強いものを入れたほうが、彩りがいいような気もする。


「トマトとかきゅうりとか入れれば、鮮やかでいいかしら」


 ひとりそう呟いて頷くと、私は早速車のキーを手に、中心部へと買い出しに出かけたのだった。





 荷物を抱えて家に帰って、私はペットボトルから直接水を飲み干す。ようやく一息ついた。買い物は、こんなものでいいわね。

 中心部の日本人むけスーパーで『ミソ』を買い、そのついでに恥ずかしながらその場にいた日本人女性たちに『ミソシル』の作り方を尋ねてみた。特になんてことはない、こちらのズッペと似たようなもの。具にはじゃがいもも入れても美味しいわよ、とのことで、ドイツ定番のじゃがいもも用意。

 あとは市場で買ってきた新鮮なトマトときゅうりを切って、と。じゃがいもから入れて、その次にきゅうり。火が通るまでに少しの味付け。最後にトマトを入れてから『ミソ』をスプーンにすくって溶いていく。

 味は好み次第って言っていたけれど、あんまりしょっぱいのは駄目だって言うし……日本食って繊細ね。

 少しずつ『ミソ』を溶きながら微調整。私の舌だからどうなのかはわからないけれど、とりあえず自分が美味しいと感じるところで『ミソ』はストップ。じゃがいもも火が通ってるみたいだし、これでオーケーね。

 サーモ容器に入れて、全ての準備は整った。ここからは、決戦よ!

 ここ数日ろくに寝てないから肌はボロボロだし、髪の毛はぐちゃぐちゃだし、服だって部屋着と変わらない適当なものだけど。でも、一刻も早く彼にこれを届けたい。気持ちを伝えたい。何より、リョウに会いたい。私は感極まって泣きそうな自分を叱咤すると、再び急いで車へと乗り込んだ。もう、絶対に私に会うのが嫌だなんて言わせないんだからね!

 そんな怒りにも似た強い感情を抱え、私は先に病院に訊いていたリハビリ終了時間に間に合うようにと道を急ぐ。その間に、私の頭には今まで見てきたリョウのことが駆けめぐっていた。


 無邪気で、楽しくて、優しくて、でも時々繊細で。決して声を荒げたりしない、人間の大きい人。私は気がつかなかったけれど、故郷から遠く離れたこの場所で、きっと寂しく思うことも孤独を感じることもあったんだろう。

 けれど、彼はオリーに光をくれた人。

 私に、こんなに素敵な思いを与えてくれた人。

 彼が優しく触れるだけで、私はたまらない気持ちにさせられる。意外に乱暴な口付けも、性急な触れ方も、恥ずかしいくらいに私を乱れさせてしまう。

 きっと、どんなに格好悪くても、いいの。

 あなたが、いいの。


 それを、伝えなきゃ。


 思い立ったら一直線。「少しは加減を覚えろ」と何度となくオリーや両親に嘆かれた情熱そのままに、私は駐車場に車を頭から突っ込ませ、取るものもとりあえずサーモだけをひっつかんでリハビリ室を目指す。

 どんな風に拒絶されても、私は諦めない!

 そうして目的の場所にたどり着いた私は、勢いよくその扉を開け放った。


「リョウ!」

「あっ、アンゲラ!?」


 そこには、白いシャツとトレーニングパンツに身を包んだ、私の愛しい人。と、療法士と他の患者さん多数。みんながみんな、突然の闖入者にぽかんとした顔をして私を見た。

 その視線なんか気にもせず彼にむかってまっすぐ進むと、私は同じように唖然としてこちらを見ていたリョウに抱きつき、その唇に唇を重ねた。沈黙の後、おおっ、という歓声がわく。

 驚きのあまりされるがままだったリョウも、その声に我に返ると、顔を真っ赤にして私の身体を突き放す。口元を、手で覆い隠すようにして。


「な、なんで!? ていうか、俺、待っててって言ったはずじゃ……」

「待てるわけないでしょ、リョウの馬鹿! 愛してる人が落ち込んでる時、力になりたいって思っちゃいけないの? 私、そんなにあなたの邪魔なの?」

「え、その、ちょ」


 ぽろぽろと涙を流し始めた私を見て、また周りの患者さんたちや療法士たちやらが、今度は「あーあ」みたいなため息をついた。多少、大袈裟なところも入ってるけれど、正直な気持ちなんだからしょうがない。

 おろおろと私の肩に手を置いたままうろたえるリョウに、ちょっとだけ意地悪な気持ちを持ったりする。


「リョータ、今日のリハビリは終わってますから、あとはご自由にどうぞ? ただし、安静にしてくださいよ。“激しい運動”はもってのほかですからね」


 側に立っていた療法士が、ため息をつきながらリョウにそう言うと、彼は真っ赤になってがくがくと頷き、私の手を取ってゆっくりとその場を離れた。

 後ろから、なにやら色々な応援や罵声が飛び交う中、私はその手に引かれて病院の中庭までやってくる。人もまばらなところに置かれたベンチに、とりあえず二人して座った。


「それで、アンゲラ。突然どうしたんだよ。俺、治るまでちょっと待っててって言ったよな?」


 大きなため息とともに吐き出されたその言葉に、私はずきっと胸が痛むのを感じる。呆れられたかも、重いと思われたかも。そんな考えが頭を過ぎり、けれど私は強い気持ちを奮い立たせるようにして、黙ってサーモを取りだした。

 きょとんとするリョウにお椀と箸を持たせ、そこにサーモから暖かなミソシルをそそぐ。湯気と一緒にふんわりと広がる独特の香りに、彼はその瞳を丸くした。


「味噌、汁?」

「本当は、こんな時に迷惑だってわかってたのよ……。だけど、少しでもあなたが元気になればって思ったの。私が作ったものだから、本物とは違うかもしれないけど、もしよかったら……」

「アンゲラ……!」


 否定されたらと思うと、怖くてリョウの顔が見られない。私は彼の真っ直ぐな黒い瞳から目を逸らし、小さく言い訳のように呟いた。すると突然、彼の声が大きくなったかと思うと、そのまま胸の中へと抱き込まれる。

 ちょ、み、ミソシル! ミソシルこぼれちゃうから!


「りょ、リョウ! ミソシルがっ」

「あ、ああ、ごめん。大丈夫! ……すっげえ懐かしい。嬉しいよ、アンゲラ」


 勢いでお椀から少し手にこぼれたそれに口付けて、リョウは久しぶりに見るいつもの笑顔を私にむけてくれた。それだけで、感極まって泣きそうになってしまう。

 「あったかいうちに」と遠回しに勧めると、彼は素直に頷き箸をを持ってそれに口を付けた。そして一気に掻き込んでしまう。ミソシルって一気飲みするのが作法……?


「すっごいうまい! ありがとう、アンゲラ!」

「リョウっ」


 空になったお椀をひっくり返して見せるリョウに、私は今度こそ遠慮なく抱きついた。彼もベンチにお椀とお箸を置くと、強く抱き締め返してくれた。久しぶりに感じる彼の体温に、泣きそうなくらい安堵している自分に驚く。

 いつの間にか、こんなに、こんなに大好き。

 ふっと離れた身体に寂しさを感じてリョウの顔を覗き込めば、彼の深く黒い色の瞳はちらちらとした欲望をまとわりつかせ、こちらを真剣に見つめていた。それに誘われるように、さっきよりもずっと深く、私たちは唇を重ね合う。

 優しく愛おしむように、彼の右手が私の耳を弄び、それからろくに整えてもいないぼさぼさの髪を梳いていく。私も彼の短く切られた前髪をかき乱すようにして撫で、それからその背へと腕を回し、よりいっそう自分の身体を密着させた。

 すると、リョウは突然口付けを中断し、ほのかに赤く染まった顔を私からそらした。


「ごっ、ごめんっ、俺っ」

「何で謝るの、リョウ。私とキスするの、嫌になったの?」


 再び胸の中に広がった不安に、彼にすがるようにしてそう問いをぶつけると、リョウはぶんぶんと思い切り首を横に振って否定した。

 その真正直な態度に少しほっとして、私は「あー」とか「うー」とか意味不明なうめき声を上げるリョウの答えを、ただじっと待つ。


「えっとさ、俺がアンゲラに待っててって言ったの、何でだと思った?」


 突然の質問に私はちょっと目を瞬かせ、それからあの日の電話のあとに思ったこととオリーから言われて気がついたことを口にしてみた。

 自分の領域に私を入れてくれないんだと思ったこと。オリーからチームのことを聞いて、弱みを見せたくないって言われて悲しかったこと。実は病院に行った日、悔しがるリョウの姿を見てしまったこと。

 それを黙って聞いていたリョウは、何だかものすごく情けない顔をして唸る。


「ていうか、オリーって真面目すぎんだよ……。俺がいつポジションの心配したって? それで落ち込んでるってなんじゃそりゃ!」

「え、でもリョウ、あの時すっごく悔しがってて」

「あー……うん、その、だな。それは、その……違う意味で悔しかったっていうか」

「違う意味?」


 ますます頬を赤くして視線をあちこちにさまよわせるリョウに、私は追求の手をゆるめることなく畳みかけた。こんなに私のこと振り回しておいて、曖昧に誤魔化して終わらせようだなんて、甘いわよ!

 両手で頬を挟み込み、こちらにまっすぐむかせてその目をじっと見る。さあ、話してごらんなさい!

 私のその眼力に負けたのか、今までで特大のため息をついたリョウは、何かを決意したようにひとつ頷いて再び口を開いた。


「だから、アンゲラといるとしたくなっちゃうんだよ、俺!」


 は?

 小声で、しかも早口で言われたその言葉の内容が、うまく頭で理解できない。なんですって?


「だーかーらあ! そりゃあ怪我したのが嬉しくないのは当然だけど、ポジションなんて俺、怪我が治ったらとっとと取り返しちまうし。そんなん楽勝だし。問題はそういうことじゃなくてさ、もうすぐクリスマス休暇に入るって時に、朝から晩までアンゲラといちゃいちゃできるってときにだ! “激しい運動”は控えなさいって、どんだけ俺、不幸なんだよ! これが悔しがらないでいられるかっての!」


 ……リョウ?


「でもさすがに無茶して長引かせるわけにいかないだろ。だけど、アンゲラの顔見てるとどうしてもムラムラしちまうし、そんなことばっか考えちゃうし。だから俺、ちょっと待っててって言ったんだよ。かんっぺきに治してから思う存分……むふっ」


 言葉の途中でちょっと引くくらいとろんとした顔になったリョウに、私は思わず得意の脇腹パンチを一発お見舞いしてやる。なんか、色々と情けないわ……。

 この間、自分はリョウの上辺しかわかってなかったなんて反省したけど、別の意味でまったくわかっていなかったのかもしれない、この人のこと。「ひどいっ、俺怪我人! 俺怪我人!」と騒ぐリョウを、黙殺。

 私の冷たい視線を受け、彼は急速にその身体を縮こまらせた。ば、か、じゃ、な、い、のっ!?


「そうねえ。怪我が治るまで、そういうことはよしておいたほうがいいわねえ。大丈夫、私、あなたが完璧に治して元のポジションに復帰するまで、ぜっっったいに会いに行ったりしないから! 安心してちょうだいっ」

「えええっ」


 立ち上がってそんなことを言う私に、飼い主に捨てられたシェパードのような顔をしたリョウががしっとしがみつく。ええいっ、鬱陶しいっ!

 とりあえず、怪我をしない程度にその腹に膝を入れてみるけれど、いやいやと無言で首を振りながらリョウはその両腕を離そうとしない。ちょ、ちょっとだけ可愛いなんて、全然思ってないんだから!


「そんなん俺、我慢できなくて爆発するって!」


 本気で涙目になってそんなことを言うリョウに、私はいいことを思いついたと、もう一度ベンチへと座り直した。そうして彼の髪を撫でながら、耳元にそっと唇を近付けささやく。

 無理しない範囲でリハビリを終えて、休暇前までにチームに合流できたら。そしたら、ね。


「ものすごおく、とびっきりの、めくるめくアンゲラスペシャル、してあげるっ」

「ものすごおく、とびっきりの、めくるめくアンゲラスペシャル……!?」


 ごくっとリョウが生唾を飲み込み、ぼやっと妄想の世界に旅立ったところで、ゆるんだ腕を振り払って私は彼に背をむけた。再び悲痛な呼び声が聞こえてきたけれど、そこは無視。さあ、頑張ってちょうだいね、リョウ!


「アンゲラスペシャルって、アンゲラスペシャルってなんなんだあああああっ!」


 そして私はここ数日抱えていた重しが解消され、気分良く家路へとついたのだった。



***



「っていうのが、ワタシとリョウの一番の思い出ね。彼がまずい言ったミソシル、その時の思い出のミソシル。もう、忘れられちゃったよ……」

「なんて残念なイケメン……」


 話をすべて聞き終え、ケンカの原因を思い出してへこむ私以上に、なぜかそう呟いてコムギがばたりと床に転がった。それからごろごろっと私の近くまで寝転がってくると、ちょっとだけ酔いに染まった瞳を細めて笑う。


「でも、すっごく好きなんですよね、本橋さんのこと」

「……Ja」


 ストレートなその問いに、思わず頬を染めて小さく頷けば、コムギは自分のことのように嬉しそうに笑って私の手を握りしめた。その手に引かれるように、私も毛足の長い絨毯の引かれた床へとダイブする。まるで、子供時代に戻ったみたい。

 くすくすと二人で密やかに笑いあっているうちに、なんだか悲しい気分はどこか遠くにいってしまった。


「明日、ワタシ、ちゃんと帰るね。帰って、リョウと話すよ。あの時も、話したからワタシたちここにいますね。ワタシちょっと、勢いつきすぎましたね」

「うん、それがいいかも。きっと本橋さん、今頃オリーに泣きついてるころだと思うし」

「仕方がないね」

「仕方ないよ、男の人は」


 女同士の秘密の合い言葉のようなそれは、甘いため息とともに夜に溶けて消えていく。私たちはそのまま毛布を身体に掛け、ふたりしてくっついて目を閉じた。今頃、隣ではどうしようもなく不器用な男二人が、情けない声でも出して話し合っているのかもしれない。

 朝一番、彼がその予想通りに私を迎えに来てくれたら、全部許してその腕の中に飛び込んでいこう。そんなことを思いながら、私はゆっくりと夢の中へと入っていった。





 翌日、夜更かししたわりに早めに目が覚めた私たちは、一緒にキッチンで美味しいミソシルの作り方講座を開講していた。

 コムギ曰く、「トマトはともかく、きゅうりは入れ方とか火の通し方によって、もっと美味しくなると思う!」ということで、早速そのレシピを頭に叩き込む。今度は文句を言われたとしても、「食べてみて」って自信を持って言えるように。

 そうして出来上がったミソシルとご飯とスクランブルエッグで朝食をとったところで、家のチャイムが激しく鳴り響いた。なんだか焦ったように、しつこいくらいに何度も何度も。私たちは顔を見合わせて、くすりと笑みを零す。

 何事かと顔をのぞかせたコムギの両親に頭を下げた私は、はやる気持ちを落ち着かせながらそのドアを開けた。


『あっ、アンゲラっ!』

『おはよう、リョウ。人の家なのよ、ちょっとは遠慮してちょうだい。ご近所迷惑でしょっ』

『え、あ、その、俺さあっ』


 腰に手を当てて軽く睨む私に、リョウは頭を掻きながら一所懸命に言葉を紡ぐ。それはいつかのあの時のような。

 あれからずいぶんと時間は経ったはずなのに、彼はまっすぐで変わらないその瞳を私にむける。


『俺、忘れてて。あれは君が初めて作ってくれた味噌汁だよな。あの時は強がって変なこと言ったけど、本当は違って……いや、アンゲラがほしくてたまらなかったってのは、あの時も今も変わらないんだけどっ。そうじゃなくて、その……本当はさ、本当は、オリーが言ったみたいにちょっと落ち込んでてさ、そんな時にアンゲラ、君が一所懸命味噌汁作って持ってきてくれて、すごく嬉しかった』

『リョウ……』


 初めて聞く気持ちと、はにかんだような笑みに、私の胸はぎゅっとなって苦しくなる。やっぱり、気を遣ってくれていたんだと思う。私が、彼以上に落ち込んでしまうから。


『君がそばにいてくれることが当たり前みたいになってて。前と変わらないくらい愛してるのに、伝える努力もしないでわかってて当然みたいに思い始めてて。だから、……ごめん、アンゲラ』

『違うの、私のほうこそ。私のほうこそ……また、あなたの話を聞かないで』


 昨日とは違う感情によって、私の頬に涙が流れ出す。

 それをのびてきた指が、優しくすくって乾かしてくれた。何にも変わらない……ううん、もっと素敵になったリョウに、私は微笑む。いつだってこの人の隣で、この人に恥じない人間でいたい。

 頬に触れたその手のひらに唇を寄せると、彼はもう一方の手を差しだし甘くささやいた。


『アンゲラ、これからも俺と一緒にいてくれませんか?』


 それは懐かしいプロポーズの言葉だった。

 あの時以上に熱烈に私を求める瞳に、私ははい、と頷こうとして突然ふらりとめまいを覚えた。

 あれ、と思う間もなく、急速に景色が色を失っていく。目の前で微笑んでいたリョウの顔が、凍り付いたようにこちらを見つめている。なに、なんなの?

 ふわっと宙に浮くような感覚の後、何か温かいものに包まれたところまでで、私の意識は途切れてしまう。ただ、必死に私の名を呼ぶリョウの声だけが真っ暗闇にこだまして、消えた。





 ざわり、ざわり、と空気の動く音が絶え間なく私の意識に届く。

 遠くから人の話し声。少し湿度の足りない空気。忙しなく動き回る人の足音。何かを探し求めるように無意識に伸ばした手が、温かくて優しい温度に包まれた。そこで、私はうっすらと目を開く。

 始めに見えたのは、白い天井。まだ安定しないゆらゆらと揺れる思考で、知らない場所だわ、とだけ思う。ここは、どこ?

 ぼんやりと首を巡らせれば、そこにはこちらを心配そうに見つめているリョウの顔。私の手を両手でしっかりと握りしめ、なんだか泣きそうな表情をしている。


『リョウ……?』

『アンゲラっ、よかった……っ』


 泣くんじゃないかと心配になるくらい顔を歪ませて、リョウは私の額に自分の額をくっつける。そのこそばゆさに、私はくすりと笑った。

 それを見た彼は、やっと安堵したように微笑みを返してくれる。


『ここ、病院なの? 私……』

『倒れたんだよ、麦子ちゃんちの玄関で。覚えてない?』

『あ……』


 二度目のプロポーズ。その手を取ろうとしたら、急に目眩がして、それで。

 びっくりして起きあがろうとした私を、リョウがその手で制して、もう一度ベットへと寝かしつけられる。私、何か悪い病気なのかしら。どうしよう!


『今、先生が説明に来るから。安静に。な、アンゲラ』


 何にも心配いらないよ、というような、彼のいつもの笑顔に私も笑みを返す。それだけで、胸に巣くった不安はどこかへ消えてしまった。彼が傍にいてくれるなら、どんなことでも大丈夫。

 私がそんな気持ちを込めて頷いたその時、病室の扉がノックされ、白衣を着た男性の医師が中へと入ってきた。ゆっくりと身体を起こそうとする私に、「ああ、そのままで結構ですよ」と柔和な声で言うと、医師は手にしていたクリップボードに目を落とす。

 ぎゅっ、と私がつながれている手を握りしめると、リョウも強く握り返してくれた。


「先生、アンゲラ……妻はどこか悪いんですか!」

「え?」

「なにか、重い病気でも! あの、隠さないで全部教えてほしいんです!」


 勢い込んでリョウがまくし立てるのを、医師は目を丸くして聞き、それからまあまあと腰を浮かした彼を再び椅子に座らせる。そして、いたずらっこのような笑顔を見せてひと言。


「おめでとうございます。妊娠されてますよ」


 それからはもう、大騒ぎ。まあ、騒ぐ人間はこの場所にはひとりしかいないんだけれども。

 医師は呆れて「くれぐれも安静に」と言って早々に退出してしまい、それでもおさまらない興奮に叫びまくっているリョウに、看護士が雷を落としても止まらなかった。なんとか私が落ち着かせ、コムギやオリーへと連絡を取ってもらったのは、妊娠を告げられてから二時間も後のこと。

 大事をとって三日ほど入院したんだれども、退院する時はまたひと騒ぎ。とにかく、妊婦である私よりもリョウのほうが神経質なくらいで、ぴったりと私に寄り添って離れてくれないのが大いに困った。

 今も、一緒に買い物をしながら彼はどこかそわそわしていて落ち着かない。

 カートは絶対に私に押させてくれないし、何か取るにも全部自分が取ると言って聞かないし、走り回る子供たちが近づいて来ようものなら、体を張ってディフェンス。私、現役時代にもこんなに真剣に相手をブロックするあなた、見たことないんだけど……。


『卵に、大根に、油揚げに……あと何か買うものある?』


 カゴに入れたものを確認しながらこちらを振り返ったリョウに、私はにっこり笑って大きく頷く。あなたと私の、肝心なものが足りてないじゃない?

 その笑顔に何かを悟ったのか、彼もにんまり笑うと近くのカゴから目的のものを手にとって見せた。


『あと、味噌汁のためにきゅうりも、だろ?』

『正解!』


 そうして私たちは、今夜も普通ではない味噌汁を一緒に飲むのだった。

 だってこれは、私たちの幸せとともにあるものなんだから――。


個人的に、何度も言いますが、味噌汁にきゅうりは美味しいと思います!

番外編はここで一区切り。しばらく書きためて、今度はまたオリーとコムギと謎のひとの話を、新しく続ける予定です。

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