幸せは味噌汁とともに 3
そんなことをきっかけにして、私とリョウはゆっくりとお付き合いを始めた。
どちらからともなく連絡先を交換しあい、それなりに愛の告白をされ、順調に愛を育んでいった。もちろん夜、私だけが見ることのできる彼の姿も、私を魅了してやまない。
そろそろ一緒に住もうかなんて話が出ていた、その頃。
『アンゲラ、モトハシが怪我をした。今から言う病院に、着替えなんかを持っていってやってほしい』
突然かかってきたオリーからの電話に、私は頭が真っ白になるのがわかった。
聞き慣れたその声が、どこか遠くから響いているようで、よく頭に入ってこない。ただ、「もう一度言って」を虚ろに繰り返すばかり。
動揺が激しい私に、電話の向こうのオリーが大きな声で一喝した。
『落ち着けアンゲラ! 特に命に関わることでも、選手生命が断たれたわけでもない! こんな時にお前が支えてやれないで、どうする!?』
「オリー……」
『あいつはこちらでひとりきりだ。チーム外で頼れるのはお前しかいないんだぞ?』
その言葉に、私ははっと目を見開いた。
そう、そうだった。リョウは単身でこちらに来ているんだから、すぐに家族に来てもらうなんてことはできないんだ。私が、しっかりしなくちゃ。
自分を取り戻したのが伝わったのか、オリーは改めてリョウが入院した病院の名前と場所、病室の番号を伝えてきてくれた。お礼を言って電話を切った私は、すぐにリョウの家へとむかって準備をすませると、その足で急いで病院へとむかう。心細い思いをしていなければいい、ただそれだけを願って。
ところが。
「アンゲラ、わざわざ来てくれたのかー、悪いな!」
見た目も気にせず急いで病室へと駆けつけた私を出迎えたのは、いつものリョウの笑顔だった。
落ち込んでいるものと思っていた私がぽかんとしていると、彼はちょっと困ったような顔で笑い、自分の左足を指さす。そこは白いテーピングが巻かれ、U字型のギプスのようなもので固定されていた。
「大袈裟だろ? ちょっとして捻挫なんだけどさあ」
のほほんとそう言う彼に近づいた私は、ようやく安堵の息を吐いてその身体を抱き締めた。
ベットの上で上半身を起こした状態の彼は、私の腰を片手で引き寄せて「心配かけてごめん」とささやく。私は髪をひと撫でしてキスを落とすと、改めて彼へと向き直った。
「どのくらいで治るの? 痛くない?」
「とりあえず、一、二週間はこれで固定して、その間に少しずつ治療って感じ。それと並行して理学療法やったり、無理なく運動したりするらしい。それからはまた、経過次第だって言われた」
「そう、そんなひどくなくて、ほっとしたわ」
「俺も」
もう一度身体を寄せて額にキスすれば、彼もまたその私を見上げるようにして、今度は軽く唇にキスをくれた。
よかった、思ったより怪我も軽いみたいだし、リョウもそれほど落ち込んでないみたい。安心した私は、リョウの家から見繕ってきた着替えや洗面具、タオルなんかを彼に差し出した。
「これ、オリーに言われて適当に持ってきたんだけど、なにか足りないものはない?」
「助かる! 動けないし、チームメイトに頼むのも悪いしさー」
「こういう時には私を少しは頼ってよ! それじゃあ、私帰るわね」
「ありがと、アンゲラ」
いつも通りの無邪気な笑顔に、私も笑みを返して病室を後にする。
明日はリョウの好きな果物でも持って早めに来よう、とエレベーターまで来たところで、あっと声を上げてしまった。リョウに渡した袋の中に、自分の携帯を放り込んで置いたのを忘れてた!
慌てて今来た廊下を引き返し、リョウの病室まで戻る。そうしてそっと扉を引き、中にいる彼に声をかけようとした、けれど。
『くそっ! なんで、こんな時にっ』
強い口調で、私にはわからない言葉で吐き出されたそれに、びくりと肩を揺らす。
小さく開いた扉の隙間から見えたのは、ひどく思い詰めたような、今まで私が見たこともない険しい表情をしたリョウの横顔。どす、とおさまりきらない感情をぶつけるように、両手がベットに勢いよく落ちる。
なんだか、見てはいけないものを見たような気がして、私は声をかけずにそのまま扉の前から離れた。握りしめた手が、震える。
それは私が初めて見た、彼の弱さ。
どうしたらいいのかわからずに、私はまたエレベーターへとふらふらと歩き始める。鼻の奥がつんとして、何だか大声で泣いてしまいたい気分に駆られ、それをなんとか飲み込んだ。私が泣いても、しようがないじゃないの。
明日、またここへ来てきちんと話をしよう。
とにかくそう結論づけると、私は家へと戻ったのだった。だけど――。
「しばらく会いたくないってどういうこと!?」
次の日にまた病院に行こうとした私は、「今日から一週間は治療で忙しいから」とのリョウの言葉で、会いに行くタイミングを失ってしまった。
それでも、仕方がないとこちらも仕事に専念して待ち、今日はそれから一週間目。今日なら大丈夫よね。
そう思って、リョウのところへ行く支度をしていたところにかかってきた電話。携帯は彼のところに置いたままだから、家のほう。受話器から聞こえてきたのはその恋人のもので、だけど少し張りつめたような声に何事かと思ったら。
『違うよ、アンゲラ。しばらくリハビリに専念したいから、待っててほしいんだ。会いたくないわけじゃない』
「そんなの、言ってることは変わらないじゃない! ……私が行くと、迷惑なの?」
自分らしくなく、なんだか弱々しく響いた声に、さらに情けなくなる。
こんな時にこそ力になりたいのに。何もできないけど、欲しいものがあれば届けるし、話し相手にだってなりたい。彼の心を、ちょっとだけでも軽くできたら……そう思っていたのに、何で。
『そうじゃないんだ。とにかく、今日は会えない。携帯はオリーに預けたから。……また、連絡するよ』
「リョウ!」
ふつり、と電話は一方的に切られてしまった。
私は呆然と無情な無音を響かせる子機を握りしめたまま、立ち尽くす。なんでなの。そのまま私は自室へと引きこもり、思いっきり涙を流した。
恋人が大変な時に、傍に寄らせてももらえないなんて。まだそんなに長いこと付き合っているわけじゃないけど、それなりに信頼をおいているしおかれていると思ってた。辛い時には、傍にいて欲しいって、そう思える人だと思ってた。
だけど、そういう風に考えていたのは私だけだったのかもしれない。リョウは、ただ楽しくすごすだけの相手として私を見ていたのかもしれない。
その心の中に、私は入れてくれないのだから。
そうやって夜までずっと泣き通して、心配したママが時折かけてくれる声にも満足に返事もできなくて。考えすぎて泣きすぎて、少しばかり頭が痛んできた頃に、ドアの外からそっと声をかけられた。
「アンゲラ、ショコラーデ作ってきた。飲まないか?」
「オリー……」
その声に、私はすがりつくようにしてドアを開け、胸に飛び込む。
予想していたのかカップを持ったオリーは慌てず、片手で私の身体を支え、「入ってもいいか」と優しく訊いてくれる。私はまた新しく流れ出した涙を手で拭いながら、黙って何度も頷き、オリーを部屋へと招き入れた。
ふたりとも、小さい頃から変わらない定位置に座り、私はオリーの作ってくれたショコラーデを口にする。甘くて、あったかい。朝から何にも食べていない胃に、身体のすみずみにその優しさが染み渡り、私は胸一杯になって息を吐く。
「リョウから、預かってきた」
静かな言葉とともに、私の携帯が小さなテーブルの上にことり、と置かれる。
ついこの間までは、彼からの連絡がないだろうかと愛しく見つめていたそれから、私はそっと目を逸らした。
「……リョウは、私のこと大事じゃなかったのかしら」
「アンゲラ!」
「だって、リョウが苦しい思いをしてるのに、私は傍に近づかせてももらえないのよ? 頼ってももらえないのよ!? どうしてなの……っ」
カップを握りしめる両手が、震える。
本当は、否定してほしいの。オリーに、そんなことないって言ってほしいだけ。
「そうかもしれないな」
「オリー!」
突き放したようなその言葉に、私は思わずかっとなってオリーの頬を平手で打った。
夜の静かな部屋に、ぱしん、という乾いた音。よけられただろうに、律儀に私の怒りを受けたオリーは、その手を掴んでいたわるような瞳を私にむけた。
その瞳の強さに、私の胸が震える。
「そう言えば、おまえは仕方がないと諦めるのか? お前の気持ちこそ、そんなものだったのか、アンゲラ」
「私っ……」
「今辛いのは誰だ? 苦しい思いをしているのはおまえか? 違うだろう。あいつは、モトハシは今、チームの中でようやくポジションを確立できたところだったんだ。それが、最低でも二、三週間は治療にとられる。そしたらどうなる? また振り出しじゃないか」
はっと息を飲んだ。そんなこと、私、ちっとも知らなかった。
リョウはいつも余裕で、楽しそうで、サッカーでの悩みなんか全然感じさせなくて。でも。でも、そうやって彼の表面しか見てこなかったのは、私のほう?
もしかして、今までもずっとひとりで悩んでいたの?
自分のほうが彼のことを知ろうとしていなかったことに気がつき、私は愕然としてただオリーの瞳を見返すだけだった。ふ、とオリーがそんな私を甘やかすように笑微笑み、そして優しく頭を撫でる。
「それを意地はって、おまえに悟らせまいとしたあいつもあいつだけどな。なんとなくわかる気はするんだ」
「なんで……」
「男だろう? 好きな女には、自分の格好悪いところなんか、見せたくないじゃないか」
当たり前のことみたいに言われたその言葉に、今度はみるみるうちに頭に血が上っていくのがわかった。
さっきまで青ざめていたはずの頬に、赤みが差すのが感じられる。それを目の前で見ていたオリーは、その変わり様に目を見張っていた。ていうか、馬鹿じゃないのっ。
「男って馬鹿じゃないっ!?」
「あ、アンゲラ、静かに……」
「バカバカバカバカっ、ほんっとうに大馬鹿! そんなの、女のこと……私のこと馬鹿にしすぎなのよっ。私が苦しんでるリョウを見たら、愛想尽かすとでも思ってるの!? そんな侮られていたなんて、心外だわっ!」
「落ち着け、アンゲラっ」
「もう切れた。私、リョウになんて遠慮しないから。絶対にしてやらないんだからねっ」
びしり、とオリーに指を突きつけてそう宣言すると、私はショコラーデの残りを一気に飲み干し、カップを押しつけて彼を部屋の外へと追いやった。
わけがわからない、という顔をしたオリーは、それでも急激に元気を取り戻した私に安心したのか、素直に「おやすみ」を言って部屋に戻っていく。
そういえば、オリーは今日まで海外遠征だったはず。疲れているはずなのに、真っ先に私の愚痴を聞いてくれたんだ。そのさり気ない優しさに、私はまた少しだけ涙を流す。そうして、部屋の中に消えたその大きな背に、「ありがとう」と心から囁いた。