幸せは味噌汁とともに 2
「いいこと? 必ずここにいるのよ、オリー。絶対よ? 絶対に、勝手にどこかへ行かないでよ?」
「アンゲラ、しつこいぞ。わかっているから、早く買い物をすませてこい」
「本当にわかってるのかしら!」
しっしっ、と失礼なことに手を振ってこちらを追い払うオリーに、憤慨しながらもその場を離れた私は、目的の下着売り場へと歩を進める。
相変わらずにいかつい従兄弟は、デパートでの買い物には快く付き合ってくれていたが、最後にその店に寄りたいと言ったら、顔を真っ赤にして断固拒否。別に照れることないのに!
むしろ、今後できるかもしれない恋人のために、流行を追っておいたほうがいいんじゃないの、と心の中で文句を言いながら私は店員へと声をかけた。そうしてまあまあ満足する買い物を終え、さっきのエスカレーターへと戻った私を迎えたのは、彼の不在。いったい何がわかってるって!?
この際迷子のお知らせでも頼んで、恥をかかせてやろうかしら、なんて意地の悪い考えが一瞬浮かぶが、即却下。そんなことをして恥をかくのは私のほうな気がするから。
大きなため息をつき、私は気持ちを切り替えると、多分彼がいるであろう売り場を目指してその場を離れる。あとでたっかいデザート、奢らせてやるんだから!
彼がいるであろう場所、それは『ぬいぐるみ売り場』に他ならない。
さっきあれだけここにいろと念を押したのに、きっと子供か何かが買ってもらったぬいぐるみを抱えているのを見て我慢できなくなったんだろう。もう、あれは病気ね病気。
今度からはエスカレーター付近での待ち合わせも一考だわ、と考えていた私の前に、見慣れた巨体が誰かと立ち話をしている姿が目に入ってきた。それも、相手にむかってクマのぬいぐるみをしきりに薦めているらしい。
あの人見知りが珍しいこともあるものだ、と少し驚きつつ、私はその背に声をかけた。
「オリーったら、やっぱりここにいたのね!」
「アンゲラ」
いたずらを見つかった子供のように、ものすごく気まずい!みたいな顔になったオリーの脇腹に、私はとりあえず一発拳でパンチを入れる。待ってろって言ったでしょ!
痛みに顔をしかめるオリーを、私は怒り満タンで睨み付けた。
「エスカレーターのところで待っててって言ったでしょうが! まったく、目を離すとクマに吸い寄せられる癖、なんとかしなさいよっ」
「く、クマではない、テディ・ベア……」
問題はそこじゃないっ。
容赦なくもう一発パンチをお見舞いしてあげて、そして私はこちらを唖然とした表情で見つめている男性へと目をむけた。
百九十近いオリーよりも低いが、私よりも頭ひとつ分は高い身長。均整のとれた体つき。清潔感のある服装は、少し幼く見えるその顔立ちにとてもよく似合っていた。
私を見つめる瞳は黒。短く整えられている髪もまた黒。それは一瞬にして私を虜にしてしまった。
「オリー、こちらはお知り合い?」
多少上擦ってしまった私のその言葉に、その彼はにこりと笑みを浮かべる。
涼やかな目元に、どこか少年のよう笑顔。モデルを職業にしている私でも、見惚れてしまうくらいに彼は素敵だった。
「あ、俺は本橋って言います。オリーとはチームメイトで……」
「ああ! 今季加入したMFね! オリーからよく聞いてるわ!」
「え?」
聞き覚えのあったその名前に私が声を上げると、彼はその瞳を丸くして驚きの表情を見せた。最近、オリーがよく『モトハシが、モトハシが』なんて言うものだから、てっきりお友達になったんだと思ったんだけれど。
違うのかしら、と当のオリーを見上げれば、彼は心なしかその頬を染めて私と彼との間に割り込んできた。
「アンゲラ、時間がない。早く行こう」
その言葉にちらりと腕時計に目を落とせば、確かにデパートを出発する予定の時間だった。今日はこれから、両親の結婚記念パーティなのだ。
けれど、そんなに慌てなくてもいいじゃない、ともう一度私はモトハシに話しかけようと口を開く。
「ええ? 私はもう少しモトハシと話が……」
「時間に遅れるのはよくない!」
そうしてオリーに手を掴まれ、私は文句を言う間もなくモトハシの前から遠ざけられてしまった。もうっ、なんなのよっ!
仕方ないので、私は彼を振り返りなんとか手を振ってみせると、彼も笑って振り返してくれる。やっぱり笑顔も素敵……。
あとで何としてもオリーに彼を紹介してもらおう、そう意気込んだ私はとりあえずもう一度オリーの脇腹にパンチを入れたのだった。
***
その彼が、オリーとはまだ友達でも何でもないと知るのはそのすぐあと。
何をもたもたやってるのよ、さっさと仲良くしちゃいなさいよ!と端から見ている私は思うのだけれど、これはそうも言えないオリーの事情というものがある。
両親を不幸な事故で早くに亡くした彼は、親族である私の両親に引き取られてから、とても引っ込み思案な少年になってしまった。それまでも、少し人見知りをするようなところはあったけれど、活発で友達もそれなりにいるほうだったのに。
大きな悲しみをひとりで耐えているように、寡黙でなかなか人に心を開かない。そんな彼は五つ年下の私を、まるで本当の妹のように可愛がってくれた。今では両親も、私のことはオリーに聞いたほうが早い、と言うくらい私たちは仲良しだ。
だからね、オリー。私の頼み事を聞いてくれるわよね?
「モトハシを紹介して!」
「無理だ」
「紹介してくれるだけでいいの!」
「駄目だ」
さっきからこの繰り返し。
今までこんなに頼み込めば、断られることなんてなかったのに!
その頑なな青の瞳をじっと見上げれば、オリーは少しだけ困ったように視線をそらす。ああ、わかった。まだ仲良しになれてないのね。
それじゃあいくら頼んでも無理ね、と私はため息をついて諦め、身を引いた。あからさまにオリーがほっとした表情になる。この見かけ倒しがっ!
ぐっと私が拳を握れば、後にくるだろうパンチを予測して、オリーはいち早く玄関へと逃げ出してしまう。
「お、俺はこれから出かけてくるから!」
「あら珍しい。どこへ行くの?」
そういえば、今日はカジュアルながら少しよそ行きの格好をしている。手には美味しいと評判のバウムクーヘンが入った袋。
そんな姿で近所に買い物、でもないだろう。けれど、サッカー馬鹿で友達もいないオリーが、おしゃれして手土産を持ってでかける場所なんてあったかしら。
首を傾げてそう訊いた私に、オリーはなぜか気まずそうにもごもごと答えた。
「ロレンツォの、チームメイトのホームパーティに呼ばれている……」
「ええっ!」
思わず声を上げる私に、二言三言なにかを言うと、オリーは慌てて玄関から外へと出て行ってしまった。そこまで恥ずかしがることじゃないのに。少々呆然とその背を見送って、私はこぼれだす笑みを抑えることができなかった。
誰がオリーを誘うのに成功したのだか知らないけれど、私はその人に目一杯のキスを贈ってあげたい!
車に乗りたがらない彼のことだから、きっと終電までには家に戻ってくることになるんだろうけれど、それまではたくさん楽しい思いをすればいい。仲間っていいなって、彼が思ってくれればいい。
そんなことを願いながら、私はいつまででもくすくすと笑っていた。
けれど、その嬉しさも時計の針が深夜一時をまわったところで、心配にとって変わられた。
帰りの電車はとっくになくなってる時間だし、かといってオリーは車が苦手だからタクシーをつかまえてるとも思えないし。どこかに泊まるんだったら連絡のひとつもあっていいのに!
まるで年頃の娘を心配する父親のように、フェレットを抱いて部屋の中をうろうろする私に、両親は「オリーのことは心配いらないわよ」と笑って寝室へ引き上げてしまった。だって、心配なんだもの!
そうしてうろうろすることさらに一時間。すでに可愛い私のフェレットも就寝中。
外から聞こえてきた車のエンジン音に、私は座っていたソファから急いで立ち上がる。それはすぐに静かになり、代わりに誰かの話し声が家へと近づいてきて、そして。
「ただいま、遅くなった」
「オリー!」
扉の向こうから顔をのぞかせたオリーに、私は思いっきり抱きついてしまった。だって、ものすごく心配でたまらなかったから。その私を受け止めたオリーは、安心させるように優しく背中を二、三度叩く。
それを合図にして顔を上げれば、少しだけ青ざめて見えるけれど、どこか楽しそうなオリーの笑顔。こっちは何か事故にでもあったんじゃないかと心配してたっていうのに!と、怒りをぶつけようとして、その背後にもうひとり誰かがいることに気がついた。
「ええと、こんばんは」
「モトハシ!?」
オリーの背中からひょっこりと顔をのぞかせたのは、私が会いたくて仕方のなかったモトハシ、その人だった。
ついついオリーの癖がうつって呼び捨てにしてしまった私に、彼は少年のような笑顔をむけてくれる。そして、いきなり私に頭を下げた。
「ごめん! オリーを引き留めたの、俺なんだ! 君が心配してるかもって聞いて、どうしても謝りたくてお邪魔しました!」
「あ、そんな……」
こちらを窺うようにちらりと上目遣いで見られれば、その深い色の瞳に私は自分の顔が赤くなっていくのがわかった。困ってオリーを見れば、彼はなぜかにやにやと笑っている。そして、「もう遅いし、泊まっていくといい」と遠慮するモトハシを強引に家の中へと連れ込んだ。私はまたそれにびっくり。
夕方まではあんな感じだったのに、この数時間でどこまで親しくなったわけ?
疑問を視線に混ぜてオリーを見つめても、彼はただただ笑ってそれを誤魔化すだけ。車で帰ってきたらしいことにだって驚きなのに。
そうして頼まれるまま、客間の用意をしていた私に、てっきり居間でビアでも開けているだろうと思っていたオリーが、そっと近づいて耳打ちした。
「モトハシ、おまえのことをひどく気にしてた」
その言葉に真っ赤になった私は、黙っていつものパンチをお見舞いしてやるのだった。