幸せは味噌汁とともに 1 《本橋とアンゲラ》
『日本人の男なんて』
私が結婚すると言った時、相手が日本人だと知ると本国の友人たちは口をそろえてそう嘆いた。
確かに彼と知り合うまでは自分もそうだったから、彼女たちをとやかく言えない。私はただ微笑んで肩をすくめるだけ。それでも、結婚前にその友人たちに彼を紹介したあの時の優越感たらなかった!
モデルをしている私よりも頭ひとつ分は高い背丈。それも高いだけじゃなく、サッカー選手として鍛え上げられたその身体は、そんじょそこらのドイツ男よりも引き締まって、うっとりするくらい美しい。特にすらりと長い足は、女の私も見とれるくらいだ。
健康的に焼けた素肌に、神秘的な黒い涼やかな瞳。短く整えられた同色の髪。にっこりと彼が笑えば、その少年のような無邪気さに、友人たちはみんな頬を染めた。
『本橋涼太郎です。よろしく』
緊張しているのか、少し低めの心地よい声が話すのは完璧な標準ドイツ語。
挨拶をしてこれから練習があるから、とお茶のあと早々に彼が立ち去ると、友人たちは悲鳴を上げて私を質問攻めにしたのだった。「あれ本当に日本人!?」と。
そんな素敵で愛おしい旦那様と一緒に、この日本にやって来たのは三年前。
今では片言ながら日本語も話せるようになったし、こちらで少しモデルの仕事も再開して奥様友達もできはじめた。旦那様の仕事も順調で、結婚生活は順風満帆!
そう思っていた、二人で迎える四年目の朝。私は悲しみのどん底に突き落とされることになる。
それは、愛しの旦那様、リョウのひと言から……。
『アンゲラ』
『あ、おはよう、リョウ! ご飯できてるわよ!』
朝の弱いリョウはまだ少し眠たげな顔で、ダイニングへ顔を出す。ぴょこんと立ち上がった寝癖が可愛らしい。
私はテーブルにご飯とおみそ汁を並べると、そんな彼に近づいて朝のキスを頬に贈った。その欧米式の挨拶に最初は照れていた彼も、今では私の腰に手を回し、挨拶にしては少し情熱的すぎるくらいに応えてくれる。
名残惜しむように唇を離せば、彼はその黒い瞳を少しだけ細めて私に微笑んだ。
『おはよう、奥さん』
周りからはいつまでも熱々ね、なんて言われるけれど、こんな素敵な人が傍にいるんだから仕方がないと思う。そうして食卓についた私たちは手を合わせ、日本式で「いただきます」を言うと、朝食を開始した。
今日はリョウのリクエスト通りの和食。一週間で半分ずつくらい、ドイツ式と和食とをわけている。最初は「温かい朝食? なにそれ美味しいの?」だった私も、もう手慣れたもの。だからリョウも毎朝「美味しいよ」と喜んで――。
『アンゲラ』
なぜか複雑な顔をしたリョウが、静かに箸を置いて私をまっすぐに見た。
いつもにこにことしているその目が、まるで仕事をしている時のような真剣さをたたえているのを感じて、私は小首を傾げる。
そして何だかひどく辛そうな表情をすると、彼は意を決したように口を開いた。
『味噌汁に、きゅうりとトマトは、ない』
『え?』
苦しげに吐き出されたその言葉に、一瞬耳を疑う。目の前のリョウの瞳が今にも泣き出しそうに歪み、整った眉がぎゅっとひそめられた。
ぽかん、と思わず口を開けたままそれを見つめている私に、彼はもう一度暖かな湯気を上げている味噌汁を指さし繰り返す。
『味噌汁にきゅうりとトマトは、あり得ない!』
数十分後、私は号泣しながら家を飛び出すこととなった。
名前を叫びながら追いすがるリョウを足蹴にし玄関で踏みつけ、私は振り返ることなく、いつの日かドラマで見た有名なセリフを口にするのだった。
「ジッカニカエラセテイタダキマス!」
***
『それで、なぜその“実家”というのが俺の家なんだ?』
すべての事情を涙ながらに話し終えた私に、こたつの真向かいに座って渋面を作ったオリーがため息混じりにそう言った。ちょっと、問題はそこじゃないでしょっ。
差し出されたティッシュで豪快に鼻をかみ、私はそのいかめしい顔を睨み付ける。
「私の実家、とても遠いよ! オリーの家、電車で一本ね。オリー、冷たいっ」
「そうだよ、オリー!」
しくしくとまた泣き始めた私の肩を優しく撫でながら、隣に座ったコムギがオリーに反論してくれる。やっぱり、持つべきは女友達なのよね。
ちょこまかと動いて温かい紅茶をいれてくれた彼女に、私は少しだけささくれた心が癒されるのを感じる。なんていうか、実家で飼っていたフェレット?
「それにしても、本橋さんたらひどい! きゅうりのどこがいけないのっ。トマトは……この際おいといて、味噌汁にきゅうりってすっごく美味しいのに!」
「コムギ、論点はそこではないですね」
「オリーは黙ってて!」
なぜか私よりヒートアップしているコムギに、オリーが恐る恐るツッコミを入れるけれど、それは彼女の怒りを煽るだけに終わる。
紅茶を飲みながら少し落ち着いてきた私は、そのやりとりに思わずにやりとしてしまった。
あのオリーが、引っ込み思案で人見知りで友達はクマのぬいぐるみ!なオリーが、このちっちゃな日本人女性に怒られ、大きな身体を縮こまらせている図なんて、誰が想像できただろう。
「オリーの家じゃなんだから、アンゲラさん、私の家に泊まるといいよ! 明日は土曜だし、思いっきり女子会しようっ」
「ジョシカイ?」
「あ、ええと、そう! パジャマパーティ!」
「それ、とっても素晴らしいアイデア! コムギ、お菓子と飲み物、買いに行くね!」
「行こう行こうっ」
私のパジャマじゃ入らないから、お揃いの可愛い奴買おうよ、なんてうきうきと私に話しかけてくるコムギの笑顔を、向かいに座ったオリーがじとっとした目で眺めている。悪いけれど、今日は我慢なさいよ。
ふふん、とどこか勝ち誇ったように笑った私に、オリーはただただ苦虫を噛み潰しまくったような顔を向けたのだった。そして、嬉しそうに今夜の計画を立てるコムギにむかって、精一杯の哀願を試みる。
「コムギ、そこにオリーは混ざれ……」
「無理です!」
ああ、私って罪な女。
オリーの家をあとにして、私たちは駅前のスーパーでお菓子や飲み物をこれでもかと買い込んだ。そしてコムギ御用達の雑貨屋に寄ると、お揃いのふわふわあったかなパジャマを購入。真っ直ぐに家に帰り、コムギの部屋にて『ジョシカイ』スタート。
見た目を裏切る酒豪らしいコムギはビアを、飲めない私はノンアルコールの梅ソーダを片手にとりあえず乾杯、とグラスを鳴らす。
しばらく、色々買ってきたお菓子について「これが冬季限定で美味しい」だとか、「こうやって食べると意外な味が!」なんて下らないことを喋りつつ、コムギがビアを六缶、私がソーダを二缶空けた頃に、彼女がそれを口にした。
「アンゲラさんて、本橋さんのどこを好きになったの?」
久しぶりに楽しい女の子トークに心地よさを感じながら、私は新しい缶を開け、日本酒に移行していたコムギに笑いかける。
「すべてよ!」
その私の言葉に、頬を少しだけ赤くしたコムギは、うわあと歓声を上げる。それから私にむかって杯を掲げると、「そんなアンゲラさんにかんぱーいっ」なんて可愛らしいことを言ってくれた。
私もそれに答えながら、けれどそっとため息をついてしまう。
「でも、リョウはワタシのこと、もう好きじゃないかもね。ワタシの味噌汁、好きじゃないからね……」
「そんなことないよ! こんっな美人妻もらっておいて、そんなの私が許しません!」
「コムギ……」
一升瓶を片手に、リョウと同じ真っ黒な瞳を怒りに滾らせ、コムギがそう言い切ってくれる。ああ、この姿、やっぱり実家のフェレットにそっくり……。
その小さな頭を撫でくり回したくなるのをかろうじて押さえ、私はソーダを飲み干した。コムギも新たに日本酒をそそぎ、口を付ける。
「そもそも、二人はどうやって知り合ったの?」
興味津々、といった感じでこちらににじり寄り、コムギは空になっていた私のグラスに今度はオレンジジュースをそそいだ。私もそれに口を付けつつ、なんだか昨日のようなその思い出を語り始める。
そういえば、二人の出逢いを人に話すのなんて、これが初めてじゃないかしら。少し照れるわね。
「最初ね、オリーがとても彼の名前を口にする、気になったよ。あの他の人駄目なオリーが、会うと『モトハシ、モトハシ』って。どんな人かな、ワタシ興味あった」
こちらをまっすぐ見つめるコムギの瞳に、私はリョウの黒い瞳を重ねながら、懐かしい記憶を振り返る。
それは今の季節と同じ冬。
すべてはいかつい従兄弟とテディ・ベアから始まったのだ――。