誰がためにゴリラは笑う 後編
そんなことがきっかけで、俺とオリーはそれからちょくちょく会話をするようになっていった。
それは本当に些細なことで、例えば「おはよう」の挨拶から、ここらの方言での言い方だとか。けれど、それまで頑なに他人と関わることをしてこなかったオリーのことだけに、周りの驚きようったらない。
あの悪童コンビから年下の選手から、用具係やユニフォーム係、果てはフロントのお偉いさんたちまで「どうしたんだ、なんてことだ」の大合唱。終いには俺を『猛獣使い』だとか、『飼育員』なんて呼びだす始末。気持ちはわからないでもないけれど。
「オリー、おまえどんだけ人見知りだったんだよ?」
「人見知りした覚えはない。必要がないから話さなかっただけだ。試合の時にはきちんとコーチングもしている」
呆れたような俺の言葉に、オリーは眉間をぐっと寄せながら、いかつい表情でそう真面目に返してくる。だから、顔が怖いっての。
ロレンツォが主催のホームパーティに参加していた俺たちは、夜も遅くになって辞し、風に当たりつつ俺の車を目指して歩いていた。そもそも、こんな公式でもない私的な集まりに、こいつが顔を出すというのが珍しいらしい。
来る時には別々だったが、オリーが手土産を持ってロレンツォの家に姿を現すと、なぜか参加者大興奮。びっくりしたらしいオリーが、反射的に帰ろうとしたのを取り押さえるのは苦労した。
美味いビールで釣りつつ、終電でまたもや帰ろうとするオリーを「送るから!」と引き留めた俺の尽力を、あいつらはあとで返すべきだな、マジで。そのために今日はノンアルコールを通してきたんだからな!
俺たちの家はここからそんなに遠くないし、家同士も比較的近い場所にある。戸惑うようにしていたオリーをそう言って説得すると、俺はこっちに来てから奮発して買った車にオリーを押し込んだ。アクセルを踏みこんで、出発。やっぱドイツ車はいいよなあ。
そうしてしばらく無言で運転していた俺は、車が流れに乗ったころに再びさっきの続きを口にする。
「でも、わかるだろ。オリーが俺と話すようになってから、他の奴らもおまえに話しかけるし、くだらないことでも笑いあえてれば試合の時もまとまりやすいし」
ちらりと右を見れば、オリーは眉間にしわを寄せたままじっと前方を睨み付けている。んなに難しい顔して考え込むようなことかね。
悪い奴じゃないのは承知だが、どうもこいつは真面目すぎるところがある。理由はよくわからないが、どうも軽々しく他人を自分の内には入れたがらないというか。
なんか、過去にあったのかもしれないが、そこには触れないでおく。他人に言われるよりもずっと、本人がわかってるんだろうから。
「みんなおまえのこと好きなんだよ」
なんでだろうか。こんな恥ずかしいこと、日本語だったら絶対に言わないのに。
俺は今さらながら照れて、少し乱暴にアクセルを踏みこんだ。カーブを曲がり、街の中心から少し離れていく道に入る。それだけで行き交う車はほとんどなくなり、両側に立ち並ぶ木々が風に揺れているだけ。
車内は沈黙に満たされている。エンジン音を聞くのが好きだから、俺の車にはカーラジオなんていうものは装備されていない。
いつもよりオリーの中に深く踏みこんだ自覚はあったので、なんとなく気まずくなって、俺は黙り込んだままのオリーに視線をやった。
「オリー?」
いつの間にか、渋面の彼の顔に脂汗が浮かんでいた。あきらかに、どこか体調がすぐれないとわかる、その表情。
暖色の街灯と薄闇の中でも、顔色が紙のように白くなっていることがわかる。俺は動揺しつつ、ゆっくりとスピードを緩めて路肩に車を止めた。
「おいっ、オリー! 車酔いか!?」
「モトハシ……」
サイドを引いて俺はオリーに手を伸ばす。
そういえばこいつ、いつも電車だったな、とその時ふと思いつく。もしかして、乗り物酔いしやすい質とか。チームで移動する時も、一番後ろを陣取って目を閉じていることが多かったかもしれない。
少し外に出して休ませた方がいいんだろうか、と俺が思案している間に、オリーは自分でシートベルトを外し、車外へと出ていった。それを俺も追いかける。
反対側から回り込んだ俺の目の前で、その大きな身体が崩れるように地面にしゃがみ込み、隠すようにして二、三度吐瀉した。
それを見て俺は一度戻って車の中からミネラルウォーターを手に取り、オリーのもとへと近づいた。
「大丈夫か、オリー。これ、開けてあるけどまだ口はつけてねえから」
「……っ」
まだ大分苦しそうなオリーの背中をさすりながら、俺はペットボトルを彼へと渡す。オリーは軽く頷くと無言でそれを受け取った。
誰かに連絡したほうがいいのか。もしかして、ずっと体調が悪かったんだろうか。俺が無理に引き留めたりしたから、言い出せなかったんだろうか。
ちょっとしたパニックに陥りかけていた俺に、水で口をゆすいだオリーがようやく顔を上げて口を開いた。
「もう、大丈夫だ。すまない……」
「や、別に俺はいいけど、本当に平気なのか?」
俺の言葉に頷いてみせるけれど、オリーの顔にはまだ血の気が戻ってきていない。もう肌寒くなってきている季節だから、あんまり外にいさせるのも心配だ。
いまだ立ち上がれずに何かを我慢するような顔をしているオリーに、俺はとりあえず自分の着ていたコートをかけてやる。
「気分が悪いのか? 車に弱いとか? 誰か呼んだほうがいいか?」
矢継ぎ早の質問に、オリーは少し口元に笑みを浮かべて首を振る。水を一口飲んで、それからぽつり、と呟いた。
「車が、苦手なんだ」
「やっぱり! ごめん、俺……」
「そうじゃない」
無理を言ったから、と頭を下げようとした俺を押しとどめ、少しその青い瞳を彷徨わせたオリーは、意を決したようにこちらを真っ直ぐに見た。俺は黙ってその続きを待つ。
どこかに痛みを覚えているような、そんな複雑な表情がその顔に浮かんでいた。
「俺がサッカーを始めた頃、両親がいつも送り迎えをしてくれていた。その日も試合の帰りで、運転は母が。父はその隣で試合について批評していて、俺は後ろでそれを聞いていた。今と似たような道だった。前から走ってきた車がハンドル操作を誤ったらしい。スピードも出過ぎていたように思える。そのまま、こちらに、突っ込んで――」
そこまで言うと、オリーは絶句した。
聞かなくてもその続きを容易に想像できて、俺もかける言葉を失う。
多分、それが大きな心の傷なんだろう。今でも、決して自分からは車に乗らないように。
「俺、何も知らないで……ごめん」
「モトハシは悪くない。謝らないでくれないか。このことを知っているのは、コーチたちとアンゲラだけだ」
「アンゲラ?」
その名前に、俺は前にデパートで会ったあの長身の美人を思いだした。もしかして、恋人かなにかなんだろうか。
俺の疑問は口に出すまでもなく伝わったらしく、少し赤みの指してきた顔をオリーは横に振った。
「アンゲラは、従姉妹だ。両親を亡くしたあと、俺を引き取ってくれた叔母さんたちの一人娘。俺とは兄妹みたいに育った」
「そうか」
「初めてだ、これを人に話すのは。今までは知っている人間と、話さなきゃならない人間としかいなかったから。……親しい関係が苦手なわけじゃないんだが、少し怖かったのかもしれない。失うことを、考えてしまうから」
今まで見たこともない弱々しい笑みで、オリーが静かにそう告白する。俺は黙ってその金色の頭を乱暴にかき回した。
いかつくて、生真面目で、厳格で、戦争よりもあいつが怖いなんてチームメイトにからかわれたりして。誰よりも、強い、俺たちのキャプテン。
初めて明かしてくれた心の内に、俺はちょっと感動して泣きそうになるのを誤魔化すように、その筋肉のついた肩を引っぱたいてやった。
「うちのチームメイト、誰ひとりとっても殺しても死にそうにねえって。ロレンツォなんか、可愛い女の子が前を通りゃ、墓場の下からだって甦ってくるし。ジェラールは絶対ゾンビになってもボール追っかけてくるぜ。サッカー馬鹿だから!」
「モトハシも?」
「あったりまえだろーが。こんな寒くてじゃがいもばっか食ってる国に来てまでサッカーしてんだぜ! ……おまえに背中預けて、目一杯楽しいサッカーしてえよ」
まくし立てるように言って、俺はオリーを安心させるように笑ってみせる。
暗いところにひとり閉じこもってないで、こっちに来て一緒にサッカーをしよう。みんなで。
そんな思いを込めて俺は先に立ち上がると、手をオリーへと差し出した。オリーは少しぽかんとしてような顔で、目の前の手を黙って見つめている。
これで断られたら俺はどうするんだ、と悩み始めていたその時、ぐっと強い力でその手を握りしめられた。
それは、初めて会った時の握手のように。
「俺も、お前らの背中を怒鳴りつけて、サッカーしたい」
「あれ以上は勘弁してくれ!」
混ぜっ返すようにそう言うと、オリーは初めて見るような無邪気な顔をして大笑いを始める。
こんな顔できるじゃねえか、と俺もつられて笑う。深夜の道ばたで、大柄な男二人が大笑いして、なんて滑稽なんだろう。
そうして俺たちは、再び固く握手を交わす。
「優勝しかないな」
「だな」
多分、俺とオリーはその時ようやく友達になったんだと思う。
そしてそれは俺がドイツを去り日本に帰ったあとも、選手を引退したあとも、ずっとずっと続いている。彼が日本にやってきてからも、それは変わらず――。
「サンタさん、泣き虫めーなのよ! ほらマナが、いい子いい子したげるねっ」
しょんぼりとしゃがみ込んでいたオリーに、ひとりの園児が声をかける。
長い長い記憶を思い返していた俺は、その声にはっとしてそちらを見やった。オリーのひよこのような金の髪を、ようやっと背伸びした少女が、わしゃわしゃとその小さな手で撫でている。
するとそれまで、不幸のどん底とはここである、といった風のオリーが、そのガラス玉のような目を輝かせて少女を抱き上げた。
「マーナ? よいこですね! オリーはマーナ大好きですよ!」
「すごーいっ。高いねえ!」
突然のことに泣き出すかと思われた少女は、反対に急に高くなった自分の目線にひどく喜んだ声を上げた。
それを聞いた他の園児たちが、さっきとは打って変わって、我も我もとオリーの足下にむらがってくる。子供って、好奇心には勝てないんだよな。
オリーに比べると本当に小さな子供たちに、彼は戸惑いつつも嬉しそうに次から次へと子供たちを抱き上げてやる。終いには、両手に何人もぶらさげてゆっくりと回ってやったり、床に座って子供たちが珍しがる金の髪を引っ張られたりして。
その厳めしい顔が、いつかのように無邪気に笑う。
『あらあ、心配して来てみれば。オリー、人気者じゃない!』
華やかなその声に振り向けば、そこには予想通りの姿があった。
オリーによく似た金色の髪を波打たせ、彼よりも濃い青の瞳が嬉しそうに子供に囲まれているオリーにむけられる。
『アンゲラも来たのか』
『あなたたち二人じゃ心配だったんだもの。でも、余計だったみたいね』
大輪のバラのように綺麗な顔をほころばせ、彼女はそっと俺の腕に手を絡めた。俺もその髪に唇を寄せ、笑う。
俺がドイツで得たのは大親友だけじゃない。この、美しい奥さんも。
『オリー、麦子ちゃんに会ってから本当に変わったよな』
もはやオリー対ちびっ子怪獣の戦いになりつつある光景を眺めながら、俺が愛しの奥様であるアンゲラにそう言えば、彼女は「そうかしら」といたずらっぽい笑みを浮かべて俺を見た。
『私は、あなたと会ってからだと思うわ。ありがとう、リョウ』
『アンゲラ……』
その言葉に感極まってしまった俺が、思わずその唇に自らのものを重ねようとした、その時。
「あーっ、お姫様がちゅーしてる!」
「ちゅー!」
「ちゅーしてるうっ」
いつの間にやら集まってきていた園児たちが、俺たちふたりを見上げてはやし立てる。それを、オリーまでもがにやにや笑って見つめていた。
ほんっとにいい性格になったもんだ!
ちょっと頬を染めたアンゲラは、女の子たちに引っ張られるようにして、子供たちの輪に入っていく。どうやら、金色の長い髪が、彼女たちにとっては物語のお姫様に見えたようだ。アンゲラも満更ではないらしく、楽しそうに少女たちと片言の日本語を交わす。
そろそろ、本気で子作りしようかなあ。こういうのが幸せっていう奴なんだろう、と俺も笑ってその輪の中に入っていくのだった。
それが、俺たちのクリスマスの一幕。
『なあ、もしかしてお前がこのチームに移籍してきたのってさあ、マスコットがクマだからじゃねえの?』
『クマではない、あれは“ベアード”くんだ!』
『はいはい……』