誰がためにゴリラは笑う 前編 《本橋とオリー》
「メリークリスマースっ! いい子のみんなに、サンタさんとトナカイさんが来てくれたよーっ!」
優しい保育士さんのその言葉に、部屋の中で遊んでいた子供たちがぱあっと目を輝かせてわっとこちらに寄ってきた。うんうん、つかみはオッケーだな!
扉の外で待機している俺たちに、中の彼女から目配せの合図。よおし、地域交流、いっちょ頑張りますかあ!
「行くぞ、オリー」
「Ja!」
小さく頷きあった俺たちは、派手に目の前の扉を開けて部屋の中へと突入する。そして、できるだけ子供受けするように楽しそうな声を上げた。
「メリークリスマースっ! つぼみ幼稚園のよい子のみんなーっ、涼太郎トナカイさんだよーう!」
「Frohe Weihnachten! オリーサンタですよ!」
トナカイの格好をした俺の後ろから、どう見ても気の早いなまはげか節分の赤鬼、みたいなオリーが顔を出したその瞬間。園児たちの期待に満ちた笑顔は凍り付き、そして部屋中が阿鼻叫喚の地獄絵図と化してしまった。
ああ、うん、わかってた。このイベントを引き受けた時から、わかってた。こういうことになるって。
大慌てで園児たちをなだめ始める保育士さんたちを見つつ、俺はちらりとサンタの格好をしたオリーに視線をやれば、彼は呆然と固まってしまっていた。そうしてしょんぼりと肩を落とす。
「まあなんだ、ほら、お前んとこは悪いサンタもいることだし」
「でもオリー、今日はシュヴァルツ……黒じゃないですよ。赤いのと白いの、素敵ヴァイナハツマンですよ。良い子、プレゼントあげるほうなのに……」
肩に担いだ大きな袋を床に降ろし、紅白の衣装に白い髭姿の元ドイツ代表GKは、とうとうしゃがみこんでしまうのだった。
本国でも子供に近づけば泣かれるこの男が、こんな風にその悲しみを露わにする姿に、俺は少しだけ笑みを零す。前ならば、そんな素振りは見せずに見方によっては不機嫌そうにも思える無表情でやり過ごしていたはずだ。人に弱みを決して見せない、緑の海のキャプテン。
これも麦子ちゃん効果かなあ、なんて喜ばしく思いながら、俺はふと彼と初めて出会った時のことを思い出していた。
あれは、俺がまだ現役の選手だった頃。
日本代表でのプレーが認められ、ドイツの名門クラブに移籍した時のことだった――。
「日本から来た本橋です。本橋涼太郎。ポジションはMF。よろしく!」
いつかはと夢見ていた頃から勉強してきたドイツ語は、多少ぎこちなくとも通じたはずだ。それなのに、俺の目の前にベルリンの壁の如く立ちはだかったその男は、かすかに眉を動かしただけで、俺の挨拶を見事にスルーした。おいおい、ちょっと待てよ。
「日本から来た本橋です。本橋涼太郎。ポジションはMF。よーろーしーくっ!」
綺麗に言い直して再度アタック。一回蹴りこんだボールが防がれ跳ね返っても、誰が諦めるかっつうの。
そんな俺の行動に今度は軽くため息をついたそいつ――オリヴァー・ビルケンシュトックは、ようやくこちらを真っ直ぐに見下ろした。悔しいが、身長的にはこいつのが圧倒的有利だ。そうして、目の前に差し出してやった俺の手を、思いっきり握る。痛い痛い痛い。
「オリヴァー・ビルケンシュトック。第一GK」
妙にいい声でそれだけ言うと、オリヴァー……オリーは今度こそ俺を通り過ぎ、ロッカールームへと消えていった。無愛想もここまで来るといっそ気持ちがいいくらいだ。
その大きな背中を目で追いながら、俺は久々にふつふつと沸き上がる熱い気持ちを自覚する。なんていうか、野良猫てなづけてやるぜ、みたいな?
まあ、日本と違ってこっちじゃあ個人主義なのかもしれないが、俺は楽しくみんなでサッカーがしたいんだよ、コノヤロウ。甘ったれた関係じゃなく、信頼できる仲間と。憧れの選手と。
「ぜってぇあいつと仲良くなってやるかんな!」
移籍早々、本業に関係あるようなないようなところで気合いを入れつつ、そうして俺のブンデスリーガは始まったのだった。
***
「ダメだ、どうしてもあのベルリンの壁が崩せねえ……」
練習後、シャワーを浴びて戻ってきたロッカールームでそう愚痴る俺に、その場にいたチームメイトたちが野次を飛ばしてくる。
「ついに諦めんのか、リョウ!」
「三ヶ月か、保ったほうかもしれないな」
それは、日本にいた頃にはテレビでしか見ることの叶わなかった、世界屈指の名プレイヤーたち。中でもフランス代表のジェラールと、その悪友でもあるイタリア代表ロレンツォが、にやにや笑いながら俺の両隣へと腰掛けた。そして、悪巧みでもするように顔を寄せてひそひそと話し出す。
「おまえなあ、簡単に諦めんなって。まだ一ヶ月目だぞ」
「Si! リョウなら大丈夫さ。そのガッツでもうひと月くらい、いけるって」
「いくら賭けてんだ? ん?」
妙に真剣なその顔に俺はあるひとつの可能性を思いつき、ふたりの額をべしべしと叩く。
すると、とたんにジェラールはそのそこそこ秀麗な顔をにやあっと崩した。ロレンツォなんぞは、いまさら何を誤魔化したいんだか、口笛を吹いて明後日の方向を向いている。
こいつら、俺とオリーをダシに賭けを主催でもしてんだろ。
反対に言えば、それくらいオリーは人間関係において頑なだった。それは昨日今日ここへやってきた俺よりも、元々のチームメイトたちのほうが身に染みて知っている。
仲が悪いわけではない。ただ、ある一点より先に決して踏みこませない、そんな壁が奴の中には存在しているようなのだった。
「別に悪い奴じゃないんだけどね。僕にはドイツ人のイメージそのまんまだし」
逆にイタリア人のイメージそのままのロレンツォが、頭を振りながら言う。
いつの間にか、ロッカールームには俺とロレンツォとジェラールだけが取り残されていた。その彼の言葉に、ジェラールもうんうんと同意する。
「いかつくて、論理的で、ルールはルール絶対厳守! んでもって、何事にも全力だろ。なんつうか、真面目すぎてぶっ飛んでる辺り、ちょっと日本人も似てるとこあるよなあ」
「この間なんてさあ、オリーの奴、せっかく休暇だってのに練習に来て『休暇に飽きたから参加する』とか言い出してさあ。ゆるーくやって帰ろうと思ってたみんな、すっごいびびっちゃって、疲れたなあ」
「なんか、ツッコミたい場所が色々あるけど、やめとくわ」
のほほんと語るふたりに、俺はため息をついて立ち上がった。こんなとこでのんびりしてる場合じゃなかった。
日本にいる姪っ子にねだられてるものを買いに行く予定だったのだ。
下着の上から手早く洋服を身につけ、俺はいつの間にかドイツ人女性の魅力について熱く討論し始めたふたりを置き去りに、ロッカールームを出た。つきあってられん。
駐車場を自分の車へと歩きながらふと、そういえばオリーは車を持っていなかったことに気付く。
ドイツは確かに電車でも便利は便利だけれど、外人にしては珍しいなあ、と思い、しかし俺はそれをすぐに忘れてしまったのだった。
今年五つになる姉の子供は、俺がドイツに行くと知った瞬間、まるで恋人とでも引き裂かれるかのように大泣きしてくれた可愛い奴である。
まあ、決して暇なわけではないが比較的会社勤めよりも時間の自由がある俺が、それこそ産まれた時から世話してきたのだから、当然っちゃあ当然。しかし、子供っつうのがあんなに可愛いもんだとは思わなかった。
電話するたびに「いつ帰ってくる? 明日?」とぐずる彼女に、こっちまで涙腺ゆるませながら「代わりに何か贈るから」と約束したのは、つい先日。何が欲しいのか姉にリサーチしてもらったところ、ドイツといったらテディ・ベアでしょ!と返されたので、それに素直に従うことにした。
しかし、あれが年頃になってとんでもねえ彼氏とか連れてきた日には、義兄さんよりも俺が先にぶちきれる自信がありまくりだ。そんなことを考えながら、俺は街のデパートに足を踏み入れる。
ぶらぶらしながらぬいぐるみ売り場を目指していた俺の目に、その恐ろしい光景が飛び込んできたのはその時だった。
思わず、固まる。
どこからどう見てもメルヘンチックなぬいぐるみ売り場の、クマというクマが陳列されているそこに立っていたのは、俺の悩みの原因であるオリヴァー・ビルケンシュトック、その人だった。
そんな危険な幻覚を見るほど、今日の練習はきつくなかったんだけどな、といったん後ろをむいてみる。眉間を手でもみほぐしながら、気のせい気のせい、ドイツの陽気な妖精さんにでも化かされたんだ!ともう一度振り向いて轟沈。
いる。なんか、いる。なんか、ゴリラ的に威圧感満載の何かが、いる。
しかも、キーパーグローブを付けていなくてもでかいその手に、ふわっふわで愛らしいクマのぬいぐるみを持ち、じーっと見つめ合っている。え、これドイツでは当たり前の光景なの!?
半ばパニックになりながら辺りを見回せば、それなりに有名人である彼を遠巻きに見ているお客さんを多数発見。ですよねえ。
俺はとりあえず、大事な場面でPKを蹴るよりもひどい緊張感を覚えつつ、ゆっくりとそのオリーへと近づいていった。そうして、できるだけ自然な笑顔を心懸けつつ、その肩を叩く。
「よ、よお、オリー。ぐ、偶然だな!」
「……モトハシ?」
びくっとその大柄な身体を揺らし、オリーが青い瞳をまん丸にして俺を振り向いた。こいつも驚くことがあるんだな、なんて変な感想を持つ。
オリーはしばらく俺と見つめ合ったあと、はっと気がついたようにその手の中のクマを陳列棚へと戻した。心なしか、その頬が赤くなっているのは俺の気のせいだろうか。
「え、ええと。お前も買い物、とか?」
「……」
なんだろう、この四方八方が地雷原みたいな空気。
そこまで暑いはずがないのに、俺の額からはだらだらと汗が流れていく。そんな俺を、オリーはいつもの無表情でじいっと見下ろしていた。
なんか、会話が途切れた瞬間パンチングのひとつでも喰らわされそうな緊張感に、俺は聞かれてもいないことまでべらべらと話し出す。いのちだいじに!
「お、俺はさあ、日本の姪っ子にねだられちゃって。ほら、ドイツって確かこういうのが有名なんだよな! クマのぬいぐるみ!」
「クマではない」
「は?」
可愛らしい様々なぬいぐるみが置かれている棚を指さし、俺が笑顔でそう言うと、そこで初めてオリーが口を開いた。
なぜか、さっきよりもものすごく眉間にしわが寄っている。この間、失点した時にロッカールームで二時間説教をくらっていたDFって、こんな気持ちだったのかもしれない。
「クマではない。テディ・ベアだ。それと、彼はアンディで彼女はエイミィ。断じてクマではない」
「……」
オリーは俺が指を指した水兵さんスタイルのクマを見て、そう説明してくれる。今度は俺が絶句する番だった。ええと、なんですと?
「ちなみに姪御さんがいくつかは知らないが、お勧めはこの『おやすみテディちゃんピンク』だ。これは丸洗いができる上に、人体と環境に無害なもので作られている。何でも口に入れたり汚したりする子供には最適なパートナーとなるだろう」
「え。あ、じゃあ……それにする」
「かしこい選択だ」
そこはかとなく満足そうなオリーを見ながら、俺は勧められたとおりのぬいぐるみを手に取る。ふわふわの茶色い毛並みと、ピンク色のパジャマがなんとも可愛らしい。
姪っ子の喜ぶ姿を思い描き、俺はさっきオリーの口から出た『おやすみテディちゃんピンク』なんていう単語を抹消する。聞いてない、俺は何も聞いてないぞ。
「オリーったら、やっぱりここにいたのね!」
「アンゲラ」
ぬいぐるみを手にしたまま固まる俺と、それを満足そうに眺めるオリーのところへ、エスカレーターの方向から声がかけられた。
見れば、長身の美女がひとり、こちらへ足早に歩いてくる。それはもう、どこのモデルだってくらいの。
オリーと似たような、きらきらの金髪はゆるくカーブして背中にかかり、小さな顔にくっきりとした目鼻立ち。多少化粧をしているんだろうが、それがなくても華やかさのある美しい造作だった。
かつかつ、と赤いヒールを踏みならし近づいてきた美女は、なんの遠慮も恐れもなくオリーの脇腹を思いっきりどついて見せた。うわあ。
「エスカレーターのところで待っててって言ったでしょうが! まったく、目を離すとクマに吸い寄せられる癖、なんとかしなさいよっ」
「く、クマではない、テディ・ベア……」
軽く呻きながら、それでも律儀に訂正を入れるオリーにもう一発お見舞いした美女は、唖然とそれを見ていた俺に視線を移した。ひいい。
「オリー、こちらはお知り合い?」
「あ、俺は本橋って言います。オリーとはチームメイトで……」
「ああ! 今季加入したMFね! オリーからよく聞いてるわ!」
「え?」
大輪のバラのような笑顔に思わず見とれて聞き逃しそうになったが、俺のことをオリーがよく話してるって、嘘だろう?
にこにこしている美女に、いったいどんな話をと突っ込んで聞こうとすると、脇腹を押さえ痛みを堪えていたオリーが焦ったように俺たちの間に割り込んだ。
「アンゲラ、時間がない。早く行こう」
「ええ? 私はもう少しモトハシと話が……」
「時間に遅れるのはよくない!」
美女の手を引っ張り、オリーはさっさとエスカレーターへと移動していく。
アンゲラ、と呼ばれた彼女はわけがわからない、という感じでそれに従いつつ、それでも残された俺に大きく手を振って別れの挨拶をしてくれた。美人て癒しだな。
そうして俺は、短い時間で起こったありとあらゆる超常的な出来事に、ついていききれずにぽかんとその場に立ち尽くすのだった。
その後、遠慮がちに店員に声をかけられた俺は、無事そのクマ――ではなくテディ・ベアを購入し、姪っ子へと贈る。ものすごく喜ばれたから、まあ良しとしよう。
今思えばここから俺とオリーの関係は少しずつ変わっていくことになる。
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