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ドイツさんと私  作者: 吉田
番外編と後日談
17/32

緑の海の騎士は恋する 3



 余裕がある時には優しくできるなんて、そんなの当たり前なんだ。

 ぎりぎりの淵に立った時にどれだけ色んなことを考えられるのか、それが本当の気持ちのような気がする。

 それなのに、俺は初めて経験する大きな挫折に、ただただ戸惑うばかりだった。


『今日は佐野でいくから』


 告げられた言葉に、俺はなにも言えずにただ奥歯を強く噛み締めた。

 チーム状況を考えたら、当然の選択だ。使えるかどうかわからない俺よりも、安定している佐野を出す。俺たちはプロなんだ。これは、仲良しごっこじゃない。

 ベンチの中で、ただじっと目の前の試合を見つめる。それは不思議な感覚だった。

 プロになってから七年、幸運なことに俺はほとんどの時間をフィールドで過ごしてきていた。

 高校卒業してすぐにプロになり、とんとん拍子で結果を残し、J2のこのチームで今は正ゴールキーパーをやれている。

 考えてみれば、こんな風に立ち止まって考える時間はまったくなかった。小さな挫折は確かにあったけれど、それも努力で乗り越えてきた。

 だけど今は、どうやって何をすればいいのか、全然わからなくなってしまったんだ。そんなこと言ってる場合じゃないのに、変なプライドが邪魔をして、ゴールに立つのが怖いなんて誰にも言えない。

 考えないようにすればするほど、今度は練習中にも動きはぎこちなくなる。そうして余計なところに思考を取られている分、判断力も何もかもが遅れてしまう。泥沼だった。

 今週の俺の練習を見ていれば、誰だって今日の試合には出さないだろう。

 内藤さんとも気まずく、俺はできるだけ彼女を避けていた。

 ずるい、卑怯な奴。苛立ちを八つ当たりしたのは俺なのに、謝らなければいけないのに、俺はそこから逃げ続けている。時々遠くから、彼女が心配そうな悲しそうな視線を投げてくるのに気がついていながら、俺はそれを無視していた。 もう、何もかもわからない。どうしたらいいのか。


「イリエ」


 隣に座っていたオリーさんが、そんな俺に声をかけてきた。

 飽きもせずに暗い思考の沼へと沈み込んでいた俺は、はっとして真っ直ぐに試合を見つめるオリーさんの横顔を見上げた。


「今日の試合のあと、話しますよ」

「え……?」

「練習場、オリーは許可を取りました」


 淡々とこちらをむかずに続けられたその言葉に、俺は面食らう。

 それは試合の後に練習場に行けってことだろうか。使用許可を取ったってことは、特別メニューか何かがあるのか?

 わけのわからないまま、それでも俺が「はい」と返事を返すと、オリーさんは黙って頷いた。

 その日の試合は2対0で街田の勝利で終わり、俺は複雑な気持ちのまま、笑顔で帰ってくるチームメイトたちを迎えたのだった。



***



 いつもと違い、ほとんど言葉を発することなく練習場へとやって来たオリーさんと俺は、そこで先に来ていたらしい本橋コーチと合流した。

 相変わらず飄々とした本橋コーチは、内心どきどきしている俺を見てにんまりと笑う。


「おまえ、ここでオリーにぼこられると思ってただろ」

「えっ、いやっ、そんな!」

「オリー、そんな乱暴したことないですよ、モトハシ」


 悲しげに眉をひそめてそんなことを言うオリーさんに、コーチと俺は思わず「いやある!」と同時に突っ込んでしまった。

 だってオリーさん、あなた昔なかなかPKを蹴らない相手チームの選手の、首根っこ掴まえて引きずり回したりしましたよね。

 加えて、監督に「相手に噛みつくつもりでいけ」って言われたからって、相手選手の耳噛んだりしてましたよね!?

 俺たち二人のその視線をものともせず、オリーさんは「試合してる時のオリーはオリーじゃないのです」と、しれっと言い放った。


「イリエ、身体暖めてゴールに立ちましょう。オリー、蹴ります」

「え、あ、は、はいっ」


 ゆるみかけた空気を一新するように、オリーさんが厳しい顔のまま俺にそう指示する。

 慌てて着ていたベンチコートをその場に脱ぎ捨て、寒さに固まっていた身体を伸ばす。素早く、けれど怪我をしないように身体を温めた俺は、急いでゴールマウスへと向かった。

 その間に本橋コーチがボールを用意し、オリーさんに渡す。


「オリー、まっすぐ走ります。まっすぐ蹴ります。止められますね?」

「……はい」


 予告されたシュートに、俺はグローブをはめながら答える。

 そんな風に言われること自体、俺にとって……いや、キーパーにとって侮辱されたようなものだ。

 険しくなった俺の顔を見て、オリーさんは満足そうに頷く。煽られたんだ、ということはわかったが、点いた火を消そうとは思わない。

 少し距離をとったオリーさんが軽く手を挙げ、始まりを合図する。俺はそれをじっと睨み付け、いつものように両足を小刻みに動かし、中腰の姿勢を作る。落ち着け。

 真正面から宣言通りにオリーさんが走り込んでくる。緑の海を泳ぐように。現役を離れてからしばらく経つが、その走りやボールさばきに衰えは見られない。

 その大きな姿がセンターラインを越え、こちらに迫ってきた、その瞬間。


「っ!」


 意志とは関係なく震え出す両の手。額から流れる汗。フラッシュを焚いたように、怪我をした時の光景が次々に甦る。 痛み、よりも恐怖。

 違う、違う違う!

 今はあの時じゃない。怪我もしていない。怖くないはずだ。怖い自分なんか必要じゃない!

 極度の興奮状態なのか、緊張状態なのか、迫ってくるオリーさんがひどくゆっくりと動いている。その右足が思い切りボールを蹴り飛ばす。ゆっくりと、でも確実にこちらへと飛んでくるボール。


 動け、動かなければ――!


 ぱちり、と瞬きをひとつ。固まったままで視線を横にやれば、そこにはネットに当たってはじき返されたボールが転がっていた。無意識に止めていた息を、吐く。

 まっすぐに来ると予告され、実際にまっすぐ入ってきた、そのシュートを。俺は、一歩も動くことができず、止められもしなかった。

 力が、抜ける。

 放心状態になっている俺を見て、それでもオリーさんは「もう一回やりますよ」とだけ言い残し、またセンターラインの向こうへと歩いていく。その背中が、やけに大きく見えた。

 それから何度も何度も、それこそ何十回と同じことを繰り返したが、俺の身体は慣れるどころかますます固くなり、ゴールを許し続けた。

 遊びでも、練習でも、ゴールを入れられ続けるということは、キーパーにとっては辛い。

 数え切れないシュートのあと、俺はついにゴール前で膝をついてしまった。ぽたぽたと芝生にこぼれ落ちていくのが汗なのか涙なのか、わからない。

 なんだかおかしくなって、笑い声を上げる。なんて、滑稽な自分。


「かっこわりい。こんなに自分が弱っちいなんて、思ってもみなかった……」


 自嘲気味に呟いたその言葉に、目の前に立ったオリーさんは少しの沈黙の後口を開いた。


「弱いイリエは、いらないイリエですか?」

「え……」

「弱いイリエ、全部捨てるですか? イリエ、今までいっぱい頑張りましたね。でもそのたくさん、ひとつのため諦めたら、全部ダメ。全部やらないことになってしまうですよ」


 見上げれば、すっかり暗くなったピッチを照らす光に影を作りながら、少し悲しげな顔をしたオリーさんと目が合った。透き通るような青い瞳に、息を飲む。

 ここで諦めたら、全部無駄になる。

 今まで俺がやってきたことが、全部やらなかったことに変わってしまう。


「怖いのは怖いこと違いますよ、イリエ」


 膝をついたままの俺と視線を合わせるようにして、しゃがみ込んだオリーさんが言う。俺は汗と涙とでぐしゃぐしゃになった顔のまま、その瞳を見つめた。


「怖いのは、怖いこと怖いと思うイリエですよ」

「怖いことを怖いと思う、俺……?」


 よく意味がわからずにきょとんとした俺に、オリーさんの後ろから歩み寄ってきた本橋コーチがフォローを入れてくれる。


「あー、つまり、だ。恐れることを恐れるな、それを恐れる自分を恐れろってことかな?」

「Ja!」


 言われたその言葉の意味を考え、俺ははっと目をみはった。

 弱い俺はいらない俺?

 ――違うだろ!

 迫ってくる相手選手も、避ける間もなくあたったスパイクも、痛みも、怖かった。でもさっきまでの俺は、怖かったなんて認められなかった。そんなこと、情けないと思ってた。

 でも、違うよな。そうじゃないよな。

 そんなの、怪我をすれば怖いと思うのは当たり前だ。痛みを覚えた身体が反射的に逃げようとするのだって。俺が怖がっていたのはそんなことじゃない。俺がずっと怖がって、認めたくなかったのは、怖がっている自分だった。

 好きな人を傷つけてまで、守っていたのはそんなちっぽけな自分だったんだ。


「Das macht nichts! イリエは緑の海のリッターですよ!」

「緑の海の、リッター?」

「騎士ってことだ。緑の海の騎士」


 満面の笑みで俺の肩を叩いたオリーさんの言葉に、本橋コーチが意味を話してくれる。

 緑の海の騎士。

 なんだかその言葉がひどく勇ましく、俺の胸の中にすっと入り込んだ。ぎゅっとそこを握りしめれば、温かい何かが沸き上がるのを感じた。腕でぐいっと顔を拭い、俺は前を向いて立ち上がる。


(格好悪くても、大丈夫。入江君は、大丈夫)


 あの時の内藤さんの言葉が脳裏に甦り、俺は大きく頷いた。

 俺はもう、大丈夫。

 そんな俺の様子を見ていた二人は顔を合わせ、なぜかにやり、と妙な笑みを浮かべて見せた。その小学生男子的な笑顔に、俺は嫌な予感を覚える。


「イリエ」

「入江くーん」

「な、なんですか、俺なんかしましたかっ」


 焦って訊ねる俺の後ろを、本橋コーチがちょいちょいっと指さした。その仕草に眉をひそめつつ俺が後ろを振り返ると、そこには――。


「なっ、内藤さん!」

「ご、ごめんねっ、大事な時に! あのね、なんかもうずっとだから、少し水分とかとったほうがいいかもって思って、えと、これ……」


 俺以上に慌てた様子の内藤さんは、あわあわとしながらもタオルとスポーツドリンクを差し出してくれた。いつものように。ひどいことを言ってしまった、俺に。

 受け取っていいのかと思いながらも、必死にそれをこちらに差し出している内藤さんに気圧され、恐る恐るそれを受け取った。

 とたん、今にも泣き出しそうだった内藤さんの顔が、一瞬にしてぱあっと晴れやかな笑顔に彩られた。その不意打ちの笑顔に、俺の胸が性懲りもなく高鳴った。


「内藤さん、俺……」

「待って、入江君! 私っ、よ、余計なこと言って、ごめんなさい!」


 あの時のことを謝ろうとした俺を遮って、なぜか内藤さんのほうが頭を下げる。

 俺はただそれにびっくりして、言葉を詰まらせた。なんで彼女が謝るんだろう?

 そう思って眉を寄せた俺の顔をどう見たのか、内藤さんはなぜか顔を真っ赤に染めて続きを口にする。


「私、すっごい嫌なこと考えたの! 入江君が大変だってわかってたのに、なんでかわからないけど、私が一番に慰めたかったの。一番最初に大丈夫って言ってあげたくて……なんか自分のことばっかり優先して、入江君のこと傷つけちゃった……」

「え」


 おい、ちょっと待てよ。それって、それって、そういうことですか!?

 今俺が考えたその予測が正しいのかを判定してもらいたくて、さっきまでそばで見ていたオリーさんと本橋コーチの姿を探すが、彼らはいつの間にかどこかへと立ち去った後だった。ええええ。


「本当に、本当にごめんなさいっ」


 また泣き出しそうな顔になってしまった内藤さんの頬を、俺は慌ててグローブを外した手で撫でる。突然の接触に少しびっくりして身体を強張らせた彼女は、それでも俺の手の感触に安心したように瞳を閉じた。

 ええええええええ。

 待て待て待て待て、落ち着け俺!

 確認……そうだ、確認だ。チャンスだと思って攻めていっても、カウンターくらってがら空きのゴールに突っ込まれたんじゃあ、あまりにひどい。

 よ、よおし。


「ええと、その……こんな時になんだけどさ。内藤さんって、オリーさんのこと……好きなんだよね?」


 ものすごい不自然にどもりながら、俺が目を閉じて俺の手に頬を寄せていた内藤さんに尋ねると、彼女はきょとんとした顔をしてから大きく頷いた。あ、やっぱり?


「こ、婚約者がいてもいいくらい、好きなんだよ、ね?」

「うん。婚約者さんをものすごく大事にしている、オリーさんが好きだよ?」

「え?」

「え?」


 確認に返ってきた言葉が、ものすごく恐ろしい予想を俺にもたらした。

 オリーさんが好き=婚約者がいても好き=切ない片想い。

 オリーさんが好き+婚約者がいる=そんなオリーさんが好き。

 あああああれ、おかしいな。これって小さいけど、大きな違いじゃね!?


「それ、片想いって言わないよね!? それ、憧れの人ってことだよね!?」

「え、え?」


 俺の怒濤の突っ込みに、内藤さんが目を白黒させる。そんな彼女も可愛らしい……いや、そうじゃないだろ、今はそこじゃないだろ俺!

 もしかして、もしかしてこの人。


「……天然?」

「ち、違うよ! オリーさんは、初恋なの。だって初恋って実らないものじゃない?」


 それに好きな人を大切にしてる人って素敵だし、と続ける内藤さんに、俺はなんだかおかしくなってきてしまって、発作的に笑い出した。

 それを見て、最初はむっとしていた彼女もつられて笑い出す。

 こんなところにもいた、俺の中の弱い俺。勝手に好きになって、何にも言わないうちから「どうせ」って諦めて。振られたら格好悪いと思って、ただそういうふりをしたんだ。

 内藤さんのこと笑えないかも。

 さっきまでの俺の気持ちは、彼女にとってのオリーさんと同じだった。でも、今は。


「俺、君のことが好きだよ。すごく、すごく好きだよ」


 ひとしきり笑った後にするりと出てきた言葉に、内藤さんどころか俺自身まで驚いて赤くなる。あー、言っちゃったよ。そんな気分。

 でも、なんだかひどく爽快な感じがして、俺はパニックになりかけている内藤さんをえいやっと抱き締めてしまった。


「いいいい、入江君!?」

「残りの試合、俺絶対に出るから。そんでもって、一点だって取らせない。約束する。だからさ、内藤さん」


 そこで言葉を区切って、そっと身体を離し、俺は真っ赤になった彼女の顔を覗き込む。

 心配してくれたり、俺の言葉に傷ついたり、よくわからない独占欲をぶつけてみてくれたり。そんな内藤さんの茶色の瞳をじっと見つめて。


「J1に昇格したら……っていうか、絶対にするけど。そしたら返事、聞かせてよ」


 俺の言葉に、内藤さんは首が千切れちゃうんじゃないかと思うくらい、何度も何度も頷いてくれた。ああ、もう負けられないなあ。負ける気もないけど。

 久しぶりの晴れやかな気分に背伸びをして、俺はそっと片手を内藤さんに差し出した。


「じゃあ、帰ろっか」

「……うん」


 乗せられた彼女の手は小さくて、でも温かくて、俺は壊さないようにそっと握りしめる。

 練習場の出口へと歩きながら、もう少しだけこの緑の海に彼女といたいと小さく願いながら――。




 そうして、なんとか戦線に復帰した俺とチームがJ1昇格を決めて。彼女がどんな返事を俺にくれたのかは誰にも教えない、ふたりだけの秘密だ。

 ただ今は、麦子さんのお鍋が楽しみでしょうがない、とだけ言っておく。



入江君編、終了です。一番難しかった!

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